少し真面目な政治の話

 先日、仕事終わりに一緒に呑んだ友人が、研修の講師が昨年の香港での一連の出来事を「暴動」と表現したことに対して、抗議のメールを送ったと話していた。幸いにして、講師も立派な人で、明確に発言をした記憶はないにせよ、誠意のある謝罪をしてくれたと話していた。確かに、香港での一連の出来事を「暴動」と発言することは、いささか一面的な見方であり、発言ではあるが、正直わざわざ抗議のメールを送るほどではないと私は思っていたし、彼の行動が不思議であった。


彼は、講師という立場の人間が表現したことに対して、(政治的な意見をもたない)多くの人が、思考停止で香港での一連の出来事を「暴動」と捉えることに我慢ならなかったという。
はっきり言って、彼と私の考え方は二つの点で異なっていた。

一つ目は、表現が正しいかわからないが、自分以外の人々の政治的な意見や、政治に対する思考力を低く見積もっている事だ。正直なところ、自分としては、周囲の人の政治思想についてはそこまで関心はなく(もちろん、露骨な排外運動を行っている人や、無思慮に世代間抗争を煽る人を見ると嫌悪感を抱くのは確かだが)、さらには研修の講師が何と言おうと、多くの人の意見は変わらないだろうと考えていた。彼曰く、多くの人は政治に対して意見を持っておらず、研修の講師の発言を無批判に受け入れてしまうがゆえに、講師の発言は許しがたい行動であったという。他人の政治思想に対するスタンスがいささか異なるように感じた。


二つ目は、彼は本気で今の政治に対して疑問や批判意識を持ち、選挙によって変革をしようとしていたことであった。民主主義とは多数決ではなく、選挙制度を用いて選任された見識のある政治家が、少数派の意見にも最大限の敬意を払い為政することである。民主主義から、少数派のリスペクトを無くしたとき、それは多数者の圧制となり、大衆社会への姿を変える。

 これは、シルバー民主主義と揶揄される現象を考えればわかりやすい。人口比率で考えると、現在の選挙制度では明らかに高齢者に分がある。しかし、高齢者=多数者だけを代表した政治をしている場合、国家として考えるべきタイムスパンは高齢者が死ぬであろう10年~15年程度である。これ以上長いタイムスパンで考え、行動する政治家がいない場合は、少なくとも15年後には国家が瓦解しても仕方がない政策が執り行われる。


現状はどうかと言えば、日本は民主主義ではなく、多数決の世の中になりつつある。正直、そうなってしまったからには仕方がない。しかし、そんな日本を変えようと思った時、民主主義の復権を提唱するとともに、やはり多数決で政権を変えるしかない。そういったクールな現状認識に立った時、やはり自分の近くにいる人から徐々に政治的な話を行い、意見を共有していくようなボトムアップ的な行動が必要になる。彼は、本気でそう思っているのだった。

その点で、私は他者に関心がなさすぎたのかもしれない。いや、他者ではなく、他者が決めうる可能性のある自分の未来に対して、関心がなかったのかもしれない。


 新型コロナウイルスに関して、政府は尽力しているが、有効性を懐疑せざるを得ない政策やスピード感もある。これは簡単に言えば失政と言える。しかし、まずいえることは100%の政治を遂行する政体はなく(あるとすれば神による独裁国家)、必ず失政は起こりうること。そして、その失政に対して他人事として批判したり盲従するのではなく、少しでもその責任の一端が自分にあることを感じ、よりよい社会にするために、選挙であれ日頃の行動であれ自分に何ができるかを考えることであると思う。


遅々として進まないコロナ対策に飽き飽きとして、緊急事態宣言や、より強大な権力の国家の出現を望む人が増えるかもしれない。確かに、ウィンストン・チャーチルも言っていたが、民主主義は最低の政治システムである。しかし、彼はこの後にこう続けている「他のいかなる政治システムを除いては」と。

民主主義は最低な政治システムであることには変わりがないが、それ以外のシステムを選ぶことができないことは自明なのであるから、この仕組みを少しでもマシなものにするのは、個々の努力が必要であろう。

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