「繋がる」ことと知的探究の姿勢

 教育界においてICTが爆発的に普及し、今やICTやインターネットの利活用を前提とした教育方法・学習方法の開発が喫緊の課題とされています。この趨勢は、もはや抗うことのできないものであり、時空間を越境することのできるこうしたツールは、今後の学びにおいて必要不可欠であることは言を俟ちません。


 一方で、インターネット等は「いつでも情報に繋がることができる」媒体であるため、どうしても「あらゆることを知っている」という錯覚が発生してしまうことがしばしばあり得ます。気を抜けば私もそうした感情に陥ることがあります。ですがこの状態は私たちを傲慢にもしてしまいかねないため、かなり危険で、少し強い言い方をしてしまうと「情報の足枷に囚われている」状態です。


 学問的探究においては「この部分の深淵にどうしてもたどり着くことができない」「自分はこれについて知ったつもりになっていたが、本当のところは全く理解していなかったのだ」と圧倒され、自身の「無知の知」を深く思い知る経験が不可欠だと、私は考えています。そこから二転三転して考えて初めて、そうした知識体系は自身の血肉となってゆくからです。アン・ラーニングが近いでしょうか。これは常時、何らかの情報と感覚的に繋がっている状態だと、なかなか体験することができません。
 私の経験を振り返ってみても、例えば明治期の知識人たちの凄まじい知識量や読書量に打ちひしがれ、自らの極小な読書量や矮小な文学的解釈を省みて絶望するという経験が幾度もありますが、こうした経験は、今にして思えば、私の日々の研究においてかけがえのない宝であったと言うことができます(と、偉そうに語れる身では決してないのですが、敢えてこのように断言する勇気を持ってみます。)


 この両者の均衡をどのように保ってゆくか、特に後者の「学び知る探険/acadmeia-journey」をどのように保障するかが、今後の教育に問われるべきことであり、この問いに応えられるか否かによってアカデミアの存続も左右されるのではという仮説を立てています。
 そのためにも、やはり「省察」が肝要であると思われます。薄っぺらい意味ではなく、深いところにまで降りてゆく「省察」です。さらに「対話できる他者の存在」も不可欠です。他者がいてこそ、個が流動的に形成されてゆくものですから。


 質の深い「省察と対話」の機会を、どのように保障するのか。まだまだ考える余地が残されていそうですので、引き続き熟考してみたいと思います。

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