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【昭和的家族】夏休みの想い出

私が小学生の頃、今の時代より夏休みだからと家族旅行に行く人はそこまで多くなかったと思う。9月の夏休み明けに、「8月のお盆時期におじいちゃんやおばあちゃんのいる田舎に行った!」という話を同じクラスの友達から聞く事はあっても、私自身はそんなに羨ましいとは思わなかった。何故ならば私はどちらかというと小さい頃からインドア派だったからだ。プールに通い続けたりして真っ黒になっている同級生に比べて、どんなに頑張っても”気持ち焼けたかな?”程度の生焼け肌が少し恥ずかしいなと思う位の気持ちでいた。

一方で、私の母は自分が幼い頃に母の父、つまりは私の祖父に色々な所に連れて行ってもらっていたからか、どうしても私達子供達にも”夏休みの想い出”になるような家族旅行や外出を少しはさせたいと必死だったようだ。多分この頃は家計も楽ではなく、外出するのはかなりな出費だったのではと思うのだけど、何度か鎌倉方面や熱海に、公務員の家族が安く泊まれる宿舎を利用した家族旅行に連れて行ってくれたし、東京にも日帰りで連れて行ってくれた事がある。そんな中で私が特に母を見ていて不思議だなと思った事が二つあった。

一つ目は、その少ない家族旅行での海水浴の機会に、母が決して水着も持たず、着替えず、いつも皆が海水浴をする近くで荷物を持って、直立不動に立って待ってくれていた事だ。母は時に大き目の日よけ用の帽子を被ったり、重い荷物を持ちながらもう一方の手で日傘をさし続けたりしていた。
「なんでお母さんは海に入らないの?」と私が聞くと母は、
「誰かが荷物を見張る役をする必要があるのよ」と言っていた。
”つまらなくないのかな”と私は心で思いつつ、そもそもうちの家族自体が海で遊ぶのにそんなに慣れていなくて、いつも1時間程度の短めの時間に波打ち際で少しだけ水につかって海から上がってしまうので、悪いなあと思いつつ、母親とはそんな役割をするものなのかと漠然と思い、荷物の見張り役を代わってあげなかったように思う。

二つ目は、母が東京に日帰りで連れていってくれた時の事だ。その時は確か3歳上の兄が学園祭かなにかでフォークソングを歌う機会があり、その際の著作権料の支払いのため東京の日比谷にあるJASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)の事務所に行くという主目的があり、そのついでに母が私達3人兄弟を連れて銀座の街を案内してくれて、有楽町でその夏公開されていた『宇宙戦艦ヤマト』という映画を観て、どこかでお昼を食べて帰ってきたという流れだったかと思う。その日は学校は夏休みだったが平日で、父は仕事があったので参加しなかった。

この旅で、私は普段埼玉の地元の町にしかいない母が、意外にも役所の場所等を含めた日比谷・銀座・有楽町近辺の土地に詳しく、電車の乗り換えを含めた道案内をしてくれた事をとても不思議に感じた。(後々、母が昔、祖父に銀座に連れて行ってもらったことや、県庁で仕事をしていた時に埼玉県内や東京都内に良く日帰り出張に行っていた為、出歩くのに慣れていた事を知った)

そしてその日のお昼も、母の案内で何かしらの洋食(多分ハンバーグ定食だったと思う)をご馳走になったと思うのだけど、残念ながら私は全く覚えていない。その日のお昼のメニューよりも私にとって記憶に残ったのは、外の暑さに比べて涼しく暗く気持ち良い映画館(家族で一緒に観たのは最初で最後)の空気と、私からひとつ離れた右隣の席に座っていた母が途中から物凄く大きな気持ちよさそうなイビキをかいてグーグー寝ていた事だ。私は恥ずかったけど、それよりも何よりも”お母さん、よほど疲れているみたいだな”と思った記憶がある。

そんな少し不思議な思いをしたこともあったけれど、母が頑張って作ってくれた夏休みの想い出は、もしかしたら母の意図とは違う形かも知れないけれど、今も私の心にしっかりと刻まれている。






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