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雑考めも・「国語教育」再考のための一試論

 メモ程度ではありますが、心に顕れるまま書き出してみました。いずれ文章としてまとめようと思っていますが、ひとまず現段階での少考を残しておきます。「国語」/「言語」と「教育」という二重のアポリアにどのようにして応答してゆくべきか、ということに関する一可能性です。またぼちぼち始動します。


◎「国語」「教育」を「解放する」とは、究極的に言えば、言葉の持つ「無限性」(言葉の意味それ自体は有限であるが、個人・集団が紡ぎ出すあらゆるコンテクストを含むと無限性が付加されるようになる、という意味で。後述)と同時に、「有限性」にも自ら自覚的になるという営みなのではないか。論理(ロゴス)の限界性や、翻訳不可能性等も然り。論理の獲得は我々を思考の強化へと導くが、一方で論理への過剰な傾倒は我々を横暴にもする。
➡︎ここにおいて、無限と有限は矛盾するものではなく、共存し得るものだと考える。仮にこの性質を「共複性」と呼びたい。(なお、さらに敷衍して、従来「矛盾」と称されていたものは、この「共複(性)」あるいは「共在(性)」へと置換することが可能であると思われる。なぜならば「矛盾」は、我々がある言葉を恣意的に意味付けたものを絶対視し、それらの性質が相反していることを是としないことを暗に示唆しているためである。今後は物理学等における多重世界論的な見方に依拠し、これらを参照しつつ、複数の言語的世界(観)を認識することも考慮に入れる必要があるのではないか)


→「全ての概念は、人間が言語を用いて生み出されたものである」という考えに基づき、「言葉(群)」及び、それらの「言葉(群)」によって構成されてきた自身の意識的・無意識的な考え方(バイアス)を脱構築する。この時、「世界の俯瞰」と「世界への投企」の螺旋的往還をなす


→新たな「言語」/「意味」/「テクスト」に関する、ある種の原点回帰と再構築(reconstructionを超える、re-co-construction)へと向かうべく、学習者と教師とが一体化し、全ての感覚、感性を総動員させengagementし、生成する。全ての人が「パロールする」=「パローラー」/「エクリチュールする」=「エクリチューラー」となる権利を発揮する 


→その先に生成されてゆくであろう、新たな「国語教育」(あるいは「言語教育」)は何と形容されるに相応しいか、今後要検討の意義あり 


☆学習者の言語生活を保障しなければならない理由は、上記の一連の流れからも論証することが可能。すなわち、言語の無限性は、個人や集団が紡ぐあらゆるコンテクスト、換言すればあらゆる「言語生活」に置かれて初めて付加され、また発見されるものであるため。現実・状況は、常に無限に発見・創出・構成されるものだという立場から(それぞれの分野における「無限」の位置付けについて、改めて再考する時がきているのでは)
→言語的無意識の陥穽に囚われているうちは不可能。


結論:乱暴な言い方をお許し頂ければ、「国語教育」の超克は、近代の超克にも繋がる鍵となり得る。「国語」「近代教育」双方ともに、近代の産物だからである。

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