イチジャマ④

 スナックビルの三階にあるその店は、意識していないと見落としそうなほど存在感がなかった。電飾も飾りもない黒くくすんだ木の扉。その上にある看板は埃を被り汚れている。通りすがりに足が止まるような店ではない。開いているのだか閉まっているのだか、扉が閉まりひっそりとしていて中の様子を窺えない。マユリさんがドアノブに手をかけ引く。重く軋む音を立てて扉が開いた。
 店に人の気配はなかった。三坪ほどの店構えで入り口近くにソファ席が一つ、奥にカウンターがありスツールが二つ並んでいる。カウンターの奥の壁に並ぶ泡盛の瓶。オレンジ色の薄暗い照明。色褪せた赤いカーペット。古いテレビモニターとカラオケのリモコン。壁に染み付いたヤニの匂い。ところどころ破れて綿が覗く安い合皮のソファ。
 全てに見覚えがあった。僕はここに来たことがある。目眩がした。「すみません」
 マユリさんがカウンターの奥に声をかける。反応はない。
「おい、顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
 マユリさんがこちらを覗き込んで聞く。
「はい、でも何だか気分が悪くて」
「てことは……」
「ここで間違いないと思います」
 吐き気と冷や汗が止まらない。立っていられずソファに腰掛ける。マユリさんがしゃがんで僕の肩に手を置き、顔を見つめる。
「気をしっかり持て。あんたは大丈夫だ。とっとと片付けて美味いビールを飲むぞ」
 マユリさんの言葉に少し気持ちが落ち着く。そうだ。怯えると負けるんだ。
 マユリさんは立ち上がりカウンターの奥を覗き込む。向こうは電気が消えて暗い。本当に誰もいないのだろうか?店内は何の音楽も流れておらず静かだ。なのにさっきから耳鳴りがうるさい。目を瞑ると金属を擦るような、鉄を引っ掻くような、不愉快な音が頭の中で鳴り響く。最悪の気分だ。目を瞑りこめかみを押さえる。
 ふと目を開けると、女がいた。僕が座っているソファの向かい、店の扉を背にして黒い女が立っている。長い髪を垂らし、俯きがちに僕を凝視している。
 ぞわりと全身に鳥肌が立った。
 これまでと恐怖の種類が違った。底知れぬ狂気を目にしたような、不気味な化物と鉢合わせしてしまったような。オカルト的な恐ろしさとは違う、生々しい危機感が足元から這い上がってくる。怖いのに目を背けることができない。女の纏う黒い空気に吸い込まれるように全身が金縛りにあっている。
 やがて女がにぃと笑った。公園で見たのと同じ、嬉しそうに口を割いて。
「待ちわびていたわ……」
 途端に記憶が蘇る。僕の髪を梳く指。うっとりと潤む女の目。首に感じる甘い吐息。愛していると言う女の囁き声……。
 そうだ、確かに僕はこの女に会っていた。
「ごめんなさい!」
 必死で声を張り上げる。
「前の時、僕はとても酔っていたんです。何を言ったのか自分でも覚えていないんです。本当にごめんなさい!」
 だからもう許してくれ。そう懇願し床に手をつく。喉がカラカラに乾いている。マユリさんはどこに行ったんだ?
「いいのよ……」
 頭上から女の声が降る。甘えるような媚びを含んだ猫撫で声。
「私を愛しているのはわかってるから」
 ゾッとした。
「ち、違う!そうじゃない!」
「愛していない?」
「ごめんなさい……」
「可哀想に。混乱しているのね。大丈夫、すぐに愛し合えるから」
 絶望が、床についた膝と指先からひたひたと侵食してくる。女がゆっくりと近付く。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 ボロボロと涙を溢しながらうわ言のように呟く。頭がぐらぐらして思考が定まらない。
「愛しているわ。あなたもそうでしょう?」
 そうなのだろうか。そうかもしれない。そしたら楽になるだろうか。この苦しみから解放されるのだろうか。
 女がすぐ側までやってきて屈み込み、僕の顔を覗き込む。釣り上がった大きな目。よく見ると美しい顔をしている。もうどうでもいいか。僕の体や存在なんて。必要としているなら差し出してもいいんじゃないか。
「ごめんなさい……」
 涙が止まらない。心が壊れていく。何も考えられず促されるまま女の唇に口を付けた。
「龍之介」
 空気を切り裂く鋭い声。ハッとすると同時にドン!と背中を強く押され床に倒れる。
「差し出すな。てめえの人生だろうが」
 マユリさんの声。どこからか漂う線香の香り。みるみる現実感が体に戻ってきた。
「うわああああああ!」
 恐怖でパニックになる。ごしごしと必死で口元を拭う。僕は今何をしていた?
「うるせえ」
 首を捻って見上げると、突っ伏した僕に錫杖を突きつけマユリさんが女を睨んでいた。
 女は屈んだまま微動だにせずマユリさんを見つめている。
「マユリさん……」
「おかえり龍之介」
「ごめんなさい」
「謝るな」
 女から視線を外さないまま、マユリさんがピシャリと言う。
「これまで謝って何か好転したか?楽になろうとする前に戦え腑抜け」
 そうだ。また僕は恐怖から目を逸らそうとしていた。そしてそこにつけ込まれるところだった。
「ユタもどきのくせにしゃしゃり出るな。邪魔をするな」
 女の声。先ほどの甘ったるい調子ではなく、地の底から響くような唸り声。
「龍之介、こっちに来い」
 マユリさんが静かに言う。背中から錫杖がどかされた。慌てて立ち上がろうとすると
「行くな!」
 空気が振動するほどの大声で女が叫んだ。中腰のまま体が硬直する。動けない。
「行ってはだめよ。私と一緒にいるの」
 耳元で囁きかけてくる。なんて優しい声なのか。女の指がそっと僕の指に絡まる。
「龍之介」
 強い口調でマユリさんが言う。視線は女に向けられたまま。額に汗が浮かんでいる。
「てめえの頭で考えろ。流されるな。苦しくても怖くても自分を手放すな」
 簡単に言わないで欲しい。自分を維持するのは痛みが伴う。人とぶつかったり責任を背負ったり、そのたびに疲弊するじゃないか。楽な方を選びたいと思うのは当然じゃないか。居心地の良い場所を求めて何が悪いんだ。でも……。
「それでも僕は、自分の人生を生きたい」
 僕の声はか細かった。しかし女の顔がみるみる歪んでいく。足が震えそうだ。ぐっと腹に力を込めて立ち上がる。
「僕はあなたのものじゃない。あなたを愛していない。僕の人生は僕のものだ」
「よく言った」
 マユリさんが錫杖を振りかざし、女に突きつける。シャンと鋭い音が響き渡る。線香の香りが強くなった。
「嘘つき」
 鬼のような形相で女が言う。マユリさんが一歩前に進んで僕と女の間に入る。
「残念だがこいつはあんたが求めている相手じゃない。あんたの期待には応えられない。もうイチジャマを飛ばすのはやめろ」
「可哀想に。まだ愛に目覚めることができないのね」
 女は薄く笑うと懐から包丁を取り出した。ぎらりと照明が反射する。
「なら一緒に死のう」
「やめろ!」
 女が僕に突進してくるのとマユリさんが叫ぶのは同時だった。咄嗟に身をかわしスツールにぶつかる。ぐらついたスツールが女の上半身にぶつかり包丁が手から落ちた。それを思い切り遠くへ蹴飛ばす。マユリさんが素早く女の背後に回り体当たりし、背中に飛び乗って肩に錫杖を突き刺した。
 一瞬の展開だった。僕は床に座り込み、うつ伏せた女と、それを膝と錫杖で押さえつけるマユリさんを呆然と眺めた。
 マユリさんが何か口の中でぶつぶつと念仏のようなものを唱え始めた。すると女が歯をギリギリと噛み締め呻き始める。錫杖でしっかりと女を押さえつけながら諭す。
「イチジャマを戻す。念を緩めないと跳ね返りで死ぬぞ」
「できるものならやってみろ。くそユタもどきが!死ね!死ね!」
 髪を振り乱しながら女が叫ぶ。目が大きく見開かれ、額に血管が浮き出ている。
 そうだ、警察を呼ぼう。そう思いスマホを探して後退りした時。
「逃げるなあああ!」
 女が金切り声を上げ、排水溝に水が詰まるような音がして大量に吐血した。
「また逃げるのか!また私を捨てるのか!」
 血を吐きながら叫び続ける。僕を睨みつける目は大きく見開かれ、血の混じった涙が流れている。必死で手を伸ばし爪でガリガリと床を掻き、僕ににじり寄ろうとしている。しかし背中の錫杖がピン留めのように女をその場に固定していた。マユリさんの念仏の声が大きくなる。あまりの凄まじさに圧倒され呆然として動けない。
「お前に逃げられて私がどんな気持ちだったかわかるか?鐘に隠れたお前を追う私の気持ちを考えたことがあるのか!」
 この女は何を言っているんだ?鐘?
 マユリさんがハッとしたように目を開く。線香の香りに生臭い獣臭のようなものが混じってきた。
 突然これまでで一番激しい耳鳴りがした。鼓膜が破裂しそうなほどの爆音。瞼の裏に火花が飛ぶ。
 キィィ
 キィィ
 ブランコ?いや違う。これは爪だ。爪が鉄を引っ掻いている。すぐ近くから聞こえる。僕を包むこの鐘の外から……。
 見慣れない映像が浮かぶ。
 灯りのない夜道。何かから逃げようと必死で走る。寺。大きな鐘。その中は真っ暗で自分の鼓動だけが響き渡る。古びた鉄の匂い。埃っぽく冷え込んだ空気。やがて外から爪の音が聞こえる……。
「うわあああああ!」
 大声で映像を振り払う。後退りして必死で目を開ける。何だ今のは。知らない。知らない記憶が見えた。
「私だって自ら鬼になったわけじゃない!お前たち男が私を鬼にするのだ。お前が逃げずに向き合ってくれていたら。私の気持ちを踏み躙らなければ。私を拒絶しなければ。私はただ愛して欲しかっただけだ。私だって鬼になどなりたくなかった!」
 悲鳴のように叫ぶ声はあまりにも悲しかった。とめどなく流れる血の涙。剥がれた爪で赤く染まった床。髪が蜘蛛の巣のように床に広がり、その上で血塗れの女が踠いている。

 ノウマクサマンダバザラダ
 センタマカロシャナ
 ソバタヤウンタラタカンマン
 チョウガセッシャトクダイチエ
 チガシンシャソクシンジョウブツ

 マユリさんの念仏が少し変わった。
 不意に女が「うっ」と小さく呻くと白目を剥き、がくりと床に伏せた。鼻から血が流れ出す。それきり動かなくなった。
 マユリさんがゆっくりと立ち上がった。汗で髪が額に張り付き、肩で息をしている。
「一一九番をしてくれ。脳溢血だ」
 救急車が到着する前に僕たちは店を出た。

 結局僕たちはあの女が助かったのかどうか知らない。それどころか結局あの女の名前や、どこの誰だったのかもわからないままだ。でもそれでいいとマユリさんは言う。
「人を殺すほどの強力な呪いが跳ね返って来たんだ。一命を取り留めていたとしても無事じゃないだろうな。知らない方がいい。罪悪感も同情も命取りだ」
 タバコの煙を吐き出しながらマユリさんが呟く。どこか寂しそうだ。僕は黙って頷き、さっき自販機で買ったコーラを飲んだ。
 夏休みに入った大学に人はまばらだった。気温は高いが木陰に入れば涼しい。僕たちはベンチに腰掛けてぼんやりと風景を眺めていた。蝉の声。木漏れ日の日差し。緑の匂い。この感触をどれほど忘れていただろう。今自分が生きているということを実感する。
「マユリさん」
「ん?」
「鐘って何のことだったんでしょうか」
「あんた、執心鐘入を知らないのか?」
「知らないです」
 マユリさんは煙をふうっと吐き出すと携帯灰皿に吸い殻を捨てた。
「沖縄の組踊の演目だよ。男に恋心を抱くも振られ、鐘の中に逃げ込んだ男を追って鬼になる女の話」
 思わず振り向く。
「じゃあ、あの女は」
「作り話だ」
 僕の言葉を遮ってきっぱりと言う。
「あの女はなぜかその組踊の鬼に感情移入してしまったんだろう。あんたを物語の中の男と勘違いして執着してしまったんだ」
「でも……」
 それなら僕が一瞬見たあの映像は何だったのだろう。何かから逃げる夜道。鐘を引っ掻く爪の音。
「もしくは鬼があの女に取り憑いたのかもしれない。長く愛されている物語だ。いろんな人の情念が注がれているだろうし、架空の鬼に魂が宿ってしまっても不思議じゃない」
 では僕にも物語の中の「逃げる男」の魂が取り憑いたのだろうか。あの女はそれを追って来たとは考えられないだろうか?
 ため息をついた。わからない。けれど僕にも逃げ癖や問題と向き合わない性質があったことは確かだ。それで誰かを傷付けていないとどうして言い切れるだろうか?
「マユリさん」
「ん?」
「結局イチジャマって何だったんでしょう」
 マユリさんはまたタバコを出して火を着けた。深く吸って煙を吐く。薄荷の香り。
「生き霊を使った呪いとは言われているが、私は本人だけの問題ではないと思っている」
「僕もそう思います」
「人の死を願うほどの強い念慮なんてなかなか自発しない。何かにひどく傷付けられたと考える方が自然だ」
 女の言葉が頭に蘇る。「私だって鬼になどなりたくなかった!」
「人は強い思いがあれば誰しも生き霊を飛ばせる。誰だってイチジャマになる可能性はある。あの女を簡単に批難できない」
 黙って頷く。せめて僕はそうなりたくない。誰かをそうさせたくもない。そのためにできることが、自分の人生を自分で生きるということかもしれない。逃げず、流されず。
「あ、二人ともここにいたのか」
 陽気な声がして振り向くと嶺井がやって来るところだった。
「あのさ、アイリちゃんと話したんだけど今週末に飲み会どう?」
 相変わらずの軽さ。あんな出来事の後によく酒に誘えるな。
「いや僕はもう酒は飲みたくない」
「ノンアルコールでもいいってば。マユリさんもどうっすか?」
 おいよせよ、と言いかけたところで
「そうだな。行こうかな」
 驚いてマユリさんを見る。
「えっ、マユリさん就活は?」
「それなんだけどな」
 何となく言い辛そうにタバコの火を消す。
「あの女が言っていたことがずっと頭に残っててな。『逃げるな』って。私はずっとこのユタの血から逃げてたんだ。普通の生活をしたくて自分の使命や力に見て見ぬふりをしていた。でもあんた達と関わって、自分も誰かの役に立つのかもしれないと思ったんだ」
「そうなんですね……」
「ばあちゃんに叱られたよ。あの錫杖はしばらく使い物にならない。無茶しよってフリムンって。でもその後に褒められたんだ。よく頑張ったねって。それが妙に嬉しくてさ」
 照れ臭そうに言う。
「必要とされるなら、ばあちゃんが喜ぶなら、ちゃんと修行しようかなと思って」
「必要です!」
 思わず力強く頷く。
「僕はマユリさんに助けられたんです!それだけじゃない。マユリさんのおかげで自分が目を背けていたこともわかった。僕の人生の恩人です!」
「恩人てお前、何度もお前の性格難を指摘してやってた俺には何もないわけ?」
 嶺井が呆れて言う。
「あ、それは……ごめん、今ならわかる」
「本当に死にそうにならなきゃわかんねえんだな。罰として飲み会ちゃんと顔出せよ」
 にやりと笑って言う。マユリさんも笑う。「まあだから、周囲とのコミュニケーションや社交も広げていこうと思ってな。嶺井、私はザルだぞ。しっかりついてこいよ」
 夏の日差しに笑い声が溶ける。けれど僕らは知っている。悲しみの強さゆえに過去にしか生きられなかった鬼を。鉄を引っ掻く爪の音を。

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