見出し画像

【全文公開】スナック墓場/嶋津 輝

 ハラちゃんの予想は三レース連続で的中していた。はじめの二レースこそ堅い予想だったが、三レース目は馬複百五十倍の高配当だった。
 本人には予想しているという自覚もないだろう。4号スタンドのボックスシート近くのモニターで、ハラちゃんはパドックの様子に見入り、周回する馬たちを、
「可愛い」とか、
「ちゃんとお行儀よく歩いてる」などと評しているだけなのだ。
 相変わらず綺麗な声だな、と、克子(かつこ)はハラちゃんの素人じみた感想を心地よく聞いていた。同じ店で働いているときから、鈴をころがすようなハラちゃんの声を耳にするのは克子の楽しみのひとつであった。「きれいどころが一人もいない」ことで知られていたスナック「波止場(はとば)」において、ハラちゃんはその若さと声の美しさ、髪質の良さでエース的なポジションに置かれていた。ハラちゃんの声を聞きたくてやってくる常連客も数多くいた。
「きれいなお面かぶってる」
「あっ、立ち止まった」
「あらあら、うんこしてる」
 といったハラちゃんの発言の合間に、
「いい。強い」
 という言葉が挟まることに克子はすぐ気づいた。「いい。強い」と言うときだけ声が低く抑えられ、エロチックに響いたからだ。

画像1

 その「いい。強い」と呟いたときの馬を、克子はなんとなく記憶していた。ハラちゃんはレースそのものには関心がないようで、発走を待たずにビールを買いに席を立った。克子がレースを眺めていると、「いい。強い」と言われた馬が一、二着で来た。どちらも人気馬だったので、いい馬というのは素人にもそれなりに映るのだろうと得心した。それが三レース続いたので、克子はハラちゃんの言葉にいよいよ注意を払って耳を傾けた。
 マークカードの記入を終えた美園(みその)ママが「買わないの?」と訊いてくる。克子もハラちゃんもまだ馬券を買っていない。ハラちゃんはパドックを見ているだけだし、克子はどうせ当たらないだろうとはなから諦めの姿勢だった。
 美園ママは克子の返事を待たず、レーシングプログラムをひらひらさせながら軽い足どりで馬券を買いに行った。

 スナック波止場が店を閉じたとき、美園ママが一年に一度は三人で同窓会をしようと提案した。今日が三回目の同窓会である。
 第一回は「波止場」近くの居酒屋、二回目は宝町(たからちょう)の寿司屋と奮発した。今回は克子が東京モノレール沿線のUR賃貸に引っ越したばかりというタイミングで、新居で酒盛りをする案も出たが、大井競馬場が近いことに美園ママが気づき、克子が4号スタンドの指定席を予約したのである。
「ちょいと、別の建物には応接室みたいなソファ席もあったわよ」
 美園ママは馬券を買うついでに場内を見学してきたらしい。
「ああ、あっちは料金が五倍ぐらいするんですよ」克子が答えると、
「あらま。たしかに豪勢な感じだったねえ」美園ママはあっさりしたしつらえのグループ席を見回す。
「でも、むこうは馬券買うのも払い戻しもキャッシュレスなんです。現金決済のほうがいいでしょう?」
「そうよ。それに美園ママ、ソファ席苦手だったじゃないですか」
 ハラちゃんが言うと、美園ママは、ああ、ソファね、と顔をしかめた。克子がソファ席を避けたのも、じつはそれが理由だった。スナック波止場の隅に一セットだけあったソファ席に、美園ママはけして座ろうとしなかった。
 体重が三十キロちょっとの美園ママの脚に無駄な肉はなく、ソファに腰掛けると正面の客に「三角地帯が見えてしまう」からぜったいに座らないのだと言っていた。パンチラなんぞで商売はしない、と薄い胸を張っていた。でも本当は、スプリングが死にかけた店のソファに腰を沈めると、ママの筋力では容易に立ち上がれないからだと克子もハラちゃんも知っていた。
 ママは幾つになったんだろう、と、克子はかつての上司の顔を見つめる。
 美園ママは、流行らない商店街の最果てにあるスナックにぴったりの風貌をしている。お化粧が濃く、髪は茶色く乾燥し、とても痩せて、お酒と煙草で声が嗄(か)れていた。右手にはエメラルドをダイヤで囲んだ指輪、左手には小判をくわえた蛇がとぐろを巻いている指輪を嵌め、それはどちらもぶかぶかで、喋りに熱がこもって手振りが激しくなるたび、すっぽ抜けてカウンターの外まで飛んだものである。
 厳冬の立木に似た指に、今日はなにも着けていない。お化粧はちゃんとして、三杯目の水割りを舐めていても口紅がちっともはげていないところはさすがである。うつむくと、生え際の薄くなったところにまで丁寧に白粉が塗りこんであるのがわかる。
 四レース目、ハラちゃんが「いい。強い」と言った馬を、克子は買うことにした。

画像2

 眼鏡をかけてマークカードと向き合う。馬券を買うのは久しぶりだ。画面で単勝のオッズを確認すると、ハラちゃん推薦の二頭の人気はじつにブービーとしんがりである。さすがに克子の簡易筆の動きも止まった。
 克子の競馬歴は三十年を数える。
 馬券やレースを楽しむというより、長いスパンで競馬界を観察する好みかただ。人間と馬の関わり、あるいは馬と馬の、ライバル同士の、兄弟姉妹の、親と子と孫の、馬本人たちはあずかり知らぬ、脈々とつらなるドラマを愛した。シルバーコレクターだったステイゴールドの産駒がクラシック三冠をとったとき、克子は興奮のあまり心房細動を発症した。
 そんな情感をこめた見方をしていると、馬券はまず当たらない。じっさい三十年のなかで克子が当てたのは十レースかそこらである。見ているだけで楽しめるから徐々に買わなくなり、それでも夫が生きていたころは夫の勤め先の近くに場外があったのでたまに頼んで買ってもらっていたが、いまは完全に見るほう専門である。
 ハラちゃんの何気ない予言が当たることは今日にはじまったことではなく、彼女の第六感を克子は信用している。しかしそれにしても、ブービーとしんがり人気とは――。
 結局、上位人気馬を含めた三連複のボックス買いにした。
 発走前にハラちゃんは「小腹すいちゃった」と財布だけ持ってどこかへ行き、美園ママはテーブルの上に買った馬券を並べる。覗き見ると複勝ばかりなので、克子はママの堅実さに目を細めた。
 果たしてレースは、ハラちゃん推薦馬が一、二着、人気馬が三着で確定した。三連複で千二百倍の配当である。
「当たって損するんじゃ勝ったとはいえないねえ」
 複勝の換金を終えたママが戻ったのと入れ違いに、克子はゆっくり席を立つ。払い戻し機に馬券を入れると、万札が二十四枚出てきた。二百円ずつ買っていたのである。人生初の万馬券の配当を札入れにねじこんだら、二つ折りの財布は閉じなくなった。
 克子はたまっていたレシートを抜いて、ゴミ箱に捨てる。そして札入れの隅に折り畳んでしまってある八千円分のお札を取り出し、角がひしゃげているのを伸ばして、また入れ直した。この八千円は、かれこれ十年以上克子の財布に入れっぱなしになっているものである。
 なんとか二つに折れた財布を握って席に戻った。穴馬が揃って入線した衝撃は、その瞬間こそ克子を震わせたものの、いまはすっかり平静を取り戻していた。自分の分析の結果ではなく、他人の口から漏れた感想をもとにして買った馬券なのである。達成感はとくになかった。
「ハラちゃん、まだ戻ってないんですね」
 克子が声をかけると、いつの間にか紅をさし足したらしい美園ママがこちらを見てうなずく。どこか遠くの売店にまで足を伸ばしているのだろうか。もっともハラちゃんが戻ってきたところで、克子は十二万馬券の顛末(てんまつ)を話す気などない。ママにも報告する気にならない。今日、ベテラン競馬ファンの克子は引率者的な立場で、他人の予想で獲った馬券などで浮かれるつもりはない。
「美園ママ、いつも複勝ばっかりなんですか?」
「うんそう。いろいろ考えるの面倒くさいからね」
「でも複勝じゃ儲からないでしょう」
「儲からないけど、大きく損もしないからね。今日だって、ひいふうみい……、マイナスはせいぜい三千円ぐらいよ」
 指先を湿らせて財布の中身を数えるママを見て、克子は言う。
「今日、ここの席代はわたしが奢りますよ」
「なに言ってんの。割り勘でいこうよ」
「ううん。今日はママとハラちゃんにここまで足を運んでもらったわけだし。それに、勝手にソファ席じゃないとこ予約しちゃったし」
「厭なこと言うねえ。見やすくていいじゃないのさ、この席。それにママのあたしが店の子に奢ってもらうわけにゃあ……あっ、あんた」
「えっ?」
「さては、いま馬券当たったんだね? 急にそんなこと言い出して」
「えっ、や、そんなわけじゃ」
「いくら儲けたんだい? それであたしが複勝ばかりで儲からないとかなんとか言い出したんだね」
「いえ、そんな……」
「なに揉めてるんですか?」
 ハラちゃんが戻ってきた。プラスチックのトレイにビールのほか、もつ煮やフレンチフライを山と載せている。
「克子がどうやら大きいの当てたらしいんだよ。それが白状しなくて……あんまり水くさいじゃないか、いくら水商売あがりだからって」
「あらっ、そういえば克子さんのお財布パンパンに膨れてる。すごいわあ。あとね、おつまみいっぱい買ってきたから、みんなで食べましょうよ」
「ちょっとちょっと……。あんたもかい、ブルータス」
「はあ?」
「そんなに買いこんできたってことは、あんたも当てたんだろ、いまの荒れたレース」
「えーっ。馬券の買いかたも知りませんよう」
 ハラちゃんは童女のように透きとおった声で否定しながら、美園ママの好みそうなもつ煮や漬け物をトレイから取ってママの前に並べる。
 こういう賑やかさは、スナック波止場をやっていたときから変わらない。

画像3

 スナック波止場は、海から遠く離れた内陸部にあった。海がないばかりか、近くには川も池も浄水場もない、あらゆる水場から縁遠い場所であった。
 それでなぜ「波止場」なのかと、勤めに慣れてきたころ克子はママに尋ねた。
「さあねえ。オーナーが若大将あたりのファンだったんじゃないの?」
 その返答で、美園ママが雇われママであることを知った。このへん一帯の地主が店のオーナーであるらしい。
 夫と死別したのち、長いこと専業主婦だった克子は職探しに苦労した。
 酒が強いのが取り柄だからと水商売を尋ねてみると、色気がないせいか、あるいは大柄な体と角ばった男顔が邪魔をするのか、克子を雇い入れてくれる店はなかなかなかった。あきらめ半分で「店員急募」の紙を貼ったスナック波止場の戸を叩いたら、「あらっ、いらっしゃい」と髪を揺らして振り向いたハラちゃんが、克子を見るなり「どうぞよろしく」と微笑んだ。それが事実上の合格通知となり、美園ママに「源氏名は〝克子〟でいこう」といきなり命名された。
 本名よりもずっと時代がかった源氏名で、克子は次の日から働くことになった。ちなみに「美園」という可憐な源氏名はママ本人が名付け、なぜかハラちゃんだけは本名の「原山(はらやま)」からとったあだ名で呼ばれていた。
 いざ勤め先が決まってみると、克子は軽いところのない自分に水商売が勤まるのか不安で、その晩はよく寝つかれなかった。しかしそれは杞憂だった。
「波止場」で克子は、愛嬌もおべんちゃらも求められなかった。愛嬌はハラちゃんが担当していたし、おべんちゃらというものはこの店自体になかった。ママもハラちゃんも客とごくふつうに、対等に会話していた。
 スナック波止場は繁盛していた。さびれた商店街のなかで、ひょっとしたら一番賑わっていた店かもしれない。いままで二人でどうやって店を回していたのか不思議になるくらい、客足が途絶えることはなかった。
 客の大半は、商店街の店主たちと、近隣の住宅地の隠居のひとびとである。たまに間違って学生風の男三人組みたいのが入ってくることもあったが、そういう客もなぜかそのまま常連になったりした。
 たしかにママの作るおつまみは美味しいし、ドリンクも格安、そのくせカクテルなどは気前よく濃いめに按配されていた。しかし、とりたてて美人がいるわけでも調度が立派でもないこの店が、なぜこれほど客を呼ぶのか克子にはわからなかった。
 克子はカウンターの中で、お酒をつくったりグラスを洗ったり拭いたりばかりしていた。美園ママもハラちゃんも、一通りのお酒の作り方を教えたほかは、とくになんの指示もしなかった。
「新人さん?」と常連客に尋ねられるたび、ママは「そう。克子ちゃんです」と答え、克子が「克子です。よろしく」と不恰好に頭を下げると、店中のひとが微笑んでうなずいた。克子はそのとき以外は放っておかれて、自分のようなぶっきらぼうな女にわざわざ話しかけてくる客もいないだろうと、もくもくとコップ磨きに励んだ。
 そんな毎日を繰り返しているだけだった。それだけなのに、克子はいつの間にか店になじんで、「波止場」の一員になっていた。
 なんのきっかけもなく、ある日突然、ああ、いま自分はこの店の一部である、と理解したのだ。
 美園ママもハラちゃんも、おそらく克子が店に入る前と同じように、日々を過ごしていたのだろう。お客さんたちもそれは同じで、克子がいようがいまいが、いつも同じように店でのひとときを楽しんでいただけだった。
 店になじんだ、と克子が自覚した日から、不思議とまわりの態度も変わってきた。
 常連である電器屋の店主が、急に克子のことを「用心棒」と呼びはじめた。この電器屋は口が悪いところがあって、平板で大きめな楕円形をしたハラちゃんの顔を指して「わらじ」と呼んだりしていた。「用心棒」と言われてみると、大柄で口数すくなく茶筒のような体型の克子にはぴったりのあだ名で、本人がいちばん大きな声で笑った。それがきっかけで克子は初めて話の輪に加わった。
 その日最後の客が帰ったあと、初めてママは克子の身の上を尋ねてきた。夫が亡くなって、と克子が話すと、ママもハラちゃんも「ああ」と、ひどく納得したような嘆声を漏らして、それ以上なにも訊いてこなかった。
 克子は、お客さんたちがなぜ「波止場」を好むのか、だんだんとわかってきた。
 肩に力が入っていないとか、適度に放っておいてくれるとか、美点はいくつか挙げられるが、なかでも欠かせない要素のひとつに、美園ママの清潔感というのがあった。見た目ではなく心構えの話である。
 お通しは無料、客が入れたボトルはだいじに扱うが、それ以外はお酒の注ぎ方をけっしてけちらない、などというのはその一端だが、なにより、お客さんを色分けして態度を変えることをしなかった。常連さんにもいちげんさんにも、同じように語りかけ、同じように心を配り、店がたてこめばみなを等しく雑に扱った。
 常連のなかに、ドラッグストアの社長がいた。駅ちかくに店舗を三つ持っていて、この界隈では珍しく羽振りのいい客である。白州(はくしゅう)十八年などという、高いウイスキーのボトルを入れるのはこの社長だけだった。周りと比べると若めで、風采もいい。
 上客だからといって格別に大切にもされず、社長もその待遇がべつに不満でもないようだった。三人連れの客が入ってきて二つ続きの席しか空いていないとき、社長は美園ママに言われる前に自分でグラスとお通しを持ち、おしぼりでカウンターをさっと拭いてから席を移ってくれた。ときどきは美園ママにお酒を勧めることもあった。ママは一千円の米焼酎を飲むのと同じように、三万円もするウイスキーをストレートで、このうえなく美味しそうに飲んだ。
「波止場」の客はほとんどが現金払いだが、社長がボトルを入れたとき、手持ちが足りないとかでカードを出してきたことがあった。そのときママは「お金持ってないのかい」と心配そうに訊いたあと、
「飲みしろをカードで払うなんて野暮なことするもんじゃないよ。お金がないならツケといてやるからさ」
 と励ますようにウインクした。社長は困ったような顔をしておしぼりで首の後ろを拭き、翌日にまたやって来てツケをきれいに払っていった。
 美園ママはふだんからツケ払いに寛容で(回収率はしぜんと高かった)、店の売り上げにはほとんど頓着していなかった。営業は至極順調だったから、気にする必要もなかったのかもしれない。決まった額だけを店に残して、オーナーから預かった通帳を持って、こまめに売上金を銀行に預けに行っていた。
 美園ママと対照的に、オーナーにはがめついところがあった。克子は会ったこともないが、オーナーの気配は日々感じていた。どこから感じていたかといえば、毎日店が出すゴミからである。
 閉店後、ゴミの入った袋の口をしばって店の中に置いて帰る。翌日出勤すると、もうその袋はなくなっている。オーナーが朝がた車で店にやってきて、回収していくのだそうだ。
「事業系のゴミ袋ってさ、高いだろ」
 ママがあきれ顔で説明してくれたところによると、商店や企業が使わねばならない事業系ゴミ袋の代金をケチりたいがために、オーナーは店のゴミを毎朝回収しては、隣町にある自宅の広大な庭で燃やしているそうなのである。
 克子は、煙草の吸殻やレモンの搾りかすが入ったゴミ袋を眺めながら、オーナーが若大将の歌を口ずさみながら広い庭で焚き火をしている姿を想像してみた。しかし、見たこともないオーナーをママと同年輩の女性と想定しているせいか、「海 その愛」のサビ部分を気持ちよさそうに歌う美園ママの姿しか思い描けないのだった。

画像4

 いっぽうハラちゃんは不思議なひとだった。まず年齢がわからない。
 声と髪のツヤは、十代のそれである。お化粧はほとんどしておらず、電器屋に「わらじ」と名づけられるくらい、平べったい顔をしている。目も鼻も口も小さくて、それが間隔をおいて配置されているから、余白が多い印象である。頭のてっぺんにチューリップを一輪挿したら似合いそうな、ちょっとおめでたいような顔をしている。
 はじめのうち、克子はハラちゃんをまだ二十代だと思っていた。しかし「波止場」での勤務歴は長そうで、ママの過去についてもやたらと詳しい――ママから聞いたのではなくその場に居合わせて直に目撃したかのような――話しぶりを見せるときがあって、途中から幾つぐらいかわからなくなり、そのうち年齢などどうでもよくなった。
 ハラちゃんは常連客にもいちげんさんにも、美園ママにも克子にも、同じように愛想よく接した。店がたてこんでもけっして慌てず、朗らかな態度を貫いた。ハラちゃんには、いつも余裕があった。それは人間的におおらかだからというだけでなく、ある特殊能力によるものでもあった。
 ハラちゃんには、客の注文が前もってわかるという特技があった。
 常連客はだいたい頼む酒が決まっていて、一杯目は必ずビールの客が来れば、克子でも顔を見た瞬間にビールグラスを手にすることができる。
 しかしなかには毎回違う酒を注文する客もいる。そういう客が来たときでも、ハラちゃんはお客さんが席に着く前からグラスや氷をセットしはじめる。そして「ハイボール」と言われたときにはもう、グラスのなかでソーダの泡がはじけている。これが「ソルティドッグ、高血圧だから塩なしで」なんて注文のときでも、コップの縁に塩をつけずにグレープフルーツジュースを注ぎ終えていたりする。
 なにか法則性をつかんでいるのだろうかと、克子もハラちゃんを見習って客の注文を当てようと試した時期がある。しかし、すぐにあきらめた。そこに法則性などなかったのだ。いちげんさんが「ジョニ赤のダブル水割り氷抜きの常温水で」なんて言うのもハラちゃんには事前にわかってしまうし(ジョニ黒には手も触れない)、三年ぶりに来てくれた客がしたたか酔ってから「タコさんウインナー食いたいなあ」などと言い出したときには、ハラちゃんはもう赤いウインナーに包丁で切れ目を入れているのだ。

「まっ、十九万円もある」
 克子はついに財布をママに取り上げられ、大雑把に万札を数えられ(本当は二十四万円以上ある)、万馬券を当てたことを白状させられた。
「まさか克子がねえ、穴狙いとはねえ」
「あら、あたしは克子さんて、冷静に見えて大胆なとこあるってにらんでたわよ」
 ハラちゃんも札入れを覗きこむ。そして、
「あっ、これ」
 と、小さな声を洩らした。ママもハラちゃんの手元を見た。
「あら。これ、まだ財布に入れてるんだ」
 さっき畳み直して隅に入れた、八千円のことである。
「万馬券、これで買って当たったんならドラマチックだったねえ」
 ママが言う。
「ううん。このお守りがあったから当たったのかもしれないわよ」
 ハラちゃんに笑顔で見つめられ、克子は、いやいや、あなたの予想ですから、と心中で答える。
「ところで、お二人とも、生でレース観なくていいんですか?」
 この席からは、馬はだいぶ小さくしか見えないのだ。
「そうねえ、天気もいいし、外で見てもいいわねえ」ママが言うと、ハラちゃんが外を指さし、
「あそこに行って見られるの? あそこって専用の券がないと行けないんだろうと思ってた」と、はしゃぎだした。
 それからみな無言になって、ハラちゃんが買ってきたおつまみをもくもくと平らげ、それぞれ残っていたお酒を飲み干し、マークカードを大量に持って席を立った。

画像5

「波止場」がいい店だったことは間違いないが、店をとりまく死の気配だけはもう、どうしようもなかった。
 克子の財布の隅に畳んで入っているお札に気づいたのは、ハラちゃんだった。店に置いてある煙草を克子が買っているときに目をとめたのだ。
「克子さん、そこに入ってるお札って、知らないうちにお財布のお金遣いきっちゃったときに、ああ、まだこれがあった、助かった~、ってなるように入れてあるの?」
 と、まどろっこしい質問をしてきた。財布にそのお札が入っていることを克子自身が忘れかけていた時期だった。
「ああ、これは……」
 克子は買った煙草の封を開け、一本取り出して吸い口をカウンターで軽く叩きながら、死んだ夫のことを話しはじめた。
 夫は克子より二回り年上で、逆に身体は克子より二回り小さく、小鼠のようにはしっこく、こまめに動く男だった。しぜんと家計も通帳も夫が握るようになった。とはいえケチなところはまるでなく、克子には毎月の生活費のほか、小遣いもきちんと渡してくれていた。
 その小遣いで、克子はたまに馬券を買った。散歩がてら自宅からいちばん近い場外に行くこともあったが、夫が新橋のウインズ近くのビルで警備員をやっていたので、夫に頼むことも多かった。
 いつもお金を先に渡すのだが、その日はたまたま馬券の購入を頼み忘れていた。そんなときに限って、予想が当たる気がしてならない。克子は夫の携帯に電話をし、あとで払うから、と八千円分の馬券を頼んだ。
 結果は、かすりもしなかった。
 帰宅した夫は、妻の指示どおりに購入した、もはや一円の価値もない馬券をこたつの上に置いた。克子は気づかないふりをした。夕食を並べるついでに馬券の上に新聞紙をかぶせて見えなくした。
 翌朝、こたつを拭いているとき目の端で馬券をとらえた。克子はわざと乱暴に新聞紙を畳み、馬券はこたつ布団の上を滑り落ちた。
 克子の小遣い用の財布には八千円以上のお金が入っている。立て替えてもらったお金は、今すぐにだって返せるのだ。しかしなにが虚しいって、はずれたとわかっている馬券の代金を払うほど虚しいことはない。克子は馬券を見ないようにしながら指先でつまみ上げてチラシの間にはさみ、古新聞入れに押しこんだ。
 夫は、きちっとした性格である。休日の喫茶店代を克子が生活費から払えば、「これは遊興費だから」と、自分のコーヒー代をあとから補填(ほてん)してくるくらいきっちりしている。そんな夫が、八千円のことを忘れているはずがない。憶えていて言わないだけだ。克子のほうから返してくることを待って、黙って朝食の味噌汁をすすっているのだ。そう分かっていても、どうしても口惜しい。どうせ八千円払うなら、これから発走するレースの馬券を買いたい。
 その朝、夫はなにも言わず仕事に出ていった。そうしてそれが最後になった。職場からの帰途、夫は心筋梗塞を起こして急死してしまったのだ。
 二回り年上で、小さな夫。お見合いで初めて会った日から、いずれ自分が夫を見送ることになるだろうという覚悟はあった。それでも、こんなに急だとは思わなかったし、まさか馬券代を踏み倒したまま逝(い)かれてしまうとも思っていなかった。
 永久に返せない八千円を、克子はつねに財布に入れておくことにしたのである。

画像6

 話を聞いたハラちゃんは「お守りみたいなものね」と言ったが、そうではない。むしろ戒めのつもりで入れはじめたのだった。財布を開くたび、八千円を払うことなく夫を死に追いやった自分を責めたいのだった。しかしハラちゃんに言われてみると、それはたしかに、いつしかお守りのようなものになっていた。夫の墓は遠く、家には仏壇もない。財布のなかの折り畳まれた八千円は、克子にとっては夫の遺影であり、位牌であり、お墓でもあった。
 克子の述懐が終わったあと、美園ママは、自分も未亡人であるとぽつりと告げた。旦那さんはずいぶん若くして亡くなったのだと言う。
「いっしょに暮らしたのは二年にも満たないかねえ――」
「ふたりを引き裂いたのは、赤紙ですか?」克子が手に汗にぎって尋ねると、
「あんた、あたしを幾つだと思ってんだよ」
 と、目をむいて叱りつけた。
 その様子を、ハラちゃんはだまって見つめていた。克子が顔に飛んだママの唾を拭いながら振り向くと、ハラちゃんは「わたしは未亡人じゃないですよ」と慌てたように手を振り、「結婚どころか、身内もいないんだもの」と、いくぶん声を落とした。

「あれは、わたしが小学校五年生のときのことでした」
 ハラちゃんが話しはじめると同時にママが煙草をもみ消したので、克子も倣って吸いさしを灰皿に突っこんだ。
「わたし、急に目が悪くなったの」ハラちゃんは自分の小さな目を指差す。ママはもう知っている話らしく、克子だけに向かって語りかけてくる。
 視力が落ちていることに小学生のハラちゃんが気づいたのは、お母さんのエプロンにプリントされたイチゴが、よく見えなくなったからだった。薄桃色の地に赤いイチゴが散ったエプロンは、ハラちゃんのお気に入りだった。その日台所に立つお母さんのエプロンは、遠目にただのピンク色に見えた。
 イチゴが見えない、と告げると、ハラちゃんのお母さんは「じゃあ、こんど視力測りにいきましょう」と優しく言ってくれた。それを聞いたお父さんが、「誰が視力測るんだ?」と隣の部屋から顔を出した。ハラちゃんはお父さんのほうを向いたが、お父さんの眉毛や黒縁のメガネも霞んで見える。そればかりか、鼻と口の位置もよくわからないくらいだった。
 遊びから帰ってきた弟の帽子についている野球チームのロゴも、いつも着ているTシャツに書かれた背番号も、数字はわかっているのによく見えない。これは重症だ。ハラちゃんは目をこすりながら、お父さんと同じような分厚いメガネをかけることを覚悟した。
「そこが子供よね。学校の黒板やお友達の顔はちゃんと見えてたのに、おかしいって思わないんだもの」ハラちゃんは水をひとくち飲んで話を続ける。
 その週の土曜、ハラちゃんはいちばん仲良しの同級生の家に泊まりに行くことになっていた。先月その友達がハラちゃんの家に泊まりにきており、お返しのような形だった。日曜の昼までに帰宅し、それからお母さんと視力回復センターに行く予定だった。
 その朝、友達の家での朝食は、イチゴが挟まれたパンケーキだった。じつはハラちゃんは、イチゴの見た目は好きだが、味そのものは好きではない。酸っぱいからだ。でもよその家で好き嫌いを言うわけにはいかないので、唇をすぼめてパンケーキを口に運んだ。イチゴは予想どおり酸っぱかった。でもいっしょに挟んである生クリームのおかげで、酸味がほどよく中和され、ひどく美味しく感じた。ハラちゃんは大満足で、今度お母さんにも同じものを作ってもらおうと決め、小走りで家に向かった。
 帰り道の最後の角を曲がったところで、たくさんの消防車と、救急車と、人だかりが見えた。空は涼しげに青く澄んでいて、火事が起きているわけでないことは子供でもなんとなくわかった。
 ハラちゃんが人だかりに近づくと、「原山さんとこの娘さん」という声が上がり、近所のおじさんおばさんがおろおろしはじめた。ハラちゃんが不思議に思いながらも家に近づこうとすると、隣のおばさんがハラちゃんの肩に触れていっしゅん引き止めるような仕草を見せたが、おじさんが抑えた。それから道をふさいでいる人混みがしぜんと左右に分かれ、ハラちゃんはまっすぐ歩を進めた。家の目の前には消防車が停まっていて、ハラちゃんは車の脇から家のほうを覗き見た。
 ハラちゃんの家は、なくなっていた。
 家があったはずのところが、そっくり竹林になっている。
 裏の崖が土砂崩れを起こしたということは、あとで知った。その瞬間のハラちゃんの目には、家がとつぜん竹林に姿を変えたようにしか見えなかった。崩れた崖の上にあった竹林が、家を潰したあとも形をとどめていて、そのように見えたのだった。
「それで、天涯孤独になったんです」
 話が終わった合図のように、ママがライターの火を点ける。
「でも救いだったのは、みんな苦しむ間もなくあっという間だったろうって、一目でわかる状態だったことです。イチゴのエプロンも竹でぐさぐさで、ほんの端切れしか出てきませんでしたから」
 顔をこわばらせるしかない克子に、ハラちゃんは、
「命のともしびの消えかけている人が霞んで見えたのは、あのときが最初で最後です。もう誰のことも霞んでは見えないので、克子さん、怖がらないで大丈夫ですよ」
 と、いつもの笑顔を向けたのであった。

 店にまとわりつく死の匂いは、従業員たちに限ったことではなかった。
 そして結局、「死」が、店を閉店にいざなった。
 スナック波止場の常連客は、定期的に亡くなった。
 そういう年齢層なのだ、と言ってしまえばそれまでだが、割に年代問わず亡くなった。三ヶ月にひとりは亡くなっていたと思う。しかも、店にくる頻度の高い客から順繰りに死んでいくのだ。
「波止場」は、地元の奥方連中には評判が良くなかった。常連客のほとんどが近隣に住んでいながら、妻たちを連れてくることはまるでなかった。客のほぼ百パーセントが男性だった。
 きれいどころがひとりもいない、というのは客たちも面と向かって言っていたことだが、伝え聞いた妻たちの陰口はもっと辛辣で、「婆さんとおかめと軍曹しかいないのに繁盛しているとこが薄気味悪い」というものであった。見目麗しからずであったことが、かえって同性の反感を招いたのである。わかりやすい美人に夫たちが群がっているほうが、よほど健全に映るのだろう。
 おつまみの味つけが異常に濃いらしい、と謂れのない疑いを持たれたこともあったし、あそこで出す酒にはメチルが混ざってる、と笑えないデマを吹聴されたこともあった。スナック波止場がスナック墓場と揶揄(やゆ)されるようになったのも、いわば自然な流れだった。
 そんな評判だったから、常連客が死んでも美園ママはけしてお悔やみに行かなかった。ただお通夜の日の営業が終わったあと、亡くなったお客が好きだったお酒を三人で飲んだ。電器屋の主人のお通夜の晩、塩なしのソルティドッグを飲みながら、「わらじ」と呼ばれていたハラちゃんは静かに涙を流していた。
 ある日克子が出勤すると、店の内部がいつもより暗かった。電球が切れかけているのかと思ったが、最新のLED電球に付け替えたのは先週のことだ。首をひねりながら店の奥に進むと、カウンターの端で美園ママがうなだれている。
「克子かい」
「わ、びっくりした。ママ、今日はずいぶん早いんですね」美園ママはその日のお通しを家で仕込んで持ってくるので、ふだん出勤は三人のなかでいちばん遅い。
「――またいったよ」
 行った、でも、言った、でもないことがすぐわかるのは、この店の従業員ならではだろう。克子は高齢の常連の顔を幾つか思い浮かべた。
 そのあとママの口から出たのがドラッグストアの社長の名前だったので、克子は息を呑んだ。社長はまだ若いし、店でも無茶な飲み方はしなかったからだ。
 その日の閉店後、お通夜の酒は一杯ではおさまらず、ママは十八年の白州一瓶をほぼひとりで空けた。それから三ヶ月が経ち、次はいったい誰が、と三人とも声に出さず恐れはじめたころ、「波止場」のオーナーが死んだ。
 ヒートショックで、病院に運ばれたときはすでに心肺停止だったそうだ。オーナーは子沢山だったらしく、法定相続人が大勢いた。商店街にかかる貸地を受け継ぐことになった相続人は、まばらに空き地になっていた商店街の最果てをまとめて更地にし、マンションを建てることを望んだ。
 美園ママはなんの抵抗もしなかった。並びの店主たちと違って、ママは借地権者ですらない。克子たちと同じく、ただの従業員なのだ。
 幸いなことに相続人は、オーナーのがめつさは受け継いでいなかった。交渉の最初から、三人には十分すぎる退職金を提示してくれた。
 最後の営業日を十日後と定めてからも、美園ママもハラちゃんも、それまでと同じように接客をした。思い出を振り返るでもなく、今後の話をするでもなく、ただ客の話を聞き、おべんちゃらの混ざらない相槌をうち、濃いめに割った酒を出した。
 最後の日の最後の客を送り出したあと、ママは「長年のご愛顧ありがとうございました」と書いた紙を店の外に貼った。ちかぢか閉店するということは誰しもがわかっていたが、今日が最後だということは客の誰にも話していなかった。
 残っていたバーボンを、三人で、ストレートで飲んだ。
「それにしても、波止場はいつも繁盛していましたね」
 二人が話し出さないので、珍しく克子が切り出した。するとママが、
「あたし、男を喰い物にしてきたのかねえ――」
 と、煙草をくゆらせながら、遠い目をして言った。
「いやいや」
「喰い物にはしていないでしょう」
 克子とハラちゃんは慌てて否定する。なんというか、それは、女であることを最大限利用してきた魔性系のバアのマダムに似合う台詞である。すくなくとも美園ママは、そういう商売はしてきていない。
 ママは、二人のこれからの仕事について訊いてきた。克子は湾岸エリアのビルの警備室で働くことが決まっており、来週早々から出勤です、と報告した。ハラちゃんは、以前から知り合いの喫茶店で出張占い師のようなことを昼間だけやっていたのだが、その日数を増やすことにしたのだという。けっこう客がついていて、以前から出勤日を増やすよう要望があったのだそうだ。
 ママは「あたしは明日から年金暮らし」と笑い、吸殻に水をかけて火が残っていないことを十分確認してから、事業系のゴミ袋に入れた。そして店の灯りを落とすとき、小さな嗄れた声で、次に墓場に行くのはあたしかねえ――、と呟いた。

画像7

 克子の手ほどきで、ハラちゃんは初めての馬券を買った。
 パドックを見てから決めればいい、と克子は力説したのだが、ハラちゃんは、あたしは四月六日生まれだから四―六でいい、と、とても女の子らしい買い方をした。しかしその馬券は馬単三百倍という高配当で、しかもその一点に一万円つぎこんでいた。
 コースに向かって歩いていると、ハラちゃんが、
「ねえ、克子さん。なにか通っぽい掛け声ってない?」
 と訊いてきた。コースに向かって大声で叫びたいのだという。通っぽい掛け声――。
 本物の〝通〟のひとびとの掛け声とは、差せっ、とか、まくれっ、とか、あとは自分の買った馬の番号を「来い、十二っ」「おいこら、七番」と叫んだりとか、他はせいぜい騎手の苗字とか、きわめて短いものである。それらの吐き出された言葉が、巻き上がる土煙のような灰色のかたまりになっている。
「通っぽい、ねえ……」
「あっ、美園ママっ」
 ハラちゃんが声を上げたので克子が見ると、ママが見当ちがいの方向に歩いている。
「美園ママっ、そっちは屋外の指定席――」
 二人で止めに行くと、ママは席にぽつぽついる客たちを見て愉しそうにしている。
「波止場と同じような客層だから、美園ママうれしそう」
 ハラちゃんが小さく克子に囁く。
「聞こえてるよ」ママが言う。「しかし外も気持ちいいねえ。これがツインクルレースっていうんだね」
「いや、トゥインクルは夜にやるやつで、これは違いますよ」
「えーっ、あたしもこれがトゥインクルレースだと思ってたあ。じゃあなんていうの?」
「なにって、いうならば東京シティ競馬……」
「あっ、みそのママっ」
 ママが通っぽいひとたちの群れに紛れこんで見えなくなりそうになっている。ハラちゃんは小柄な美園ママの肩を抱いて戻ってくる。
「ねえ、ハラちゃん。掛け声は、〝そのまま〟がいいよ」
「そのまま?」ハラちゃんは首をかしげる。
 第四コーナーを回って直線に入ると、先頭グループが場外のモニターに大写しになる。そのときに、「そのまま」という声がよく上がる。自分の買っている馬が先頭にいるから、そのままの隊列でゴールまで来てくれ、という意味である。
「馬たちが、あの角を曲がってここの直線に入ってきたあたりで、そのまま、って言ってみ」
「そのまま、だけでいいの?」
 ハラちゃんはピンと来ていないようだ。
 各馬ゲートイン完了。すぐ発走。走り出した馬群の足音はまだ聞こえてこない。
 美園ママとハラちゃんは「わあ」と言いながら向こう正面を目で追い、克子はターフビジョンを確認する。二、三、七。先行馬が順当に前を固めている。ハラちゃんが買った馬券は四―六の馬単一点。
 先頭集団はメンバーの出入りがないまま第三コーナーから第四コーナーに向かってきた。そして直線に差し掛かる。二と三が先頭争い。もし「そのまま」ゴールまで来てしまったら、克子は幾らか買っているものの、ハラちゃんの馬券は紙くずだ。しかし「そのまま」の意味を考えないハラちゃんは、もとから可愛らしい声をさらに甲高くして、
「そのままーーーーっ!」
 その場に飛び跳ねながら叫んだ。
 二―三はほんとうにそのままやって来た。飛び跳ねたハラちゃんの長い髪が宙に舞ってからぱらぱらと彼女の背中に降り、その髪の向こうで、ハラちゃんの叫び声に反応したおじさんたちの嬉しそうな笑顔が、いくつもこちらを向いていた。

(本文中写真・鈴木七絵)

スナック墓場_書影

スナック墓場
著・嶋津 輝
装画・水口かよこ 装丁・野中深雪
商品ページはこちら(Amazonページへとびます)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?