【老若】〜素敵な年の重ね方〜

若さとは羽根で、老いとは鱗である。

これは僕が記した言葉だが、生きることを考えると常に老いるということにぶち当たる。若さは必ず衰え、老いからは避けられない。これはこの世の真理だ。若さは無邪気で無謀さを孕みながらもそれを恐れることなく飛躍し、可能性に満ち溢れ、どこへでも行くことができる羽根のような存在だ。一方、老いは安定感に溢れ、守りの象徴、鱗のような存在だ。鳥のように大空や海原を自由に飛びまわることはなくとも川や海の中だけでずしっと根を張って安定して生きると同時にもうどこへでも行ける自由は失ってしまったのである。

かけがえのない若さもそれを自覚していなければあってなきに等しい。僕と同世代の人たちでももうすでに鱗をまとっている人がたくさんいる。羽根はまだ生えているはずなのに鱗を纏い羽根は少しずつ退化していく。あえて若くして老いる。老いることはごく自然なこと、それを自然の原理として前向きに受け止める人もいる。だが、僕は何よりも老いることが怖い。肉体的にも精神的にも老いた自分を鏡に映すくらいなら自ら自死を選びたいくらいだ。美しいまま死にたい。

老いとは何か。サミュエルウルマンの著名な詩「青春」の冒頭にはこうある。「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う。」つまり老いとは老いを自覚した時点ではじまる。もうおじさん、おばさんだから、と自ら口にしている若者を見ると逃避活動に見える。もう歳なので理解できません、と一方的に放棄したようで心苦しい。またやたらと若い頃はよかったと成功談や失敗談を自慢げに話している人も「あー終わってるな」と思う。その瞬間、まさに若さは終焉を迎えている。だが、いくつになっても老いに抗い、
若者面しようとしている人を見るとどこか痛々しさを感じる風潮もある。

大人になってから中学生がはしゃいでいる姿を見たり、大学生が駅前で酔い潰れて騒いだりするのを見ると「若いな」という感覚になることだろう。そのまなざしは嘲笑を含んだもの。若さとは可能性と同時にそんな愚かさ、無邪気さ、無謀さを含んでいる。でもこうした若さ特有の未熟さ、未経験さは悪いことだろうか。

現代の若者世代はある種、非常に物分りがよく、マナーもいい。きっと昔の世代より尖った者も少なく、穿った見方をする者も少ない。往々にして良識人で正しくリテラシーできるいい子が多い。
一方でその思考は多様性を尊重するばかりで個性を失い、量産型になる。人にはそれぞれ幸せがあるので、それぞれが生活の質を高めていきましょう。それが優秀な若者たちの行き着く境地なのだろうか。

若者ではない人たちのほうがマナーは悪いし、偏見や固定観念に捉われている人は多い。そのくせ「最近の若者は」と根拠も統計もないでたらめを並べて自身の成功体験や価値観を押し付けてくる。ネットで匿名の誹謗中傷を書いているのも
若者だとか、ネット民だとか言われているが実態は中高年が圧倒的に多いといわれている。まさに多様性の欠如が顕著な世代である。

ではなぜ若者は多様性を持ち、物分りが良くなったのだろう。バブルが崩壊して以降、生まれた若者世代は右肩上がりの社会というのを体験したことがない。常に経済や災害に危機感を抱きながら安定志向になってしまった人も多い。またこうすれば上手くいく、といった成功体験もない。そうして育った世代はいつの間にか野心を捨て、明るい未来に希望を馳せることもなく愚かさや無邪気さ、無秩序さの羽根を取り除いていった。

「明日は今日よりも良くなる」という歌詞が受け入れられなくなったのもこれが若者世代にとってはずっと幻想のお話だからだろう。右肩上がりで伸びていく世界を経験していないことは深層心理にまで大きく影響を与えている。そしてこの激動の時代において保守的なマインドが醸成された。
世は激動にもかかわらず、だ。

まだまだ若さを謳歌していきたい。そのために決して自らの老いを口にしてはいけない。現実的思考になることは可能性を消すことに等しい。傍から見て愚かに映ろうが、無謀に無邪気に生きていきたい。

まだまだ人生は復讐劇の序章に過ぎない。
大前提として僕は「いい人」ではない。「悪い人」なのだ。これから始まる復讐を是非見届けてもらいたい。【復讐】についてはまた改めて綴ることにしよう。

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