イチジャマ②

 夏休みを控え、青春真っ盛りの大学生達は浮き足立っていた。嶺井は祭りや旅行の計画で忙しそうだ。僕も誘われたので都合が悪くないものは参加の承諾をした。
 僕は比較的調子が良かった。体調が万全とは言えないまでも、悪夢を見ることもなかったし笑って日々を過ごす程度には回復していた。意味なく心がざわざわする時はマユリさんの数珠を握りしめた。風呂の時も寝る時も身につけているので紐が少しほつれている。近々お直しをした方がいいかもしれない。そう思ってはいたがなんとなく先延ばしにしていた。僕は少し慢心していたのだと思う。

 嶺井とハンバーガーショップで無駄話をしていると随分遅くなった。昼間の凶暴な暑さに比べると夜は涼しく過ごしやすい。蝉たちの鳴き声が闇を震わせている。
 僕の部屋は学生向けの狭いアパートで学校からは歩くと二十分ほど。夜風に当たりながら散歩気分で帰るにはちょうどいい季節だ。急ぐでもなくぶらぶらと帰路に着く。
 ふと見慣れない場所にいることに気付いた。公園だ。砂場とブランコと滑り台だけがある小ぢんまりとした静かなところ。通学路にこんな公園があっただろうか?訝しく思いながら、公園の出口を探す。ない。
 急に心拍数が早くなる。あんなにやかましかった蝉の鳴き声が全く聞こえない。小さくキィキィと鉄が軋む音だけがほど近い位置から聞こえる。ブランコ……。
 さっと血の気が引く。足がガクガクと震え、冷や汗が止まらない。これは夢か?僕はまた悪夢を見ているのだろうか?
 パン!と大きな音と左手に衝撃が走る。腰を抜かしてしまった。地面に尻餅をつき、左手を見ると着けていた数珠が弾け飛んでいる。そこら中に転がる石を茫然と見つめる。
 キィィ
 キィィ
 ブランコの音が一層大きく響く。後頭部に強烈な視線を感じる。何かが僕を凝視しながら近付いてくる。キィィという音とそいつの気配が徐々に大きくなる。
 逃げなきゃ。ブランコを見ないように必死で地面を這う。だが手足に力が入らない。
「見つけた……」
 嬉しそうな女の声がすぐ側で聞こえた。
 パニックになり何かを叫びながら夢中で手を振り回す。その拍子に振り返ってしまった。
 暗闇の公園を背景に、僕の目の前に女がいた。全身が黒かった。長い髪が頭から地面まで藻のように垂れ、泥沼の底からズルリと出てきたようだった。猫背気味に俯いた顔は髪と闇に隠れてはっきりとした人相はわからない。だが不自然なほどに見開かれた大きな目が、闇の中で真っ直ぐに僕を見ている。
 ガクガクと震えが止まらない僕を見つめ、にぃと嬉しそうに口を裂いて笑う。ゆっくりとその手を僕に伸ばす。
 シャン……
 その時、金属を打ち鳴らすような甲高く鋭い音が空気を揺らした。女の動きがぴたりと止まる。
 シャン……シャン……
 規則的に音が響く。どこからか線香の香りが漂ってくる。女の表情が歪み始めた。眉間に皺が寄り、怒りで目が吊り上がる。僕から目を離し、公園の向こうへ顔を向ける。
 そこには、マユリさんがいた。
 長い棒を手にしており、その先に付いている小さな輪が打ち合って音を鳴らしている。
「帰れ」
 マユリさんが静かに言い、音を鳴らしながらゆっくりと近付いてくる。女は歯を噛みしめ、恨めしそうにマユリさんを睨んでいる。だがマユリさんが一歩進むたびに少しずつ後ろへ下がり始める。強くなる線香の香りと金属の音にかき消されるように、徐々に溶けていく。やがて僕から完全に離れ、闇に姿を消した。薄れゆく意識の中でマユリさんが僕に駆け寄るのが見えた。

「じゃあさ、マユリさんも今度アイリちゃんとのコンパにおいでよ。同じ高校なんでしょ?できれば四年生のお姉さんも何人か呼んで欲しいなー」
 嶺井の呑気な声がする。目を開けると僕の部屋だった。体を起こすと同時に激しく頭痛がした。体もあちこちが痛い。
「お、気が付いたか。おはよう龍之介」
 缶ビールを飲みながら嶺井が笑いかける。時計を見ると夜中の0時をまわるところだった。こめかみをさすりながら呻く。
「なんで嶺井がここに……?」
「悪いとは思ったんだがスマホを拝見して呼んだ。私一人じゃお前を運べなかったから」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しマユリさんが応える。藍色の甚平を着て無造作に髪を束ねている。その姿で公園の風景が蘇った。暗闇、ブランコの音、女の目。
 途端に激しく吐き気がしてトイレに駆け込む。胃の中のものを吐き出しながらまた足が震えた。怖かった。殺されると思った。
「大丈夫か?」
 心配そうに覗き込んだ嶺井に手をあげて応える。何はともあれ僕は助かったのだ。いや、また助けられた。
「マユリさん……」
 涙目で駆け寄るが「汚い」と跳ね除けられた。ショックでマジで泣きそう。嶺井が爆笑している。
 顔を洗い、マユリさんに差し出された水を飲んで少し落ち着いた。
「マユリさんに呼ばれて駆けつけてみたら、さっきまで元気だったお前が倒れてるからびびったよ。お前んちが近くて良かったよ」「ごめん。でもありがとう。助かったよ」
「いや、噂のマユリさんともお近付きになれたしオッケー。なんかお前、とんでもない女に取り憑かれてるんだって?」
「うん。でもここのところは大丈夫だったんだ。数珠が……」
 そう言ってハッとする。左手首を見るがそこには何もない。
「ごめんなさい、マユリさん。せっかくもらった数珠が千切れてしまいました」
「ああ、わかってる。仕方ないよ。相手が悪かった」
 なんでもなさそうに言ってタバコに火を付ける。薄紫の煙と薄荷の香りが部屋に漂う。この部屋に灰皿はないので嶺井が飲み干したビール缶を差し出し窓を開ける。ぬるい夜風が部屋に入り込んできた。
「でももっと大切にするべきだったんです。壊れそうになってたのがわかっていたのに」
「龍之介ってそういうところあるよなあ」
 嶺井が言う。
「え?」
「面倒くさそうなこと放置するっていうか、問題があると一旦目を逸らすというか。女の子と揉めてもいつも『ごめん』で終わらせて結局本質は解決しないっていうか」
 ムッとする。じゃあ今回の件も僕がどこかで怒らせた女がいるとでもいうのか。
「そんなことない」
「そうか?じゃあお前、前にマユリさんに助けてもらってから何かしてたか?」
「してたよ!……体力をつけたりメンタルをポジティブに維持したり」
「その生き霊について、原因や対策を調べたりは?」
 してない。
「マユリさんにお礼言ったか?その後自分から相談しに行ったか?」
 してない。僕はマユリさんに救われてそれですっかり解決した気になっていた。
「それってさあ、結局問題と向き合ってなくね?」
「でも……僕だっていろいろ頑張ったんだ。不安になったり怖くなったりするたびに必死で耐えたんだ!」
 つい声を張り上げる。そして自分で気付く。僕は何もしていない。自分のことばかり考えていて、一生懸命やっている気になっていた。けれど物事は何一つ動いていない。マユリさんが数珠で抑えてくれていただけだ。
 呆れたように嶺井が言う。
「そりゃお前、ただの自己弁護だろ。お前が震えてることで何か解決したのかよ」
「まあ嶺井、あまりいじめるなよ。あれだけメンタルをやられていれば仕方ないさ」
 見かねたマユリさんが間に入る。
「でもな、嶺井の言う通りだ。言っただろう、最終的にはあんたが自分で強くならなきゃいけないんだ。強さとは都合のいいことだけを吸収していくことじゃない。嫌なことや怖いことでも、足が震えながらでも、逃げずに立ち向かうことが必要なんだよ」
 言葉が刺さる。自分にとって都合の悪いことでも逃げずに受け止めなければならない……。正直、そういうことを僕はとても苦手としていた。
「僕にできるだろうか……」
 俯いて呟く。考えるだけで気が重く、不愉快で、そしてとてつもなく怖い。
「気が進まないなら無理に解決しなくてもいい。あんたの問題だ。このままでもいいと言うなら私は手を引くだけだから。正直言うとその方が楽ではある」
 このまま?またあの女に憑かれ生気を奪われて自我が失われたような日々に戻る?
「嫌だ」
 顔を上げ、きっぱりと言う。
「あんな日々はもう嫌だ。あんな怖い思いは二度としたくない。自分が無価値で無意味な存在だと感じながら生きるのは地獄だ。たいした人間じゃないけれど、僕は僕でいたい。自分を見捨てたくない」
 言いながら涙が出てきた。嶺井が驚いてあんぐり口を開けている。
「克服するには痛みを伴うかもしれないぞ」
 マユリさんが静かに言う。
「構わないです。僕は変わりたい」
 逃げること、我慢すること、とりあえず謝ることで問題は流れていくのだと思っていた。でもたぶんそうじゃないんだ。
「僕が未熟なせいで誰かに恨まれているならきちんと向き合いたい。勘違いなら誤解を解きたい。マユリさん、すみませんがもう少しお付き合いください」
 涙でぐちゃぐちゃになりながら頭を下げる。何だかこの一件依頼随分と涙腺が緩くなっている。感情の起伏が制御できなくなっているというか。
「一応そのつもりだ。心配するな」
 マユリさんの言葉に嶺井が驚く。
「え、マユリさんってそっち系には関わらないようにしてたんじゃないんすか?」
「なんでそのことを?」
「いやその」
 アイリちゃんの情報だ。噂話で聞いたとは言いづらい。
「まあそうだけど。一度助けてしまった経緯もあるし、できることはするよ」
 マユリさんが言う。相変わらず素っ気ない声だが、どこか優しい。
「ありがとう……ありがとうございます!」
 また頭を下げる。一人じゃないというだけでこんなにも心強いなんて。嬉しいなんて。
「泣いて奮起するなんて、かっこいいじゃん龍之介」
 嶺井がニヤニヤしながらティッシュを寄越す。それを奪って鼻を噛む。恥ずかしくなってきたので話題を戻す。
「ねえマユリさん。あれは一体何なんですか?どうして僕に付きまとうんですか?」
「龍之介、マジで身に覚えねえの?」
「うん。今回顔も声も聞いたけど、本当に覚えがない」
 マユリさんはため息をついてタバコをビール缶で揉み消し、悪い成績を告げる先生のように言う。
「あれはな、イチジャマだ」
「イチ……え?」
 
 嶺井と一緒に聞き返す。
「イチジャマ。生き霊の中でも強力で厄介な類。沖縄に昔からある呪詛だよ。ただの恨み辛みじゃない。黒魔術みたいなもんだ。力のあるものが明確な意思を持って呪ってくる。あれから私も気になったんで少し調べたんだ。ばあちゃんに聞いたりな」
 マユリさんのお祖母さんは有名なユタだとアイリちゃんが言っていた。
「関わるなと言われたよ。イチジャマは手に負えないから」
「マジですか……」
「ユタが匙を投げるレベル……」
 嶺井が気の毒そうにこちらを見る。
「イチジャマはヤバい。今回はばあちゃんの錫杖と線香でどうにかできたけど」
 部屋の脇に寝かせている細長い包みに目をやる。きっとあの輪のついた鉄の棒だ。あの音が響いて女は消えていった。
「じゃあさ、それでやっつけられないんすか?一発ぶん殴れば」
 棒を振り回す仕草をして嶺井が言う。
「いや、私にそんな力はない。ユタの血が流れているとは言っても修行もせず未熟なままだ。できることはするつもりだが、呪い殺されてしまったらすまん」
「さらっと怖いこと言わないでくださいよ」
「気にすることないっすよ。そん時は龍之介の力不足ってことでマユリさんのせいじゃないっすから」
 嶺井のフォローにならないフォローにマユリさんがふっと笑った。その笑顔を見ると、なんだか急に肩の力が抜けるようだった。
「でもさあ、生き霊ってことは本体がいるわけでしょ?そいつにやめるように言えばいいんじゃないんすか?」
 冷蔵庫からまたビールを取り出して嶺井が言う。腕を組んでマユリさんが唸る。
「そううまく行くとは思えないが。まあどこの誰かはわかっておいた方がいいな。龍之介、あんたがおかしくなり始めたのはいつぐらいからなんだ?」
「えーっと一年……いや半年くらい前かな」
「じゃあ年明けくらいか。年末年始で何か女と接触した記憶はないか?」
「うーん……」
 必死で記憶を辿る。大学二年生の冬。もう随分と昔のことのように感じる。
「その頃って忘年会が立て続いてしょっちゅう飲みに行ってた時期じゃねえか?」
 そうだ。年末は嶺井と一緒に毎日のように飲みに出歩いていた。コンパや打ち上げ、クラブ、女の子のいる店。
「うん、女の子と接触があったとすればその時期だと思う。覚えてないけど」
「酔うと記憶がなくなるのか?」
 マユリさんが呆れている。
「ええまあ……」
 恥じ入って答える。僕は酒が強くない。というか成人したてで酒の飲み方なんてわかっていなかった。その場のノリと勢いで飲んですぐに気分が悪くなったり眠ったりする。当然女の子といい雰囲気になったりどこかへ連れ込む余裕なんてない。
「あ、待てよ、なんかなかったっけ?どこかのスナックで龍之介と店の子がいい感じになった時が」
「は?」
 耳を疑った。何を言っているんだ?
「俺も曖昧なんだけどさ。珍しく龍之介が女の子と仲良くしてるなって思ったんだ」
「嶺井ごめん、マジで思い出せない。もうちょっと詳しく聞かせてくれ」
「えーっとたぶん何かの打ち上げの二次会か三次会かで行ったスナックだと思う。髪が長くてちょっと暗めの女の子だったような」
 思わずマユリさんと顔を合わせる。イチジャマの本体に辿り着けるかもしれない。

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