お読書のコーナー④ ─『魍魎の匣』

前回からだいぶ間が空いてしまいました。まあ、そんなことは気にもせずに本を紹介していきましょう。


 さて、今回紹介するのは京極夏彦『魍魎の匣』です。
 読み方は『もうりょうのはこ』。

 日本の本格ミステリ界きっての大物、京極夏彦大先生にいよいよ挑戦。
 と言いつつ、前作でありデビュー作『姑獲鳥の夏』も読んだのだが、感想を書くのをすっかり失念してしまった。

 著者の作品における最大の特長は「妖怪などを代表とする怪奇な事象・伝聞やオカルティズムをふんだんに散りばめている」という点だろうか。全ページの3分の1がそれらに費やされている印象を受けるほど、それらについての記述が多い。著者の知識量もさることながら、ある一定の考えに到達するまでのプロセスも非常に膨大であろうことが予見される。
 ただし、それがメインを張っている、いわゆる”オカルト小説”ではない。それらがフレーバーになり(あるいはそれらが物語に密接な関係を持ち)ながらも、展開される事件は、探偵役によってロジカルに解き明かされる。
 つまり、れっきとした推理小説である。今回紹介する『魍魎の匣』も、読者に与えられるいくつかの情報を組み合わせ、考えると答えを導き出せる事象が散見された。

 では、紹介に移っていきましょう。


あらすじ・紹介

警視庁配属の刑事・木場は。ある奇っ怪な事件(著者の前作『姑獲鳥の夏』参照)の後始末に追われ疲弊していた。電車での帰り道、ある少女が駅の発着ホームへと転落する事件に遭遇してしまう。
 一方、同じ事件に関わった文士・関口はある雑誌記者に「御筥(はこ)様」なる箱を祀る奇妙な霊能者の摘発に協力してほしいと言われ、憑物落とし・陰陽師であり古本屋”京極堂”店主の中禅寺の元を訪れる。
 それに並行して発生したバラバラ殺人事件とこれらは結びつき、やがて思いもがけぬ事態へと展開していくことになるのだが──。

 まず前提として前作を読んでいないと面白さ半減だと思われる。登場人物の紹介も前作に比べると非常にさっぱりしており、ほとんど何の説明もなしに登場する人物も数名登場する。
 また導入部からして前回の事件の続きであると描かれている場面が多い。序盤だけでなく、ちょくちょくそのことについて(事件の内容自体には触れないが)描写されることがあるので、前作『姑獲鳥の夏』を読んでからこちらを読むことを強く推奨する

 主題となっている、妖怪のひとつである「魍魎」をキーワードに物語は展開する。とりわけ関わってくるのが「箱」を信仰対象とする霊能者の話だ。
 それを含む複数の事件が同時進行的に発生し、それらがある一つの終着点に帰結し解決を見せるのだが、そこへと繋がるまでの進行方法が面白い。作中作を挟んだり、文章の途中と途中をリレーするかのように場面転換がなされたりする。
 いちおう章で区切られるのだが、目次には区切りが記載されていない。それを裏付けるかのごとく、まるで流水のように物語は進行していく。


感想

 全部で1040ページもある超長編なのだが、そのような分量になってしまうことは仕方ない。なぜなら本作では複数の事件を取り扱うからである。一般的なミステリ小説ではせいぜい1,2つの事件を取り扱う程度だが、それよりも多くの事件が展開される本作は、その事件の個々があまりにもボリューミーかつ難解であるためだ。
 そこに探偵・京極堂の披露する長丁場の論説が加わるのだから、ますますページ数は肥大化していく。しかしながら、それらの論説は物語に関係のない、著者の知識をひけらかすものであるかと言われると、決してそのようなことはない。むしろ事件の骨格に肉付けをする、物語の進行上、非常に重要な要素なのである。

 「活動として奇跡を取り扱う人々である宗教者・霊能者・占い師・超能力者における”奇跡”の違い」(講談社文庫, p273~)についての論説が、そのことを表す一例となるだろう。一見して同列に捉えられることも少なくないであろう上記4つの人々だが、彼らはそれぞれ目的を持って”奇跡”を利用しているが、それについては異なる点が多く…、と言ったような内容だ。
 これには非常に驚かされた。どのようなポイントでそれらの線引をおこなうのか、また彼らが「ペテン」をどういったふうに使いこなしているのか、そして「オカルト」という言葉の本来の意味とは、といったところまで話は飛び火する。
 同じような論説でいうと、「魍魎」についてのレッスン(講談社文庫, p523~)も興味深く、かつ物語終盤に直結してくる内容だ。鬼や河童と比べ魍魎は姿かたちが曖昧で捉えにくい、というような論旨である。
 果たしてこのまとめ方も正解なのかどうか定かではない。それくらいに展開される論説は難解なのだ。だが決して、全く理解できないわけじゃない。作中人物がまとめてくれたり、この物語の主要人物で最も「平凡な人間」である文士・関口が読者の「分からない」という心情を代理で吐露してくれるため、その点については問題ないだろう。むしろ半分程度の理解でもいいから、一度読み終え、当該部分を読み直すのも良いかもしれない。

 最終盤、いよいよ京極堂が出張ってきて謎解きをする場面は驚きの連続だった。物語の核心に触れることは極力避けたいので、あえて言及はしない。
 その推理の展開としてはスピーディな進行だと思われるほどなのだが、そのなかで中心人物の心情についても上手く表現しており、この心理描写が見事なのだと改めて認識する。二転三転する物語に、次々と明かされる真実に驚きの連続である。
 長く長くこの物語を追いかけてきただけに、その驚愕と感動も比例して大きくなる。また、ストーリーライン上で明かされていなかった事実を用いたロジックではまったくなく、これが本格推理小説の醍醐味とも言える部分を堪能できる。

 「自分」という箱が存在していても、内部が空虚だというのは現実世界でもよくある話じゃないだろうか。その中に色々なものを詰め込んで「自分」は初めて成り立つ。
 もう一つの選択肢も存在する。それは「自分そのものを箱にする」というものだ。しかし、その行為をおこなった人間の顛末を僕らはこの本を通じて知ることができる。自分が「箱」そのものになるということは、内部は永遠に埋まらないことを表す。外的要因によって満たされる以外にはなく、つまり、終わりを迎えることとなる。「箱」と化すことは、まったく空虚であり救いようのないことなのだ。
 でも、意外と箱の中身を覗いてみると、「こんなもんか」と拍子抜けしてしまいそうで、それもまた、案外面白そうである。
 魍魎が巣食う隙間がないように、きちんと空虚を埋めておかねば。

 理論をこね回すような小難しい作品だと誤解されたくないので言っておくが、そのように色々考えて読む必要はまったくない。僕らが決して覗き込むことができない世界の中をすこし見物してやるか、みたいな感覚で、気軽に読める作品だ。
 まずは『姑獲鳥の夏』から読んでみてほしい。そして、そこで止めるのではなく、この『魍魎の匣』も手にとってほしい。
 それで満足できたら、立派に、京極夏彦ワールドに魅入られたと言えるだろう。


(終)


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