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本日の「読了」──Aiに著者校正はできるのか


牟田都子『文にあたる』(亜紀書房 2022)

書籍雑誌、広告チラシ、最近ではWEBページ掲載の「文字情報」の校正を仕事とする筆者のエッセイである。
 印刷所や出版社、編集プロダクションに「所属する」人もいれば、フリーランスの人もいる。筆者も指摘するように、大手出版社や新聞社をのぞけば、「社員」として働く校正者よりも、フリーのほうが多いのかもしれない。
 私事だが、おっさんは、専門校正者などいない零細編集部にいたが、発行する雑誌には「校正者 ナニノナニガシ」と書かれていた。退職するまでその人物にあったことはないのだが……ということはさておき、校正とはなんだろう、どういう仕事なのだろう、苦楽はどこにあるのかという興味があるかたには入門としてお勧め。
 担当編集者も解読できない悪筆の作家の原稿は、印刷所に流すと、印刷所の「担当」が解読して文字に起こす(それでも読めない字は”げた〓"を印字されてくる)くだりなどは、先輩から聞いていた作家の名前とプロセスが描かれていて面白かった。
 校正者は、検閲者では絶対にないし、間違い探しや、ファクトチェックだけが仕事でもない。目の前の仕事の内容(文学作品、科学論文等々)に通じている必要もない(通じていた方が良いけれど)。文章を読むことが好きな必要もない。本書には「挿絵」に読者から指摘を受けた話やレシピ本の話が出てくるが、まさに、その場面が「校正」の仕事の多様性であり「きも」であると感じた。

雑誌や書籍の多くは、筆者がいて、編集者がいて、編集長などの発行の責任者がいて、デザイナ、印刷所、取次ぎがあって、読者がいてなんだが、校正者はどこにいるのか。
 おっさんの主観では、限りなく編集者の傍らというか、編集者である。
 編集者の役割が「第一読者」だとすれば、専門校正者も同等。編集者との違いは書き手に対する「私情」の濃淡。担当は私情により甘さが残る可能性があるが、校正者はそういうものを排している存在。そういう意味ではより、読者に近い。
 校正者は、編集者の甘さを指摘したり、筆者の誤謬を指摘して「ひひっ」と笑う人ではない。
 本書に「読者が見つけない間違いはない」という言葉が出てくる。
 間違いが、人を傷つけたりすることもあれば、論旨の不成立につながることもある。その一文字の間違いがその先を読むことを止めてしまったりもする。
 校正者や編集者が恐れるのは、一つの間違いで、書き手の生み出した情報が世に出なくなり、伝えたいことが、伝わらなくなることである。

筆者も編集者も、いわゆる校正を校正者にまかせっきりにしているわけではない。筆者は誤字や誤りがないように書くのが当然であるし、編集者は原稿を読み込んで筆者との間でやり取りを重ね完成原稿とする。その後、デザインなどを経て、ゲラ刷りという校正刷りを作る。校正者も一人ではない。初校とそれ以後では違った「目」を通すのが普通だ。
 ゲラ刷り以降も幾たびかの校正を経て、見本(誌)が届くと、担当を初め部員総出で、タイトルや見出し、人名などをチェックする。で、なにもなければ、刊行となるのだが、それでも、間違いは見つかるものだ。
 編集担当が自分で見つけたときは、胃がキュっとなるし、筆者や読者に指摘されようものなら、平謝りしかない。重大なものであれば(おっさんの場合は雑誌だったので)次号訂正となる。読者には担当がだれかなんてわからないが、訂正記事を書き、掲載ページの担当に差し込みを頼むのは、恥ずかしいものである。

おっさんが忘れられない「校正作業」は、今もあるのかどうか不明だが、ゲラ刷りが出来上がってくると、著者校正に回す前に行う「読み合わせ」というものだった。
 筆者の原稿を担当が、担当以外の手の空いた部員がゲラを音読し、突き合わせをする。音読と言うっても素直に読んでいくのではなく、「、」「。」「(」などの役物はその名称を読み上げ、人名は漢字をへんやつくりに分解しつつ読み上げるものだった。読み上げる側をやると、仕事帰りの車中の中づり広告も「読み上げ(もちろん黙読だが)」てしまい、一人苦笑いすることになる。
 忘れられない校正の「落ち」は、人名のフリガナ。担当は別の人間だったが、色校正の段階で、チェックを入れたものがスルーされ、事後発覚。けっこうな騒ぎになった。

すっかりノスタルジックな感想文となってしまった。お詫びする。

校正の仕事を垣間見ると、自分が日々使うことばにも敏感になる。校正者という職業に必要なトレーニングは、汎用だ。わからないことや確認したいことをレファレンスする能力、いつもとちがうリズムや雰囲気をスルーしないで、それが作為なのか否かを再確認する手間を惜しまないこと。
 SNSなどでは誤字脱字を犯しても訂正するほどのことは少ないが、特に他者の情報を流用する場合、ファクトチェックは時に生死にかかわる。投稿する前に読み返さないまでも、一呼吸おくぐらいの校正作業は必要であると思う。

いまは、おっさんの時代とは異なり、手書き原稿も少なくなり、プリントアウトされてはいても、文字データがついてくる時代。誤字脱字や誤用などはテキストデータにプログラムを走らせればかなりの程度チェックできる(はずだよね、おっさんの時代でもできたのだから)。ましてや、辞書事典の類もデジタル化されているのだからさらに精度もあがっていると思う。
 校正作業もオンラインでやり取りすることが多いのではないか。校正の現場のペーパーレス化はどこまで進んでいるのだろう。現時点なりの難しさもあるかもしれない。

最近では、Ai人工知能が文章を書いたりするという。その文章を著者であるAiに校正させる際は、どのような手順になるのだろうか。そもそも、Aiはゲラの文章が自分の作品だと認識するのか、認識したうえで、加筆訂正するのか、Aiとして「許せない」と思ったら、遠慮なく修正するのか。それを繰り返したら、脱稿時とは全く違った作品にならないか。どうなのだろう。

[2023.1.23. ぶんろく]

#文にあたる #校正者 #読書感想文

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