エマニュエル・レヴィナスの有責性と保険会社と2020年の所信表明と。

去年の12月から、飛行機の中やじっくり出来る時に読み進めている本がある。
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』だ。内田樹の真骨頂であるレヴィナス論の第二弾であり、読み進めて行けば行くほど、ウチダ本(この時点でウチダ本は50冊くらい読んでいる)に書いてあることの総決算のような文章が続く。実は、去年も同じ時期に『レヴィナスの愛と現象学』に挑戦し、挫折してしまったのだが、この本はなんとか読み切れそうな気がしている。
 まだ読み終わっていないのだが、年末年始休暇も今日で終わってしまうので
2つのテーマについて先取りして、感想を書き留めておきたい。

一つ目は、第4章-3のレヴィナスの有責性という概念。レヴィナスの思想には、自分がユダヤ人であり、ホロコーストの生き残りであるという事実が色濃く残っている。自分もユダヤ人でありながら、なぜだかわからないが生き残ってしまったことへの理由づけが、戦後のレヴィナスの喫緊の課題であり、それは、これほどまで惨たらしいホロコーストを生み出してしまった西洋文明とその基底に潮流する倫理や道徳における思想の刷新・改鋳というヨーロッパの知識人が引き受けたテーマともリンクしている。
 レヴィナスは、死者を弔うということにおいて、無意味に死んでいった人々の霊を慰めるというよりは、むしろ無意味に生き残ってしまった自分たちの生き残りという事実になんらかの意味付けをもたらす必要があった。自分が生き残っているということの根源的な無根拠性に耐え続ける為に、生き残った人々は、例外なく死者を弔うことを自己の最優先の責務として引き受ける必要があった。生き残った自分たちは、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐える為に、つまり特権のゆえではなく、より多くの義務を引き受ける為に選ばれたのであるという自己規定を自ら引き受ける必要があった。それゆえに、レヴィナスにとって、他者=寡婦、孤児、異邦人についても「私には無関係である」と断言することができない「有責性」という重荷を引き受けることが、「自分がなぜ生き残ったのか」という問いに応える唯一の手段であり、これなしでは自分が今生きていることに対しての理由づけができない。


 私は、レヴィナスの有責性とは、ノブレス・オブリージュについて語っているものであるようにも思えた。大学時代に構造主義人類学やブルデューの文化資本について学んだ中で、自分なりに得た結論は、「成功は偶然である」ということであった。これらの学問では、自由意志というものよりも、人間の中に潮流する構造のようなルールが、物事を動かしていることや、エリートは、エリートの家に生まれた事で無意識にエリートになるという、非エリートにとっては取り返しのつかない根源的な遅れを感じざるを得ないことなどを言っていると私は感じた。
私は、大学に受かった時に、自分のたゆまぬ努力や、言ってしまえばニーチェの超人思想のような、努力しない畜群に対する超克として、その結果を捉えた。


しかし、その考え方は明確な誤りであった。

自分が大学に合格したことは偶然であるということは、同学の逆立ちしても勝てないような教養をもった人々を目の前に、徐々に確信へと変わり、ブルデューやレヴィ・ストロースなどの先人たちが、その確信に論理的な理由づけをもたらした。同時に、偶然にも、所謂エリートと呼ばれるような大学に入学した自分は、それに値する社会への還元や貢献をしなければならないと考えた。むしろ、それが、自分が恵まれた環境にいることへの唯一の理由づけであり、有責性に対するアンサーであった。この考え方に合致しているのは、スパイダーマンのベンおじさん風に言えば「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というノブレス・オブリージュという概念であった。


 自分が、仮にも大学に合格してしまった以上、それによって得た便益は、社会に還元しなければならないし、自分が部活で偶然にも素晴らしい先輩方に恵まれたのであれば、それによって得られた便益は、後輩にもとってもそう思ってもらえるような部活をつくることで還元しなければならない。それは、私にとっての有責性であった。
では、今後生きていく上で、どうやってやればよいか。
これは後付けに近いが、就活をしている中で、保険の概念を知った時、保険という概念は、とても私の道徳的直観に合致した。
私のように偶然大学に受かったり、何かに成功にしたりする人がいるならば、偶然大学に落ちたり、失敗したりする人もいる。その偶然には、事故や突然の病気も含まれる。
自らの成功に対する無根拠性から自明に導き出される結論として、失敗に対する無根拠性がある。不可避の失敗や致命的な事故は無根拠に、ランダムに起こる。それに備えるのが保険だ。自分が仮にもエリートと呼ばれる道筋を歩んでいるのであれば、それによって得た便益の使い道として、世の中から、ランダムに失敗してしまう人々の「負け幅」を少しでも軽減する保険という手段を流通させるという使命を引き受けることに、違和感がなかった。


レヴィナス風に言えば、保険に関係するものとして、他者に対して「私は無関係である」ということは許されない。それが、保険会社の有責性であると思う。自分の会社は、鉄道事業をやる為に集めたお金が、偶然にも、浮いてしまったことで事業をスタートした。出自の無根拠性や偶然性は、有責性によって説明されねばならない。

随分と一つめのテーマでたくさん書いてしまったため、チキンレッグ(人に見える上半身しか筋トレしないゆえに、足が異常に細い筋トレマニアのこと)の様な文章になってしまうが、二つ目のテーマについて書いておく。

これは第2章-4 沓を落とす人 に関する感想だが、内田樹がこの話を引いた意図とはやや異なる感想を抱いた。この話は、ウチダ本にはよく出てくる話なのだが、張良が黄石公から「兵法の奥義」を体得した話である。本書では、石公が二度沓を落としたことと謎を絡ませ、欲望と師についての話として引かれているが、自分は師と奥義という簡単な話として引きたい。


先日、尊敬している先輩に「君は話し方で損をしている」と言われた。私は、この時一瞬にして、話し方の上手い人をそこに見つけた。これだけではわからないと思うので解説すると、その先輩は、私に「話し方が下手」とも「話し方を直した方が良い」とも「中身がしっかりしているね」とも言わずに、「君は話し方で損をしている」と言ったのである。私は一瞬にして、このように話す人が、話が上手い人なのかと悟った。先輩は、話し方を直した方が良いというメッセージを私に伝えたかったということは理解できる。そして、私の性格上、「話し方が下手」と言えば、プライドが傷つき、反発して「うるせえな」と思ってしまうことや、「中身がしっかりしているね」と言えば、その言葉通り捉えて図に乗ることを、先輩は理解をした上で、「話し方で損をしている」と言ったのだった。


話の上手い人は、コアなメッセージを人に伝え、その人が次の瞬間から行動を変容させるように仕向けられる人であると思う。


他のどのような言葉を使わずに、先輩が「話し方で損をしている」と言ってくれたことで、私は自分の話し方を改善させる必要があると心から思うことができ、良い方向に導かせてくれた。そして同時に、そのメタ・メッセージとして「話し方が上手い」人というロールモデルを私に教えてくれた。


明日から2020年の仕事が始まる。私は先輩が言ってくれたことを、しっかりと実現し、偶然そのような先輩がいてくれた部署に配属されたその幸運を、自らの有責性の表れと解釈し、それによって得られた便益を還元するという責任を果たすために、まずは身近な人に何か良いことをしたい。

(まずは韓国旅行のお土産の韓国ノリを配る。)

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