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記憶について、人生について

生きている限り色々なことを忘れていく。忘れるからこそ人生で一番幸せなことも最悪なことも、何度か出会うってしまう。むしろ全て覚えれないおかげで、色んなモヤモヤになんとか折り合いをつけて生きていけるのかもしれない。

でもその記憶が日々失われていくのが、僕は怖いというか、悲しい。歳を取るほど記憶力は低下する。最後に残された記憶は、自分の人生のほんの一部に過ぎないだろう。歳を取るとともに、そういう事実に向かっていくほかない。


記憶は死に対する部分的な勝利である

上の言葉は、小説家カズオ・イシグロの言葉である。

大切な人を失った時に、唯一すがることの出来るものが記憶。物理的に失ったとしても、その人の記憶は失うことのないものだからである。そういう意味で、記憶は死に対して"部分的"に勝った。

生物学者である福岡伸一は、勝利が"部分的"であることを生物学的に語った。

人間は何かを思い出すたびに、その記憶は一旦不安定な状態になり、再度固定化される。つまり、思い出すたびに揺らぎ、変容しているのである。記憶が美化され、目撃証言が変遷するのも当然といえば当然なのだ。

どれだけ大事な記憶であっても、永遠に変わらないものではない。失われたものの記憶は変化するし、薄れもする。そういう意味で勝利は"部分的"でしかない。


部分的だった勝利の範囲を広げるために

人は記憶の容れ物である。生まれてから現在、そして死ぬまで何かを経験し、記憶してゆく。記憶が人格を作るし、振り返る時の人生は記憶である。そういう意味で「忘れる」ということは、人生を少しずつ失っていくことであるとも言える。

これに対抗するために自分が何を考え、何を経験したのか、人生の大事な記憶をできるだけ沢山残したい。トップyoutuberのはじめしゃちょーがyoutubeを「みんなとの思い出の共有」と言っていたのは、この問題の本質的な解答であると思う。

記憶を個人だけのものではなく誰かと共有できるものだと考えると、たとえ自分が忘れてしまっても、他の誰かが自分が自分であったことを担保してくれるのかもしれない。

誰かと共有しなくてもいい。
日記や写真に自分の記憶を残すということは、自分の人生を大切に保管することだと思う。積み上げてきた記録は、まさに自分が自分であることの証明になる。
僕は自分がこの世に存在している(していた)という、確かなものが欲しくてペンを走らせ、カメラを起動するのだと思う。

このようにして、自分1人だと抜け落ちていく記憶を人や道具に頼って補完していくことで、"部分的"だった勝利の範囲を広げていくことができる。

人生の良さを決めるもの

人生よかったかどうかを決めるのは、今までの記憶である。

そして1番強い記憶は、最後の記憶。

どれだけ悪い人生でも、最後がよければよかったなと思うし、
どれだけいい人生でも、最後が悪ければ悲しいなと思う。

人生はそういう「終わりよければ全てよし」的なアバウトなものなのだ。

いい記憶をどれほどたくさん積み重ねようと、結局最後は死ぬ時そばにいてくれる人なのかもしれない。


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