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ヘッセ詩集のすすめ
これまでのnoteで何度か言及してきたのですが、わたしはヘッセが好きです。ヘッセは小説もたくさん書いていますが、わたしは小説よりも詩を読み返すことのほうが多いです。好きなものは覚えていて、ふとした時に、断片だけが頭に浮かんだりします。
我が家のキッチンの窓辺にあるのは(読み返さないものは本棚へ、よく読み返すものはキッチンに積んでいます)新潮社から出ている高橋健二さん訳の『ヘッセ詩集』です。
どこがオススメなのか?
先日、背表紙を見てビックリしたのですが、『ヘッセ詩集』は一冊400円なのですよね。もちろん新品です。
喫茶店でコーヒー頼むのと変わらない値段。なんならコーヒーは飲んだらなくなるけど、詩はなくなることがない。折に触れて何度でも読み返せます。
わたしは大学生のときにこの本を買ったので、ということは、かれこれ七年くらい?でしょうか。一回四百円払うだけで永遠に飲み続けることができるコーヒーを買ったと思って、みなさん、ぜひヘッセ詩集を買いましょう。
どんなひとにオススメなのか?
大学の頃に買ったとはいえ、当時は、詩の良さはいまいちよく分かりませんでした。小説は好きだけど、詩はなんだか入り込めないな、という印象です。
ヘッセを読み解くワードのひとつに「ふるさと」があります。わたしもちょうど、ヘッセの詩が染み始めたのは、結婚をして、嫁入りをしたくらいからでした。「地元」でしかなかった生まれ故郷が、はじめて「ふるさと」になったのです。
あるいは、お仕事だってそうでしょう。地方から出てきて、都内でお勤めをしている。夢を叶えるため、上京している。帰りたいけど、自分が生きていく場所は、もはや「ふるさと」にはない。
そんな事実を目の当たりにしたとき、「ああ、ふるさとが懐かしいな」と思うようになります。
ふるさとに帰りたいけど帰れない人、あるいは、ふるさとなるものが欲しかったと切に願う人、こういう方々は特に、ヘッセの詩は刺さるのではないでしょうか。
人よりも自然が好き
ヘッセはこの詩集において、たびたび自然を友だと断言します。「あ、わたしもだ」と思われたそこの方、買いましょう。そして読みましょう。
ひとりきりだな、と思う孤独な夜に、ヘッセの言葉たちが寄り添ってくれることでしょう。
ヘッセ詩集のよさ
ヘッセの詩の良さは、なんといっても温かいところ。冷たい言葉がひとつもないところ。それでいて、素朴なところ。
前半は、恋の詩が多くて、恋をしたことのない自分には少々響きづらいんですけど、後半は、人生や死生観についての詩が多い印象です。
個人的なおすすめポイント
ヘッセは気難しい性格のようです。ホテルで隣室の客がうるさいだけでブチギレて詩をしたためます。あなたに会いたいと言ってる人がいる、と言われると「はあん? そいつの足折ったろうか!」と暴言を吐きます。
そういった飾らない等身大の言葉が、わたしはとても好きです。
こういうふうに書くと、ヘッセがいかにも暴力的な男に見えてしまうかもしれませんが、決してそうではありません。
個人的に好きな詩の一部をピックアップして、ご紹介したいと思います。
夜ふけて、茂みと木立ちの間に
あかあかと窓の輝く一軒の家、
そこに、見えない部屋の中に、
笛ふく人が立って吹いていた。
古いなじみの歌であった。
しみじみとやみの中に流れた。
どの国もがふるさとであるかのように、
どの道もが完結されでもしたかのように。
こうして写しているだけで、思わず感極まってしまうのですが……。
夜、通りすがりの家から笛の音が漏れているのを、ヘッセは聞いています。
その「古いなじみの歌」を奏でる人の呼吸に、「この世の秘められた意味」が表れているのを、ヘッセは感じました。
この世の秘められた意味が
彼の呼吸の中にあらわれていた。
そして心はいそいそと浸りきっていた。
「いそいそ」と?
ちょっと意味が分かりにくいな、と思ったのですが、調べてみると、「うれしくて動作が弾むさま」という意味らしいですね。
知らなかった。急いでいる人間が使う言葉だと思っていた。
笛奏者はきっとノリノリだったのでしょうね。
話が逸れましたが、この詩はなにより最後の一行が素晴らしいのです。
そしてすべての時が現在となった。
感動。
この一行が詩集全体に値する。
そう思うくらい好きな一節です。
笛を吹いていた人はきっと詩神ですね。
われらには存在は与えられていない。
われらは流れに過ぎない。
われらは喜んであらゆる形に流れ込む。
昼に、夜に、洞穴に、寺院に。
自分という確かなものが、どこにもないと虚しくなったことはありませんか?
一年前の自分と、今の自分が果たして同じ人物といえるでしょうか。ならば、十年後の自分は?
考えれば考えるほど、自分というものの確かな存在など、どこにもないこと、その存在が幻であることに気づきます。
それはとても悲しいことです。
自分だけではない、友人も、我が子も、家族もそうなのですから。
少々感傷的かもしれませんが、わたしはとても寂しいことだと思えてならないのです。
ですけど、ヘッセはこう言います。
間もなく君のことも、ぼくのことも、
知る人も語る人もなくなるだろう。
ここには他の人々が住み、
私たちはだれにも惜しまれないだろう。
(中略)
神さまのしろしめす広い庭で
私たちは喜んで咲き、しぼもう。
神の庭である「この世界」で、喜んで生き、喜んで死にゆこう。
わたしたちに確かな存在などない。わたしたちは流れに過ぎない。
花は花を生き。人は人を生き。
わたしはわたしを生きる。
そう思わせてくれますね。
おわりに
『ヘッセ詩集』は他にもたくさんの素晴らしい詩が収められています。
わたしは「ある幼な子の死に寄せて」とかも大好きです。
詩はほんとうにいいものです。
好きな詩集とは、自分なりの人生の教科書です。
善と悪の狭間でふらついている自分を、正しい道へ戻してくれる教師です。
これから『ヘッセ詩集』を手にとるあなたへ、
あなたにも静謐な感動が訪れますように。
自分には合わないな〜と思う人には、あなたにとっての大切な一冊が見つかりますように。
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