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わかり合うこと

違う人間の考えていることなんてわかるはずないのに、どうしてわかってもらえるとかわかり合えるとか思ってしまうのでしょうか。

わかってもらえていると感じると嬉しい気持ちが芽生えます。
わかってもらえるというか、感情とか思いを共有できていると、嬉しいなって気持ちになる。

これは基本的に、別の人間同士だから別々にあったのに、それが重なり合ったからこそ嬉しいのかなって。
普通はありえないことだからこそ、お!ってなるのかなって。

でも、一方で、言葉を尽くせばわかってもらえるとか、わかり合えるとか、そう信じている部分もあるような気がしている。
そこまでいかなくても、この世界のどこかには、似たような思考や性格の人がいて、その人と出会うことさえできればきっと何かを共有できるんじゃないか、そんな風に思っている部分があるような気がします。


わかりあえないからこそ、わかりあえたとかんじたときに嬉しいって、それわかりあえるんじゃん?
でも、わかりあえているって感じているのは自分だけで、本当に分かり合えているかどうかを確かめる術なんてないじゃん?



むかーーーし、先輩が、先輩の先輩に、こんなことを言っていた。

「最近、言葉なんていらないっていうか、無駄なんじゃないかと思って。なんかこう、おでことおでこくっつけたら考えてることが伝わるみたいな、テレパシーみたいになればいいのにって思います。」

酔っていたのもあると思う。
あと、まぁまぁ深夜だったから眠かったのもあると思う。
後輩(私)にハーゲンダッツを奢らされ、
深夜のコンビニの前の灰皿の横で、
もうちょっとでヤニ補給できるって、
ヤケクソだったのかもしれない。

タバコの煙をもくもくさせた先輩の先輩に、
「は?お前何言ってんの?意味わからん。」
と言われていた。

ハーゲンダッツにスプーンを刺した私も
「は?先輩何言ってんだ?意味わからん。」
と思っていた。

自分のタバコをくわえた先輩は
「へへ。自分でもそう思います。」
って言いながら、そのさきっぽに火をつけた。


人とわかり合えないものだよね。
人とわかり合えたら嬉しいよね。
人とわかり合うってなんだろう。

そんなことを考える時、あの深夜のコンビニを思い出す。先輩も、先輩の先輩も、覚えてないかもしれないけど。

あのときの先輩は
今の私と、同じこと考えてたのかな。

だとしたら、先輩と私は、わかり合っているのかな。

わかんないけど。

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