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【全文公開】プルースト効果の実験と結果/佐々木 愛

 プルースト効果、という言葉を教えてくれたのは、三年生になってはじめて同じクラスになった小川さんだった。小川さんという人物が少しずつつかめてきた気がしていた、四月の終わりのころだった。彼は、受験勉強をはじめる前に必ず「たけのこの里」というチョコレート菓子を食べるのだと言った。
「プルースト効果っていうのがあるんだ。味とか香りから、それに関連した思い出が浮かんでくるっていう現象のこと。プルーストっていう作家の有名な小説からきた言葉なんだけど。主人公がマドレーヌを紅茶に浸して食べたときに、昔の記憶がよみがえるっていうやつ」
 わたしが「長田(おさだ) 」なので、一学期のはじまりに、席がおのずと近くになった。最初は「小川くん」と呼んだけれど、「小川くん」はどうやら「さん付け」で呼ばれるオーラを持っており、ほかの女子からの呼ばれ方は「小川さん」がスタンダードであるということが分かってきて、わたしも小川さんと呼ぶように変えた。

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 小川さんの特徴はといえば、歯並びがよいことと、めがねがよく似合うこと。部活動には、入っていなかった。入学したばかりのときには、吹奏楽部に入って、中学まで続けていたトランペットを吹こうとしたらしいが、全国大会常連校特有の「宗教的な感じ」についていけなくなって、一週間でやめたという。その後、弦楽器クラブにも入ってみたが、それも三週間で退部した。部員の数も練習量も吹奏楽部よりずっと少ないものの、「吹奏楽部に対してねじ曲がった対抗心を持っている感じ」がだめだったという。放課後、たまに聞こえてくる弦楽器クラブの出す音色は、きりきりと細くて、常にドップラー効果がかかっているようなずれ方をしているので、すぐやめたくなった気持ちは少し理解できた。
「長田さん。僕は入試本番直前に、たけのこの里を食べると決めているんだ。だから毎日、勉強の前にも食べる。その味や香りと関連づけて記憶の中に沈殿させた英単語とか中国の歴代王朝とかが、本番前にたけのこの里を食べることで、いざというときに、わ~っと浮かんでくると思うんだよ。まあ、本番を迎えるまで効果があるか分からないけど、ある種の長期的実験だね。受験の明暗をかけた実験」
 受験勉強とプルースト効果の関連がいまいちよく分からなかったわたしに、小川さんは、そう真顔で説明した。学生服の一番上のボタンを指先でいじりながら話すのが彼の癖だ。その日もめがねが似合っていて、爪は短くきれいだった。学生服は、ほこりがひとつもついていなくて、クリーニングから戻ってきたばかりのように見えた。

 そんなことで本当に効果があるのならだれだって百点満点だ、と笑ってしまいそうになった。けれど、吹奏楽部も弦楽器クラブも途中でやめた小川さんが、たけのこの里は続けているというのは、彼自身の中でなんらかの効果を感じているからなのかもしれなかった。それになにより、小川さんとのそのひとつの会話から、「どうして数ある食べ物の中からたけのこの里を選んだのだろう」、「男の子だけど甘いものは平気なんだろうか」、「余裕が
あるように見えても、本当はそうとう勉強に追い詰められているのかもしれない」、「プルーストなんていつ知ったんだろう。少なくとも学校で習った覚えはない」など、小川さんへの疑問や憶測があふれ出て、自分以外の存在へのそういった思いで満たされていく慣れない感じに、わたしはなんだか心地がよくなった。
「この計画を打ち明けたのは、実は長田さんがはじめて」
 と言われたので、ますますうれしくなってしまって、
「じゃあわたしは、『きのこの山』でその計画に参加するよ」
 と表明した。
 きのこの山とは、もちろん、たけのこの里の姉妹品であるチョコレート菓子だ。

 わたしたちのクラスでは、小川さんとわたしだけが東京都内の私立大学を第一志望にしていた。地元や近県の国公立大学への進学率の高さが売りの我が校では、新幹線か飛行機に乗って半日がかりでないと行けない東京の、それも私立を第一志望にする生徒は多くないのだった。
 国公立志望の生徒たちが理数系の模擬試験を受けたりする時間は、図書室で自習をするように命じられた。小川さんとはじめてちゃんと話したのは、教室から図書室へ移動する廊下で二人になってしまったときだった。気まずく思っていると彼のほうから話しかけてくれ、有名私立の文学部が第一志望だと教えてくれた。うわさでは家は歯科医院のはずだったから、
「歯医者さん、継がないの」
 と聞くと、
「うん。弟がやるって。あいつは理系だし」
 とあっさり答えた。
 小川さんは読書好きらしかった。例のプルースト効果について書かれた「失われた時を求めて」は、第一巻だけで読むのをやめてしまった(とてもとても長い話なのだという)から、まだまだ本物ではない、と本人は言ったが、志望校は「好きな作家の母校だから」という理由で決めたそうだ。専門も、その作家にしたいのだという。

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 わたしの第一志望は、小川さんの志望する大学より入試の難易度は低いが、一般的に名前は知られているところだ。志高い小川さんとは違って、わたしが都内の私大を目指すのは、消極的理由からだった。理数系がまったくできないため、全教科でそれなりの成績をおさめなければならない国公立を目指すことは難しく、かと言って、地元の私立には興味を持てる学部がなかったというだけなのだ。親からは、東京へ出るのならある程度は名前の知れた大学じゃないと学費は出さないとも言われている。小川さんはみずから生まれた町を出て行こうとしているけれど、わたしはただ、はみ出してしまうだけだ。
 クラスで仲のいいマキもタマオもカナも、地元の国立大の、教育学部を目指していた。マキとカナは「観光に行くときは泊めてよね」と言って、タマオは「あんなところに住むなんて想像できないな」と言った。わたしは消去法でここにいられなくなるだけなのに、どんどん三人から遠い人になっていくように思えた。そういうとき、東京はここよりも絶対によいところだと疑っていない小川さんは、とても頼もしい味方に見えた。
 図書室には司書教諭のマサコさんが常にいるから、自習中に監視の先生は付かない。ほかのクラスの私大志望者もいるが、いくつか並ぶ大机に自由に散らばって座るので交流は生まれず、ここは本当に学校なのだろうかと思うほど静かだった。
 小川さんは、わたしの斜め前の席に座ることが多かった。向かい合う形になるので、どうしても視界に入る。もっと離れてくれてもいいのに、と思ったが、言わなかった。
 彼は勉強をはじめる前に必ず、こそこそなにかを食べた。さらに、ノートに潜り込むようにしてシャープペンシルを動かし続けているときもあれば、なんの前ぶれもなくその手を止め、窓の外のほうを見ながら、ものすごく浅い呼吸をしているようなときもあった。おそらくただぼんやりしているだけなのだが、その呼吸が続くと、息の吸い方を忘れる寸前なのではないか、と心配になってきて、様子をうかがってしまう。小川さんは視線に気づくと、なにかをごまかすようにわたしにひとこと言う。
「おなかすいたな」とか、「今日は水曜日だっけ」といった差しさわりないことが多かった。が、あるとき、
「ミシシッピって、字が下手だとミミミッピになるよね」
 と言った。世界史の問題を解いていたようだった。ミシシッピを、一文字ずつゆっくり発音した。それは、わたしが中学生のころから思っていたけれど、なんとなくだれにも言わないでいたことだった。
「分かる分かる。メソポタミアも、メソポタシアになるね。メンポタシアになるときもあるよね」
 思わず、図書室にはそぐわない大きさの声が出た。だれかが振り返る気配がした。小川さんはいつもより気持ちばかり目を見開いて、わたしのノートを手繰り寄せると、ページの隅に小さくミミミッピ、メンポタシア、と縦書きした。
「本当だ」と何度か頷いてから、少し笑った。わたしも小川さんのノートにミミミッピ、メンポタシア、と書いた。二人とも、それを消さなかった。

 プルースト効果のことを話してくれたのは、それから少し経ってからで、やはり浅い呼吸から戻ってきた彼と、目が合ったタイミングだった。小川さんはその言葉を、三年生になる直前の春休みに知ったという。それからは、毎日せっせとたけのこの里を食べている。普段は歯のことを思って、甘いお菓子を食べることによい顔をしない両親も、プルースト効果の実験には一応の理解は示してくれており、たけのこの里代は毎月のお小遣いとはまた別に与えてくれるという話だった。
「でも一回につき一箱は太るみたい。体重はこの間の健康診断ではそんなに増えてなかったんだけど。最近いつも顔がむくんでいるような気がするんだよね。だから一箱を三等分して、三回で食べるようにしてる。長田さんもそうしたほうがいいよ」
 と、アドバイスをくれた。確かに小川さんの魅力のひとつである尖ったあごは、少々丸みを帯びてきた気がしていた。

 わたしにとってのプルースト効果の実験初日、小川さんは張り切っていた。高校から歩いて三分ほどの小川さん御用達スーパーまで案内してくれることになり、わたしの五歩ほど先をずんずん歩いていく。
「この時間は、夕食の食材を吟味するご婦人だらけだよ」
 学校の敷地の外の小川さんを、はじめて見た。四月の終わりの、まだ明るい夕方の町へ出て行く彼は、全身の輪郭がだんだんとはっきりしていった。制服のズボンとスニーカー用ソックスの間からは、歩くリズムに合わせて、意外と丈夫で硬そうなくるぶしが見えた。
 薄い緑色の外壁をした、一階建ての平べったいスーパーマーケットは、野菜が新鮮であることと、卵が安いことが売りなのだという。
「たけのこの里ときのこの山は、ほぼ100%隣に並んでいる」
 小川さんは自信たっぷりに言いながら、よそ見もせず、チョコレート売り場まで誘導した。「ご婦人」だらけの中を、だれにもぶつからず素早く移動していく小川さんの姿は異質で、お客さんというよりもベテラン店員のように見えた。
 新商品に追いやられてだいぶ目立たないスペースにではあったが、それはちゃんとあった。
「はじめてだから、おごってあげよう」
 小川さんが、きのことたけのこを一箱ずつ手に取って言ってくれたので、ありがたくそうしてもらうことにした。
 図書室は飲食禁止だけれど、司書教諭のマサコさんは、あまり見回りをすることはないし、小川さんは人目につかない席を熟知していた。自習時間に使う大机のスペースよりさらに奥、世界文学の棚の陰になった場所に、隣同士の席を確保すると、なるべく音をたてないようにパッケージを開いた。手慣れたものだった。小川さんはわたしのきのこの山も開けてくれた。薄いボール紙が破れるププププという音が、たけのこの里のときよりは少し大きく鳴った。
「目分量で三分の一を一気に食べて。食べ終わったらすぐ勉強に移ること。〝すぐ〟移ることが、大切だと僕は思ってる」
 わたしは言われたとおりの分量のきのこの山を、緊張しながら口に運んだ。音をなるべくたてないように、前歯は使わずに奥歯と舌で静かにつぶし、唾液で溶かして飲み込んだ。そして〝すぐ〟に参考書とノートを開く。隣の様子を見てみると、たけのこの里、三分の一で頬を膨らませた小川さんがこちらを見て「どう、効きそうでしょ」という目くばせをしてきたので、頷いてみせた。それからはおのおの勉強に集中した。図書室が閉まる時間になるまで、口を利かなかった。
 チョコレートの甘さはずっと口の中に残っていたし、ビスケットのかけらはまだ奥歯にあった。隣にいる小川さんの口の中も、同じ甘さをしているのだろうかとたまに考えた。
 自然な流れで、一緒に帰った。駅までの道のりで、オレンジ色の街灯に照らされた小川さんが急に、ものすごく大事なことを言い忘れていたという表情になって振り返ったので、驚いた。
「長田さん、受験本番が終わるまで、きのこの山は勉強のときしか食べちゃだめだよ。きのこの山イコール勉強、となるのが重要なことだから」
「うん、分かった。守るね」
 わたしたちはこの日から、ただの「東京の私大志望仲間」から「プルースト効果の実験仲間」となって、放課後も図書室でともに勉強をするようになった。

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 夏休みに入っても、実験は続いた。私大志望者向けの夏期補習は午後三時には終わるので、それ以降は二人、図書室に並んで座った。司書教諭のマサコさんは、わたしたちが飲食禁止の決まりを破っていることに、夏休みの中盤ぐらいにやっと気がついた。
「お菓子はダメよ」
 こっそりと背後に寄ってきて注意をした。マサコさんは、体が横に大きいけれど声はとても小さい。まさに図書館司書にぴったりの声量だった。
 小川さんは「はい、すみません」と謝罪してからすっと立ち上がり、全部で七歩ほど移動しただけで「失われた時を求めて」を書棚から取り出し、マサコさんに例のページを見せた。
「これ、やってみているんです。受験生なもので」
 マサコさんはまだ不思議そうな顔をしていたので、わたしが補足説明をした。小川さんがわたしに教えてくれたときのように。
 マサコさんはちょっとだけほほ笑んだように見えたけれど、すぐにいつもの表情に戻って「そういうこと……」と、言った。その表情の移り変わりや声の感じで、マサコさんだって最初からこのマサコさんだったわけではない、マサコさんも受験生だったころがあるのだ、と当たり前のことに気づいた。遠い遠い昔、四十年以上は前のことかもしれないが、この気持ちはきっと分かるのだ。
「わたし以外のだれにも見つからないように続けてね」
 小さい声で言ってくれた。小川さんはたけのこの里を、わたしはきのこの山を、一粒ずつマサコさんにあげた。マサコさんはその場では食べず、ポケットから取り出したティッシュペーパーに包むと、湿り気がありそうな両の手のひらの上に壊れ物を扱うように載せて、見回りに戻っていった。
「あれじゃあ溶けちゃうんじゃないかな」
 わたしが言うと、
「たけのこの里ときのこの山が一緒に溶けてひとつのチョコレートになったら、もっとおいしくなると思うよ」
 と小川さんは言った。
 夏の間、一緒に過ごさなかったのは、お盆の閉校期間を除けば二日間だけだった。その日、小川さんは第一志望の大学のオープンキャンパスに泊りがけで行ったのだった。小川家は、夏休みには海外に行くのが恒例なのだが、この夏は小川さんが受験生なので、オープンキャンパスに合わせた東京旅行になったらしい。
「東京って、もうテーマパークだね」
 小川さんはその感想と一緒に、「おみやげ」と言ってラベルをはいだジャムの瓶をくれた。透明で小さなガラスの瓶の中は、からっぽであるように見えた。
「これ、なに」
 ふたをひねろうとすると、小川さんがわたしの手の甲に触れて止めた。
「その中に、東京の空気を入れてきたから」
 最初は意味が分からなかった。
「……甲子園の土みたいなこと?」
「似てるけど違うな。ピーマンの中身の空気だけ集めて、 瓶に詰めて売っている人がいるんだ。そういうアート作品なんだって。すてきでしょ。どちらかといえば、そっちをまねしてみました。東京の空気の味って、ここと全然違うんだ。麻薬みたいなんだよ、麻薬吸ったことないけど。だからこの空気は、いざというときに食べて」
 小川さんは少し得意気に言った。麻薬みたいなものを食べるべき「いざというとき」とは、どんなときなのか、想像したけれどうまくいかなかった。
「東京のどこの空気?」
 と聞くと、しぶってなかなか教えてくれなかったが、やがて、
「もちろん、長田さんの志望校の正門前だよ」
 と照れくさそうに言った。
「だから、お守りにもなると思うよ」
 だれかが小川さんのこういうところを笑うだろうということは分かる。でも、わたしは笑えなかった。どちらかと言えば、泣きそうになるのだ。

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 東京の空気が詰まった瓶ごしに、図書室の蛍光灯や書棚を見てから、小川さんの顔を見てみた。視力が落ちたみたいにぼやけて見えた。母にごみと間違えて捨ててしまわれないように、わたしはそれをかばんの一番奥に隠すように仕舞い込んだ。

「はじめてのキスは想像もつかないところでしよう」
 そう言い出したのも、小川さんだった。プルーストの話と同じくらい唐突だった。受験生には無関係のはずの、ちまたのクリスマスの雰囲気に、影響を受けたのかもしれなかった。
 わたしたちは帰りの電車で座っていた。どこで買ったのだろう、鮮やかすぎる紫色のマフラーにあごをうずめる小川さんを、じっと見た。果たして、二人はいつからそういった間柄になったのだろうかと冷静に思い返した。放課後を一緒に過ごすことは当たり前になっていたけれど、「好きです」と言われていないし、言っていない。もしもなにかあるとしても、受験が終わってからだろうと思っていた。けれど小川さんは、ためらうことなく「キス」と言った。世間話のついでという感じだった。
 受験勉強は最後の追い込みに入る時期で、もう薄く雪が積もっていた。外には真っ白になった田んぼが広がっているだけで、すいているこの車両の向かい側の窓は、鏡のようになって小川さんとわたしを映していた。
 わたしが小川さんのことを好きになっているのは確かだった。きっと、プルースト効果を教えてくれたときにはもう好きだった。
 わたしはクラスを見渡しても美人なほうには絶対に入らない。個性や特技があるわけでもない。でも、小川さんにはわたしだろう、という自信のようなものが、いつからかあった。小川さんだって、いわゆるもてるタイプではない。清潔感はあるけれど、ちょっと浮いているところがあるし、クラスの中でも、弦楽器クラブの元部長を中心とした不思議系男子が集まるグループに属していた。ある女子に「しゃべり方が気持ち悪い」と陰で言われている場面だって見たことがあった。マキもタマオもカナも、「付き合ってるの」「好きなの」とたまに聞いてくるけれど、「そういうわけじゃない」とごまかすと、それ以上は探らなかった。あまり女子に興味を持たれるタイプではないのだ。
 でも、たけのこの里ときのこの山がスーパーで必ず隣に並んでいるように、小川と長田はペアなのだ、と思いはじめていた。それは「好きだから」で持ってしまう過信などではなく、わたしにとっては手に取って触れるくらい、形がある確信だった。自分と小川さんの魅力に自信はなくても、「ペアである」ということにかんしてはあった。
 だれかに優しく背中を押され続けているような強い自信を、わたしは生まれてはじめて持てた。自分のことを好きだとか嫌いだとかは関係なく、ペアはペアであり、だれにも壊せない。この自信の根拠を述べよと言われたら、難しい。ミッキーマウスとミニーマウスが永遠のペアであることに、根拠がないのと同じだ。
 小川さんの「はじめてのキスは想像もつかないところでしよう」という言葉を、小川さんも同じような確信を持ってくれていたのだ、と受け止めることにした。彼のそういう突拍子もない言葉を包み込むことも、ペアである資格の大切なひとつなのだ。
 窓に映る小川さんの紫色のマフラーを見ながら「いいよ」と言った。
 小川さんも窓の中のわたしを見て、
「プルースト効果のことを打ち明けた時もそうだったけど、長田さんって、何段階も飛び越えた返事をするよね」
 と感心したように言った。そのとききっと、わたしたちは恋人同士になった。
 小川さんは「じゃあ明日、東京の地図、持ってくるから」と続けた。

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 小川さんにとって「想像もつかないところ」といえば東京だったらしい。
 次の日、図書室の机について、たけのこの里およびきのこの山を食べたあとで、小川さんはおもむろに一枚の東京の地図を広げた。横幅五十センチ、縦は三十センチはあろうかという大きなもので、机からはみ出た。
「中学の修学旅行が東京だったんだけど、そのときの班行動の計画を立てるときに先生から渡されたやつ」だそうだ。
 主要な観光地名が印刷されているほかに、こまごまとした建物名やスポット名が、黒マジックで書き込まれている。
「事前学習の一環で、班で興味のある場所をこの地図に書き込むっていうのをやったんだ。僕が書いたのはこれと、これと……」
 いくつかの見慣れた筆跡を指さしてから、
「だからさ、したいところに丸をつけていこう」
 と続けた。受験勉強はわたしたちをおかしくするんだ、と思いながら、この作業は小川さんとわたしのペアにしかできないすばらしいことなのかもしれないとも思った。
 小川さんは青いペンで、まず「花園神社」に丸をつけた。
「ここは、中学のときも僕が一番に書き込んだ場所。小さいころ、そこのお祭りでヘビを食べる女の人を見たんだ。バリバリ音を立てて食べる。あのヘビ女の目を盗んでしたらきっといい」
「じゃあ……」
 わたしは悩んでから、ピンク色のペンで「上野動物園」に丸をした。
「でもパンダはダメ。シロクマたちの前がいい」
 シロクマは年に一回しか性交をしないというエピソードを小川さんに話した。小川さんがむりやりわたしに貸した小説に書いてあったことだ。
「そうか、シロクマたちなら、どんなふうにして見せても平常心でいてくれるだろうね」
 と賛成してくれた。
 そのあとは止まらなかった。
 東京タワー、世田谷区役所、六本木の映画館、自由が丘スイーツフォレスト、靖国神社、エジプト大使館前、雷門、小川さんの志望校、乃木神社、フリーメイソン日本支部、新宿高島屋、新馬場駅、国会議事堂前、渋谷のNHK放送センター、田園調布の高級住宅街、青山葬儀所、新宿駅東口、読売新聞社前、井の頭公園、銀座和光、神保町の古本屋街、東京ビッグサイト……。
 どんどん丸をつけていって、それぞれ、どんな状況でするのかを話し合った。いつの間にか図書室の気配は二人の周りから消えていた。行ったこともない場所の景色がちゃんと見えて、音も聞こえた。自分のものじゃないみたいに声帯が動いて、わたしたちにふさわしいキスについてどんどん話せた。体を図書室に置いたままで、二人は東京にいたのだと思う。マサコさんが注意しに来なかったのも、そうだとすれば納得がいく。
 気づけば、わたしたちの東京は青とピンクの丸だらけになっていて、時計の針はきっかり一時間ぶん進んでいた。我に返ってお互いを見合うと、小川さんの頬は赤くて、わたしも顔がほてっていた。
 小川さんのおなかがタイミングよく鳴った。暖房機の音と、遠くの席でだれかがページをめくる音くらいしかしない部屋で、それはよく聞こえた。椅子を少し引いて、座ったまま小川さんのおなかに耳を寄せてみると、もう一度小さく鳴った。小川さんの学生服からは歯科医院の待合室のような匂いがしていた。わたしはそれを吸い込みながら、
「わたしもおなか、すいたかも」
 と、つぶやいた。新幹線で言えば四時間分の距離を行って帰ってきたのだから当然だった。小川さんは、
「長田さんのきのこの山、食べてみていい? たけのこの里、あげるから」
 と言った。今まで交換したことは一度もなかった。なんとなく、プルースト効果には悪影響を与えるような気がしていたからだ。
 でも一回くらい、それも今なら絶対に大丈夫だという気がして、わたしは耳を彼のおなかから離した。かばんからきのこの山を取り出して、小川さんに渡した。小川さんもたけのこの里を、わたしの口の中に一粒入れてくれた。
「たけのこの里のほうが、おいしい」
 と言うと、小川さんも、
「僕もそう思った。そういえば、あそこのスーパーでも、いつも売り切れるのはたけのこの里のほうが早いもんな」
 と笑って、たけのこの里をもう一粒、わたしの口に運んでくれた。
 その一粒が溶けきる寸前だった。歯科医院の待合室の気配が、風が吹いたように濃くなって、小川さんがわたしにキスをしていた。
 小川さんの口の中には、毎日わたしが食べているものがあって、わたしの口の中には毎日小川さんが食べているものがあった。最初は小川さんが舌で混ぜて、わたしもだんだん一緒に混ぜ合わせていった。
「きっと汚いことをしている」と思ったけれど、その味は想像していたよりもずっとおいしくて、そのまま目をつむった。この甘さで小川さんにはじめての虫歯ができますように。マサコさんが来ませんように。頭の隅で願った。
 チョコレートの部分が溶けきってから、小川さんがくちびるを離して、
「僕はこれからきのこの山を食べる度に、このことを思い出すね」
 と言った。わたしも、たけのこの里を食べる度にこのことを思い出すのだ。
 丸だらけの東京の地図はいつのまにか机の下に落ちていて、暖房の風でかさかさと揺れていた。小川さんがそれを拾った。
「ごめん、せっかく時間かけて計画を立てたのに」
 持ってきたときよりも小さく折りたたんだ。いつもは堂々とロマンチストぶる小川さんなのに、この展開には少し照れているみたいだった。
「謝ることなんかないよ。大学に受かって東京で暮らしはじめたら、この全部でしていこうよ」
 と、励ますように小川さんの背中に触れた。

 雪はチョコレートよりずっと時間をかけて溶けた。
 小川さんは第一志望に受かって、わたしは落ちた。小川さんは予定どおり、本番でプルースト効果を発揮できたそうだ。
「世界史でどうしても思い出せない人物名があったんだけど、たけのこの里の味を一生懸命思い起こして粘っていたら、終了の三十秒前くらいに、ぽろっと思い出せたんだ」
「わたしも同じようにしたんだけど」
 とこぼすと、ちょっと困ってから、
「食べはじめたのが僕より遅かったからかな」
 と、なぐさめてくれた。
「それは違うかな。緊張で全然だめだった」
 試験会場は都心のキャンパスだった。わたしにとっては中学の修学旅行以来の東京だった。そこは、小川さんと広げた地図で行った気になっていた東京とは、丸っきり別の街だったのだ。小川さんが麻薬だと言った東京の空気は、わたしにはただ吐しゃ物の匂いがするだけだった。あの瓶はまだ開けずに取ってあった。東京へ行く前に開けて食べて、心の準備をしておくべきだったのだ。

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 卒業式が終わりマキとタマオとカナと写真を撮ったあとで、小川さんと図書室に向かった。マサコさんは式に出席していなかったようで、普段どおりの服装のまま、いつもと同じ貸出カウンターの中で本を読んでいた。
 教室のざわめきも届いてこなかった。そこだけ季節がめぐっていないように思えた。
 わたしたちは感謝の気持ちを込めて、たけのこの里ときのこの山を、マサコさんに五箱ずつ贈った。マサコさんは「来てくれる気がした」とほほ笑んで、真っ赤な紙で包んだなにかを、一つずつくれた。
「二人がわたしをとても年上だと感じているように、先のことは遠くに見えるだろうけれど、わたしが二人のことを、まるで自分を見ているみたいに親しく感じるように、過ぎたことは、いつでもすぐ近くに感じるのよ。これからは過去がどんどん増えていくから、近くにあるものが増えていくのよ」
 と言いながら。
 いつもと同じ小さい声だった。でも、マサコさんがわたしたちの前で話したことの中で最も長いセンテンスだった。マサコさんが伝えたかったことを、おそらく理解しきれていないのだろうと思うことは、歯がゆいことだった。せめて忘れないようにしようと、その言葉を頭の中で繰り返しながら家に帰り、ノートを引っ張り出して、ミミミッピ、メンポタシア、のページに覚えているだけ書き残した。
 包まれていたのは「失われた時を求めて」の第一巻だった。小川さんのは、二巻だったらしい。
 わたしは地元の予備校に通わせてもらえることになった。今回受けた大学よりもランクのひとつ高い東京の私大を目指して、浪人生活がはじまる。地元の大学を落ちてしまったタマオも一緒の予備校だった。
 小川さんと離れることには、不安はそれほどなかった。ペアには距離は関係ない。たけのこの里ときのこの山が離れた場所に陳列されていても、その二つはセットだとだれもが分かる。
 小川さんが乗る東京行きの新幹線は朝一番の便だった。ホームの柱の陰には、冷たい風が吹いていた。はじめてしたときのように、わたしはたけのこの里を、小川さんはきのこの山を食べてからキスをした。それから、あの瓶を開けて、中の空気をしゅっと口に入れて、もう一度わたしからキスをした。
「味、した?」と聞くと、
「した。酸っぱいような」と小川さんは言った。
「小川さんが、この味の東京の空気を食べるたび、わたしのことを思い出しますように」
 と言ってみた。小川さんは、
「長田さん、長田さんはなんてロマンチストなんだ」
 と、感激したような声を出して、大きなバッグを足元に置き、両手で握手を求めてきた。かさかさした硬い手だった。毎日隣にいたのに、どうしてこの手をもっと触らなかったのだろう。
 青とピンクの丸でいっぱいの東京の地図は、わたしが預かることになった。
「来年受かったら絶対、それ持ってきてよ」
 新幹線の窓ごしに見える小川さんは、夏の図書室で瓶ごしに見たときと同じくらい、遠くに見えた。

 新生活がはじまると、拍子抜けするほど早く、小川さんにふられることになった。
 天気予報によれば東京は梅雨入りし、雨が降っているらしい日だった。小川さんは電話で「好きな人ができた」と言った。二つ年上の先輩だという。
 こんなことあるはずがなかった。小川さんは、麻薬みたいな東京の空気でおかしくなってしまったのかもしれない。小川さんにはわたしなのに、それだけは自信と確信があるのに、ちゃんと分かっているのに。小川さんのプルースト効果理論をともに実験したのはわたしだけなのに。ほかの人はだれも知らない時間や決まりや会話やプレゼントや笑いや歩く速さやペンを走らせる音や口の中のたけのこの里ときのこの山が溶け合った味や。そういうものが、新しいものにこんなに早く簡単に追い抜かされるはずがないのに。
 知りたくなかったのに聞き出してしまったその人の名前は、きれいな花の名だった。わたしはその花を死ぬまで買わない。
「その人には、わたしたちがやってきた実験のこと言ってるの?」
「言ったよ。鼻で笑われて、プルースト効果にもなんの興味も持ってくれなかった」
 小川さんはなぜか、いとおしそうに言った。
「そういう人でいいの? 一緒にいて楽しいの? そういう人は、東京の空気入りの瓶をもらっても、きっと喜ばないんだよ」
「うん、そうだね。瓶の話もしたけど、大笑いしてたよ。おなかを抱えて。そんなもの、自分がもらったらすぐ不燃ごみ行きだわ、鳥肌が立つわって言ってたよ。サークルのほかの先輩にも言いふらされたよ。僕の今のあだ名は、瓶だよ」
 うれしそうにさえ聞こえた。
「わたしのこと、話したの」
「うん。とってもいい子だねって言ってた」
 ばかにされた気がした。こんなばか、東京の大学に落ちて当然なのだ。何も言えないでいると小川さんは、
「その人がほかの男の人を好きになるのは耐えられないんだ。長田さんのこともとても好きだったけど、長田さんにはそういう人ができても、大丈夫だと思ってしまうんだ」
 と言った。小川さんの声の向こうから雨の音は聞こえなかった。強い風が吹いているような音がして、その奥でさわがしいだけの流行りの曲が流れていた。
「その人と、もうキスした? 花園神社で? シロクマの前で?」
「したよ。でも、先輩の家で。先輩もひとり暮らしなんだ。横浜線の橋本っていう駅から歩いて三分」
「わたしとの約束は。丸をつけた地図は、どうするの」
 小川さんは沈黙してから言った。
「そういうの、もうどうでもいいと思える相手なんだ」
 小川さんとのペアであるわたしではなくなって、突然、ただの自分に戻ってしまった。
 生まれてはじめて持てた自信と確信が間違いだったとは、まだまだ思えそうもなくて、電話を切ってすぐ、横浜線橋本駅をあの東京の地図から探した。そこは大きな地図の端すれすれに、ようやくおさまっていた。神奈川県だった。誰の書き込みも、丸印もない。
 東京でさえないのか。一気に耐えられなくなって泣いた。
 マサコさんにだけは、ふられましたと手紙を書いた。お返事として、四日後に「失われた時を求めて」の第二巻が送られてきた。励ましの言葉が書かれた手紙がどこかのページに挟まっていないか、封筒に残っていないか、探したけれどどこにもなかった。
 わたしは予備校でもきのこの山を食べ続けていたが、あの電話の日からはやめた。わたしにとってきのこの山は、小川さんがそばにいた時間を思い出すスイッチになっていたからだ。入試本番では、プルースト効果を発揮できなかったくせに。
「東京の空気を食べるたび、わたしのことを思い出しますように」
 あの味も言葉も、小川さんは忘れているだろうけれど、わたしは覚えている。もしも志望校に受かったら、東京の空気を毎日吸うことになって、小川さんのことを毎日思い出すんだろう。

 暑くなりはじめたころ、わたしを好きだという男の人が現れた。予備校で同じ授業を受けている人だった。タマオと彼が話しているのは見たことがあったが、わたしはあいさつぐらいしか交わしたことがなく、近くに座ったことが数回あった程度のはずだった。
 帰り際にわたしを呼び出すと、はっきりと目を見て「四月から気になっていた。付き合ってください」と言った。彼もめがねが似合っていたけれど、小川さんのそれとは違った。ちょっと気取ったおしゃれめがねだった。
「どうしてわたしなんですか」と聞いたら、
「いろいろあるけど、最初にいいと思ったのは、ノートに書く字がすごくきれいなところ」
 と言った。彼は、わたしがミシシッピと書きたいときにミミミッピになってしまうことをまだ知らない。それなのに、わたしのことを好きだと、こんなに堂々と言っている。次の日の休憩中にタマオに話すと、タマオは「よかったね。高校でよく一緒にいた小川だっけ? あの人よりずっといいよ」とガムを口に入れながら言った。
 五日間、返事を待ってもらってから、「わたしでよければ」と告げた。
 もっと気の利く子や元気でかわいい子、彼に合う女の子はいくらでもほかにいそうなのに、どうしてわたしなのか本当のところを知りたかった。

 彼は、いじわるなところがひとつもない、いい人だった。男友だちもたくさんいて、女子からの評判もよかった。付き合っていることを、タマオ以外の子からも「うらやましい」と言われたりした。ただ、わたしが毎日勉強の前にきのこの山を食べていたことを話したとき、彼は鼻で笑った。
「そんなので暗記ができるようになるなら、だれだって百点満点だよ」
「そっか、だれだって百点満点だね」
 わたしも彼の笑い方のまねをしてみたら、ちゃんと笑えた。
 彼とはいろんなことがすいすいと進んだ。小川さんが一度も来ることはなかったわたしの家で、何度も二人で勉強をしたし、そのときいた母にも礼儀正しいあいさつをしてくれた。
 キスをする場所は特別じゃなかった。予備校の外階段や駅やお互いの部屋だった。最初はタマオがくれたミントのガムの味で、その後はポカリスエット、たっぷりのミルク入りのコーヒー、冷やし中華、リップクリーム、予備校の水道の水――。いつも違う味だった。
 彼とくちびるが触れている間だけ、わたしは小川さんを思うことを自分に許した。そう決めないと、際限がないからだ。
 ここぞとばかりに、一生けんめい思い描いた。行ったこともない花園神社で、ヘビを食べるという女の人に見つからないように小川さんとキスすることを。上野動物園でシロクマたちに見守られながら小川さんとキスすることを。ヘビ女は黒く縁取った目をぎょろぎょろさせてわたしたちを視界の隅に発見したけれど、結局は見て見ぬふりをしてくれて、シロクマたちは無視するでもなく邪魔するでもなく、そっと穏やかな目を向けてくれた。
 マサコさんの言ったとおりだった。彼との今や先のことより、小川さんとの過去のほうが、ずっとわたしに近くて優しい。

 また夏が来た。一年ごとに夏は新しくなくなる。去年の夏や、おととしの夏や、そのまた前の夏、これまで過ぎてきた夏を思い出すための夏になっていく気がした。暑さだけが上塗りされるように増していく。
「さっき、夕立に遭って。遅くなってごめん」
 彼がわたしの家へ来たとき、外はもう晴れ上がっていた。手には、たけのこの里が入ったビニール袋がぶら下がっていた。
「これ、どうしたの」
 部屋の扉を閉めてから聞くと、
「雨やどりで、スーパーに寄ったんだ。きみが前、毎日きのこの山を食べてたって言ってたから、ちょっと気になって」
 と顔の汗をぬぐいながら言った。たけのこの里のほかに、パックのトマトジュースも二つ入っていた。
「お菓子を食べるときはトマトジュースも一緒に飲むっていうのが、我が家の掟なんだ。栄養バランスにうるさいんだ、祖母が。チョコとトマトジュースは、味も思いのほか合うんだよ。あ、俺はきのこよりたけのこ派だから、たけのこにした」
 部屋の壁には、レースカーテン越しの西日でできた、濃いオレンジ色の四角が浮かんでいた。問題集や筆記用具を広げたあとで、彼は、小川さんより明らかに慣れていない手付きでたけのこの里を開けた。わたしは扇風機のスイッチを入れながら、
「こんなに暑いのにチョコレートとトマトジュースなんて……」
 と言ってみたけれど、お構いなしだった。彼は、
「よかった、あまり溶けてない」
 とつぶやいてから、食べはじめた。一粒つまんで、わたしの口にも運ぼうとする。
 わたしがたけのこのほうを食べたのは、図書室でしたはじめてのキスのときと、新幹線の前でのキスのときだけだ。思い出してしまう。暖房機の音、歯科医院の待合室の匂い、落ちる地図、青とピンクのインク、朝の風、新幹線の扉の締まりかたも。
 すでに柔らかくなっていたチョコレートは口に入ると簡単に溶けて、あの甘さが広がる。やっぱり、小川さんが現れた。でも違った。わたしといた小川さんではなくて、見たことのない小川さんだった。

画像7

 小川さんは、わたしを「とってもいい子だね」と言った先輩と、橋本駅徒歩三分のアパートでキスより先のことをしていた。あの地図を広げて図書室から東京に飛んだときと同じように、わたしはその先輩のアパートにいて、目の前で二人が動くのを見ていた。
 そこは、わたしの部屋よりもさらにずっと暑かった。今まで過ごしてきた十八回分の夏の暑さすべてがその部屋に押し込まれているみたいだった。息を吸うほうが苦しいくらいに蒸していて、視界が揺れるほどなのに、小川さんと彼女は汗をかかずに動き続ける。小川さんの舌が、わたしの口の中のチョコレートを溶かした温かい舌が、何度も見えた。プルースト効果を鼻で笑った先輩に、頭をなでてほめてもらったり、叱られたりしながら、小川さんは大人になっている。わたしにはしようとも思わなかったことを、この先輩にはしたくてしたくてたまらないのだ。
 目を開いても閉じても、小川さんと彼女は消えなくて、熱に押しつぶされそうになる。口の中の味を流しきりたくて、手元のトマトジュースにストローを差して思いっきり吸った。パックは音を立ててへこんだ。甘くてしょっぱくて酸っぱい。ふやけたビスケットの部分がトマトの種のような食感になっていく。小川さんと彼女の姿に、もやがかかっていく。
 突然だった。わたしは今、本当の目の前にいる、わたしを好きだと言ってくれているこの彼と、小川さんと彼女がしていることをしたいと思った。嫉妬ではなく、自暴自棄とも違って、ただしたい、しなければいけないと思った。
 もう一粒入れてから、彼に近づいた。小川さんとのときと、同じような味がする。でも、舌の温度や柔らかさは似ていなかった。
 この人は小川さんじゃない、小川さんじゃない。
 暑さがゆっくりほどけていく。首を振る扇風機の風が、姿勢を変えないわたしと彼に近づいたり離れたりを繰り返して、少しずつ、わたしを橋本駅徒歩三分のアパートから自分の部屋へ連れ戻していく。
 彼の前髪が濡れている。雨が乾いていく匂いと、制汗剤の匂いが混じる。わたしはこれから彼に、小川さんには見せなかったところを見せて、小川さんには触られなかったところを触られる。
「小川さん、わたしは想像がつきすぎる場所ではじめてのことをしている」
 そう思いながら、やっと気づいた。
 たけのこの里ときのこの山がペアであることは間違いではなかったとしても、たけのこの里と同じ数だけ、きのこの山があるわけではなかったのだ。ペアになるべき運命としてこの世界に生み出されても、どうしようもなく、あぶれていくことがあるのだ、たぶん。
 チョコレート売り場にひとつだけ取り残された、きのこの山を思ってみる。やっぱり寂しそうに見える。でもそばに寄って耳を傾けると、「あぶれることは、ごく当たり前のことなのよ」と淡々と言う。「悲しむようなことでもないの」「あぶれものじゃない人なんていないの」 
 その声はいつの間にか、マサコさんの声になっている。
「大丈夫。スーパーマーケットは広いし、トマトジュースだって、なんだって揃っているのよ」
 その声を信じたくて頷く。
 でも、過去は未来より近すぎるから、わたしはまだ小川さんのことを思い出すと思う。もしも小川さんとだったらどうだっただろうと、はじめてのことをするたび、何度も何度も。
 だからわたしはもっと、食べたことのないおいしいものを知りたい。その味で思い出す人やものごとが、たくさんほしい。東京にもしも行けたら、たくさんの人を知りたい。東京の空気を食べても、小川さんだけを思い出さないように。
 マサコさん、わたしは、上手に過去を増やして、それを飼いならす大人になりたい。
 彼の腕の力が強くなる。もう花園神社も上野動物園も思い出さないで応える。終わったらあの東京の地図は捨てようと思った。

(本文中写真・鈴木七絵)

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