イチジャマ①

 夜の公園だった。なぜここにいるのかわからない。嫌な気持ちがする。僕は息を切らしている。何かから必死で逃げていたのだ。この公園から出たいと強く思うが、見渡す限りフェンスで囲まれていて出口らしきものがない。ブランコの後ろの方、フェンスが少し低くなっていて出られそうだ。そちらに向かって走る。ふとブランコに何かが乗っていることに気付く。子供だ。小さな子供が夜の公園でゆっくりとブランコを漕いでいる。見てはいけない。そう直感で感じ、ブランコから顔を背けながら横をすり抜けようとする。するとそれまでゆっくりだったブランコを漕ぐ音が急に異様なほど大きく不気味に響き渡り、同時に強烈な視線を感じた。

 汗をびっしょりとかきながら飛び起きる。それが夢だと気付くまでにしばらく時間がかかった。ブランコがキィキィと軋む耳障りな音や突き刺すような視線の感覚が、まだ生々しく残っている。心臓が早鐘を打っている。枕元のスマホで時間を確認する。夜中の三時。薄暗いワンルームのアパート。
 大きく息を吐き、起き上がって電気を点ける。おそらく今日はもう眠れないだろう。ここのところずっと寝付きが悪い。やっと眠れても悪夢ばかり見る。友人の嶺井には「就活のストレスじゃねえの?」と言われたが、去年の秋に行ったインターンシップ先から仮内定はもらっている。
 空気を入れ替えたくて窓を開ける。生温い夜風が体を冷やして行く。季節は春から初夏に変わろうとしていた。
 地元の沖縄で大学に進学し、去年まではごく普通に楽しく学校生活を過ごしていた。数多くはないが気の合う友人達と笑ったり、女の子とデートしたり、短期のバイトで稼いだ金で嶺井達と飲み明かしたり。
 しかしいつからか僕は完全に調子を崩してしまった。不眠だけではなく慢性的に頭痛と肩凝りがする。首から上が重い。喉が細くなったように狭く感じ、食事はもちろん呼吸も浅い。何もやる気が起きず、いつも気が重い。正体不明の不安や恐怖が泥のように渦巻いている。何もできない自分はなんて情けないのだろう、消えてしまいたい。と常に思うようになった。
 ぼんやりと窓の外を眺めていたら空がうっすらと明るんできた。朝が来たところで嬉しくもなんともない。ため息をついて窓を閉める。こんな風に大学三年生になった僕の夏は、少なくともこの時点では少しも楽しいものではなかった。

 夜に眠れないせいで昼間に猛烈な眠気が来る。今日も午前中の講義は意識が朦朧としてほとんど頭に入って来なかった。このまま試験や単位がすんなりクリアできるとは思えない。そうなると就職どころか進級も危険なのではないか。絶望的な気持ちを抱え、ふらふらと教室を出た。
 大学の敷地内を学生達が楽しげに歩いている。学食に向かう人、ベンチで弁当を広げる女子グループ、学校の外に昼食を食べに行くカップル。そんな人々を日陰のベンチに座りながらぼんやりと眺めていた。
「龍之介、お前最近どうしてんの?飲み会にも全然顔出さねえし」
 嶺井が明るく声をかけてきた。
「ああ、ごめん。そんな気分にならなくて」
「ふうん。なんか調子悪そうだな。気晴らしした方がいいぜ。あそこにいる子達一年生じゃね?声かけてみようぜ」
 近くのベンチにいる女子グループに目をやりながら言う。
「勝手にやれよ」
「じゃあ今週末は?コンパあるんだけど」
「僕はいいから楽しんで来いよ」
「あ、そう」
 嶺井はあっさりと引き下がった。視線はまだベンチの女子の方を見ている。同じ高校からの進学組だが大学生になってからコンパやナンパで随分と楽しそうだ。見た目も今時ファッションでかなりイケメンになった。
 急に自分が惨めで情けなくなる。
「ごめん、ちょっと用事あるから」
 そう言って立ち上がる。本当は用事などないが一人になりたかった。
「あ、龍之介」
 声が真面目な響きだったので振り返る。
「あのさ、お前最近自分の顔見た?」
「顔?」
 思わず頬に手を当てる。無精髭の嫌な感触。思えばもうずっと鏡を見ていない。
「なんか上手く言えないけど、今のお前やばい感じがする。死相ていうの?あんな感じ」

 男子トイレの鏡を見ると嶺井の言葉に納得せざるを得なかった。痩けた頬、血色の悪い肌、落ち窪んだ瞼、くっきりと黒く刻まれたクマ、生気を失い虚な目。
 しかしいまいちピンとこない。酷い面だとは思うが、では本来の自分はどんな顔をしていたのかよくわからない。そもそも今鏡に映っているこの男が自分だという実感もない。僕は一体どういう人間だっただろう。僕の存在する意味はあるのだろうか。
 何だか寒気を感じ急いでトイレを出た。

 心療内科にはとっくに足を運んだ。薬を処方してもらったがまるで効き目を感じない。日に日に悪化している気がする。ずっと耳鳴りがし、その合間にお前は無能だ、お前は無責任だ、お前は無価値だ、という声がする。そしてその声の言うことは確かに正しい。
 どこをどう歩いたのか、いつもの通学路だ。赤信号の横断歩道で立ち止まっている。嶺井と話してトイレで鏡を見たのは数日前のはずだが、では今日はいつでここはどこだろう。今は登校?下校?頭が回らない。でも何もかもがどうでも良かった。
 信号が青に変わる。隣にいた黒い服を着た髪の長い女が先に横断歩道を渡り始める。何も考えずにその後をついていく。
 不意に強く腕を引かれた。目の前の光景が回転し勢いよく後ろに転ぶ。腰と肩に激痛。
 何が起きたんだ?呆然としていると、ばしゃりと冷たい液体を頭からかけられた。
「しっかりしろ。連れていかれるぞ」
 頭上から冴えた声がする。液体が首筋から体に染み込み体を冷やしていく。液体が目に入りそうになり瞬きをすると、急に視界が開けていった。
這いつくばってびしょ濡れの僕の目の前を大型のトラックが土埃を上げながらノンブレーキで走り過ぎる。横断歩道の信号はまだ赤だ。みるみる思考が覚醒していく。僕は今何をしようとしていた?
 青ざめて周囲を見渡す。立ち去ろうとしている小柄な女性がいた。慌ててよろめきながら後を追う。体に力が入らない。くそ。僕は一体どうなってしまったんだ。
「あの!」
 声を振り絞って呼びかける。
「ありがとうございます!助かりました!」
 女性が振り返る。二十歳くらいだろうか。化粧気のない顔に気の強そうなつり目。根元が黒くなったボサボサの金髪。派手な柄のシャツ。ヤンキーかと思い一瞬怯む。
「別にいい。今度から自分で気をつけろ」
 素っ気なくそう言うと踵を返し歩き出す。慌てて隣に並び話しかける。この声だ。さっきの言葉が蘇る。
「待ってください!あの、連れていかれるってどういう意味ですか?」
 無視。心が折れそうになる。だけど藁にもすがる思いで必死に訴える。
「あの、僕、なんで自分がこうなってしまったのかわからなくて。助けてください、本当にもう、どうしていいか……」
 なぜか涙がぼろぼろと溢れてくる。周囲の人が不審がってジロジロと見ている。
 女性は諦めたように立ち止まった。
「わかったから喚かないで。とりあえずそこのハンバーガーショップに行こう」

 ハンバーガーショップに客はまばらで静かだった。時計を見るとまだ朝の九時。
 言われるがままトイレで顔を洗うと驚くほどスッキリした。席に戻るとハンバーガーやポテトがテーブルに並んでいる。
「あの、すみません。ほんとに」
「いいから食べな。えーと、あんた名前は」
「松田龍之介です。そこの大学の三年生で」
「後輩か。私は四年生の海勢頭マユリ。龍之介、いいからさっさと食べなさい。大丈夫、食べられるから」
「は、はい」
 ハンバーガーを一口齧る。途端に口の中に肉の旨味とソースの風味が広がる。うわ、何だこれ。唾液が溢れて止まらない。夢中でハンバーガーに貪り付く。まるで飢餓状態だ。すべてを平らげて一息つくまで、マユリさんは黙って僕の様子を観察していた。
「すみません、なんだか夢中になって」
「いや、見ていて気持ち良かったよ」
 マユリさんはそう言って少し笑った。目が細くなりあどけなさが覗く。何だか妙に眩しく感じて慌てて目を逸らし話題を変える。
「あの、僕にぶっかけたアレ何ですか?」
「ん?ただの水だよ」
 そう言って鞄からペットボトルを取り出す。確かに普通の水に見える。
「でも何か不思議だったんです」
「そう?」
「頭から体に染み込んで、こうスーッと霧が晴れるように感じたというか」
 そうだ。それで遠くにあった自我が急に戻ってきたように感じたのだ。まるで目が覚めるみたいに。マユリさんは、ああ、という感じで頷いた。
「お清め用の水だからね、これ」
「お清めって……」
 しまったという顔をし、マユリさんは目を逸らしカフェオレを飲む。
「僕は何かに取り憑かれているということですか?」
「えーあー」
「頼みます。教えてください。悪霊とか呪いとかそういう話なんですか?」
「……いや、ちょっと違う」
「え?」
「あんたに憑いているのは生き霊だ」
「生き霊……」
 絶句して項垂れる。生き霊って、強い恨みを持っている人が自分の魂を飛ばして呪うとかのやつじゃないのか。僕が誰かにそこまで恨まれているというのか?
「信じるのか?」
 マユリさんが疑い深そうに尋ねる。
「信じます。僕は実際に死にそうだった」
 横断歩道の瞬間が蘇る。マユリさんに助けられなければトラックに轢かれていた。
 ん?そういえば。思い出して顔を上げる。
「あの時、女がいたんです」
「あの時?」
「横断歩道を渡ろうとした時。信号が青に変わって隣にいた黒い服を着た女が先に歩き出して、それでつられて僕も。でも気づいたら、そんな女はいなかった」
 正気に戻って周囲を見渡した時、そこにいたのはマユリさんだけだった。
「髪の長い女だろ。私にも見えた」
「あの女が生き霊?マユリさんにはあれがどこの誰かわかるんですか?」
「さあ、そこまでは。あんたの元カノの恨みとかじゃないの?」
「全く心当たりがない」
 マユリさんが片眉を上げる。疑っている。
「本当です。女性に恨まれるようなことをした記憶もないし、黒い女にも見覚えがない」
 必死に弁明する。これまでの女の子達とは円満に終わったはずだ。それ以外でも揉めたりトラブルになった記憶はない。不穏な空気になると僕はすぐに謝る。理不尽なことでも受け入れてしまう。その弱腰に呆れてだいたい女の子達の方から愛想を尽かして離れていくのだ。
「まあよく思い出すんだな。女の生き霊ならだいたい自業自得だったりするから」
「僕は一体どうしたら……」
「言っただろ。しっかりしろ。生きる気力が漲っていれば連れていかれることもない」
「マユリさんは助けてくれないんですか?」
「私はそういうことにもう関わりたくない」
「どうして?」
「就活があるから」
 呆気にとられて言葉を失う。就活?
「そんな。僕は死にそうになったのに」
「私には関係ない。四年生がこの時期でまだ内定取れてないのはヤバいんだ。じゃあな」
 マユリさんはそう言ってトレイを持って立ち上がる。
「待って!お願いだ!見捨てないでくれ!」
 必死で叫んで立ち上がる。
「わ、ちょっとやめてよ」
 マユリさんは慌てて僕をたしなめ座らせようとする。しかし堰を切ったように言葉が止まらない。
「僕はもうこんな状態は嫌なんだ!自分が自分でなくなっていく。ちくしょう、僕が何をしたっていうんだ。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」
 マユリさんに対してというより、ただの心の叫びだった。けれど抑制ができない。
「お客様、どうされました?」
 男性店員がやって来る。
「何でもないです。すみません」
 マユリさんはそう言うと僕の方を見てため息をつき、自分の左手につけていたブレスレットを僕に差し出した。
「気休めみたいなものだけど無いよりはマシだと思う。あんたにやるから付けときな」
 黒い石と白い石が連なって数珠のようになっている。マユリさんは紐を調整し、僕の左手にそれを嵌めた。
「ありがとう……」
 石を重みと触れられた温もりで左手が温かい。激昂していた気持ちが自然と落ち着く。
「言っとくけど本当にお守り程度のものだから。結局はあんた自身が奮い立たなきゃどうにもならないからね」
 真っ直ぐに僕を睨んで言う。小さな目の奥で瞳が鋭く瞬いている。
「わかった。負けないように強くなります」
 そう言うとマユリさんは黙って頷いた。

 自分を理解してくれる人がいたというだけで随分と心が楽になった。お守りがあるのも心強い。マユリさんから貰った数珠の効果か、それともメンタルが安定したのか、それから徐々に眠れるようになってきた。眠れると日中の講義や大学生活も辛くない。講義のない日はなるべく散歩や筋トレをし、体を動かすことで夜に眠れるようにした。運動に耐えられるよう無理やりでも食事を摂った。
「龍之介、なんかちょっと太った?」
 朝、大学に行くと嶺井が話しかけてきた。隣には知らない女子。
「そうだなあ。最近ちゃんと食べて動くようにしてるから。ていうかそちらは?」
「こちら比嘉アイリちゃん。さっきそこで声かけたんだけど、講義が同じみたいだから一緒に行こうと思って」
「相変わらずだな」
 そう言って笑う。笑いながら会話をするのもどれくらいぶりだろう。ナンパされちゃった。とアイリちゃんも可笑しそうに笑う。三人で教室まで移動しながら会話する。
「嶺井くんと龍之介くんは高校からのお友達なの?」
「そうそう。アイリちゃんはどこの高校?今度コンパしようよ」
「えーどうしようかなあ」
「おい嶺井よせよ」
「いいじゃん俺も龍之介も彼女募集中だからさ。ぜひ!」
 アイリちゃんは笑って、考えとくと言った。愛想が良くていい子みたいだ。この感じも久しぶり。嶺井と一緒に女の子と話をしたり、可愛い笑顔に癒されたり。
 ふとマユリさんを思い出し聞いてみる。
「なあ嶺井、四年生の海勢頭マユリさんってわかる?」
「いや知らん」
「マユリさん?」
アイリちゃんが不思議そうに聞き返す。
「アイリちゃん知ってるの?」
「うん、小中同じ一つ上の先輩だよ」
 驚いた。沖縄は狭い。
「なんだよ龍之介、いつの間に四年生の女子ナンパしたんだよ。やるなあ」
「そういうのじゃないって。ちょっと事情があって助けてもらって」
「ああ、マユリさんって男女問題って感じじゃないもんね」
「どういうこと?」
 教室に着いたので三人で並んで座る。まだ講義まで時間があり教室に人は少ない。
「うーん、詳しくは知らないけれどマユリさんのお祖母さんって有名なユタなんだよね。マユリさんにも不思議な力があるとか。それで小学校の頃にはなんていうか、周囲から浮いてて、ちょっといじめられたりしちゃってたみたいで」
「ユタかあ。子供でそれは大変だなあ」
 気の毒そうに嶺井が言う。沖縄ではたまに聞く話。霊感があったり感性が敏感な子は時にいじめの対象になる。
「そうなの。それで中学校ではグレちゃって。学校に来なくなったり金髪になったり。それからマユリさんをいじめる人はいなくなったけど、本人も霊とかユタ的なことはピタリと言わなくなったみたい」
 マユリさんの言葉を思い出す。「私はそういうことにもう関わりたくない」吐き捨てるような言い方だった。
「そんなわけでちょっとした有名人だったんだよね。高校での様子はわからないけど大学に来てるってことは更生したのかな」
 チャイムが鳴り講師の先生がやってきた。嶺井とアイリちゃんは小声でコンパの相談をしながら机の下でライン交換をしている。
 あれ以来マユリさんの姿を見ていない。同じ大学でも学年や学科が違えば知り合う機会もない。もしまた会えたらちゃんとお礼を言おう。そう思いそっと数珠に触れた。
 実際にマユリさんに会えたのはその一週間後だった。ただしそれは期待していたような和やかな再会ではなかったけれど。

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