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キャリア概要2/5(2008〜2011年)

キャリア史『5部作』を書き連ねています。

キャリア概要1/5(〜2008年)
キャリア概要2/5(2008〜2011年)◀︎イマココ
キャリア概要3/5(2011〜2015年)
キャリア概要4/5(2015〜2017年)
キャリア概要5/5(2017年〜現在)

今回は二作目。三部作ではだいたい死ぬやつですが、五部作中の二番目なのでちょっと道筋が整理されてくるところですね。

いざ東京へ

10年なんとか乗り切ろう…そう思って荷物も身軽に東京へやってきました。会社が借りた3LDKに会社の上司(別の会社に出向中)と同居生活です。大変よくできた上司で私のことにほとんど干渉せず、また私がやらない掃除をやるという、当時私のことをどう思っていたのか…。

そして初出勤です。私より若年の経験者がワイワイと発言しながら進む定例会に驚きと刺激を受けました。あんなに活気のあるIT企業の組織は唯一無二の存在だったんだと今でも思いますが。ここで私も存在感を発揮しなきゃ…もし事業縮小になって真っ先に切られるとしたら、スキルも経験もない自分が最初だろうと考え「どんどん役割が集まれ〜」と、何の仕事でも手をつけていました。あの頃のモチベーションは働いている環境の楽しさが大いにあったと、働いている当時からも感じていました。

プリセールスエンジニアという仕事

担当していた製品も時代の最先端というべきもので、その一次代理店=ディストリビューターと呼ばれる会社に所属することになりました。米国の製品を日本に流通させるのが仕事で、製品の検証、販売技術支援、マーケティング活動、調達、導入支援、サポートなどなど幅広く対応します。職種としてはプリセールスエンジニアと呼ばれますが、技術をやりながら営業活動をやって、売れたらさらに技術をやる。そんな幅広い業務をこなす必要がありました。

技術的に不安な時、当時正社員で先輩であった河合さんから「最先端の技術扱ってるんだから、自分が世の中で一番詳しいと自信を持ってやれ。どうせ自分が知らないことは少なくとも日本じゃ誰も知らないこと。」と言われました。その言葉があったからこそ仕事を前向きに捉え取り組めたのだと思います。人前でプレゼンテーションやデモンストレーションをするのも日に日に上手くなっていきました。さらにいえば、作詞や本を書いたりもした経験があり、英語はダメでも日本語での文章力はあったのだと思います。マーケティングチームからも「こむれは文章しっかりしてるから、チラシの叩き台は彼に書かせたら?」と声をかけてもらうこともありました。

いま思えば人前でパフォーマンスを行なったり、文章を作り込んだり、あるいはロジカルに技術を突き詰めたりと、浅くもあるもののこの仕事を楽しむための素養が私の中にあったのだと思います。半年ほど経つと当初ちんぷんかんぷんだったネットワークのことも、知識としてだけでなく感覚で理解できるようになっていました。

売上が上がる中でチームも増員し、関わる人も増えていきました。Interopという大きなイベントにも出展しましたし、海外出張はなかったものの米国メーカーと直接対話しながらビジネスを進めていくことは、地方から出てきた私にとってはエキサイティングなものがありました。

大きな商談が取れた時は皆で拍手をして喜んだものです。チームとしての一体感があったのだと思いますが、私の理想とする働き方の原点はここにあり、その後の仕事でも大きな影響を受けました。またIT職と言ってもプログラミングやシステム開発を行う部署とは違う、やや特殊な組織にいたということが、私のキャリア上の個性にもなっているのです。

一方自社での評価は…

出向先での一体感に比べ遠い地方(といっても博多)にある自社は、私にとって居場所の良いところではありませんでした。出向先では高く評価されていたらしく、年間の単価も不景気な中で上がっていたと言いますが、自社としてのビジネスを拡大できていたわけではないので、大した評価を受けることはありませんでした。

出向先での業務と自社からの期待に大きなギャップがある中で、自社への帰属意識は薄れていきます。評価も上がらず給料も上がらなければ不満も多くなります。特に東京の同世代の収入と比較し始めると、ギャップを埋めるには会社を変えるしかないと考えました。

東京での転職活動

東京での初めての転職活動です。転職サイト経由で色々と探しました。出向先に引き抜いてもらうことも相談しましたが、関係のある会社から来ている私を引き抜くのはネガティブでした。私は私でチームに陰りも見えてきて、私もそこまで熱心に正社員として登用されることを願っていませんでした。

そんなことをメーカーの日本法人のひとりと話してたら「レジュメ(職務経歴書)を僕にください」と転職先を紹介してくれることになりました。そのレジュメはメーカー日本法人の社長経由で、競合他社の役員にわたり、数回の面接の後オファーをいただきました。ご縁とはとても不思議なものです。

後ろ髪を引かれる思いは多大にありましたが、オファーの内容はとても魅力的で、転職後も仕事内容は変わらず、また責任を持って働けることに心躍り出すようでした。私は晴れて東京で初めての転職を決めました。

この時28歳。音楽のことはもう頭になく、また福岡に帰ることも次第に拒否感が出ていました。周回遅れのスタートでしたが、皆の背中が見えてきてさらに前に出てやる…という負けん気に似た可能性を感じていました。

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