見出し画像

【短編小説】アマビエ先生と肉じゃがの記憶

 約一週間続いた熱がひき、身体の痛みも嘘のように無くなった。二日前に息をすることがとても苦しくなって、病院に行ったら肺炎を合併していると言われたのが嘘のようだ。

 肺炎になったと聞いて、今年七十歳になるおばあちゃんは、私が死んじゃうんじゃないかって顔を真っ青にしていた。おじいちゃんが肺炎で亡くなっているから、怖かったのかもしれない。でも私はまだ元気な十二歳で、おじいちゃんは別の病気も持っている七十五歳だったから、私のことをそんなに心配する必要ないのになって思った。

 だから、熱が出て、ゼイゼイと息をしている私に、おばあちゃんが、自分で描いたアマビエっていう妖怪の絵を見せてきたときには、呆れちゃった。アマビエの写し絵を人に見せたら、見せられた人は病気が治るって、以前テレビでやっていたけど、そんなの迷信に決まっているのにね。

 熱が下がってから二日間は、学校に登校してはいけないって決まっているらしく、その間、私は家でのんびりマンガを読んだりしていた。そうしたらおばあちゃんが「マンガばっかり読んでいないで、本を読んだら?」って言ってきて、私は思わず、「うざい」って言っちゃった。ちょっときつい言葉だったから、悪かったかなって思ったけれど、おばあちゃんは「そうかい」と言ったっきりだったから、気にしてなさそうで良かった。

 私の両親は共働きで、普段は朝の八時に家を出て、夜は二十二時くらいにならないと帰ってこないから、いつもはおばあちゃんと二人暮らしをしているみたいだった。

 私が友達とケンカしたときとか、辛いときに側で支えてくれたおばあちゃんが、私は大好きだ。でも最近、そんなおばあちゃんに少しイライラしている。

 おばあちゃんは、私にご飯を沢山食べさせることを生きがいにしているんだけど、私はむしろ痩せたいって思ってる。だって、この前クラスの男子に、「オレより太ってんの?」って言われちゃって、とてもショックだったから。だから、おばあちゃんがご飯のお代わりを勧めてくる度に、「いらないって、言ってるじゃん」と、きつい言葉を返してしまう。

 今日の夜ご飯のときにも、私はまたきつい言葉をおばあちゃんに言ってしまった。おばあちゃんが、「陽菜(はるな)ちゃんの大好物を作ってあげるね」って言ってくれて、いつもの肉じゃがが食べられると思って楽しみにしていたら、筑前煮だった。今まで『私の大好物』といえば『おばあちゃんの肉じゃが』だったのに、なんで筑前煮を作るのって、ちょっと腹が立ったんだ。

 しかも熱が出ている時は、リンゴジュースくらいしか飲めなかった私を心配したおばあちゃんが、何度もお代わりを勧めてきたからそれにもイライラしちゃって、怒鳴っちゃったの。

「しつこいよ!」

 おばあちゃんに怒鳴ったのは初めてだった。おばあちゃんは私のことを純粋に思って優しい気持ちで言ってくれていたのに、そしてそのことを私は分かっていたのに、酷い言葉を言ってしまった。

 普段大きな声でちゃきちゃき話すおばあちゃんが、信じられないくらい、小さい声で「ごめんね」って言ったの。そして、下を向いて、台所で片付けを始めちゃった。 

 私は謝らないとって思ったんだけど、カッコ悪い気がして謝れなかった。謝れない方がカッコ悪いに決まっているのにね。

 翌朝、久しぶりに登校しようと居間に行くと、おばあちゃんが、真っ青な顔をして、ゼイゼイと言いながら、私の朝食を用意してくれていた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 近くによると、高い熱があることも分かって、私は驚いてパニックになりそうだった。だって、今までおばあちゃんは、元気な姿しか私に見せなかったから。

 こんなに苦しそうなのに、一生懸命に私の朝食を用意してくれるおばあちゃんを見て、泣きそうになった。昨日私は一生懸命に夜ご飯を作ってくれたおばあちゃんに、酷いことを言ってしまったばかりなのに。

 慌てて、既に出社したお母さんに電話をすると、急いで帰って来てくれて、おばあちゃんを車で病院に連れて行ってくれた。「今日が決算の時期じゃなくて良かったわ」って言っていた。

 私も病院に行くって言ったけど、お母さんに「これ以上、勉強が遅れると良くないから、学校に行きなさい」って言われちゃった。

 私はまだ子どもだから、病院に行ってもお医者さんみたいにおばあちゃんを治すことは出来ないし、お母さんみたいにお金を支払うことも出来ない。でも私もおばあちゃんのために何かしたかった。



 久しぶりの授業を受けていると、色々な悪い考えが浮かんでくる。

『おばあちゃんの病気は、私が移してしまったのかな』

『このまま熱が下がらなくって、おばあちゃんが死んじゃったらどうしよう』

 気が付くと国語の教科書の上にポトポトと涙が零れ落ちる。

「すみません。お腹が痛いのでおトイレに行ってきてもいいですか」

 泣いていることが周りの友達にばれたら恥ずかしいから、私はトイレに避難した。泣き声が聞かれないように、廊下から一番離れている三番目のトイレの個室に入ると、止めどなく涙が出てくる。

 『優しいおばあちゃんに、どうして私は何度も酷いことを言ってしまったんだろう』

 いつも大した理由もなくおばあちゃんに向けていた言葉たちが、取り返しのつかないくらい、酷い言葉だったということをおばあちゃんの死を皮膚で感じて初めて気づいた。大きな泣き声を出すまいと、歯を食いしばってお腹に力を入れるが、どうしても涙声が漏れる。

 すると、戸を叩く音がした。

 コンコンコン

 私はあわてて、「入っています」と涙声で言うが、なおも、コンコンコンと音がする。

 いつの間に休み時間になったのだろうか。このトイレには、トイレの花子さんが出ると噂されていて、普段は誰も使わない。だからこのトイレに駆け込んだのだ。それなのに、なぜこのトイレをノックする人がいるのだろうか。

 涙を拭い、戸を開けると、そこにはおかっぱ髪で赤いスカートをはいている女の子がいた。誰だろう? 見たことのない子だ。

「図工室に行こうよ」

「え?」

「早くしないと授業が終わっちゃうよ」

 そういうと、おかっぱの女の子は私の手を掴み、引っ張ろうとする。その手はびっくりするほど冷たかった。

「誰? っていうか何? やめてよ」

 私はそう言うと、その手を振り払った。

「私は花子だよ。知らないの?」

「花子?」

 校舎三階の三番目のトイレに、おかっぱで赤いスカートの女の子がいて、その名前が花子と言う。まさかと思いながら尋ねる。

「トイレの花子さん?」

「そうだよ。早くしないとアマビエ先生を描く授業が終わっちゃうよ」

「アマビエ先生? あの妖怪の?」

「アマビエ先生は、アマビエ先生だよ。妖怪っていう人間が作った分け方なんて知らないよ。早くしないと、先生を描く授業が終わっちゃうよ」

 花子さんが私を急かす。

「アマビエって、あの写し絵を人に見せたら、見せられた人の病気が治るっていう妖怪?」

「そうだよ」

「うそ」

「信じないなら、それでもいいよ。陽菜ちゃんは、見えないものを信じることが出来ないんだね。おばあちゃんの病気を治したいって心から願っていたから、私はあなたの前に現れたのに。しょうがないね。バイバイ」

 花子さんががっかりしたように言い、肩を落とす。

 トイレの花子さんが確かに目の前にいる。そしてアマビエも実在するという。

「ごめんね。信じるよ。だから私をアマビエ先生の所に連れて行って。私はどうしてもおばあちゃんを助けたいの」

 私は、一度払った冷たい花子さんの手を両手でギュッと掴んでいた。すると花子さんは満開になった桜のように、にっこりと笑ってくれた。

 けれど、次の瞬間、「でもね」と花子さんが、真剣で少し悲しげな表情で言った。

「アマビエ先生の力を分けてもらうには、対価が必要なの」

「対価?」

「うん。アマビエ先生の写し絵を描いて、その力の一部を貰う代わりに、陽菜ちゃんの一番大切な記憶をアマビエ先生にあげないといけないの」

「一番大切な記憶?」

 私の一番大切な記憶って何だろう。

「どの記憶が無くなるの?」

「それは、アマビエ先生しか分からない」

「おばあちゃんのことを全部忘れちゃうのかな?」

 私にとって世界で一番大好きなおばあちゃん。おばあちゃんのことを忘れてしまうことは、私が私で無くなることと同じだった。

「それはないよ。対価は等しくなければならないから。ただ、おばあちゃんとの大切な思い出の一つが無くなるんだよ」

「そうなんだ……」

 私はこぶしをギュッと握って、覚悟を決めた。

「思い出の一つが無くなってもいいよ。おばあちゃんが生きてくれていたら、きっと新しい思い出を一緒に作っていくことができるから」

 そう言う私を見て、花子さんは、「そうだね。生きていれば思い出は増えていくね」と優しく、そして少し哀しそうに笑った。

 ガラガラガラ

 いつもの図工室の扉を開けると、そこにはアマビエ先生がいた。

 パステルピンクの髪は長く、目はダイヤの形をしていて、とても大きい。口には黄色いくちばしがあり、身体のうろこは七色にキラキラと輝いていた。おばあちゃんが見せてくれた、あのアマビエの絵の通りだった。

 そのアマビエ先生を丸く囲んで、袖引き小僧や座敷童、そして一反木綿などの妖怪達が、真剣にアマビエ先生を画用紙に描いている。

 アマビエ先生って、本当に存在したんだ。アマビエ先生の写し絵をおばあちゃんに見せれば、おばあちゃんは助かるかもしれない。そう思うと、力が湧いてきた。

「あら、花ちゃんいらっしゃい。陽菜ちゃん、頑張って描いていってね」

 アマビエ先生は、なぜか私の事情を知っているらしく、画用紙と水彩絵の具を用意してくれていた。

 私はまず、注意深く鉛筆で画用紙にアマビエ先生の輪郭を描いた。そして水彩絵の具でそのカラフルで優しい色を画用紙に写し取る。アマビエ先生の見えない部分まで視て、それを画用紙に写せたら、きっとそれを見たおばあちゃんに、アマビエ先生の力を分けて貰える気がしたのだ。根拠なんてないけれど、確かにそう思った。

「できたっ」

 我ながらよく描けたと思う。もちろんデッサンとかは無茶苦茶なんだろうけれど、アマビエ先生の優しさと残酷さが上手く現せているような気がした。

「とても良く視て描けているわね」

 アマビエ先生が私の絵を見て嬉しそうに話しかけてきた。

「ありがとうございます。あの、おばあちゃんは助かりますか?」

「そうね、今回はきっと大丈夫だと思うわ。でもね」

 アマビエ先生が、真剣な表情で私を見る。

「言葉にはね。言霊が宿っているの」

「言霊?」

「言葉には力が宿っているの。それを言霊っていうのよ。良い言葉を発したら、良いことが起こり、悪い言葉を発したら、悪いことが起こる。陽菜ちゃんがおばあちゃんに向けて発した言葉は、おばあちゃんの心を深く傷つけ、さらには悪いことを引き起こしてしまうかもしれなかったの。あなたは、いえ、今を生きる人間たちは、言葉の海に溺れ、その力を軽く見過ぎている。どうかそのことを忘れないで」

 私は急に恐ろしくなってしまった。言葉には力が宿っていて、その力で優しいおばあちゃんを自分が思っているよりもずっと傷つけていたということに。そして、知らず知らずのうちに、言霊の力で悪いことを引き起こそうとしてしまっていたことに。

 私は、少しずつ成長するにつれて、おばあちゃんよりも友達と一緒にいる方が楽しくなっていったし、口うるさいおばあちゃんのことを面倒くさいと思うようになっていった。でも、だからといって、酷い言葉を言っていいわけではないのだ。

 もしもおばあちゃんに言われたことで嫌なことがあったら、なぜ嫌かを伝え、話し合うべきだった。「ウザい」とか、「しつこいよ」とか、そんな言葉の暴力をおばあちゃんに向けるべきではなかったのだ。

「はい。忘れません。絶対に」

 私はそう言い、手をぎゅっと握った。手のひらについた爪のあとはずっとずっと消えなかった。



 私は家に帰ると、熱で苦しそうにしているおばあちゃんに、アマビエ先生の絵を見せた。 

 私が元気になって欲しいと思っていることが、おばあちゃんには直ぐに伝わって、熱で顔を歪ませながらも、微笑んでくれた。

「ひどいことを言ってごめんなさい。怒鳴っちゃってごめんなさい」

 おばあちゃんに謝る私の声は、震えていた。

「いいんだよ」

 とてもか細い声で言うと、シワシワな手で、おばあちゃんは私の頭を撫でた。

 その時、スッと何かが頭の中から消える痛みに似た感覚があったが、私はその痛みすら抱きしめながら、頬を涙で濡らしていた。



 翌日、おばあちゃんは無事に元気になった。こんなに早く回復するなんて信じられないと、お医者さんが言っていたらしい。

 夜ご飯は私が作るって言ったのに、おばあちゃんは自分が作ると言って譲らなかったので、一緒に作ることにした。

「陽菜ちゃんの好きな物にしようね」とおばあちゃんが言い、また筑前煮を作ろうとする。私は、『あれ? 私、筑前煮が好きなんだっけ?』と疑問に思いながらも、何が好きな食べ物だったのか、不思議と思い出せなかった。

 その日、おばあちゃんのことを心配して、早く帰って来てくれたお母さんに、「私の好きな食べ物って何だっけ」と聞くと、「小さい頃から陽菜の一番の好物は、おばあちゃんの肉じゃがでしょう。変なことを聞いて、どうしちゃったの?」と少しあきれ顔で言われてしまった。

 肉じゃが? おばあちゃんに肉じゃがを作って貰った記憶なんて無いのに、お母さんの方こそ何を言っているんだろう。

 私はおばあちゃんと目を合わせると、おばあちゃんも、「肉じゃがなんて作ったことないのに、何を言っているんだろうね」と言っていた。

 その時、私は気づいてしまったのだ。アマビエ先生に渡した記憶は、おばあちゃんが私の一番の好きな食べ物である肉じゃがを作ってくれた記憶だということを。そして、おばあちゃんもまた、私が元気になるために、何らかの方法でアマビエ先生に一番大切な記憶を渡していたことを。そしてそれが、私との肉じゃがの思い出であることを。

 もう記憶はないので、それがどんなに二人にとって、優しく暖かく愛おしい思い出だったかは分からない。でも私達は失ってしまったのだ。永遠に。そう思うと、心にぽっかりと穴が空いたような、自分を構成していた一部を永遠に失ったような感覚がした。

 でも、それでもよいのだ。おばあちゃんも私も生きている。生きていれば、暖かい言葉を紡いで素敵な思い出を作り続けることができる。おばあちゃんが生きてくれているだけで、私は幸せだった。

「おばあちゃん」

 私はおばあちゃんに向かって、心の底からの笑顔で言う。

「これからも長生きしてね。大好きだよ」

 この言葉に宿る言霊が、どうかおばあちゃんを長生きさせてくれますように。おばあちゃんは、そう祈る私を春の木漏れ日の様な笑顔で見つめながら、頷いてくれた。

                               (了)