【結婚】〜結婚しないという生き方〜

僕には結婚願望がない。
子どもがほしいと思ったこともない。
社会的な制度としての反抗心もある。
赤の他人と財産も苗字も戸籍も共有するというのは通念とは思わないだろうか。僕は無責任と言われても道理に反すると言われても刹那的でグラデーションがかった愛の形、パートナーシップを推奨する。

でも3年前、一度結婚をしようと思ったことがある。今になって考えるとそれは自発的なものではなくて相手のためだった。僕はしたくないけど、相手のためにしてみてもいいかな、が正しい。でもしなくて正解だった。していたら今頃は破綻していただろう。好きな相手でも大切な人でも僕は病的に自分を犠牲にできない。

この歳にもなると「結婚はまだ?」という期待とプレッシャーを受け、「結婚できない」とネガティブなレッテルを貼られる世間がある。それが不満とかではない。結婚しない人が欠陥人間であると決め付けるのは良くないが、実際に僕は欠陥人間なので構わない。なぜ僕はそうなってしまったのだろう。

結婚はしないでおこうとはじめて思ったのは中学生くらいの頃だ。どうしてそう思ったのか、自分でも分からない。両親を見て社会的通念に捉われたくないという反骨心もあった。でもそれ以上に僕が自分を深く愛するがゆえ、自分以外への愛を注ぐことができないというのが答えだったのかもしれない。他人への「愛」という感情、僕にはそれが欠如している。

最近になって精神科学に詳しい方から言われたことだが、僕は「自己愛性パーソナリティ障害」である。他人より優れていると信じ、自身に過度な自惚れが強く、自分は特別で偉大な存在でなければいけないと思い込む精神障害のことだ。その反面、容易に傷つき否定されたと感じると脆く崩れやすい自尊心を抱えている。僕のことを知る人なら分かると思うが、時折やってくる僕の躁鬱状態や精神的不安定さはこの傲慢な自尊心から成るものである。

この精神障害は若年の男性には多い事例だそうだが、近年若者の自殺者が増えている理由の一つでもあると言われている。幼少期の過度な溺愛経験や逆の心理的虐待、信頼に足りない親の養育がトリガーになるとされている。具体的な治療はまだないが、まずは自覚し、自知することが改善への第一歩だとされている。

結婚を難しく考えすぎだよ、といわれる。確かに買い物感覚でダメなら離婚すればいいという選択もある。だが僕にとって結婚は自分を捨てる瞬間だと思っている。結婚したら一切の自由もなく、一切の喜びも悲しみも他人と共有しなくてはならないのではないか。そんな誇大妄想ともよべる恐怖を本気で抱えている。それが苦しい。

愛というのはこの世の正義で永久的だ。だが僕にとっては残酷で刹那的な事象だ。愛せば愛すほど自分を失うし、愛されすぎても自分を見失う。むしろ愛しさを自覚すると壊したくなる。天邪鬼だ。ナルキッソスは自分が自分を愛するがあまり自身を映す鏡を壊した。この人をこれ以上愛せば僕は僕自身を失う。そう判断するといわゆる無責任に愛を壊して最後は自分で線引きをする。

改めて世間とのずれを感じる。人を愛する、ペットを愛する、その感情はなんなんだろうと。大切な人と離れる時、悲しい。なぜなのかと嘆く。辛い気持ちもある。でもそれと同時にそれ以上愛さなくて愛されなくていいんだとほっとしている自分もいる。自己への愛は守られているんだと。

好きな女の子とご飯に行ったとき、家族の話を聞いた。僕の知らないキラキラした目で家族の話を語っている。「パパとママみたいな関係が理想!」と平気で言い放つ彼女を見て僕は咄嗟に「それは素敵だね」と嘘をついてしまう。思えば飲みたくもない赤ワインを飲んで、雰囲気任せのステーキを食べて、そのシチュエーション自体が背伸びして、嘘にまみれている。

僕はこの年になってもまだ親との関係性を築けていない。だから愛が分からない。思春期に起きた溝を今も埋めきれていない。まずはこの山を動かすことから何かしらの変化が起こると思う。大切な人やものを愛しく思う、それをずっと離したくないという感情が分からない。そういうものだ、と認識できても理解は出来ない。

欠陥人間。変なやつ。そう思われてもいいじゃない。世の中は皆それぞれ憂いを帯びている。笑っているけれど裏では泣いてる人もいる。表裏一体の綱渡り的なこのゆらゆらとした感情はまさにグラデーション。曖昧があってもいいじゃない。右左決めつけなくていいじゃない。完璧であることばかりが美学でない。そう思うことで僕の精神は少しばかり楽になる。

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