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【世界の百均企業・ダイソー】矢野博丈 創業者(ファウンダー)「将来を怖がる力」 が生んだ〝百均〟サクセスストーリー

文春新書の新刊『逆境経営』(税込・1,155円)は、グローバリズムの波に翻弄される日本社会にあって、実直に、そしてしたたかに歴史を重ねてきた日本企業14社のありようを追いかけた好著です。著者の樽谷哲也さんはコマツ、ミズノ、グンゼ、崎陽軒、サイゼリヤなど、独自の発展を遂げた日本企業の名物経営者やそこで働く人の声に丁寧に耳を傾け、そこからさまざまなビジネスヒントや企業哲学を引き出していきます。

今回は、14社の中から、世界に冠たる百均企業「ダイソー」のパートを特別に公開。夫婦2人、2トントラックでの雑貨の移動販売からはじまった「ダイソー」が、国内4300店舗、世界26カ国にまで大きく成長したのは、創業者・矢野さんの強烈な個性と挑戦心があったからでした。

潰れる怖さから必死に逃げてきた


 広島県東広島市内の工業団地の一角に小ぢんまりとあった大創産業の本社を初めて訪ねたのは25年前、1995(平成7)年の夏のことである。100円ショップなるものが大衆のブームとなり始めたころのことで、本社も、商品がうずたかく積まれている倉庫兼物流センターも、急ごしらえの掘っ立て小屋同然のプレハブ造りであった。安手のパーテーションで仕切られたあちこちの狭いスペースで、従業員と取引先の商談がわいわいとにぎやかに進められており、伸び盛りの急成長企業とはかくあるやと妙に感心した。
 歩けばミシミシと音がする本社の廊下を、社長の矢野博丈は、サンダル履きで駆けていた。間仕切り越しの商談ににゅいと顔を突き出し、「安うしてな」、「しっかり商談せいよ」と取引先にも従業員にも声をかけながら、私の待つ間仕切りスペースにどっかと腰を下ろした。
「仕入れっちゅうのは格闘技だと、従業員に教えとるんです」
 そのとき矢野が差し出した名刺には、《1‌0‌0円均一のトップカンパニー DAISO》というコピーとロゴとともに、《◆売上高1‌1‌5億円》と印刷されていた。実際の大創産業は年商300億円突破が目前となっていた。会社の急激な成長に、名刺の印刷が追いついていなかった。むろん、駆け出しの雑誌編集記者であった私が四半世紀も前に本社へ赴いたことを矢野が覚えていようはずもない。
 このたび、話を聞く場所として冬の午後に指定されたのは、東京湾に面して建つタワーマンションであった。天井は6メートルはあろうかという高さであり、海側は壁一面が強化ガラスとなっていて、羽田空港を離発着する飛行機、レインボーブリッジ、築地からの移転でなにかと話題になっている豊洲の東京都中央卸売市場が一望できる。矢野は窓からのまぶしい景色を眺め、「海はええのう」とつぶやいている。地べたをいずり回るような苦労の果てに巨万の富を手にした成功者の、これはこれでひとつのリタイア後の暮らし向きというものなのであろう。
 古い思い出と記憶を辿りつつ、あのころは本社も倉庫も質素でしたね、と語りかけた。矢野は、丸顔の眉根を寄せながら「あの時代があるから、強うなって、いまがあるんです」と語気を強めた。持参した少し黄ばんでいる25年前の名刺を、矢野に見せてみた。
 驚いた。「うわー」と懐かしそうに眺めた矢野が「あのころを知っておられるんですか……よう働きましたわ……ありがたい」と絶句し、金縁の眼鏡をずり上げながら、涙をぬぐい始めたからである。「つぶれる怖さから必死に逃げてきた」と。
「あのころはとくに、わし、『うちは潰れる』、『うちは潰れる』いうておったでしょう。この商売をやめとうてやめとうて仕方なかった」
 四半世紀の星霜、また、人と世の移り変わりというものを考えさせずにおかなかった。

名刺の肩書は「怪鳥」


 100円ショップ「ダイソー」の名を知らぬ人は日本にいるまい。国内で約3500、海外でも26の国と地域に合計で約2300もの店舗を展開し、いまや「DAISO」のロゴは世界中に広がりつつある。
 2019年度の年商を5015億円と公表している大創産業だが、後発の同業であるセリアやキャンドゥと異なって株式非公開会社であり、経営にまつわる詳細なデータを徹底して明かさない。あとは資本金が27億円と公表しているくらいである。株主の構成も非公表だが、おそらく資産管理会社や各種財団なども通して、その多くは矢野博丈の影響下にあると考えるのが常識であろう。
 往時、プレハブ造の本社を駆け回ることに忙しかった矢野も、喜寿を迎えていた。先年、無理と不摂生が祟って2度も脳梗塞に倒れながら、幸い大事に至らずに済んだということも、矢野博丈の人生観を変えずにおかなかったろう。
 仮に100億円あろうと1000億円あろうと、人はそれを冥途の道連れにすることなどできぬ。老境に差しかかり、無病息災ならぬ病息災を実感しているであろう矢野博丈に、この際、自慢でも放言でも聞いてみようではないかという気でいた。と、会話を重ねた途端に四半世紀前を否が応でも思い返す仕儀に至った。
「これは、わしの親父からの、おでんじゃなくて遺伝……」
 相変わらず、しょうもない駄洒落が繰り出されてきたからである。
 かつて、東広島のプレハブ造の本社で向き合ったとき、山積みの段ボール箱を指さして、矢野は「こうやって在庫がたくさんあるとうれしいんです」と目尻を下げて相好を崩した。倉庫が商品であふれかえることを、経営者はたいてい嫌がるものである。資金繰りがそこでだぶついていることを意味し、収支悪化を招く大きな要因ともなるからである。矢野の持論は、会社経営の常識と異なるように思えた。確実に売れる商品だけを大量に仕入れているという自負からであったろうか。在庫の山がに現金ゲンナマでも見えていたか。
 在庫を大量に抱えることでダイソーにどんなメリットがあるのですか、と訊ねるや、矢野は真顔で「シャンプーでっか? リンスでっか?」と問い返してきた。商品名のことか、と気づきながら無視して、問いを繰り返した。ダイソーにどんなメリッ……と、こんどは言い終わらぬうちに「シャンプーでっか? リンスでっか?」と、なお食い下がって譲ろうとしない。ありきたりの答えでは面白みなぞないし、上り調子で勢いづく経営者にやすやすと一本を許してなるものかと意地になった若造は、とっさに「リンスインシャンプーでどうでしょう」とひねり出した。矢野は、ゴリラのような顔をくしゃくしゃにして「ぐはは」と笑い、「で、なんの話でしたっけ?」とけた様子を装って真顔に戻るのである。万事がこの調子で、駄洒落につきあっているうちに問いは少しずつはぐらかされ、話題の核心は微妙にずらされていくことになる。
「わしは、人を喜ばせるのが好きなんですよ。笑わせるのが好きで、驚かせるのが好きじゃけえ。笑うてもらうことが商売より好きなんです。無上にうれしい」
 四半世紀前にプレハブの本社でも聞いたのと同様のことを矢野は何度も口にした。
 大創産業の社長の職は、2018年3月、次男の靖二に譲り、自らは代表権のない会長に就いた。翌2019年の7月にその職を降りるまで、名刺にもジョークを持ち込んで「怪鳥」という肩書を刷っていた。受け取った相手は目を白黒させ、矢野の顔と名刺を交互に見比べる。すぐに評判は広まり、行く先々で矢野の前には名刺を欲しがる人が列をなした。
 自らを笑われ者にすることで人を笑わせ、道化を演じているようで、相手を戸惑わせながら己の懐にめとる人心収攬しゅうらんすべにけた、ただならぬ男、それが矢野博丈である。
 ──お手洗いを借りてもいいですか。
「借りてもいいけど、使わんようにしてね」

姓名判断で改名


「頭が悪い、能力がない、運がない──」
 矢野は、自らを称し、耳にたこができるほど、そう繰り返した。
「儲けたいと考えなかった。めしが食えりゃええ。生き延びたい、みんなにいい思いをさせたいと、その一心で商売をやめんかっただけです。でも、頭じゃ経営はできんけんね」
 1943(昭和18)年4月、中国・北京に生まれる。元の名を栗原五郎といった。五男三女の末っ子である。敗戦を機に一家は郷里の広島県賀茂郡(現・東広島市)に引き揚げた。医者の多い家系に育った五郎は成績がよく、山里を離れ、広島市内にある旧制広島県立第一中の伝統を継ぐ国泰寺中学に入る。田舎言葉を級友たちに笑われ、陰湿な嫌がらせを受けた五郎は、町のボクシング道場へ通い、不良たちに取り囲まれてもパンチ一つで次々と打ちのめす腕力を身につけた。高校に進んでもボクシングをつづけ、3年生のときには東京オリンピックの強化選手に選ばれている。だが、東京のジムでプロのレベルの違いを見せつけられ、ボクシングで身を立てることを諦める。
「あのままボクシングをしおったら、わしはいまのように毎日3度のめしを食うことはできんかった」
 そして、「殴ったほうは忘れるけど、殴られたほうは覚えとるけえ。怖いよね」とも話した。リング上での拳闘を意味してはいない。
 大学進学へと方向転換を図ったが、学業を怠っていたために成績は低空をさまよっていた。1年間の浪人の末、いくつかの大学の学部学科を合わせて17受けて、唯一受かったのが中央大学理工学部の土木工学科(現・都市環境学科)の二部、つまり夜間であった。
 入学後は、生活費と学費を稼ぐため、とにかく朝から晩までアルバイトに明け暮れた。さらに、わずかずつでも貯金をすることに努めた。「将来を怖がることがわしの原動力だった」という経営者の素地は、学生時代にすでにあった。
 在学中、学生結婚したのを機に、相手の苗字を名乗って矢野と改姓する。
 タワーマンションで話を聞いていたとき、矢野はテーブルの上のメモ用紙にボールペンを走らせてみせた。
《栗 10》、《原 10》──。
「字画なんよ。どちらも10、合わせても20。結局、0になる。医者とか弁護士、俳優とかの一代限りの仕事にはいいんじゃが、後継ぎが必要な商売には向かん字画なんよね。豊臣秀吉の豊臣は20画、石田三成の石田は10画よね。後を継げないようになっとるんよ」
 のちに会社を興して社長を名乗っても、生来の親しみやすさもあって誰からも「五郎ちゃん」と気安く呼ばれるのが嫌で、姓名判断により、名も、幸運と教わった博丈と改める。
「わし、いまの名前、ええけんね。あなたも名前変えてみなさい。ええことあるんよ」
 大学卒業後、広島へ戻って魚の養殖業に携わるが、3年あまりで行き詰まり、上京する。東京に来てからも、百科事典のセールスマン、ちり紙交換など、さまざまな事業で大きな失敗と小さな成功を繰り返していた。そのころ、帰宅する夜、バスの停留所を1つ分、2つ分と歩いて運賃を節約して小銭を残し、大衆紙の東京スポーツを買うのが矢野の1日のささやかな楽しみであった。
 また広島に帰り、やがて行きついたのが雑貨の移動車販売である。夫婦で2トントラックに雑貨品を積み込んで、空き地や公民館など、全国を移動する。瓶ビールのケースを置いた上にベニヤ板を敷いて、商品を並べて売るのである。
「中古のトラックを10万円で買うた。売り場の家賃は要らんけえ、とにかく大量に仕入れて、安く売った」
 1972年3月、28歳のとき、矢野商店を創業する。移動販売はサーキット商売と呼ばれて半ばブームとなり、商売敵も増えていった。担ぎ屋に香具師やし、詐欺師まがいも入り乱れていた。
「同じ条件なら、日本一売る業者になろうと思った。よそが100種類出すなら、わしらは300種類並べようとがんばった。時間も手間もお金もかかるけど、お客さんが喜んでくれるのがいちばんうれしかったけえね。常識外れのことをやってきた」

畳の上では死ねない


 このころ、矢野は、毎晩のように、妻に「死ぬまでに年商1億になったらええのう。絶対ならんけえのう」と独りちるように語りかけては、ため息をついていた。
 しだいに商品を並べるそばから客が集まりだし、口々に「これいくら?」と訊いてくるようになる。いちいち答えるのが面倒になって、矢野は「もう、全部100円でええよ!」と半ばやけになった。これが“百均ひゃっきん”こと百円均一ショップの興りである。
「銀行も経営コンサルタントもみんな『矢野さん、この商売は長つづきしない。やめときなさい』といいました。『インフレの時代に、定価100円だなんて、たとえ全部が儲けになったとしても100円でしかない。そこから人件費、仕入れ代、場所代を払っていたらたない』いうて。わしもそうじゃと思いました。頭が悪い、能力がない、運がないというのはありがたいですね。めしが食えるだけで感謝していました。先のことはわからんかった。ただ、やれることをやってきたけんね。ダイソーは、みんなが否定することをやってきた。日本の常識から外れた経営ができたよね」
 売れ筋に絞って商品を仕入れ、店頭の品種数も倉庫の在庫量も減らして効率よく販売するという小売業の常道にも、あえて背を向けた。
 1977年、大きな会社を創りたい、せめて社名だけでも立派なものにと、大創産業と改めて株式会社化する。従業員を雇い、トラックも増やした。
「みんな、朝五時半ごろに出ていって、事務所に帰ってくるのは夜の10時半、11時じゃろう。典型的な、3密じゃなくて3K(きつい、汚い、危険)労働じゃけえ。でも、誰も文句をいわんかった。いまの時代だったら絶対に成り立たん。時代がよかったんやろな。金はなかった。みんなに給料を払って、わしだけ給料もらえんかった。つらかったねえ」
 遠方や駐車に不便な場所、地主のうるさいところなどへは、矢野が自らハンドルを握って出かけた。従業員に嫌な思いをさせたくない一心からであり、そのころの苦労について話題が及ぶたび、「両親が丈夫な身体をつくってくれたおかげ」と繰り返した。
 自宅兼事務所が未明に起こった火事によって全焼するという不運にも見舞われた。大きな借金を抱え、ここまで運に見放されたかと、さすがに寝込むほどのショックを受けた。
「わしは住まいと金と女には縁がなかった。首をくくるか、崖から飛び降りるか、どちらかしかない、畳の上では死ねない思うた」
 兄たちの支援もあり、プレハブの事務所を建て、移動販売を再開した。売れる場所の奪い合いが同業者との間で激しくなり、トラックの駐車場の確保にも困るようになる。矢野は、意を決して、広島を地盤とするスーパーマーケット「イズミ」の本社を訪ね、店頭販売をさせてほしいと直談判した。それが実現し、1日で100万円を売るようになる。その後、ダイエーやイトーヨーカ堂、ユニーなどの全国的チェーンストアでも店頭販売で次々と実績をあげた。大手小売りチェーン経営者の間で、ダイソーと矢野博丈の名が知られていく。
 代理店形式で常設店舗の運営に乗り出すのは1987年のことである。1991年には香川県高松市に直営店第1号をオープンする。バブル景気の終焉、「失われた10年」と呼ばれる消費不況、長引くデフレという荒波に吞み込まれるどころか、むしろそれらを追い風に変えるようにして、ダイソーは売上高と店舗網を拡大してきた。
 このほど、25年ぶりに東広島市の本社を訪ねる機会を得た。驚いたことに、工業団地内にあるプレハブ造の建物がいまもほぼ当時のまま残っていた。現在も倉庫として使われている。車道一つを隔てた向かい側にあった他社の工場跡地が本社となっていた。
 5000億円以上の年商を稼ぎ出す会社の本拠とは思えぬほど、質素な佇まいであった。ダイソーは、なんでもワンコインで買えることを最大の強みと特長としてきたが、現在では150円、200円といった価格の商品も並び、2018年からは300円に価格をそろえた「THREEPPYスリーピー」などもチェーン展開している。しかし、100円硬貨1枚による商いから1円、2円と利益を捻出して成り立つ会社なのであるという忘れてはならぬ本業の精神がそのつましく清掃の行き届いた社屋に体現されていた。
 市内にある自宅で私を迎えた矢野博丈は、目の前でいきなり塩化ビニール製のキリンの人形を手でむにゅりとつぶして、パプー! というけたたましい音を出したり、会話中、やおらズボンのウエストからプラスチック製の脇差を抜いて驚かせたりするなど、相変わらずダイソーの商品を手にしながら、駄洒落といっしょくたにして笑わせることを楽しんでいる。だが、惨憺さんたんたる労苦を重ねた末に満ち足りた晩秋を手にした男は、周りを笑いに巻き込んで愉快がっているようでいて、明日が不安で眠れぬ夜を過ごしていた若い時代の記憶も手放していない。通常の大気中の100倍相当の、人体に無害のオゾンガスを発生させるという特殊な機械を備えて、新型コロナウイルスに感染する可能性がほぼゼロになるというリビングルームで、東京で会ったときと同じように、穏やかな表情のまま語り始めた。
「将来を怖がる生物は人間しかないんよ。だから、ようけがんばる。先を怖れて、老後にゆっくり楽に死にたい、いうんが人間の目標なんよね。この年になって初めてわかった」
「畳の上では死ねない思うた」という述懐を想起し、矢野さん自身もそうですか、と訊ねた。
「いま、そう思うとるんじゃけん」
 自宅を出て、約1万2500坪あるダイソーの広島物流センターを案内される。さまざまな商品がベルトコンベアーで運ばれ、配送先の店舗ごとにコンテナに収められていく様子を眺める。どこか他人事のように「ああやって、全部、自動で仕分けされていくんよ。えらい時代になったけえ」と嘆息した。それでいて、隅々に目を光らせ、傍らのスタッフに「あの部分を、もっとこうして……」と指図せずにはいられない。「怪鳥」をやめたつもりはごうもないのだと思わせた。このように自動化の進んだ巨大物流拠点が国内に8つ、海外の倉庫も合わせると25ある。取り扱い商品は7万6000アイテムを超え、同業他社の3倍といわれる。売り場面積約300坪の標準型店ではおおむね2万アイテム強の陳列となり、同じダイソーでも近隣で品ぞろえががらりと変わる。矢野をして「在庫があるとうれしい」といわしめる独自の経営哲学がこうした強みとなって表れる。
「倉庫にある在庫の深みがほかの百均と違うところなんよ。どこにも売っとらんものがあったら、みんな楽しいし、うれしいやろ。お客さんは意外性を喜ぶんじゃけんね。だから在庫をどんどん増やしたんです。売れりゃええんじゃ、いうて。倉庫から在庫を積み込んでトラックで出荷するでしょう。これで15万円売れた、と思う。その瞬間のうれしさが悩みも鬱屈もすべてを癒してくれる。そのかわり、わしは商品についてはうるさかった」
 従業員たちに「仕入れとは格闘技」と教え込んでいたゆえんである。
 かつては、《2‌0‌8 シャーペン色々》、《2‌0‌9 ボールペン色々》と手書きの紙を吊るした段ボール箱から、まさしく人海戦術よろしくパートやアルバイトの従業員が一つずつ商品を取り出して荷造りし、翌日必着を原則に全国へ発送していた。矢野が「超労働集約型作業」と呼び、「だからノウハウがない」といってのけた倉庫は、コンピューターの管理による省力化と機械化が大きく進んだ供給拠点に一変していた。

恵まれない幸せ


 ダイソーが変わるとともに、私たち消費者も、そして暮らしぶりも変わったのではないか。ダイソーに限ったことではないが、まだ100円ショップが物珍しかったころ、売り場では「これも100円⁉」という驚きの声があちこちから聞こえたものである。生活用品を100円で求める暮らしが当たり前となり、消費することに慣れ、私たちはその驚きを失いつつある。当たり前のありがたみすらも忘れた消費は驕りを招き、いつか大きなしっぺ返しを食らうことになりはしないか。
「死ぬまでに年商1億に」と願った大創産業が「いまは(全店合計で)1時間に1億売れるようになった」と感に堪えないようでいて、矢野は表情をほとんど変えなかった。
「これから日本の会社の7割が赤字になりよる。やっぱり熟しすぎた社会の跳ね返りよね。恵まれるいうことは怖いんよ。ガツガツしとった20世紀は欲であっても商売人のすごいエンジンになったんじゃが、成熟しすぎた21世紀では欲はエンジンにならんようになった。いまは徳が要るよね」
 矢野は、東京のタワーマンションの窓から見える景色を睥睨へいげいし、下がり眉をなお下げた。
「いま、わしは毎日こうして楽に暮らして、おいしいものを食うとる。ありがたいよね。夢みたいじゃけ。10年くらい前までは、夢じゃろう思うて、よう、こうしおったんよ」
 頬をつねる仕草をしてみせた。
「こんなマンションを持って、嘘みたいや。とても自分じゃないような。いまは幸せすぎて、ようわからん。会社もそうじゃが、やっぱり人生って運じゃけえね。恵まれない幸せを満喫した。もうちょっと運がよかったら、この商売やめとるね。運がない、恵まれない、いうんは、幸せなことなんよ」
追記
 2023年2月末現在、ダイソーは国内に4139店、海外の26の国と地域に2315店を展開し、取り扱い商品は約7万6000アイテムとなっている。
 キャンドゥは、2022年1月、流通グループ大手イオンの連結子会社となっている。

『逆境経営』目次

はじめに 

第一章 カリスマ社長 創業の志 
・ヨークベニマル 大髙善興会長
・サイゼリヤ 正垣泰彦会長
・ダイソー 矢野博丈 創業者(ファウンダー)←本稿です

第二章 継承者の矜持 
・カインズ 土屋裕雅会長
・サトウ食品 佐藤功会長
・西松屋チェーン 大村禎史会長
・キタムラ 北村正志ファウンダー・名誉会長

第三章 一〇〇年企業の叡智 
・貝印(KAI)グループ 遠藤宏治会長
・コマツ 小川啓之社長 
・ミズノ 水野明人社長
・グンゼ 佐口敏康社長

第四章 ローカルに宿るブランド 
・岩下食品 岩下和了社長
・銚子電気鉄道 竹本勝紀社長
・崎陽軒 野並直文社長(現会長)

あとがきにかえて 
 

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