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ビダイ物語

第1章 謎のビダイ道

第1話 ディテール
ビジュツ大学を卒業して20年が経つ。
コロナ禍、本棚を整理していたら1998年の日記が出てきた。
へたくそで乱雑な文字とビダイセイとは思えないイラストが散りばめられていた。
パラパラページをめくり、誤字脱字だらけの文字を読んでいくと、1998年はただならぬ1年を過ごしていたことが分かった。
この日記に出会わなかったら、過去に葬り去られた日々。
現在の自分の心を揺るがす日記との出会いからこの物語を描こうと考えた。
★★
1997年12月31日
従兄が交通事故で亡くなった。
友人が運転する車の助手席に乗っていた。
亡くなる1週間前に従兄は父親に革ジャンをプレゼントしていたようだ。
1998年元旦お通夜
血のつながる若い従兄の死に顔はどこかしら、自分にも似ていた。
火葬場では窯場が10か所あり、その中の一か所から従兄が骨となり出てきた。
「いつか皆こうなる」
親戚の叔父さんは火葬場や葬儀の際、いつもこうつぶやく。
分かっているつもりだったが、そう言われると実感が湧かない。
養老孟司は「自分は死んだことを気づくことは無い。死を知る自分がいないのだから。」というようなことを言っていた。
生きることも死ぬこともどこか無責任で、自分の意志はどこか遠くに置き去りにされているような気がする。
「いつか皆こうなる」それまで自分は何をするべきなのか。
何ができるのだろうか。時計の針がいつもより早く進んでいるように見えた。
★★
1998年2月
長野では冬季オリンピックが開催された。
ワタシは坊主で金髪だった。
大学祭で彫刻学科では神輿を担ぐ習わしがあり、モヒカンふんどしが原則だった。
ご神体(男性器)が途中で折れ曲がり萎えた状態で校内を駆け回った。
多くの出店や駐輪所のバイクや自転車をなぎ倒すことが伝統であった。
翌日はやり過ぎ謝罪行脚をするために皆坊主にする。
新しい表現を求めて大学に入った若者たちは彫刻学科の古い伝統に縛られる。
ワタシもその一人であり、アメリカから留学してきた白人青年は背中にテリーマンと書かれ、日本酒をたらふく飲まされ救急車で運ばれた。
絹谷幸二が描いたポスターは地味な長野のイメージに花を添えた。
どこかの国のイラストレーターが描いたオリジナルキャラクターは人気がなかったが記憶には残った。
外国人をあまり見たことがなかったワタシは長野駅周辺を、頭が小さく、背の高い人間が颯爽と歩く様に目を奪われたものだ。
着ているものや持っているものも、なぜかシャレたものに見えた。
後にも先にも長野をNAGANO(ナーガーノ)とイントネーションを変えて言ったのもこの1年だけだろう。
どの競技もチケットが取れず、親父と妹と長野オリンピックスタジアムの外から欽ちゃんが司会する声を聞いた。
歓声と花火に圧倒された親父は興奮していた。
学校帰りに遊んだ小道や、祖父の田んぼはオリンピック道路に分断され、田舎の景色にはにつかないオリンピック競技場だけが残された。
進歩とは古いものや思い出との決別であるのだろうか。
★★
6月、フランスワールドカップ開催。
サッカー日本代表がワールドカップに初出場した。
ジダンが活躍しフランスが優勝した。
ジダンが好きで、ワタシは大学ではフランス語を履修していた。
フランス語講師はフランスにブドウ畑をもっているといつも自慢していた。
ワタシは3年間真面目に学んだが大してしゃべられるようにはならなかった。
隣に座っていた利発そうな男子は3年次にはペラペラだった。
埋められない差が人にはあるなと実感した。
日本代表は3連敗で終えたが、歴史的な一歩を刻んだ。
ワールドカップ日本人初ゴールを決めた中山雅史はかっこよかったが、世界との壁の厚さを感じずにはいられなかった。
サッカーへの熱は冷めつつあったが、大学のサッカー同好会に時々顔を出して、プレイをしていた。
高校時代はケガが多く、不遇な3年間だったが、大学時代はケガが治り体力もあった。
もう少し粘り強くサッカーを続けていたらJリーグで活躍していたかもしれないと妄想していた。
★★
8月、アトリエに入らないほどの大きな作品をクソ暑いアスファルトの上で制作していた。
かっこよく聞こえるが、アトリエに入れてもらえなったというだけ。
自己中で我がまま、そんな自分だった。
教授からは見放されていたが、アーティストはアカデミックではいけない、アウトサイダーだと反抗心を漲らせながら制作をしていた。
ビダイ生にありがちな心理状態を自分も実践していただけ。
思い込みや勘違いは若者の特権だ。
親父はしきりに大学へ行けと言った。
「わしはパチンコ大学、ラーメン大学を出たのじゃ。」とよく言っていた。
この世代のお決まりのジョークだ。
周囲は聞き流していた。
高卒で苦労した親父は、ワタシが大学へ行きたい話したときは快く受け入れてくれた。
その後学費で大変な目に合うことは、さすがの親父も気づいていなかったようだ。
ワタシはビジュツ大学を選択した。
ゲイダイは受験生なら必ず目標にするところだが、受かるわけもなく補欠でひっかかったビダイに行くことになった。
タチカワのビダイ予備校に一年通った。
古いビルの地下で毎日石膏デッサン、ヌードデッサンを繰り返した。
小中高とサッカー一色だったため、固く小さい木椅子に座り続ける日々は慣れなかった。
「お前は四年で芸大コースかな」と講師に脅かされていたが、周囲には2~5年浪人を重ねている先輩がいた。
あずさ壮(風呂なしの四畳半)では、毎晩5浪の先輩が遊びに来た。
話が面白くなかったので早く帰ってほしかったが、意味不明な芸術論を深夜まで聞かされた。
先輩は翌年もゲイダイを落ち、大学を諦め造形工房へ就職した。
先輩はデッサンや造形力は予備校の中でもピカ一だった。
何が原因で合格しないのかが全く不明だった。
本当の芸術家はそもそも大学へ行く必要はないのだろう。
★★
作品の強度をあげるため、作品の張りぼての内部にもぐり込み、FRP(プラスチックは固まる前はゲル状)をグリグリ塗って補強をしていた。
無駄な補強と誰か教えてくれたなら・・。
無駄の多い人生、それは人生の余裕である。
大学近くの公園でビダイセイによる野外展が計画されていた。
入学したばかりのワタシも展示を勧められ、作品を制作し始めた。
ビダイに勢いで入ったが、技能も才能も凡庸で並み。
ただ高額な学費を親に払ってもらっている手前、何か形跡を残さないとまずいんじゃないかと考えていた。
そのころ、親父が自営業を始めることになった。
視覚障害があり、長年勤めていた会社を辞めることになり、盲学校へ通いながら資格を取得し針きゅう治療院を始めた。
「治療院の目印になるような彫刻を駐車場に設置してほしい」と言われていた。
野外展に設置した後、実家の治療院に設置することも考えていた。
狭い洞内で衣服にこびりついたFRPがガチっと硬化し始めた。気温が上昇するとFRPの硬化が早まるのだ。

第2話 天才とドロボー
天才がたくさんいたら、天才の価値は無くなる。
ビジュツ大学は美術の元天才少年少女が集まる場所である。
ゲイダイには現天才、大天才が集まる。
ビジュツ大学にいる連中を見ていると、美術というカテゴリーから外れているヤツが多い。
なんで多浪してまでもビダイに来たのか分からなくなるほど、何もしない人。
絵がめちゃくちゃうまいのに、屁理屈しかこねない人。
教授に生意気なことを言うくせに、妙に作品がショボい人。
バイトに明け暮れ、途中でいなくなる人。
ワタシは高額の学費を払っているのだから、大学の資源を使い切るべきといつも考え、夢中で制作していた。ただの貧乏性。
貧乏が染みついている。
人には様々な考え方があり、学費を高額と思っていない人、高額な学費を払って暇な時間を美術以外のことで使いたい人、何も考えていない金持ちな人・・。
ワタシの狭い価値観だけでは捉えきれない人間がビダイにはウヨウヨしていた。
一般社会に出たら、天才たちはもれなく変人として扱われる。
たまに成功して天才芸術家といじられる者は10年に一人。
歴史に名を遺すほどの逸材は100年に一人と言われている。
ほとんどの元天才少年少女たちは海底のプランクトンとなる運命を辿る。
ワタシももちろん海底プランクトンである。
いや、海底堆積物かもしれない。
いじけているわけではなく、美術自体がそんなものと心のどこかで思っている。
そんなものだからこそ、魅力があり、世の中にハマらない人たちの拠り所になっているような気がする。
そして、誰にもチャンスや夢があるような錯覚が持てるのが、ビダイ時代なのだ。
★★
FRPの硬化とともに作品とツナギが接着し始め身動きがとれなくなる。
「ツナギ、ツナギ、つなぎ・・」
「やべー、逃げらんね!」
皮膚は焼けるように熱く呼吸が苦しくなっていく。
両腕は垂木に挟まれ動かない。
体がデカくて有難くないと、この時ばかりは考えた。
下着にFRPが染み込み硬化が始まった。
★★
中学2年夏、下着ドロボーを捕まえた。
隣のおばあちゃんの下着を盗み、電柱に張り付けた奇異なドロボーは近所の中学生だった。
ワタシは体に合わないピチピチのパジャマを着たまま、真夜中ドロボーを追いかけた。
ワタシはサッカー部、ドロボーは陸上部だった。
走っている最中に後ろから尻を蹴り上げた。
ランナーはそこに住んでいた女子中学生の下着と思い込んでの犯行だったらしい。
そのころ、我が家の金庫も何回か荒らされた。
下着ドロボーが家の金庫も狙ったのではと強く疑い、警察に何度も相談したものだ。
結局は父親の犯行だった。
「わしが稼いだ金を持っていって何が悪いんだ」
その通りだが・・・
母は余りにもの恥ずかしさで口をつぐんだ。
日が沈み、あたりには誰もおらず、周辺は静まり返っていた。
★★
ジタバタと必死でもがいているうちに、防毒マスクにこびりついたFRPが硬化し意識が遠のいてきた。
大学の奨学金40万円を全て制作費に注ぎ込んだ。
なんとなく今回の作品には運命を感じていたから。
もしかしたら世界に知られる作品になるかもしれない。
そんな淡い期待を持っていた。
若さは勘違い。
なれないFRPも最初で最後と思い無理をして扱っていた。
★★
下着ドロボーをした中学生、我が家の金庫から現金を抜いた父親。
天才は殻を破る、常識を覆す。
人間はある条件が整うと、誰でも天才になる。
神に近づく。
神にはルールはない、人間を超えた存在となる。
アートの世界は人の心を揺さぶり、奪う瞬間がある。
ドロボーとどこか切り離せない部分があるのだ。
父親は自分で稼いだお金と、母が支払いのためにとっておいたお金に違いがあることが、分からなかったのかもしれない。
ただ、殻を破る人はその辺の約束や道徳的価値観を無視してくる。
駐車場にワタシの未知なる無評価な作品を設置しようと考えた父親は天才そのものだ。

第3話 創造的不良
気が付くと、守衛のライトが眩しく目を覚ました。
「またお前か、この時間にいるのはお前さんとムサネコだけだ。彫刻科は閉校時刻を聞いていないのか!」「早く帰れ」といつものセリフ。
ムサネコは表情一つ変えない。
猫だから当たり前だが、動物は表情を変えない。
ワタシも子供の頃から無表情な子供と周囲に言われていた。
幼少期最も古い記憶(1歳か2歳)に、ワタシの顔を見つめる両親と猫の顔がある。
身近にいるこの人たちが自分の親であるということを知るまで、親も猫も同じものだと思っていた。
世話をしてくれる人が二人いる。
じわじわと分かってきたという記憶がある。
親と猫の違いがはっきりしたのは、親には顔の表情に変化があり、猫には無いということ。
表情を極力変えない選択をしたのは猫を見習ったからだ。
両親はよくケンカした。
表情で巻き起こる不毛なケンカを見続けているうちに、表情を出す虚しさを感じた。
無表情は妙な争いを避けるための常套手段だと考えた。
子供ながら精一杯の抵抗だったのだろう。
大人になっても、心から楽しめない、常に不安が付きまとう性格は、幼少期にカタチつくられたものだと思う。
だからと言ってこれが幸か不幸という話ではなく、子供のころから今にいたるまで、幸せな人生であることは間違いないと思っている。
★★
高校時代もよく守衛に怒られた。
勉強ができないくせに、なぜか学校は好きだった。
ワタシはフツーの生徒だった。
周りにはヤンキーがチラホラいた。
ヤンキー全盛期ではなかった。
ヤンキーはヘアスタイルや制服を見事にクリエイトする。
しかし、学校をどこか意識したスタイルである。
そんなに学校が嫌いなら、来なきゃいい!私服で来ればいい!と心の中では思っていたが、制服をクリエイトしているうちは、学校に未練があるのだろう。
ヤンキーとラベリングするのは簡単だ。
一人ひとりヤンキーになるまでのストーリーがある。
そのストーリーを知ると、今はそのままでいいよと言いたくなる。
人は未練があるからこそ、クリエイティブになれる。
クリエイティブは切ないストーリーから生まれる。
★★
アトリエ横にあったアヒル池に下半身を沈めたまま池の淵に伏せていた。
★★
妹が川で溺れたことがあった。
間一髪母親が救い上げたことで命は助かった。
ワタシは幼稚園の年長だった。
衝撃的な出来事であり、その後風呂で妹が川でクルクル回っていた様を真似した。
近所のおばちゃんが俺を心配して風呂から覗き込んだとき、丁度回っている最中だったため、裏金玉を見られてしまった。
水抜きのチェーンに首が絡まり、もがいた。
川に落ちた妹は、大人になりシンガーソングライターとなった。
自由人としての人生を全うしている。
川の中で何かを悟ったのだろう。
ずぶ濡れのまま、何が起こったのか理解できなかった。
★★
作品の横まで這って行き、気を失う前に自販で買ったコーラをとりあえず飲んだ。
「おえ、誰かタバコ入れたな。」
ミネラルウォーターも買ってあったはずだがなぜか無かった。
ツナギの尻ポケットに入れておいた茶色の財布も無かった。
周囲を見渡したがFRP の缶が転がっていた。

第4話 夢を見るシャイな集団
それにしても、ワタシはこの作品の中で見動きが取れなかったはず。
作品の中を覗いてみると、血色の固まったものが横たわっている。
松田優作ばりに「なんじゃこりゃ!」
とりあえず胸を押さえ、手のひらについた血を確認したが・・
気味が悪くなり、一歩引いた。
さっきの出来事は何だったのだろうか。
死を直前にし、奇跡的なエネルギーで脱出したのか。
火事場の馬鹿力?
火事場の馬鹿力を教えてくれたのは「キン肉マン」
近所で火事があったとき、家主が必死な形相で家財を運び出していた。バケツリレーに参加したが、野次馬がリレーを邪魔した。
★★
本当にダメなときは、体は動かなくなる。
親戚の家は豪雪地の宿だった。
宿題を終えたら、従兄と遊ぶ約束をしていた。
3階の窓から下を見ると雪が1階まで積り、そこに従兄や友達が下半身が雪に埋もれたまま「おーい、こっちにこい!」とワタシを呼ぶ。
「ちょっと待てよ。このままジャンプしたらワタシも生き埋めになるんだよな。」と一瞬考えたが、その時は飛び降りていた。
案の定生き埋め。
従兄たちはのんきなもんで、「どうしよう~」と、雪上に残された両腕で雪玉を投げてくる。
夕方どこかの野良犬がこちらを見て吠え出した。
その鳴き声に気づいた宿のお手伝いさんが、慌てて子供たちを救出してくれた。
★★
誰かが引っ張り出してくれたのか。
紛失した財布はアヒル池の中かと思い探した。
所持金は数百円、祖父からもらった財布だった。
★★
新入生歓迎コンパが5月に行われる。
シャイで人目を避けるようなタイプが多い彫刻学科の人間が鉄工場に集まる。
新入生が出し物をする習わしがあり、数週間前から準備をする。
予備校からの知り合い村さん、馬沢、と、入学してすぐに仲良くなった北野、尾形と5人で組んで出し物を考えた。
九州出身の陶芸一家の馬場が「ドイツ、ドイツ、ドイツ、ドイツ、ジャーマン」と掛け声と共に5人がパフォーマンスをするという一発芸を考えてくれた。
シャイな5人は白パン一枚のみで、酔っ払いが集う鉄工場でお披露目をした。
「ドイツ」をシンプルなテンポで言い続け、最後の「ジャーマン」で妙な動きを入れながら落ちをつけること5回目で5人はピラミッドをつくる。
最後は馬場がピラミッドの頂点から下ネタ交じりのメッセージを垂らす。
大爆笑と怒号で日本酒と鉄粉が入り混じった空間が異様なものとなる。
シャイな連中がシャイな芸を見て笑う。
ワタシが考えるアートとは程遠い気がしたが、そういう場所にいる満足感があった。
★★
美術ならなんとかやっていけそう。
そう思わせる美術は危険である。
自分の可能性なんてよくわからないけど、何か大きいものに置いて行かれないように振舞わないといけないんじゃないか。
そんなことを考えながら大学生活がスタートしていった。
大芸術家は大学へは来ない。
ワタシは大芸術家になりたいわけじゃなく、自分の世界を掴みたいだけだった。
だから、何でもかんでもやってみようと思っていた。
大学を食い尽くそうと考えていた。
それ以降、不思議なことは続く。

第5話 マスターのほほえみ
なけなしのお金で買った道具類が次々と無くなる。
たまに自分のものではない道具が戻ってくる。
だらしない自分のことだから、仕方ないと思っていた。
ワタシの世代は盗難世代だと思って今まで生きてきた。
後に、就職氷河期とも言われていたが、心が荒んでいる人間が若いころから多かった。
中学生時代、バブル全盛期。
中学生のくせに、長財布に5,6万を入れて、休み時間貧乏人に見せびらかす同級生がいた。
当然、そいつらは貧乏人の標的となる。
「銀行」とあだ名をつけられ金を貸しまくるやつもいた。
もちろん焦げ付く。
ヤンキーになれない連中は高級サバイバルナイフを学生カバンに忍ばせていた。
教室の後ろの壁にサバイバルナイフを投げつけ、刺さり具合を確かめる品評会も不定期に行われていた。
集団万引き、集団授業ボイコットはヤンキーになれない凡人のやること。
凡人が悪いわけはない、ほとんどの人間は凡人として一生を終える。
凡人がいるから世界は成り立つ。
★★
買ったばかりのコンビニ弁当が無くなったときはさすがに周囲を見渡した。
ガテン系バイトをしていたので、腹の減りようは異常だった。
弁当は2つ食べていた。
ビダイセイの存在が好きな親方がいた。
仕事ではパワハラをしてくるが、夕食はフランス料理をおごってくれる。
泥まみれになった作業着のまま、店内に入れてくれた。
店を出るころは、革張りの椅子は黒く泥まみれになっていた。
ラグーという小さなフランス料理店のマスターはいつもニコニコしていたが、今思えば苦笑いだったのかもしれない。
★★
制作を終え帰った後、アトリエ付近でボヤが出た。
もちろんワタシが疑われたが、火を使った覚えがない。
あくる日、ワタシのスケッチブックも焦げ付いていた。
夜中まで制作を続けることが少し怖くなってきた。
友達はアルバイトや遊びで忙しく、遅くまで制作をするのんきなヤツはいない。
★★
焦げ付いても笑っていられる人になりたい。
それは心の余裕から生まれる表情だ。
心の余裕は貧乏人でも持っている人はいる。
金持ちでも余裕がない人がいる
どんな状況でも、ほほえむ余裕があれば、人を幸せにすることができそうだ。

第6話 生かされていることを振り返る
そんな不思議な体験も終わりを告げた。
大学内で窃盗犯が捕まったのだ。
どこかの大学生が学内に侵入して悪さをしていたらしい。
デザイン科で現代アートのような作品つくっていた学生がその犯人を見つけた。
その学生は彫刻科のアトリエにも何度か足を運んでいた。
ワタシも挨拶くらいはしていた。
デザイン科の人間は彫刻科を北朝鮮と思っている節がある。
方角的には北にデザイン棟、南に彫刻棟がある。
しかし、彫刻棟の南側にはコンクリートの壁があり、その隣には朝鮮大学があるのだ。
朝鮮大学には在日韓国人の方々が多く在籍している。
韓国の北には北朝鮮があるため、彫刻科はそのように思われていたのではないかというのがワタシの推測である。
朝鮮大学との交流はそのときはあまりなかったと記憶している。
その後、アートを通じて交流を図ったという記事をどこかで見た。
隣同士なんだから仲良くすればいいじゃないか。
アルバイト先の親方も朝鮮大学出身の方だったが、なぜか朝鮮大学の学生を雇わなかった。
理由は聞かなかったが、日本人との関係性のあり方を追求していたんじゃないかと思っている。
嫌いな日本人、嫌いになり切れない自分、いじめてやりたい日本人、大切にしたい日本人・・・。
関係性が複雑になればなるほど、お互いの哲学は深まっていく。
今でも朝鮮大学の学生と交流をもてなかった自分の視野の狭さを悔いる。
そう言えば近くに白百合女子大学、創価大学もあった。
ビダイ生には近付き難いものがあったが。
デザイン棟にある食堂へ作業着を着た彫刻科が出入りするには勇気が必要だった。
彫刻科の仲間と息を潜めながら、親子丼を静かに食べたものだ。
少しでもふざけた話で盛り上がろうものなら、デザイン科や建築科そして映像科に睨まれる。
少し安堵した。
デザイン科の彼が命の恩人だったのではないか。
デザイン科は冷たい心のどこかで思っていたが、冷たいのはこちらの態度だったのかもしれない。
★★
これまでの人生で何度か入院した。
睾丸に腫瘍ができ摘出手術をしたこと。
剥離骨折をして足首を手術したこと。
原因不明の高熱が続き入院をしたこと。
命を救ってくれた医者の名前すら憶えていない。
睾丸をそのままにしていたら、骨折が治らなかったら、熱がひどくなっていたら、
ボロボロの人生だったことは間違いない。
虫歯を20か所治してもらったこともある。
今まで自分の力で生きたのではなく、医療や文明の力で生かされてきたのだ。
生かされてきたという感覚は年を重ねる度に強く感じる。
傲慢さは自然に無くなり、尖ったアーティストになれなくなってくる。
山にいたときはゴリゴリの大きな欲の塊、
町中に流され、角が取れ丸石になり、
海に出るころは丸く小さな砂利になる。
河原の丸い石を集めたくなるのは、自分の人生を見ているのだ。
あのとき紛失した茶色の財布の行方が未だに見つからない。
ほほえむ準備はできている。

第7話 FAXのある生活
それからしばらくして、遠距離で付き合っていた彼女から
深夜FAXが届いた。
「きみのお財布が家に届いたよ」とまるっこい文字で書かれていた。
「ひょえ?」
彼女には一度フラれている。
暇があれば、彼女のクラスに放課後忍び込み、彼女の机にたくさん思いを書いていた。
そんな変な奴は気持ち悪がられて当たり前だ。
ただ、人生は不思議なもので、女性は気持ちが悪いものに興味を持つ時期がある。
その時期にタイミングよくぶつかり、付き合うことになった。
ジャニーズの連中が幅を利かせる時代、ナミーズ男子、ブサーズ男子はメダカのように存在を意識されないまま人生を過ごす。
水草や藻の中に隠れ、人魚姫と出会う日を待っている。
一人は気楽でいいじゃんと若いうちは言えるけど、その後はどうなのか。
ワタシは偶然拾われたが、拾われなかった人生を考えるときがある。
きっと一人で水草に隠れていたはずだ。
就職氷河期世代は、引きこもりや独身者、派遣切りのキーワードを背負っている。
団塊ジュニアとして、団塊世代に次ぐ人口の多さは消費者としての強みはあるが、いわゆる普通の暮らしができない人間は数多くいる。
では、普通とはなんだ!
大学を卒業する頃は、フリーターが流行っていた。
非正規職員として派遣職員としてでも充分暮らせた。
就職をする人間をどこか馬鹿にする風潮さえもあった。
フリーターとして、肩で風を切っていた人たちは、バブル崩壊により肩をすぼめることになろうとはそのときは考えもしなかっただろう。
ワタシの世代はそんな時代の狭間に置かれ、生き方や考え方が真っ二つに分かれていた。
ただ、生き方の正解はあるようで無い。
一生ホームレスであろうが、世界の大富豪であろうが、500年後の人間からすれば過去の古い人間。
自分の先祖か何して生きていようと気にもならない。
何も残らないし、残す必要も無い。
人間は絶対的に生きているようで、頭の中は相対的なのである。
常に身近な人間と自分を比べているのだ。
そんなことをしても不毛であることは、よくわかっている。
それが人間の性であり、どんなに哲学や思想が蔓延っても、そこの部分が変わってきたら、人間ではなくなる。
分かっていても止められない。
人間が人間であるが所以なので放っておくしかない。

第8話 奇妙な財布と価値観
ワタシの頭はぐるぐる回り始めた。
あの日、財布を落として・・誰かに命を救われ・・周辺の物が無くなる日々・・
「何で彼女の家に財布が届くの?」
財布を無くすときは、大概駐車場に決まっている。
車に乗るときに、ポケットから財布がするりと落ちる。
あちこち探すより、駐車場へ行った方が早い。
運が悪いときは自分の財布を車で踏みつぶす。
大したものは入っていないので大丈夫なのだが。
だからこそ虚しさも倍増する。
遠くでセミの鳴く声が聞こえる。
いや違う、電動カッターで鉄パイプを切断する音だ。
今頃誰かが制作を始めたのか。
休日の制作は助手に怒られる
以前、休日にアトリエに忍び込みチェーンソーを使っていた女子学生がケガをした。
顔面にチェーンソーの歯がバウンドして当たったようだ。
美人な顔立ちだったが、おでこから鼻頭まで真っ直ぐな線が入っていた。
その事故があってから、休日の制作は基本禁止となった。
★★
大学在学中、作品や材料を運ぶために中古の軽トラックを借りていた。
付き合っていた彼女を軽トラに乗せ、渋谷や原宿、レインボーブリッジを走った。
長野では軽トラはたくさん走っているが、都会で見ることはほとんどなかった。
時折、ガコンガコンとエンジンの調子がおかしくなり速度が落ちる。
後ろからトラックに煽られ追い越され信号待ちで、強面の運転手が何かごちゃごちゃ言いながら近寄ってきた。
「おい!迷惑なんだよ!」と凄んできたので、ワタシは普通に運転席から降り謝ろうとした。
車を降りると、ワタシの身長の方がかなり大きい。
力仕事をしていたため胸板も厚く、金髪坊主。
目つきの悪さは生まれつきだ。
凄んできた運転手は「気をつけな」と言って車に戻ってしまった。
彼女は「怖かったね~君が!」とワタシをからかう。
ワタシはまた見た目で怖がらせてしまったと思いながらも、見た目の怖さで助かることもあるのだと思った。
★★
財布を始めて買ったのは、少年ジャンプに掲載されていた通販。
アーミー柄の青いビニール製の財布だった。
固いジーパンの尻ポケットに入れると余計にかさばり具合は悪かった。
財布に入れる金額は3千円くらい。
何を買うわけでもなく、ただ持っているだけで嬉しかった。
小銭入れの部分はマジックテープになっていて、漫画本を買うときに、ビリビリという音が店内に鳴り響くのが少し恥ずかしかった。
お金にはあまり執着がない。
バブル世代、周囲には大金を持ち歩く中学生がたくさんいた。
大金を持ち歩く中学生は大概不幸な顛末が待っていた。
大金を持っていても幸福にはなれないと何となく感じていた。
「お金以上のものはないのか、お金よりも価値のあるものはないのか」
そんなことを考える中学生だった。
カピカピになったアーミー柄の財布は机の引き出しの中から出ることはほとんどなかった。

第9話 自分喪失
以前、ふざけて髪の毛を封筒に入れて彼女に送ったことがあった。
変な自分を演出しないと、ビジュツ大学ではやっていけないと思い込んでいた。
そのため、彼女は俺のいたずらかと思っていたようだ。
今回の財布は違う。
ワタシではない。
でもワタシなのか。
警察に「お前やってないかもしれないけど、やったって言っちゃいなよ」そんなことあるわけねーだろと思っていても、自分の記憶も正しいのかよく分からなくなる。
大学内では再び盗難が多発した。
盗難世代だから仕方がない。
しかし、ワタシの物は一切盗難されることはなかった。
同級生が、劇薬が入っていた缶ジュースを飲み救急車で運ばれた。
毒薬世代でもある。
優秀な近所の先輩が、なぜか毒入りジュースを高校の校内に置き、夕方のニュースで全国放送をされていた。
優秀も困ったもんだなぁと、成績が下がる一方のワタシはその放送を母親と見つめていた。
警察が入ったが、証拠が見当たらずしばらく校内は閉鎖された。
★★
新興宗教に高学歴の多くの若者が入信した。
世間を不安のどん底に陥れた事件があった。
社会は不確定要素で満ち溢れている。
エリートコースを純粋にまっしぐらに走り社会に出てみたら、上司や同僚、
仕事の関係者の中に魑魅魍魎がのさばっていた。
自分の存在価値を見失い、自信を失くした。
そんなときに、修行によりステージが上がる新興宗教に魅力を感じ、身を投じてしまったようだ。
そこから先は毒薬世代の発想である。
自分たちが正義で、世の中は悪である。
悪い人たちを懲らしめても、それは悪ではない。
中国の思想家荘子は、善も悪も人間が勝手に決めたこと。
「善は悪になるし、悪は善にもなる。」と言っていた。
毒薬をばらまく前に、荘子の思想を学んでほしかった。
日本には哲学の授業がない。
哲学は科学的ではないので、実証ができない。
科学立国を目指していた日本にはいらないものだった。
今日の若者の苦しみを見れば、哲学が必要であると感じずにはいられないだろう。
哲学は万能ではないが、特効薬にはなるかもしれない。
人間は知らぬ間に生まれ知らぬ間に死んでいく。
ワタシがいなくなっても、困るのは家族だけ。
家族も次第にワタシを忘れていく。
それこそが、生命の営みであり自然の摂理であるのだ
★★
人のものをとることは盗みである。
では、盗みは犯罪なのか。
人間は盗み盗まれを繰り返しここまで来た。
自分の物であることは誰がどう証明できるのか。
自分のものであると信じているものは、本当に自分の物なのか。
自分の体すら、自分の物であるか否かはよく分からない。
親からもらったものであり、もらったものを自分の物のようにして生きているだけ。
人間は自分という思い込みがないと生きていくうえで不自由があるから、無理やり自分は自分だと信じる。
だけど、そんな自分は、本当はどこにもいないことに気づいていない。
気づいたらまずいんじゃないかと思っているのかもしれない。

第10話 謎のゲーリー
交通事故で亡くなった従兄とは生前、2回くらいしか会ったことはなかった。
ワタシが子供の頃、田舎の祖父の家に親戚で集まった際、従兄の兄さんはぼっとん便所に爺ちゃんに買ってもらったばかりの財布を落とした。
ひどく悲しんでいた。
★★
今回彼女のもとに届いた財布は、そのときに爺ちゃんからもらった財布と同じだった。
でもそのことを知っているのはワタシだけ。
そのこと自体に意味はないのかもしれない。
最近深夜、謎の女性から電話がかかってくる。
「私の言う通りにしないと下痢をする」と言い電話が切れる。
その翌朝は必ず下痢をする。
正露丸を飲むが、昼頃も下痢をする。
子供のころから下痢魔だったので慣れている。
登下校中、草むらで・・遠足中、リバーサイドで・・
サッカーの練習後、焼却炉の前にあった山盛りゲーリーは俺の作品だった。
「うんこ、うんこ」と叫ぶ小学生を尻目に、うんこではなく「ゲーリー」なんだよと心の中で呟いた。
小学生は「うんことちんこ」で盛り上がれる。
うんこは未知
ちんこは異生物
「未知との遭遇」を楽しんでいるのだ。
これが宇宙に出る原動力となっていることは誰も気づいていない。
地球から出たい本能が人間には備わっている。
アフリカ大陸を出発したときからの大いなる野望は本能レベルで人々に受け継がれている。
謎の女はワタシに未知を与えてくれた。
★★
くどいようだが、幼い頃からよく下痢をした。
今考えれば、ほぼ精神が関係してのことだったと思う。
両親の絶えないケンカを我慢する日々。
強制的にやらされていた塾通い。
まるで自分が我慢してきた人生のように見えるが違う。
両親のケンカの原因はワタシにある。
ワタシの言動は少し変わっていたため、困惑した両親は教育方針で揺れていたのだ。
強制的な塾通いは自ら選択したものだった。
団塊ジュニアのどうにもならないヤツらと過ごす日々。
ワタシ自身がどうにもならないヤツだった。
周囲との不適応のために起こったストレスである。
現在は下痢はない。
ストレスを克服したと思っている。
ストレスを克服するのに30数年はかかった。
克服すれば怖いものなどない。
たまに昔のことがフラッシュバックされ、気分が落ち込むこともある。
下痢はしない。
ストレス性の過食で太ったこともあったが、今はダイエットに成功している。
タバコを止めて16年、酒を止めて10年以上が経つ。
最近は毎朝ルーティンとして20年間食べていたチョコレートも止めた。
ご飯も腹八分目。
習慣を変えることはストレスを減らすことに似ている。
目に見えない膨大なストレスの原因はほとんどが自分の生活習慣から生まれている。
そのことに気づいてから気持ちが楽になってきた。
周りを変えるまえに、自分が変わればいいんだ。
自分を変える方が、周りを変えることよりも楽でありストレスは無い。
謎のゲーリーとの決別は自分の人生をも変えるのだ。
「そうだ宇宙へ行こう!」
★★
膨れ上がった自我を削る作業は楽しい。
ビダイで彫刻科を選択したからには、自我をカービングする必要もある。
カービングすることで、新しい形が生み出されるのだ。
新しい自分を目の当たりにすれば、希望や勇気は自然と漲ってくるもの。
財布を捨てて街に出た、中学生時代。
勉強を止めて、絵を描き出した高校時代。
自分を捨てて、世の中に身を投じた今。

第11話 未知との遭遇
謎の女の行為はエスカレートしていく。
★★
ある日、アルバイトから帰る途中、夜空を見上げると白く光る物体が近づいてきた。
危険を感じ、原付バイクに乗っていたため、道路脇に寄り、ヘルメットを外した。
その瞬間、目の前に火花が散った。
ぼわ~んとした空間を、一生懸命クロールしている夢を見た。
お金のプールに飛び込み、小銭を食い漁る夢を見た。
体を雑巾のように絞られ血を垂らす夢を見た。
それは、夢なのか幻なのか、気が付くと宇宙空間を遊泳している。
両手両足を見えない管で繋がれているようで、身動きが取れなかった。
宇宙から見る日本は薄暗かった。
東京だけやけに明るいと、昔学校で教わった気がしたが、それは嘘なんだと思った。
★★
謎の女は札束が詰まった財布を持ってきたので会ってほしいと連絡してきた。
もちろん断ったが、AM1時アパートの呼び鈴が鳴った。
昨日の不思議体験といい、謎の女からの電話。
恐怖しかない。
恐る恐るでも声を張り上げて「どちら様ですか?」
「わいや、開けてーな」
「え?」
「夜遅くにごめんな」
この声は、バイト先の親方
ドアを開けると、ビールを片手にニコニコした親方が立っていた。
「どうしたんすか?」
「いやー奥さんに追い出されちゃって」
「まあ上げてーな」
不倫現場を奥さんに見つかり、追い出されたようだった。
親方はミュージシャンを目指して上京したが、夢かなわず建設業を始めた。
ワタシは親方の生き方は嫌いではなかったが、どこかしら信じられない部分を持っている人だった。
「親方、実は最近不思議な体験をしてるんです。」と制作中の体験、気を失って不思議な夢を見たこと、謎の女性から電話があることを話した。
親方はニコニコして聞いているのか、聞いていないのか分からない表情をしていた。
「それは、東京が嫌いになってるんちゃう?」と一言。
全く意味が分からなかったが、体の芯に響くものがあった。
★★
大学では作品の講評があった。
ヨビコウ時代、デッサンの講評ではいつもビリだった。
どう頑張っても上位に食い込むことは無かった。
大学では違った。
周りの学生がほとんど真面目に制作をしないため、ワタシは割と褒められていた。
しかし、周りの仲間からは冷ややかな感想をもらっていた。
「教授に認められているうちは、古いってことなんだよ。」
言われていることは分かるけど、どうしたらいいのか分からない。

第12話 ビダイ的価値観
汚いツナギを着て、校内をうろうろしているのは大概彫刻科の人間である。
ワタシもその一人だが、なぜここにいるのかふと疑問を感じた。
様々な大学や学科が世の中には存在するが、彫刻科に入ることはかなりのレアケースであろう。
自分の人生、履歴に造形学部彫刻学科が入り込む意味について考えた。
どのような人間が彫刻科に入るのか。
幼い頃から図工美術が長けていた。
巷の展覧会ではよく受賞していた。
これはビダイ・ゲイダイに行く人間にほぼ共通することだ。
勉強が嫌いであることもビダイ・ゲイダイを選択する理由としては大きい。
勉強は嫌いだが、大学へ行きたい。
勉強は嫌いだが、好きなことがしたい。
勉強は嫌いだが、ある程度世の中に名が知られた大学へ行きたい。
勉強ができなくても、偏差値が低くても、そこは問われない世界へ行きたい。
ワタシが受験生だったころは偏差値が生徒の人生を決めていた。
偏差値の無い世界へ行きたい。
自分は偏差値で価値つけられたくないと強く思っていた。
ただ、そう考える人間はこの時代あまりにも多すぎた。
受験者数は全てのビダイ・ゲイダイの学科で10倍を超えていた。
油絵・デザイン・映像学科は20倍30倍を超えることもあった。
その中でも10倍~12倍をうろつく学科があった。
それが彫刻科だった。
令和の時代に10倍を超える大学はどのくらいあるだろうか。
ヨビコウ時代からすでに科を選択しなければならなかった。
メジャーな油絵?デザイン?
このころ興味があった映像?
散々悩んだ挙句、身の丈を考え、色の無い彫刻科を選択した。
平面・映像は家でも作れる、立体は場所が無ければ造れない。
最後に自分に言い聞かせた理論である。
隣で描いているそんなにうまくもないヤツがビダイ・ゲイダイに入っていく様子を見ていると自分にも可能性があるんじゃないかと思っていた。
もの凄いうまいのに、多浪している方を見ていると不安になることもあった。
★★
彫刻科の就職率はかなり低い。
バブル崩壊してるんだから、仕方ないとは思っていたが・・。
苦労して子供を育てた実家の両親は、この就職率を見たらどう思うのかいつも考えていた。

本当に才能のあるやつは、ビダイ・ゲイダイへは行かない。
行ったとしても中退は当たり前。
アートで大成するやつは10年に一人。
先輩からよく聞かされた。
自分はどこにも当てはまらない。
中退は絶対にしたくなかった。
ビダイが楽しいからだ。
10年に一人になる片鱗すらなかった。
そんなウワサはどうでもよく、人生どれだけ面白いことができるかのほうが
興味があった。
評価は人間がするもの。
人間の曖昧さや傲慢さ適当さに左右されて生きるのは真っ平御免だと思っていた。

第13話 奇人変人たち
奇人変人ぶりを競っているかのような人たちがいた。
あくまでも奇人変人ぶりを演じていることが第一条件。
演じていない場合は、違う施設へ行くことになるもんだ。
演じ方は人それぞれ、作品で見せてくる者がいれば、生き方で見せてくる者もいる。
この頃流行っていた、「自分探しをする自分」「不思議ちゃん」にはまり込み、抜け出せなくなっていた者もいた。
ビダイにいるということは、変わっていないといけないという妙な思い込みが誰にしも少なからずあったと思う。
その中でも、ワタシの中で最も奇人変人だった人間がいる。
村さんである。
全ての欲を捨てたかのような人だった。
ヨビコウ時代から仲がよく、常に一緒にいたような気がするし、
本当は一緒にいなかったのかもしれない。
特にこれといった情熱もなく、ふらふらっと大学に現れたかと思うと、すぐにどこかへいなくなる。
夢や希望を語る若者の中で、一人ぼ~としている。
この人は何がしたいんだろうとワタシはずっと思っていた。
川を流れる枯れた落ち葉のようにも見えた。
時折、大学に至るまでの話を聞くことがあった。
鹿児島県出身、理数系の専門学校から町工場へ就職。
半年務めたが、面白くなく絵が描きたいと思いヨビコウへ。
ヨビコウではデッサンが面白く集中したが、大学に入ってからは、これといった目標もなく浮遊。
村さんは大学を出てから再び町工場へ就職した。
ビダイには人間の判断能力を揺るがす何かがあるんじゃないかとワタシは考えた。
ここでビダイセイ面して熱く語っている連中もビダイに侵されているんだ。
ビダイを出れば、自分が病気に罹っていたことに気づく。
奇人変人は演技である。
何かをすることもしないことも演技なのだ。
大学を卒業してアートをやっている人間は長い闘病生活を送っているのかもしれない。
★★
財布の中から、運転免許証が出てきた。
赤と黒のボーダを着た自分は熱に浮かされているようにも見えた。
人生、熱に浮かされたっていいじゃないか。
熱をもったまま、生きていたっていいじゃないか。
ビダイ病院は今日も患者を量産している。

第14話 ヒトの内側
2011年3月11日東日本大震災後は多くの人たちがPTSD(心的外傷後ストレス障害)となった。
ヒトの内側が崩れた。
ワタシの父親はその2か月前に亡くなった。
父親は若いころから弱視で、夜空の星は一度も見たことがないと言っていた。
40歳を過ぎたころから網膜色素変性症という遺伝病ということが分かり視野狭窄が始まった。
一般的なサラリーマンとして我が家の生活を支えていたが、職場での運転事故が増え、些細なデスクワークもままならない状況が続き、25年勤めていた会社を自主退職した。
50歳を過ぎたころはほぼ全盲状態となっていた。町中や夜道を歩くときはワタシと腕を組んで歩いていた。
道端で人にぶつかると、相手を怒っていた。
障がい者を見下す人間を嫌悪していた。
社会的弱者は強気でいくもんだと・・
晩年、父親は「障がいや病気を悪だと思っていた自分がいたが、考え方が変わった」と言っていた。
「今は障がいや病気に感謝している」と言ったときは、我が家の金庫からお金を持ち出した父とは違う人になっていると感じた。
ヒトの内側が変わった。
失業してからは、盲学校へ通いあんま・鍼灸の資格をとり、治療院を始めた。
元来、負けん気の強い父親はその後治療院を軌道に乗せ、家族全員を養ってくれた。
その頃ワタシは中学生であり、父親がそのような身体障がいを抱えていることは知っていたが、収入が無くなり失業保険と障がい者年金で生活していたとは知らなかった。
同じころ母親にも子宮筋腫、顎関節付近に腫瘍が見つかり入退院を繰り返していた。
ワタシはのんきに朝練、放課後とサッカー部に励み、勉強や授業はそこそこに、深夜ラジオを聞く日々を過ごしていた。
両親は大変な目に遭って苦労していたが、ワタシは能天気な性格だったため、それによって内面が崩れることはなかった
それよりも、好きだった女の子にふられ落ち込んでいた。
妹が一人いただけなので、父親や母親が家にいない日があっても、生活自体はそんなに困らなかった。
毎晩深夜、ラジオから流れる赤坂ヤスヒコや伊集院ヒカルの話に夢中になっていた。
ラジオを聞き終えると、ボウイやコンプレックス、ホテイ、坂本リュウイチ、たまの曲を聞き、深夜窓を開けてビーズの歌を熱唱していた。
近所からはあの家の長男は狂ったと思われていたかもしれない。
★★
父親の大腸がんが見つかったのは、56歳の時だった。余命は半年と言われた。
父親と過ごす残りわずかな時間をどうすればいいのかたじろいだ。
主治医からワタシだけ余命について聞いていた。
両親には伝えなかった。
父親には最後まで希望をもってほしかった。
ただ、その選択は後で間違えていたことが分かった。
父親の命の使い方は、父親のものであるからだ。
ワタシは父親の命の時間を盗んでいたのだ。
母親の子宮筋腫、親父の大腸がんと手術後、医師は必ず家族に切除したがんを見せる。
普段目にしないヒトの体の内側である。
医師は手術後すぐなので、よゐこの濱口ばりの「とったどー」と言わんばかりの興奮状態だった。
ワタシを育てた二人の顔からスタートしたワタシの古い記憶と意識。
二人には表情があり、お父さんとお母さんという違いも3歳ころには分かっていた。
猫とも違う表情や、日々世話をしてくれることから、自分にとって特別な存在、親という概念を得た。
そして、二人の内側の一部を見ることで、またこの二人の違いが分からなくなってきた。
★★
財布の中にはお金が入っている。
お金の価値は時代と使い方で変わる。
ヒトの内側には内臓と心が入っている。
普段よく見えない分、少しでも内側が見えたとき、ちょっと驚く。
ビダイのアトリエの前で制作し、実家の駐車場に設置した作品の上部には大きな空洞がある。
ヒトの内側にあるミステリアスで不可解なものへのアンビバレントな思いが現れているのかもしれない。

第15話 魔の評論会
秋になると、彫刻学科の有志が集まり近所の小平公園で彫刻展を行う。
公園へ下見に行ったとき、中央噴水広場の池にボロボロになったワタシの財布が沈んでいた。
沈んでいた財布のあまりにも惨めな様子から、自己投影しただけなのかもしれない。
ワタシをもてあそんだ作品は、この公園に展示するために制作したものだ。
少し丘になっている場所を選び、彫刻展の実行委員長秋沢さんに申し出た。
「そんな薄暗いところでいいの?」
「君の作品は大きい(縦5m)からもっと目立つところがいいんじゃないか」
ワタシも少し心が揺れたが、やっぱり薄暗くても神秘的な雰囲気のあるここに設置したいと思った。
そのころ、現代美術、コンセプチャルアートが主流になっていた。
簡単に言うと、意味がないただの抽象彫刻は論外ということだ。
ワタシは意味のない抽象彫刻を必死につくっていた。
概念的なアートを追い求める同級生や先輩たちからは冷ややかな目で見られていた。
「落書きした絵がそのまま立体になれば面白いはず!」と息巻いていたワタシに共感する者は一人もいなかった。
時代というのはそういうことだ。
ワタシの作品を素通りする教授や講師たちからは「これがどうしたの」といったものだった。
彫刻展が始まり、秋風が吹き始めた10月の朝早く、ワタシの作品を写真に撮ろうと公園に原付バイクで飛んでいった。
初めてつくった作品が公園に1か月も展示されるなんて、至上の喜びだった。
興奮状態がしばらく続いた。
大きな作品だったので、設置するのに苦労した。
プロ顔負けの設置のプロ小口さんを中心に、先輩方や仲間が一生懸命に手助けしてくれた。
普段は作品の評価に厳しい仲間も、設置するときは身を粉にして協力してくれる。
とても有難く、大切な存在だった。
そんなこともあり、特別な思いが詰まった作品だった
ワタシの作品の前に白髪のご老人が立っていた。
「おはようございます!」
「おお、この作品を制作したのは君か?」
「そ、そうなんです。どうですか。」
「う~ん、そんなによくはないね。」
「あ、そうですか、でも見入ってくださっていますね。嬉しいです。
「そう、よくはないんだけど、見ちゃうんだよ、これ・・」
「え!ってことはお気に入りなんじゃないんですか?」
「いや、ダメだ、こんな作品つくってたら、将来はないぞ!」
「あ~そうなんですね。でもこんなよくない作品に感想をありがとうございます!
「君は、ビダイだよね。ビダイ出てもいいことないよ。でも、楽しいけどね。」
何だかよく分からないことを言い残し、その老人は去った。
★★
そして、魔の講評会がスタートした。
一人ひとり作品のコンセプトを話し、そのコンセプトについて、作品を前に様々な追求が始まる
傍から見るといじめているのではないかというくらい、キツイことを言う人がいる。
ワタシの番が来た。緊張して目がキョロキョロしていた。
「この時代にこんな作品は根本的にありえない」
「でかければいいという感じに見えて、嫌悪感しか残らない」
「何しにビダイに入ったのって考えちゃう作品」
「色や形がショボくて、考えてませんがグングン伝わってくる」
「苦労して作りました感、半端ない」
皆さん、普段は滅茶苦茶いい人たちです。
作品を前にすると人が変わってしまうだけなんです。
有難きお言葉をいただきつつ、心の中では
「今は低評価だけど、数十年後はどうなるか分からない」かもなと考えていた。
人は思考やロジックから抜け出せなくなる弱点がある。
頭のいい人に多いが、それらしい理屈をこねているうちに大事なことを見失う。
いくら考えても、どうあがいても、ワタシたちは死ぬ。
ワタシたちは自分のことを理解しているつもりで、ほとんど理解していない。
他者に対しても同じで、理解を求めようとしてもそもそも無理なのである。
芸術で成功している人たちは、本人の努力や勉強の成果ももちろんあるが、もっと複合的で説明のつかない世界に押し込まれ、スターとして世に押し出される。
うまく波に乗れたからといって成功する訳でもなく、深海に沈んだことで、珍魚となりすくい出されることもある。
人間の深い深い興味関心好奇心の奇怪な歯車に時折挟まるか否かなのである。
そこには、現代美術もコンセプチャルもあってないようなもんだ。
時代やそのときの人間の欲に左右される。
ただそれだけなのである。

第16話 天性のアーティストたち
新しいことをしよう、面白いことをしようと考えると罠にはまる。
創造のヒントを与えてくれた3人の存在がある。
ひおちゃん、しみちゃん、おりちゃんだ。
ひおちゃんは背の高い常にハイテンションな子だった。
ただナイーブな面を合わせもっていて、時々学校を休んでいた。
5年生の遠足の帰り道、だらだらと歩きながら、ひおちゃんが急に道端の植物をつかみとり、「おしべとめしべとおしべ~」と歌い出した。
おしべとめしべは5年生の理科で習ったばかり。
ひおちゃんがつかんだ植物は何だったのか分からないけど、多分コスモス。
大胆にコスモスをマイクにし、「おしべとめしべとおしべ~」を熱唱しながら歩いている。
みんな目を丸くし、クスクス笑うのが精一杯だったけど、おしべとめしべで歌を創作するセンスに驚いた。
ワタシも一緒に真似をしてみたが、ひおちゃんのライブ感には到底追いつけなかった。
後に、ひおちゃんはバンドを組んで、エレキギターを弾いていたので、ロックの世界に造詣が深かったことが分かった。
衝撃的なフレーズは今でも忘れない。
しみちゃんはかなり過激派だった。
学校帰りにカエルをビニール袋に数匹入れていた。
「しみちゃん、そのカエルどうするの?」と聞くと
「楽しいことがはじまるよ」「一緒に来る?」と・・
しみちゃんの自宅に一緒に行くと、外水道の蛇口にカエルの口をはめて一気に水を出した。
プーと膨れ上がる、カエルの体。
すると限界を迎えたカエルの体は一気に破裂した。
しみちゃんはニコニコしている。
ワタシは見てはいけないものを見た感じがして、言葉が出ない。
その後も数匹そのようにし、「次は道路に行こうと」しみちゃん。
道路で大型トラックが来るのをじっと待ち、しみちゃんがトラックが来た瞬間にカエル数匹をばらまいた。
プチプチッとカエルは妙な音を立ててつぶれた。
「おもしろいでしょ。ははは・・!。アベシだ!」と笑うしみちゃん。
アベシとは漫画北斗の拳でザコが死ぬ場面だ。
ワタシは図工の授業でケンシロウに似た自画像を描いて、北斗の拳ブームをクラスメイトにインスパイアさせたと自負していたが更に強者がいた。
しみちゃんはの家には池があった。
しみちゃんは鯉に乗れるとはったりを言う。
道端におしっこで「アホ」「バカ」「うんこ」と書いていた。
人が見てはいけないやってはいけないついてはいけない世界を丸ごと体現していたアーティストだった。
おりちゃんは、強烈な嘘つきで有名だった。
その嘘は巧妙でワタシは何度も騙された。
「お父さんが印刷会社で働いているから、キン肉マンの原画をあげる」
ワタシは期待に胸を膨らませ、周囲にも言いふらし、大好きだったキン肉マンの原画を待った。
待てど暮らせどおりちゃんは何も持ってこない。
「おりちゃん、キン肉マンの原画まだ?」と聞くと
「ワリー明日持ってくる」
次の日、「ごめん、遅くなって」と誰がどう見てもおりちゃんが描いたキン肉マンのイラストを手渡された。
あっけにとられて、怒る気にもなれなかった。
しばらくしてクラス内で学習の一環としてクラブをつくることになった。
漫画が好きな男子が数人集まり、その中におりちゃんもいた。
授業参観日にOHPで漫画を発表することを目標に制作が始まった。
ワタシはOHP制作だけでは物足りず、オリジナル漫画を描いてクラスの仲間に見せていた。漫画にはちょっと自信があり、いい気になっていた。
おりちゃんはあまり手が進まないようだった。
ワタシはそんなおりちゃんを見て、優越感に浸っていた。
授業参観日、ワタシはオリジナルの4コマ漫画をOHPで発表した。
頭の中では、当時読んでいたコロコロコミックやボンボンで培ったギャグを盛り込んだつもりでいたので、絶対皆大爆笑と思い込んでいた。
結果はまさかの失笑だった。
何が面白いのかよく分からないといった雰囲気だった。
おりちゃんの番になり、ワタシは同じように失笑じゃないかと高を括っていた。
教室中はじけるような大爆笑となった。
OHPに映し出された漫画はかなり稚拙な絵で、登場人物が歩きながら、石につまずいたり、穴に落ちたり、犬に噛まれたりするだけのストーリーだった。
しかし、おりちゃんの語り口調が独特で、目をギラギラさせながら、大きな前歯をむき出し唾を飛ばしながら一生懸命に発表する姿は、まるで売れっ子講談師のような強烈な表現者であった。
完全に完全に心底負けたと思った3つの出来事である。
ワタシの頭の中がガラリと変わった原体験である。

第17話 深夜のビリヤード
ヨビコウに通っていた頃は、立川高校の向かい側にあるあずさ荘に住んでいた。
いわゆるビダイ・ゲイダイ浪人生が住んでいた。
風呂なし4畳半、トイレは台所の三角コーナーのような間取りで、もちろん和式。
しゃがむとお尻がドアに当たり、鍵の壊れたドアはゆっくり開く。
大便を出した後、便器に便が無いときがある。
大概そういうときは便器から外れているのだ。
便器にしっかり沈めたいときは頭を三角コーナーの壁に押し付け、お尻を無理やり便器に合わせるしかない。
蜂の交尾のように。
浪人仲間がよく遊びに来たが、しっかり外している人が多く、後で静かに片付けた。
何回説明しても、うまくできない人はいる。
それは、仕方がない。
そこに住んでるワタシ自身、失敗しているのだから。
風呂は近所の銭湯へ2日に一回行っていた。
行かない日は、台所の水を浴びた。
銭湯には背中にきれいな鯉や龍、歌舞伎役者が描かれた方々が多く利用していた。
「兄ちゃん、お金貸してあげるよ」と風呂上りに言われたが丁寧に断った。
アパートにも「新聞買うて(こうて)」と押し売りの怖い兄ちゃんがよく来た。
「お金無いんやろ、わしが貸してやるから、こうて」とぐいぐいドアに太い足を挟み込み、こじ開けて入ってくる。
今にも壊れそうなドアをゆっくり強く閉めながら、「いりません」と断った
「死ねやボケ」とドア越しに何度吐かれたことか。
電話が無かったので、〇〇新聞社にクレームを入れることは無かった。
日曜日は2階の部屋から真向かいにある立川高校のグランドを眺めていた。
グランドでは姿勢のよい高校生たちがサッカーの試合をしていた。
前途有望な高校生が輝いて見えた。
ヨビコウに立川高校出身の人がいたが、立川高校は偏差値が70を超えていると言っていた。
あずさ荘の一階に住んでいた3浪中のラサール高校出身の近さんは、
「俺は立川高生より頭いいから、偏差値80超えてるから」と言っていた。
近さんの部屋はごみ屋敷で、臭く、そのごみの中から、くそ難しそうなフランス語で物理を解説しているような本や、フッサールやサルトル、フーコなどの哲学書がゴロゴロ出てきた。
ヨビコウに通っているうちに、意味が無いことに気が付いて、ごみになったんだろうなぁとワタシの価値観で勝手に想像していた。
ワタシがリサイクルショップで購入した洗濯機が2階の部屋に置けなかったので、1階の近さんの部屋の前に置かせてもらっていた。
近さんは「僕の敷地にある洗濯機だから僕も使わせてもらうよ」と言って、
2週間くらいたまった洗濯物を突っ込み過ぎて、よく壊していた。
賢いのか否かが全く読めない人だった。
同じヨビコウの彫刻学科にいたので、日中会うはずなのに、1年間で数回しかヨビコウで会わなかった。
その理由を聞いたことがあった。
近さん曰く、「ヨビコウの講師とそりが合わないんだよね」とのこと。
早くそりを合わせてこの生活から脱したほうがいいんじゃないのかなと周囲は思っていただろう。
ヨビコウには東京大学を卒業して、東京ゲイダイを受験したいという人がいた。
有名私立高校で人生を憂い、ビダイ受験を希望した人もいた。
IT社長を止め、ビダイに入ったという人もいた。
ビダイ・ゲイダイには迷い人を引き付ける魔力がある。
★★
お昼はチキンラーメンを食べ、テレビが無かったので、本を読んだり、自画像を描いたり、天井の気味の悪いシミを見つめながら過ごしていた
夕食はソーメン&ソーメンが多かった。
ソーメンをおかずにソーメンを食べる。
おかずのソーメンにはマヨネーズや鰹節をかけている。
結構おいしかった。朝食は米&ソーメンになる日も増えていた。
一年で8キロ痩せたのはこのせいだろう。
★★
夕飯を食べ、ダラダラしていると、コンコンと誰かが訪ねてくる。
「ビリヤード行かない?」村さんの声である。
むくっと起き上がり、自転車をこぎ立川駅から東小金井駅にあるビリヤード場へ村さんと一緒に行った。
村さんからビリヤードの誘いを受けるのは初めてだった。
ビリヤード場に行くと、女性が一人立っていた。
「何だ、そういうことか」
恥ずかしがりやの村さんは、好意のあった女性をビリヤードに誘ったが、間が持たないことが分かりワタシを誘ったのだった。
女性はインド人のような紫色の服をまとい、黒ぶちメガネをかけていた。
アルバイト先で知り合ったらしい。
村さんの美意識を垣間見た。
ワタシも村さんもビリヤードなんて大してうまくない。
一緒にいた女性ももちろん初めて。
朝方まで、へたくそな3人が球をつつき合っている様子を、鼻ピアスをした若い店員も面白そうにこちらを見つめていた。
当時流行していたウルフルズのガッツだぜが妙に村さんのテンションを上げていた。
超絶空回りの時間を過ごした。
その後、女性の話は村さんから聞かなかったので、あれきりだったのだろう。
★★
ビダイに合格すると、あずさ荘から追い出される。
次は国立にあった、あずさ荘よりは少し壁が丈夫そうなセイカク荘に引っ越した。
もちろん風呂なし4畳半。
この頃は、昼は大学、夜は深夜バイトとしてファミレスで働いていたので、アパートにいる時間は少なかった。
朝方の3時ころアパートに帰り、バイト代で購入したテレビデオを日が出るまで観ていた。
数時間寝て、9時頃自転車をこぎ、ビダイの講義と制作に明け暮れる日々。
大好きなビダイで学び、アルバイトをし、一人自由に生活している状態だったので、不規則な生活をしていても苦にはならなかった。
不規則な生活に慣れてはいなかったので、睡眠不足から精神がおかしくなり始めていた。
その精神のおかしさは、大学での生活や制作にも影響していた。

第18話 キッド・グット・ラック
深夜アルバイトで睡眠時間が削られ、精神に不調がきた。
先輩の鳥居さんが、個展をやるので制作を手伝ってくれと言ってきた。
鳥居先輩は制作意欲が貪欲で、当時流行り始めていた都心ギャラリーで個展をするようなやり手だった。
今回の個展は世田谷にあるキッド・グットラック・ギャラリーという舞台芸術的な表現を見せるギャラリーだった。
朝方までアルバイトで疲弊し、大学の講義を受け、夕方からアルバイトの時間まで、銅でつくられた作品をグラインダーでひたすら磨いていた。
村さんも一緒に磨いていた。
作品を搬入する日、鳥居さんと一緒に展示をする富田さんもいたため、ワタシはトラックの荷台に作品と共に乗せられた。
鳥居さんと富田さんは荷台で大丈夫?と心配してくれたが、小平市から世田谷まで大して時間はかからないだろうと甘く見積もっていた。
アルバイトで精神を狂わせていたワタシは正常な判断ができていなかった。
三鷹を過ぎたあたりから尿意が沸き起こった。
これは絶対にまずいと本能的に感じたワタシは荷台から運転席が見えるガラス越しから勢いよく叩いた。
鳥居さんと富田さんは楽しそうに話をしている。
こっちの緊急性には全く気が付かない。
これは・・これは・・・まずいと思い、
限界が来る前にトラックのホロの隙間から放出した。
小学校時代の過激なしみちゃんを思い出した。
しみちゃんのように文字を書くほど余裕はなかった。
★★
キッド・グッド・ギャラリーに着くと、受付に、立ち小便をする絵が描かれたパンフレッドが置いてあった。
ここは岡島一郎氏が立ち上げたギャラリーであり、岡島一郎氏と言えば長野県上田に鬼才村山 槐多や、明治大正期に活躍した夭折画家の作品を中心に展示した、信濃デッサン館、槐多庵、そして、戦没画学生の絵を収集し展示した無言館の館長である。
パンフレッドにあった村山槐多の「尿する裸僧」(1915年)は信濃デッサン館に展示されていたものだった。
ワタシが放尿する際は、合掌はできなかった。
尿する裸僧は合掌している。
しみちゃん、村山槐多から「お前はやれることをただやっただけなんじゃないか」と説教されている気持ちになった。
「そこに表現はあったのか!」
睡眠不足から精神に不調をきたしているなんて、そのときには考えもしなかった。
鳥居さんと富田さんは、岡島さんと親しげに話しをしている。
将来あるアーティストだと感じているのだろう。
現に、その二人はその後若手の中でもとび抜けた表現者となっていく。
岡島さんとも話せず、村山槐多の立小便を見つめる暗いワタシは、表現の世界から追い出される人生が始まった。
「キッド・グットラック」と槐多は微笑んでいた。

第19話 パンドラの暗い穴
キッド・アイ・ラックギャラリー内は照明が薄暗く、鳥居先輩らの展示された作品がぼんやりとしか見えなかった
「舞踏のパイオニア的な存在、大野一雄、土方巽らの暗黒舞踏のような雰囲気があるギャラリーだね。」
「全身白塗りのおじさんたちが、スローリーな動作で不気味な動きをする感じかな。」
鳥居先輩はワタシに分かりやすいように、受付にある村山槐多のパンフレット横に置いてあった暗黒舞踏会の写真集を見ながら説明してくれた。
鳥居先輩が薄暗いギャラリー内でふざけて舞う姿は、洞窟で彷徨う、精霊のように見えた。
暗闇で表現することは、サピエンス(人間)の原点回帰なのだろうか。
ラスコーの洞窟画へのオマージュか。
★★
ワタシの長野の実家近くの山に、洞窟があった。
正確に言うと、洞窟ではなく、人為的に掘られた地下壕だ。
幼い頃は、金網で閉ざされた穴の奥底に何がいるのだろうかと、想像を膨らませたものだ。
後々、その地下壕は戦時中に本土決戦を想定し、長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための跡であったと知った
朝鮮人約25万人と日本人約45万人(のべ数)が労働にあたり、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいる。
なぜ、長野松代が選ばれたのか。
近くに長野飛行場(現在は無い)がある。固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。信州は神州に通じ、品格もある。
松代に縁起の良い、松という文字が含まれていた。
という話は当時の社会科教師から教わった。
朝鮮人を拉致監禁し、強制労働を強いた。
朝鮮人が希望して、労働に来た。賃金をもらっていた。
朝鮮人の家族が無理やり引き裂かれた。
朝鮮人は単身赴任的に労働に来ていた。
待遇は日本人よりよかった。
ハッパ(ダイナマイト)で岩を砕くときに朝鮮人の少年が任され、何人も犠牲になった。
何万人も栄養失調や日本人からの体罰、暴力で亡くなった。
朝鮮人は体力があり、亡くなった数は日本人の方が多かった。
危険な仕事は日本人が行った。
朝鮮人と日本人は仲がよく、松代の農民と畑を作ったり、学校へ通ったり、結婚したものもいた。
情報は様々であり、真実はよく分からない。
ただ、あれだけの規模の工事は、人種や思想を超越した何かがないとできないのではないかと感じる。
★★
中学生の頃、平和教育の一環として、金網で閉ざされた地下壕にクラスメイトと何回か入った。
オレンジ色の電球が不規則に並び、地下壕内は真夏にも関わらずひんやり寒気がする。
粗く削られた壁を見ていると、ハングル文字で何かが書かれていたり、金属棒が、壁に突き刺さっていたりする。
見学ができるのは100mくらいだが、全長10kmにも及ぶこの穴の中には何があるのだろうか。
一緒にいた女子生徒は、奥からうめき声が聞こえると言っていた。
地下壕の中には、労働者の何がか漂っていることは間違いなく感じる。
何も知らない中学生のワタシは、日本が戦争に負けていく様を知りながら、袋小路、逃げ場を死に物狂いでつくる人間の姿を想像すると、その途轍もない  エネルギーに恐ろしさを感じた。
皆神山の北向かいには、日本神話にある、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れ、無双の神力をもった天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が天の岩戸を開き、天照大神を導いたと言われる戸隠奥社がある。
隠れる前に、戦争が終わってよかったのかもしれない。
もし隠れていたなら、米版アメノタヂカラオノミコトによって、長野市にも原子爆弾が落とされていた可能性はある。
神話はサピエンス(人間)が生み出した妄想でしかない
人は追い込まれると、集団妄想(神話)に引っ張られる。
暗い穴の中には、原始からの本能が眠っている。
人間は洞窟に戻ってはいけない。
パンドラの箱には戻れないのだ。
★★
長野県民でも、松代大本営の存在を知らない人は沢山いる。
ワタシはたまたま、平和教育に力を入れていた社会科教師と出会ったため、学ぶことができたが、普通の中学生は教科書にも載らないこの事実を知ることはない。
真実は闇に葬られようとしている。

第20話 謎のオブジェ誕生
1か月間の野外展が終了し、上部にぽっかりと穴の開いた全長5mの作品は、彫刻科棟にある通称死体置き場には入らず、作品でぎゅうぎゅう詰めになっていたその脇にゴロンと置いてあった。
作品の上でムサネコがよく昼寝をしていた。
関西弁を使う滋賀県出身の調子のよいコバさんは、現代美術の難しい話をしながら作品の上に座り込み、尻でゴロゴロ揺すりながらタバコをプカプカ吸っていた。

1998年11月上旬
実家の父親から「駐車場に作品を設置するために穴を掘っている」と連絡がきた。
仕事の合間をぬって硬い土をスコップ一本で2m程掘ってくれたようだ。
残暑厳しい中、汗だくになって穴を掘る父親の写真が送られてきた。
本来、野外展で展示した作品は、産業廃棄物として廃棄する人がほとんどである。
講評会であまりいいことを言われないので、感性の鋭いビダイセイは傷つき、自分と作品を責め、二度と見たくないとブルーシートをかける。
ワタシは「たまたま」違った。
たまたまとは、ワタシがよく使う言葉である。
特に強い意思があるわけではないが、その場の状況や環境で周囲の人とは一味違う判断をするときに「たまたま」が出てくる。
幼い頃に処世術として身に付けた、照れ隠しかもしれない。
今は評価されていないが、きっと何かの役にたつはず、いつか日の目を見るはずと考えていた。
周囲の仲間からは、「公募展で受賞したとか、高い評価を得た作品のほうがいいんじゃないの」と言われた。
田舎の治療院の看板的存在でもいい。
作品を見た人に、何か想像してもらえればいいじゃないか。
不出来な自分の作品と長く付き合ってみようじゃないか
そう、不出来な自分と常に向き合うことが、自由に生きるために大切なんじゃないか、アートに携わるためには必要なんじゃないかと・・
それは、村山槐多の立小便画や、ワタシにアートの本質を教えてくれた同級生や仲間たち、これまでの多くの出来事からもそう・・
ダメな自分を見つめ、その一歩先に本当の表現が見つかるかもしれない。
★★
秋も深まる11月、4tトラックで作品を実家まで運び、クレーンで吊りながら、父親が掘った穴に土台を埋め込んだ。
建設関係の仕事をしていた従兄が、土台と穴にコンクリートを流し込んでくれた。
暗闇の中、投光器の光で浮かび上がった作品は不気味さを演出していた。
目の不自由な父親は、その不気味な物体が見えてはいなかったが、大喜びしていた。
★★
あくる日、近所でちょっとした騒ぎになった
昨日まで無かったものが、不気味な存在感を放ち、治療院の駐車場にあるではないか。
「何ですかこれは!気味悪い」
「ちょっと場違いじゃないんですか」
「ここには、いらないんじゃないの?」
「凄い!けど、何のため?」
「わー面白いカタチ、恐竜か何かですか?」
近所の人々からの素朴な疑問や質問が飛んできた。
近所の子供たちは、本能的に遊具と思い作品に登ろうとしていたが、登ることは難しい。
駐車場前は公道なので、車を停めて写真を撮る人、まじまじと眺めている人様々だった。
裏山には茶臼山恐竜園というFRPでつくった太古の恐竜群が存在していた。
ワタシも子供の頃、よく父親に連れていかれた。
恐竜写生大会にも参加したことがある。
あまりにも大きい恐竜を選び形が捉えられず、途中から父親に描いてもらった。
その絵は入選し、賞状をもらった。
治療院に設置した作品は、恐竜園や父親へのオマージュ・リスペクトとも言える。
恐竜園のモニュメントに関係する何かと思われていても間違いではない。
ただ、制作していたときに恐竜園の恐竜を想像したことは一度も無かった。
どちらかというと、アトリエ横で飼っていた鶏のトサカからインスパイアされた部分がある。

日に日に、多くの人々の目に触れるうちにいつの間にか、
「謎のオブジェ」という愛称がついた。
新聞やテレビなどのメディアで取り上げられることも多く、注目が集まった。
治療院の駐車場にあるので「指圧をする親指の形」
茶臼山動物園に近いので「キリンの餌箱」
ボルダリングの壁、カバ、うんこ、海老天、靴下等々・・見る人の想像力を刺激した。
結局、形としては上部に穴が開いてる、中部から下部にかけて、ボコボコとしたヒレのような物がついているだけである。色は全体に山吹色が塗られている
どこかの造形作家さんからは「形としては面白くも何とも無い」と酷評された。
身体、心と体、表と裏
生と死
生き物をシンプルに見れば一つの管である
洞窟や穴、暗闇にみる神秘さ
深夜アルバイトで精神を崩し、発狂する自己像
人類の自然への反発
様々なキーワードが頭をかすめ、言葉にしようと何度も試みたが、ダメだった。
実際はよく分からないのである。
熱に浮かされ、精神を崩した1998年だからこそつくれた物体であること。
それは動かぬ真実である。
「謎のオブジェ」とは素晴らしいネーミングである。
★★
数年経ち、夕暮れ時にコンビニへ行こうと駐車場に出ると、ビダイの野外展で展示したときに出会った白髪のご老人が、謎のオブジェの前にいた。
よく見るとその時の老人とは違った。
「この作品はどこかの巨匠がつくったのか。」
「ワタシが学生の頃つくりました。
「君か、まだ若いな、これは永遠に残るものだね。傑作だよ。」
「あ、ありがとうございます!」
「作者の悪いところが全て表現されているよ。面白い。」
「見る人が見れば、分かっちゃうんですね。恥ずかしいです。」
「でも、今の自分に、この恥ずかしいものをつくれと言われても難しいですね。」
「そうじゃな。彫刻は人生の一部を切り取る瞬間芸術だからな。」
「その時にしかつくれないから貴重なんじゃ。」そう言い残し去っていった。
陽が沈み、12月の寒い夜が始まった。

第2章 ビダイを彩る奇才たち

第21話 ヨビコウとの出会い
ワタシがビダイを目指し上京し、ヨビコウ、ビダイ時代を過ごしたのは1996年~2000年の5年間である。
世の中はバブルが崩壊し、景気が徐々に冷え込み、今でいう就職氷河期の時代が始まる。
新規求人倍率はバブル期は1.4倍、1998年に 0.9 まで下がっていた。
ワタシの10歳上の世代の人々は、就活はどこでも受ければ複数受かる時代だったとよく言っていた。
ビダイセイは就職しない、就職活動という概念がない、求人広告は存在しないと聞いていたが、実際本当に無かった。
一般的な世間では、新卒者が困難な就職活動を強いられ、フリーターや派遣労働といった社会保険の無い非正規雇用になる若者が増加していたようだ。
確かにワタシの周辺でフリーターになった人が多かった気がする。
ワタシも大学4年の春までは卒業後フリーターで過ごしていくものだと思っていた。

ワタシが高校生の頃は、父親はサラリーマンを辞めて治療院を開業していたため、バブル崩壊の煽りを食うことはそれほど無かった。
「土地価が下がるらしい」という噂で、土地価格が急落し、株の暴落とともに不良債権が生まれ、名のある銀行が倒産したという作話みたいなニュースが連日テレビで報道されていた。
バブルの旨味も全く知らない、父親の安月給で過ごしてきたワタシは、他人事でしかなかった。
ジュリアナ東京で踊り狂うボディコン姿の女性や、高級そうなシャンパンをラッパ飲みして周囲の若い女性にお金をばらまく若社長、高級外車や自家用ジェット機を何台も持ち自慢する人たち・・
バブルの象徴として情報番組で映し出されていたが、ワタシの周囲にはそんな大人たちはいなかった。
8時だよ全員集合
たけしの元気がでるテレビ
おれたちひょうきん族
みなさんのおかげです
を見て育ったワタシは「大人になることはふざけること」とそちらの刷り込みのほうが大きかった。
身近な大人たちは、日々の生活で精一杯な感じだった。
札束を持ち歩く中学生はいたが・・。
世の中はお金で全て解決できる、お金があればいい人生という情報を無意識で受け取ってはいたが、それが人生の全てでは無いことは、親や周辺の大人の生き方を見ていると理解していたつもりである。
★★
高校3年春サッカー部を引退して、進路を考えているときに、教育実習生の百田さんと出会った。
百田さんと出会う前までは、ワタシは高卒で働けばいいかなと単純に考えていた。
百田さんは現役ビダイセイであり、ワタシが文化祭でアーチに描いたイラストを見て、ビダイを進めてくれた。
「天性の色彩感覚がある」と百田さんは褒めてくれた。
幼少期から漫画やイラストを描くことは自分の特性と自負していたため、ビダイという選択肢が自分の中で大きく膨らんでいることははっきり感じた。
両親には、将来が不透明な美術の世界はあまり勧められないと言われ、学費の面でも難しさはあった。
父親は若い頃、定時制高校に通いながら美術部に時々顔を出していたり、染色の仕事がしたく東京に行こうと考えていたりした時期があったとのことで、共感をしてくれビダイ受験を認めてくれた。
長野のビダイヨビコウに3か月程通い、ビダイを受験したが全て落ちた。
そして、東京立川のヨビコウの門を叩いた。
はきはきとした受付のお姉さんが、彫刻学科の場所を教えてくれた。
薄暗い雑居ビルの中を進み、鉄の重い扉を恐る恐る開けた。
帽子を被った男性がデッサンをしている。
ワタシは緊張のあまり小上がりの前で立っていると、
「立ってないで、動けば!」とつっけんどうに、言われた。
「えっ!これが東京に住む叔父さんが言っていた都会の荒波?」と感じた。
「もっと優しく言ってくれてもいいじゃないか。」と内心思ったが、
気弱に「はい分かりました」とドアを出た。
すると、目の前にぱっと見、海賊のようないで立ちの男性が怖い顔をしてこちらを見ていた。
「こんにちは、あなたはペニスをつくったことありますか?」と屈託のない笑顔でいきなり聞いてくる。
ひげもじゃで長髪、赤い謎のバンダナを巻くその人は、彫刻科の講師だった。
「ペニス?はつくったことはありません」と普通に答え、
これも都会の荒波、洗礼なのだろうと直感した。
その後もニコニコと海賊のような講師は
「君、痩せているけど、ごはん食べてる?あづさ荘に住んでるの?」
「ぼくはお酒がすきなんだあ。あづさ荘に住むとしばらく合格しないんだよ。」
とワタシを気遣ってくれる優しい方だった。
あづさ荘に住むと合格しないという言葉にはひっかかったが・・
受付に行ったとき、立川ヨビコウの学長と話をした。
学長は「あづさ荘は本当にボロいが、そこに住む人は大概成功する」とワタシを励ましてくれた。「合格する」とは言っていなかった。
合格イコール成功ではないことを、学長と海賊講師に言われていたのかもしれない。
海賊講師は一度ドアを閉めたアトリエのもう一つ下の地下アトリエにワタシを案内してくれた。
「君はBコースだから、ここで頑張ってね。体に気をつけてね。」
風貌は恐ろしいが、心から優しい人なんだなぁと感じた。
初めに訪れたアトリエはAコースであり、ピリピリしていた帽子を被った男性はゲイダイ受験に落ちたばかりのヨビコウセイだったことが後で分かった。
Bコースのアトリエには20人くらいの人が、真剣な表情をして若いヌードモデルをデッサンしていた。
ドアの前には数人、怖い顔をしてタバコをふかしていた。
割りと男性が多く、髭をたくわえている率が高く、海賊の世界に放り込まれた気がした。

第22話 エリート講師陣
ヌードデッサンに夢中になる人々を見つめていると、
入り口の喫煙所にいた、背が小さくおかっぱ頭の草間彌生風な目つきの鋭い女性がタバコをふかせながら
「あなた新入り?どこから来たの?」と聞いてくる。
「はい、長野です。」
「ふ~ん、何そこでつったてんの?早く描けばいいじゃん。」
この人もつっけんどうだ。
新入りに対するものの言い方が冷たい。
すると髭もじゃの見るからに年上のオーバーオールを着た男が
「ねーさん、相変わらずキツイね、新人なんだから優しくしようよ。」
「だって、こういう田舎もん才能が無さそうでムカつくんだよ。」
ワタシは驚いた。初対面でそこまで言うかと。
オーバーオールの男は「まぁまぁ、いいから、君、さっさとアトリエに入りな。ねーさん機嫌が悪いから。」
ワタシはデッサンをしているイーゼルでごちゃごちゃした中に入り込み、端に置いてあったイーゼルと椅子を持ち後ろの方に適当に座った。
一応持ってきていた、木炭紙と木炭を出し、ヌードを描き始めた。
★★
ガコンと扉が開く音と共に、講師らしき人が二人入ってきた。
若いストレートヘアのメーテルのような女性と、水木しげるの漫画に出てきそうなサラリーマン風の男性。
「やあ、きみか、新入りは」
「は、はい、よろしくお願いします。」
「君、目がエロし、犯罪おかしそうだね。」
サラリーマン風の講師は機嫌がよさそうだったが、ワタシは笑えなかった。
メーテル風の講師は生徒のデッサンを隈なく見ながら、指導を入れている。
メーテルはワタシのところにもやってきた。
「はじめまして。君は、アイちゃんっていう天才チンパンジーを知ってる?京都大学の研究所にいるらしんだけど、アイちゃんは人間の3歳と同じ知能を持っているそうよ。だけど、ある実験を行ったら人間にはあってチンパンジーには無いものが分かったんだって。分かる?」
メーテルから出るような話題ではないとワタシの脳が勝手に判断し、話の筋が理解できず、「分からないっす」と答えることで精一杯だった。
「顔の輪郭を描いたものを床に置いとくでしょ、アイちゃんはクレヨンでそこになぐり描きすることが精一杯だったんだけど、人間の3歳児はそこに目鼻口耳髪の毛を描いたんだって。人間にしかないもの、それは無いものを補う力、創造力なんだよ。」
「この世にないものを見つけ、生み出す行為が君には求められているんだよ。」
「自らイーゼルを立てて、描く姿とそのやる気、君は大作家になる予感がするよ。何てね、私は新人には皆同じ事を言っているのです。」
出入口の草間彌生風の怖い人に言われてこうしているとは言えなかった。
ここは何かの新興宗教なのかと錯覚するほど、組織的な飴と鞭が激しかった。
★★
ワタシと同じように新人として何人かがその後やってきた。
新人と言っても、年齢はバラバラ、ワタシのように1浪目もいれば2浪、3浪、よく分からない浪が狭いアトリエの中に押し込まれた。
東京には大手のビダイヨビコウがある。
ここ、立川ヨビコウは、小規模でアットホームであることが売りなようだ
講師陣も一人ひとりきめ細かく指導してくれる。
講師と言っても皆若手のアーティストたちであり、現役大学生や院生もいる。
ビダイやゲイダイの難関を突破したエリート講師なのだ。
1年間、ヨビコウに通ったが、制作したデッサンや造形物を褒められることはほとんどなかった。
ワタシの稚拙な表現力で受験を突破できるように、地道な指導を受けた。
指導と言っても、手取り足取りではなく、とりあえず描いたものにケチをつけ、何度も何度も対象物と自分の絵を見比べさせ、自分で気づかせるやり方だった
1日、2日かけて描いた木炭デッサンを布でパサッと消されることはよくあった。
デッサンはどれだけ客観的になれるか、思い込みや概念を払拭し素直に描けるかが大切だった。
概念や思い込みに満ち溢れていた自分のデッサンは消されても当然であり、
エリート講師の粘り強い指導により、半年が過ぎるころには、多少素直に描けるようになってきていた。
夏期講習でやってくる高校生のデッサンを見ると自分の成長が少しばかり感じられた。
草間彌生風の先輩も、相変わらず厳しいことを言ってきたし、織田無道のような坊主で髭もじゃの同級生も「君の絵は概念的過ぎるとよく忠告してくれた。」
絵を描いて貶された経験はここに来るまでほとんど無かった。
ここでは、貶されることが、本当の自分を見つけるための近道だということを理解し始めてきた。
ヨビコウで絵の描き方を教わったことは無いが、謙虚に素直に自分と対峙する方法は沁みついたんじゃないかと思う。
★★
一週間に一度講評会があり、評価が高い順にデッサンを壁に並べられる。
壁には画板を置く取っ掛かりがついていて、それが3段になっている。
ワタシの絵は一番下の右隅が定位置だった。
多浪生は上段左隅を占拠していた
いつも下段右隅に集められるメンバーが大体決まってきた。
そのメンバーはこのBコースアトリエ内のヒエラルキーでは最下層であり、自然と仲がよくなっていく。
地方出身者というアドバンテージもあり、その後ヨビコウ時代を潤わせる仲間となっていった。

第23話 限りなく不透明なドリンクバー
昼食休憩になると、アトリエ横の通称鬼公園に彫刻科の面々が集まる。
鬼の顔の滑り台が公園の中央にあった。
一升瓶を脇に、革ジャンをとジーパン姿の男が公園のベンチに座っていた。
ワタシと同じBコース馬沢だった。
馬沢は目をギョロつかせながら、ワタシと村さんを呼ぶ。
村さんはBコースで一番初めに仲良くなった、鹿児島出身の酸の抜けたコーラのような人だ。
馬沢に近づき、「何してるの?飯食った?」と聞くと
「さっきまで、サンタのおっちゃんと話しよった。一杯飲んじゃったけん。」
鬼公園にはかなり癖の強いホームレスが一人住んでいた。
鼻の頭がいつも赤かったので、サンタさんと呼ばれていた。
大概何かに怒っていることが多く、おこりんぼうのサンタクロースだった
そのサンタさんと一杯やってしまう馬沢の人間性にワタシと一緒にいた村さんも驚いた。
馬沢は福岡出身、伝統のある陶芸家一家のサラブレッドであった。
見た目は細かったが、高校時代は相撲部でインターハイにも出た強者だったらしい。
繊細な性格のため、インターハイへのプレッシャー等々で激痩せし、今に至るようだ。
長渕剛を愛す顔の濃い心優しい男だ
馬沢曰く、サンタさんはバブル崩壊で会社と家庭を一度に失い、路頭に迷い、ここに住み着いたらしい。
幸せそうな人間を見るとイライラしていたが、馬沢と話をするうちに笑顔が素敵な元社長の表情に戻っていったそうだ。
馬沢を気に入り、賞味期限がかなり過ぎた桃の缶詰をくれたようだ。
昼飯のデザートに、馬沢、ワタシ、村さんでその缶詰をいただいた。
午後、アトリエの小さなトイレは3人で奪い合いとなった。
★★
週に1度、立川駅の近くにあったガストへ行くのが楽しみだった。
24時間営業だったため、夕方ヨビコウ仲間と集まり、朝方まで話し込む。
ワタシはいつも目玉焼きハンバーグを注文し、ドリンクバーでコーラを流し込んでいた。
ワタシは、基本的に夜は弱い。
23時ころになると、起きているだけで精一杯だった。
夜型王者コブさんは24時過ぎると本領を発揮していた。
コブさんは滋賀県出身の陶芸家の次男坊だった。
親戚の叔父さんは、パリで彫刻家だと言っていた。
何だかすごそうな家系である。
背が大きく、声も大きい。態度はいうまでもなく・・
鬼公園でも、ガストでも、通行人や客はコブさんの迫力のある大きな声を聞いて、必ずこちらを2度見する。
コブさんの年齢はワタシの3つ上だった。
どこかの大学を辞めてここに来たようだ。
村さんはワタシの4つ上。
ワタシにとって二人は大先輩だったが、二人はビダイ浪人1年目ということもあり、同級生のように接してくれた。
ワタシはそのころなぜか、誰とでもタメ口だった。
そんな無礼なワタシの言葉使いを微塵も気にせず付き合ってくれた心の広い先輩だった。
コブさんは、小説家村上龍に憧れ、いつも24時過ぎたころから村上ワールドの面白さを何度も何度も繰り返し話していた。
「限りなく透明に近いブルー」「コインロッカーベイビー」は読んだことが無かったが、大筋の内容はコブさんから繰り返し聞いていた。
そして、26時頃からは、独自の美術論を語り始める。
コブさんはかなりの種類の本を読破する読書家で、ワタシの知らない美術の世界や、立花隆など当時活躍していた作家のルポタージュについて大きな声でワタシたちに伝達してくれた。
話の内容は難しく、ついていけないことがほとんどだったが、勢いとパワーは彫刻科のアトリエ内でも断トツだった。
ただ、そんなコブさんもデッサンは軒並み普通だった。
ワタシ、村さん、コブさんのデッサンは壁の三段目右下に大体寄せられていた。
最下層は心理的に結束が強まる。
浪人1年目とはそういうもんだ。
どんなに着飾っても、木炭や鉛筆の先からは本当の自分が現れる。
そこのギャップがコブさんのいいところだった。
コブさんはこだわりが強く、エリート講師が言うことにもよく噛みついていた。
「わいは違うと思うねん。わいはこう表現したいねん。」と食い下がる場面が何度もあった。
周囲の人間はエリート講師には歯向かえない。
そこを、ぐいぐいと自分の理論を通す姿は爽快だった。
草間彌生風のねーさんからは、「コブさーお前口だけで、才能ないんだよ、早くうまくなるようにデッサンをベンキョーしたら」と冷たく言われていた。
コブさんはデッサンは上手かったが理論的でないねーさんには全く反応せず、「すんません!と、にこにこしながら軽くあしらっていた。」
ねーさんは始めの頃はそんなコブさんの態度にイライラしていたが、その内、笑ってやりあえる関係になっていた。

その後、普通だったコブさんのデッサンも少しづつ変化し、受験間際では急成長、複数のビダイを合格した。
「わいは、サクッと一発で受かるねん。サクッと!」をいつも連呼していた。
ワタシは有言実行型でこういう人もいるんだなぁと感心させられた。
今は若手現代アーティストとして、様々な画廊で個展をする人物となっている。
隣で静かにコーヒーを飲み続ける村さんは、目をぱっちり開いていたが、コブさんの話はあまり聞いていなかった。
全く興味が無かったのだろう。
それが、村さんらしかった。

第24話 ヌードモデルと円都(イェンタウン)
ワタシとコブさんで石膏置き場から、ヘルメス(胸像)とブルータス(胸像)を出した。
貴重で高価な石膏像だったので、壁や棚の角にぶつけないようかなり慎重に運んだ。
高校3年生の冬、美術室の隅で埃を被った「あばたのビーナス(頭像)」を自転車の籠に無造作に入れ、家でデッサンをしたことがあった。
埃と元々あばただらけの像だったので、多少欠けたり汚れたりしても誰も気付かなかった。
ヨビコウの石膏像は少しでも傷や汚れがつくと、日本画科やデザイン科からクレームが入る。
粘土や木炭を使う彫刻科は汚れに鈍感であり、デッサンし終えた石膏像は隈なく磨いて返却することが常だった。

ワタシはどうも石膏像が好きにはなれなかった。
その理由として、高校の図書館で借りた、長野県出身版画家、池田満寿夫の「模倣と創造」を読んだことが一因していた。
池田氏曰く、石膏像を描くアカデミックな悪習慣が続く限り、世界の美術界では生き残れないとのようなことが書いてあったからだ。
だが、ビダイに入るためにはこの石膏像を描けるようにならなくてはいけない。
池田満寿夫はゲイダイに3回落ち、受験を諦め世界のアーティストとなった。
アカデミックな教育を否定したからこそ、世界が満寿夫を待っていたのか。
当時モノを知らないワタシはそんな単純思考で、石膏を嫌っていた。
今考えれば、ただ形が取れず、陰影のつけ方が下手くそだったからなのだが。
★★
月に2,3回プロのヌードモデルが地下の狭いアトリエにやってきた。
その日は朝から、皆ソワソワしていた。
モデルさんは生きたモチーフであり、夏の暑い日はエアコンの温度調整や扇風機の角度、冬の寒い日は暖房の調整や温かい飲み物の準備と皆で気を遣う。
色々なタイプのモデルさんがいた。
熟女のオーラを出し、長時間同じ姿勢でも全く平気な人。
昨日からヌードやってますというようなワタシと年がそう変わらない若い女性。
暑い寒いを、繰り返し言い、すぐ休憩に入ってしまう人。
男性のヌードは、筋肉質の人が多く、黒く全身が日焼けしていた。
モデルの最中、舞踏なのか気功なのか分からないが、不思議な動きをしていた人もいた。
ガバンの影で、男性ヌードモデルの気功の真似をこっそりする、真面目な丸眼鏡をかけた女子は照れ隠しだったか。
ヌードではないが、お小遣い稼ぎでモデルをやる人もいた。
ワタシの一日アルバイト代の2倍は貰えると言っていた。
お金に興味は無かったが、アルバイト感覚でワタシもやってみようかなと頭をよぎったことはあった。
先週、箱根マラソンを走りましたという大学生。
ヌードデッサンが日常になっていたヨビコウの空気感が不思議でたまらなかった。
この都の片隅で、こんな体験をしている自分に酔っていた。
アカデミックを否定していた、池田満寿夫もヌードデッサンは頻繁に描いていた。
やっぱり、人間は面白い。
石膏にはない魅力が満載なのである。
現代アートの世界でヌードデッサンを描く人はいない。
いつの間にか、ヌードは古い表現媒体となっていった。
でも、いつかまた人体美の時代に戻るんじゃないかと思う。
時代は繰り返すから。
そのくらい、人体には不思議が詰まっている。
初めは目のやり場に困ったものだが、半年もすると、ヌードを描くことがかなり難しいということが分かり、困った。
目の前には美しい人間美があるはずなのに、自分の絵といったら・・

たかだか、18歳~22歳くらいの若者がヌードデッサンする様を、ヨビコウの前を走る中央線の電車の中で漫画を読みふけるサラリーマンが見たらどう思うのだろうと想像していた。
世間ではインターネットが流行り始めていた。
数年後には一つ年上のひろゆき氏が2ちゃんねるサイトを開設し世間を驚かせ、若者は迷走していた。
便所の落書きのような罵詈雑言がひしめく2ちゃんねるを、否定する人は多かったが、日本のカルチャーを揺さぶるほどの影響力があった。
ピカソや岡本太郎は古い固定概念を覆してきた。
サッカー日本代表中田英寿は、フランスワールドカップ出場後、ペルージャへ移籍し成功した。
マスコミを嫌いマスコミとケンカし、自分を貫いていた。
ワタシは木炭と鉛筆を握り、そんな先駆者たちのことを気にしないようにしながら、コブさんの美術論やエリート講師を頼りに我が道を模索していた。
時代の波に完全に乗り遅れていることはよく分かっていたけど、「ビジュツ!」こんなに楽しい世界があるのなら、こっちの方がいいやと考えていた。
ヨビコウでのデッサンを終え、夜、立川の映画館で「スワロウ・テイル」を観た。
偶然、さっきまでヌードモデルをしていた子と映画館の出入り口で会った。
モデルの子は「先ほどはありがとうございました!」と元気に挨拶をしてくれた。
ワタシなんかを覚えていてくれるとは、さすがプロだ。
モデルの子はアトリエとは見違えるような服装と化粧をしていた。
モデルの子と一緒にいた男性は「スワロウ・テイル」に出演していた外国人の俳優だった。
外国人の俳優は背が高く、モデルの子と腕を組んでいた。
多分、モデルさんはナンパされたのだろう。
目の前で起きていることが不思議で仕方がなかったが、立川の汚い街が円都(イェンタウン)の世界と重なった。
★★
村さんと吉祥寺駅前のマクドナルドでダラダラしていたら、金八先生に出演していた生徒役の人に会った。
テレビで見るその人は真面目な役だったが、目の前にいるのはパンクロックな出で立ち。
「金八に出ていましたよね。」と話しかけると、
「金八は怖いけど、いいやつだ」と繰り返し言っていた。
大分酔っているようだった。
役者は止め、パンクロッカーになると言っていた。
偶然にも、どこかの映画出演していた役者にも出会った。
プロデューサーのような怖い顔をした人と話し込んでいた。
声はかけなかった。
同世代で夢を追っている人、すでに夢の中にいる人、
ワタシは何も成していないのに、その人たちと同じ夢の中にいるような錯覚に陥っていた。
熱に浮かされ始めている、そんな兆候が見えてきたのは、この頃からだったと思う。

第25話 真夏の果実
銭湯の帰り道、気分良く立川錦町商店街を歩いていると、電化製品で溢れんばかりの小さな電気屋からウルフルズの「ガッツだぜ」が流れている。
この曲は当時自分のテーマソングみたくなっていて、思わず口ずさんで歩いていた。
仲間とカラオケに行くときも、必ず歌い、とにかく大きな声を出して発散していた。
カラオケの締めは、サザンオールスターズの「真夏の果実」
長野に残した彼女を思いながら熱唱していた。
★★
立体制作で川を流れるリンゴの構成やビルを飲み込む巨大なモモを粘土でつくったワタシは、講評会では珍しく講師陣から褒められた。
「長野って感じがしていいなぁ。リンゴは名産物だもんね。」
「ビルを飲みこむモモかぁ、田舎もんならではの発想力!川中島白桃??知ってるよ!」
「ホームシックになってるんじゃないの?心配だなぁ~」
名だたる彫刻展で受賞を重ねていたベテラン主任の勝間先生からも
「リンゴと川のリズミカルな組み合わせが面白い!さすが、ナガノボーイ!モモおいしそうだね~」
ちょっとおちょくられてる感は否めなかったが、褒められることは悪くない。
周囲の仲間たちからは「自己満足しているね~、一生分褒められたからもう終わりだね。」と茶化された。
「たまにはこういう日があってもいいだろう。今日は俺の日だ!」と言ってやった。
ヨビコウに入って、半年が過ぎたこともあり、講師陣からのお情けもあったのかもしれない。
周囲の言う通り、その後褒められることはほとんど無くなった。
★★
コブさん村さんとワタシで定期的に深夜デッサン会を開いていた。
講評会の際、少しでも上段に食い込み這い上がれるようにと企画した。
3人の家をローテーションで回り、3人の内1人をモデルに決め朝方まで描いた。
若いからこそできることである。
村さんの家は割と広く、壁にはどこかの飲み屋で剥がしてきたかのようなCoCo(アイドルグループ)のポスターが貼ってあった。
素朴な感じだったが、村さんらしく、中古の小棚や誰かのお土産が丁寧に並べてあった。
ヨビコウセイらしく、スケッチブックや美術書が本棚には並んでいた。
コブさんの家は特殊だった。
テーブルとイスが部屋の中央に置いてあり、押し入れの中には白く薄い布団一枚と本が山のように積んであった。
ガスコンロの上には鍋が一つ置いてあるだけ。
「コブさん、モノはこれだけなの?」
「そうや、いるもんしか置いとらん。」
「センター試験の勉強するときは、この机でやる。椅子がないと集中できひんから椅子には座る。」
「寝るときはこの布団一枚、そして眠くなるまで本を読む。」
今でいう、超ミニマル生活だ。
生活感がゼロである。
「さすが、時代の先端を走るコブさん」と言ってみたが、
必要のないものを極端に排除するコブさんの人格を少し心配した。
ワタシの部屋は物で溢れかえっていた。
生活感に満ち溢れていた。
生活を大切にする性格は未来につながっている。
4畳半しかないので、ワタシの家でデッサン会をやるときは、持ち物を全て小さな押し入れに詰め込んだ。
この日はワタシの家でデッサン会をやることになり、講評会でいい気になったワタシは調子こいてヌードモデルをやろうと2人に提案した。
ガストで夕飯を済ませ、実家から送られてきた桃に噛り付きながら息巻いた。
酒も入っていた3人は声が大きくなり始めていた。
その中でも元々大きかったコブさんの声が更に大きくなり、
近所から「うるせー」と何度も注意が入ったが、お構いなしで声は大きくなっていった。
興奮したコブさんが「UNOで負けた奴は眉毛を剃ってヌードになろう」と提案してきた。
ワタシは少し躊躇したが、ヌードデッサンの言い出しっぺだったので、皆でUNOから始めた。
結局3人とも眉毛を剃り、ヌードデッサン大会が始まった。
深夜3時ころ、眉毛の無くなった3人は、酒も抜けデッサンに集中しだした。
真夏の夜、エアコンも扇風機もない4畳半の部屋に、裸の男たち3人が寄り添って汗だくで絵を描いている様は多分気持ちが悪い光景だったろう。
変なポーズをしているワタシは異様さを醸し出していた。
突然「ガチャガチャ」とドアノブから音が聞こえた。
急にカギを開けドアが開く瞬間、男3人はビビッた。
ドアの隙間から出てきた顔は、初めは誰だか分からなかったが、よく見ると長野のワタシの彼女だった。
わけのわからない状況に、4人は凍り付いた。
看護学生だった彼女は、抜き打ちでワタシの部屋にいきなり来ることがしばしばあった。
ワタシが妙なことをしていないかチェックするためだった。
彼女はお土産に持ってきた、ビニールに入れたモモを玄関に雑に置いて階段を降りて行った。
モモは彼女を追いかけるように、階段をリズミカルに転がり落ちていった。

第26話 むねキュン
彼女への誤解はその後、コブさんと村さんが解くいてくれた。
彼女は看護学校の定期試験があるということで、次の日ガストで特製本格辛口チゲを昼食に食べ、早々長野に帰った。
★★
夏は人心を狂わすのか、ヨビコウのアトリエでちょっとした事件があった。
四浪後、一度ヨビコウの学費を稼ぐために半年間働き、その後2浪目を経ていた青森県出身のテツさんが、アトリエで死体のように全裸で床に転がっていた。
テツさんの周囲には一升瓶が3本転がっていた。
朝一番で来た、女子高を出たばかりの華奢な子の悲鳴で、講師たちが駆け付けたようだ。
テツさんは口を開けたまま白目をむいていたので、講師たちは死んでいると思い戸惑った。
しばらくすると、主任の勝間さんが来て、
「おい、テツさん、おい、テツさん」と耳元で数回呼び、頬を叩いた。
すると、ゴボゴボと口から得体のしれない液体を吐き出し、むくっと起き上がった。
皆、安堵の表情。
勝間さんは「また、飲みすぎたな、テツさん、しっかりしろよ!」と肩を叩いた。
昨晩アトリエに忍び込み、テツさんと朝まで一緒に飲んでいたヤベッチはバツが悪そうな表情で講師陣に謝っていた。
鬼公園でヤベッチからテツさんの話を聞いた。
「テツさんは、受験や今の生活に大分疲れているみたい。4浪して半年働いてまた2浪だよ。さすがに人間不信になっている。昨日の昼、鬼公園で鳩を捕まえて噛みついていたんだ。俺は昨年のヨビコウ祭で鳩をモチーフに凄い彫刻をつくったテツさんに憧れていたけど、さすがに噛みつくとは思わなかった。止めさせたけどね。」
ヤベッチは元々眉毛が八の字だったのでしょんぼりした顔だったが、今日は口元もへの字になってかなり情けない表情だった。
「テツさんはこの受験って何の意味があるんだろうって言っていた。ビダイ・ゲイダイに入っても一端のアーティストになる人間なんて一握りだし、そもそも、目をつむっても描けるくらいトレーニングしたデッサン力は、もしかしたら自分の大事な個性をダメにしているのかもしれないって考えちゃうんだって。もうオリジナルなものなんてつくれない、何年も石膏像を模刻し過ぎて、何をつくっても石膏像ぽくなっちゃうんだって。」
「この前まで日本学科で講師をしていた村上隆氏、デザイン科の中山ダイスケ氏は世界を相手に現代アートをしているじゃん。あの姿こそが、これからのアートのステイタスなのだろ、じゃぁ、今俺たちが必死こいてやっている彫刻って何なのだ。デッサンがうまく描けたからって何なのだ!塑像がなんだ!って天井に向かって、日本酒を吹き始めそこから一気に2本開けちゃったんだ。」
ワタシはその話を聞きながら、まともなデッサンを一枚も描けていない自分が本当に向かうべき道はどこかなのか、分からなくなってきた。
一緒に話を聞いていた馬沢は心優しい男なので、感情移入して泣いていた。
コブさんは「そんなのヨビコウ業界のルールだから仕方ない、ビダイ入ったら好きなことすればいいんちゃう。嫌ならやめればいい、テツさんはアホや!」と一刀両断。
村さんは木炭デッサンで余った食パンの耳をかじりながら「固いけどおいしい」と言っていた。ヤベッチの話には全く興味が無いらしい。
★★
ヨビコウ祭は受験用のデッサンや模刻を一端止め、2週間かけて個人の作品制作をし、一般展示をする。
ワタシはテツさんの話を聞いてから、日々のデッサンに身が入らなくなっていた。
「高校時代実家のテレビで見た討論番組で石原慎太郎氏が、今の日本の教育では、アメリカの若者が生み出したフリスピーさえも思いつかない。そのくらいがんじがらめの教育が個性をスポイルしている。」と言っていた。
悶々としながら、講師に徹夜で考えた作品アイデアを見せて、制作の準備をし始めた。
へんてこなアイデアスケッチだったけど、水木しげる漫画のサラリーマン風講師は「これでいいんじゃん。」とあっさり認めてくれた。
制作過程やペースは人それぞれだった。
コブさんは首のない仏像を木彫していた。
朝から晩まで一生懸命彫刻していたが、どこか不器用で中々形にはならなかった。
村さんは、ふらっとその期間どこかへ消えてしまった。
馬沢は実家の陶芸を手伝うと言って、以前つくった陶芸作品を置いていった。

その中でも2浪、3浪の人たちは手の込んだ彫刻をつくっていたが、テツさんが言いたかったことが何となく分かった。
技術は確実に高いのだが、どこかしら、皆同じような作品になっていた。
狭いアトリエ内は、様々な個性が渦巻いていたが、ワタシはどうしようもない恐ろしさも同時に感じていた。
直感で、これは違うのではないのかと感じていた。
ワタシは近所の工場から古い水道の蛇腹をたくさんもらってきて、積み上げた
その蛇腹の頂上に、石膏でつくった脳を括り付けた。
人間と人工物が融合していく、現代の在り方を問う作品にしたかった。
題名は「むねキュン」
YMOの胸キュンを丸パクリし、不気味さと可愛らしさを作品とタイトルの対象性で見せたかったと周囲には言っていた。
関西弁のキツイ酒井ちゃんに「なんやこれ。ゴミちゃうん?」とつま先で蛇腹の部分をつつかれた。
小さな薄暗いアトリエの隅っこでいら立ちながらも、自分の作品をつくり上げた満足感で満たされていた。
ヨビコウ祭には一応賞があり、ワタシは学長から「努力賞」をもらった。
後にも先にも、賞をいただいたのはこれだけだ。
努力賞の下にメモ書きが貼ってあった。
「リサイクル賞でもいいかな。でも、君はいい感性がある。今後期待する。」と書いてあった。
ワタシの隣で、3日間でササッとつくり上げた2浪目の立川高校出身のエリートは、大賞を受賞していた。
なぜエリートかというと、講評会で上位3名に毎回入っていたからだ。
そのセンスと集中力はヨビコウ界のイチローと言われ、講師陣からも一目置かれていた。
ワタシの作品を足でつついていた酒井ちゃんも、エリートの作品には一切触らなかった。
努力賞と大賞が並んだ。
立川のエリートは「君の方がおもしろいよ。」とワタシに気を遣ってくれたが、ワタシと同じように鉄くずを使っていた彼の作品はレベルが違っていた。
鉄の棒を大胆に大きく折り、折れた茎に見せた折れ目の最上部に、ひまわりの花を表した自転車の車輪を乗せた。
大小の数枚の鉄板をはなびらや葉としてオシャレに車輪や鉄棒に散りばめた
夏の終わりを枯れ行くひまわりと錆びた鉄くずで表現していた。
全体を黄色で塗り上げ、薄暗いアトリエの中で一番映えていた。
ヨビコウ祭を終えると、皆自然に受験モードに入っていった。
ヨビコウ祭は普段の鬱憤を晴らすためにも、大切なイベントであった。
いつもうるさい講師陣もこのときばかりは、生徒たちの個性をふんだんに認めてくれていた。

第27話 偏差値の壁
ワタシが通っていた小学校は変わっていた。
1学期終業式、校長先生から「夏休みは勉強をしてはいけない。ひたすら遊べ。」と言われた。
低学年時代の担任の真面目な女性の先生は慌てて「校長先生は冗談を言っているの!」と学習プリントを山のように配った。
ワタシたちは、校長先生が言っていることの方が正しいと、帰り道、お宮の境内の下、通称ブラックホールに全て放り込んだ。
5,6年の頃は、クラスで田んぼを借り、稲を育てた。
委員会やクラブを自分たちで考え立ち上げ、自由に活動した。
ワタシは体育館の壁に絵を描く、「かべいきいき委員会」を立ち上げ、仲間6人で古い体育館の外の壁にダイナミックに絵を描いた。
夏場、千曲川と犀川の合流する落合橋をゴールに川を下る川下り大会があった。
先輩が立ち上げた「ハンドメイドクラブ」に入り、近くの工場から丸太を分けてもらい、手作り筏で川下り大会に参加した。
格子状に組んだ丸太の四隅にタイヤのチューブを着けただけのシンプルな筏だった。
子どもたちで作った筏が、川下り中、よく転覆しなかったなぁと思う。
先生や親たちの陰のサポートが手厚かったのだろう。
妹たちのクラスはチャボを教室で飼い、どこかのクラスで飼っていた子ブタはよく脱走し、他クラスに乱入していた。
昼休みヤギのお産を皆で見たことは今でもよく覚えている。
教室で飼っていた子ブタがいつの間にかいなくなったと思ったら、屠畜場に出荷したそうだ。
そこまでやることが教育だった。
当時の教師は目がマジだった。
小学校時代はまともに勉強をした記憶がない。
遊びほうけていた記憶が鮮明に残っている。
ある時期は、大概、田んぼにいたか、壁に絵を描いていたか、筏を作っていた。
同時に、少年サッカーチームにも入っていた。
週に3回朝練があり、日も出ぬ3時半ころ起き、自転車を20分くらいこぎ隣町の小学校まで通っていた。
大工さんだった監督はワタシたちより早く、グランドに立っていた。
ワタシはマラドーナと監督しかサッカー選手を知らなかったが、
さわやかサッカー教室(コカ・コーラ提供)で、日本中を巡回していたセルジオ越後氏がブラジルのサッカー選手を連れてミニバンでグランドに現れたときは驚いた。
「相手の股間にボールをぶつけて抜きされ、監督にはリフティングは1万回できると嘘を言え、サッカーは騙し合いだ!」とユーモラスに語り、私たちのさわやかサッカー概念を崩していった。
セルジオ越後のサッカー教本を何冊か持っていたが、本物のブラジルサッカーのどす黒い部分を垣間見、キャプテン翼の「ボールは友達、怖がらなくていいよ」が可愛く思えた。

ワタシは朝練の後そのまま自転車で、学校近くの田んぼに行き、作業を済ませてから自宅で朝食を食べ、登校班の仲間と歩いて登校した。
放課後はペンキ缶と刷毛を持ち、壁に絵を描く生活をしていた。
疲労で、学校帰りに田んぼのあぜ道で気を失ったように寝ていたこともよくあった。
それはそれで楽しく、勉強はする暇が無かったが、やろうとも思わず、そのまま小学校を卒業した。
今でもたまに小学校の頃の日記を読むが、我が子たちに見せるのが恥ずかしいくらい、稚拙な文章とひらがなばかりだった。たまに書かれている漢字はほぼ誤字だった。

その勢いで中学生になったことで、痛い目に遭った。
基礎学力が全くなかったため、テストはボロボロだった。
もともと、理解が遅いタイプで記憶力が悪く、小5まで引き算ができなかった。
親が心配して小学校時代は公文に通っていたが、苦悶でしかなかった。
黒板でカタカナの「ヲ」がかけず、皆に笑われた。
暗記中心だった定期テストは地獄への前売り券のようだった。
そのころ「偏差値」というフレーズをよく耳にした。
偏差値には高い低いがあるらしい。
ワタシはどうやら偏差値が低いということが分かってきた。
偏差値で人間の価値が決まると、怖がらせる教師や仲間が出てきた。
バブルが崩壊した時代、偏差値と幸せはイコールではないと慰めてくれる教師もいた。
小学校時代、のびのびと自由闊達に生活していたワタシは、急に肩身の狭い生活を強いられることとなった。
★★
ヨビコウでは通知表のようなものがあった。
夏休み前に講師が評価をつけて、面談後に渡してくる。
恐る恐る通知表を開くと、初めに講師たちからの励ましのメッセージがきれいな文字で書かれていた。
「4月から確実に力がついています。努力型の君は、最後まで諦めず前向きにやっていこう!」というようなことが書いてあった。
また、「一年でビダイ合格を決意した君の意欲と有言実行な態度は素晴らしい」とも・・
その言葉はとても嬉しかったが、デッサンの評価を見ると4月から下がっているではないか。
よく見ると評価の横に「偏差値」と書いてあった。
よくなっていると書いてある言葉は嘘なのかと思い、面談室に戻り、講師にダイレクトに質問した。
「よくなっているのは間違いないんだけど、偏差値で言うと、君の周りが更に力をつけているのだよ。だから、教科テストと同じで周囲との相対でみるから君の値は低くなるんだ。」と言われた。
また「偏差値」か・・と意気消沈した。
偏差値の無い世界に来たつもりだったが、もうしばらくこの「謎の値」と付き合っていかないといけないのかと腹を括った。
きっと偏差値が無くなれば、自分は小学校の頃のように生き返ると思い込んでいた。
偏差値が幅を利かせるのも学生時代だけだろう・・。
美術の世界に偏差値は存在しない
自分が闘っている場所はヨビコウなのだ。
酔って全裸になったテツさんの言うことも一理あるけど、現状を変える力なんて自分には無い。
「偏差値すらもぶち破る存在になってしまえばいいのだ。」と鬼公園で村さんに話したら、村さんは「ははは・・」と笑っていたが、珍しく親身になってワタシの話を聞いてくれた。
どうやら村さんも「偏差値」で過去に苦労したようだった・・。

第28話 メーテルの怒り
ビダイを目指す若者の中には女性の割合が多い。
特に油絵画、日本画、デザイン科では女性が半数以上を占めている。
彫刻科は男性の方が多かったが、女性も増え始めていた。
彫刻科の講師陣は8人中女性1人。
その一人がメーテル風のスレンダーな女性講師、通称スーさんだった。
相手が誰であろうが、ヨビコウの生徒であれば容赦なく厳しく指導する気の強い人だ。

ワタシのように素人まがいは、デッサン中、スーさんに数時間かけて描いた絵を全て消されたとしても文句ひとつ言えなかった。
「何度も言うけど、ここの形変だよね。ちゃんと見たの?やる気ある?」
「はい、分かりました。頑張ります!」といつもそう言うだけで精一杯だった。
少しでも言い訳じみたことを言うと、
「なにそれ~言い訳?君の手が持っている木炭は言い訳しないよね。」と突き詰められる。
木炭とは、デッサンを描く道具であり、炭になった小枝のようなもので絵を描く。
木炭デッサンを消すときには食パンの腹で消す。
スーさんに言われていることはいつも的確であり、絵とモチーフの形のゆがみを何度も何度も指摘してくれた。
スーさんに指摘をされてもその通りに直せない自分に腹が立ち、食パンの耳をかじって悔し涙を浮かべたものだ。
多浪生の中には、スーさんの指導に対してあからさまに「ムスッ」とする人もいた。
スーさんは「くだらないプライドを捨てないと、いい作品はつくれないぞ!」と意固地になった生徒に声をかけていた。
講評会で、一番若かったスーさんが生徒の絵に対して、論理的で厳しい指摘をすると、一緒に講評していたベテラン男性講師たちは、口をつぐんだ。
スーさんを超える言葉や表現を探しているようだった。
スーさんはゲイダイの院生であり、学生ではあったが、数多くの賞を受賞していた。
見た目は、華奢なお姉さんという雰囲気を醸しだしていたが、その身体のどこに塑像や木・石を彫刻するパワーが潜んでいるのか不思議で仕方なかった。
長野の田舎で育ったワタシは、カルチャーショックを受けていた。
★★
ある日、珍しくスーさんがイライラしていた。
普段、スーさんと個人的な話をすることはほとんどなかったが、ワタシのデッサンを見ながらおもむろに語り始めた。
「君が羨ましいよ。男だって言うだけで、社会では特別待遇されるのだから。私なんて彫刻科の院生になって、男の人たちに負けないようにやっているつもりだけど、男性社会からはつま弾きなんだよ。同じ男子学生には、女に彫刻をやる資格がないとまで言われた。悔しいよね。」
半分笑い、半分怒りで頬の皮膚がピクピクしていた。
「先生、そんな奴らに負けないで、頑張ってください。」としか言えなかった。
ワタシは男として今まで、のほほんと生きてきたが、スーさんの言う通りこの世は男性社会であるのかもしれないと思った。
ワタシはただの偶然で男として生をうけた。
偶然だけで、世の旨味をその時々で独占してきたのかもしれない。
確かに大学受験を許されたのは、長男のワタシだけだった。
妹はワタシと同じようにビダイを志したが「女の子だから大学へは行かなくていいよね。」と両親に説得され諦めた。
ワタシの彼女もワタシより成績は随分よかったが、父親に上京は許してもらえず、地元の看護専門学校へ行った。
才能や能力、実力があっても、女性にとっては力を伸ばしきれない環境が日本にはあるのかもしれない。
小・中学校と給食が余ったら、ワタシは当たり前のようにバクバクと独り占めしていたが、もしかしたらもっと食べたかった女子がいたかもしれない。
サッカー部には女子はいなかった。
女子はマネージャをやり、ヤンキーの脱ぎ捨てたスパイクを整頓していた。
「君に励まされてもね~ありがとう・・」と言い、修正待ちのワタシの絵を直さず、スーさんはアトリエを出て行ってしまった。
★★
彫刻科にいた女生徒たちはスーさんのそんな勇ましい姿から影響を強く受けていた。
お構いなしに、言いたいことを男子生徒や男性講師陣にぶつけてきた。
坊主で髭もじゃ、オーバーオールやツナギを着た、いかにも彫刻科男子に怯むことは無かった。
ワタシは障がいをもっていた父親の言葉を思い出していた。
「社会的弱者は強気でないと!」
弱気なワタシは強気な女性陣たちからたくさん叱られ、たくさん励ましてもらった。
でも、生きているだけで優遇されてしまう男性である以上、女性の気持ちになって生きていかないといけないと思った。
★★
村さんと、コブさんとワタシで、女性について考えたことがあった。
男性目線でいる限り見方は変わらないと話し合い、女装大会を企画した。
馬沢も呼び出し、誰が一番女性になりきれるか、競い合った。
女性を知る上で、形からではあるが近道ではないかと考えた。
単純な発想だが、不器用ながらも、彫刻家を志すためには必要な視点であると思っていた。
普段、革ジャンとジーパン姿の一番男臭い馬沢が断トツで女性的だった。
皆の結論は、男性も女性も極めれば同じなんじゃないかということ。
人間はある境界線を越えたら交わりあえるんじゃないか。
中学校の修学旅行で見た、国宝 菩薩半跏像は性を超えた存在である。
確かに若い頃は、男性女性の区別が見た目や振る舞いで分かるが、年寄りになると男性女性の区別がつかなくなってくる。
社会の垣根が緩み、男性社会が改善し、女性が生き生きと活躍する世界は理想だが、男性性を突き詰めることで女性が際立つとも考えられる。
20年前はそんなことを考えていたが、今は男性も女性も強く区別しない社会になりつつある。
性を際立てる発想は古くなった。
境界線がゆらぎ、中性的な性が増えてきた。
若者は菩薩的である。
威張る男子が減り、肉食系から草食系に変化してきた。
20年前の予想を超えて時代は変わった。
人々は時間と経験を重ねて、思考や思想を理想化する集団彫刻をいつの間にかしていた。

第29話 坊主頭の真相
正月休みを数日実家で過ごし、四畳半のあずさ荘に戻ってきた。
長野の凍てつく寒さに比べれば、東京立川は暖かい。
明日から冬期講習会が始まる。
早く寝て備えようと万年床と化していた布団にもぐり込んだ。
夜中、顔の辺りをもぞもぞと何かが触る感触があり、気味が悪くなり電気をつけた。
パタパタと狭い室内を飛び回るのはゴキブリだった。
土壁を見渡すと、2,3匹張り付いている。
立川は気温が高かったようで、家を数日開けた期間、生ごみが発酵していたようだ。
ねずみじゃないからまぁいいかとそのまま電気を消した。
数日後、ねずみとも対面することになったが・・。
★★
気合を入れて朝早くにアトリエへ行くと、正月休み前までロングヘアーだった正美さんが丸坊主になってデッサンを描いていた。
正美さんは有名私立大学附属高校出身のお嬢様だった。
3浪目だった。
描いている木炭デッサンに違和感があり、よく見ると、画用紙全面真っ黒に塗りつぶされていた。
「お、お、おはようございます・・」と少々どもりながら正美さんに挨拶をすると、
「やぁ、ちゃんと長野から帰ってきたんだね~。えらいね~」と返答はいつもの正美さんだった。
ヨビコウの彫刻科に所属する男子は坊主でひげもじゃの割合が高かった。
正美さんは、木炭の粉でどこかしら口元も黒ずんでいて、坊主で髭もじゃのような印象となっていた。
「正美さん、頭どうしたんすか?」と勇気を振り絞って聞いてみた。
「う~ん、何だか分かんないけど、気分かな・・」
あまり触れてほしくな雰囲気だった。
「君、いきなりだけど、死後の世界を信じる?」正美さんは時々スピリチュアルになる。
「死後の世界があったらいいなぁとは思いますけど、きっと過去の人間や動物、恐竜、細菌やウイルスがうじゃうじゃいて、気味が悪そうですよね。」とワタシは答えた。
「はは・・面白い、君は変わった考え方するよね。」
「私は、人間は皆悪いことして生きているから、全員地獄行きだと思っている。」正美さんの目は遠くを見ていた。
「確かに!朝食に目玉焼きを食べてきました。鶏の子供を何にも考えずに食っている自分は罪深いですよね。でも、地獄で悪いことしたら、その後はどこに行くんですかね。ちょっと興味あります。熱湯ガマで温泉パーティでも開いたら面白そうですね。」ワタシは無理やり笑いに変えようとした。
「なにそれ!君は、地獄でも楽しんでいそうだね。うらやましいわ~。」
そんな話をしていると、ぞろぞろとアトリエのメンバーたちが入ってきた。
正美さんは、入ってくるメンバーを一瞥して、ササっと出ていってしまった
皆、正美さんのヘアスタイルを見ると、驚いた顔をしてお互い目を合わせていた。
★★
巷では、丹波哲郎の「死後の世界、大霊界」がブームになっていた。
丹波氏の独特な勢いや、テレビや報道の印象操作の影響から、胡散臭さを見抜くことは子供であった自分には難しかった。
「ノストラダムスの大予言」も多くの人々、特に若者の視野には入っていた。
「世界が破滅する前に食べたいものは何?」と何度聞かれたことか。
ワタシは「とんがりコーン」とテキトーに返答していた。
街頭では、白いワンピースを着た男女が「幸せになりませんか」と妙なチラシとポケットティシュを渡してくる。
時代は阪神淡路大震災やバブル崩壊を経験し、終末思想的な言論が多く見られるようになっていた。
新興宗教団体の増加も、その影響が強く出ていたのだと思う。
ヨビコウでも、何人かが急に受験をリタイアした。
ビダイ・ゲイダイ受験を諦め「幸せになれる団体」に入ったと噂で聞くこともあった。
★★
冬期講習が始まり、仲間だったアトリエのメンバーも受験では敵同然。
仲間が講評会で高く評価されると、しきりに焦りを感じていた。
あれから、正美さんは姿を現わさなかった。
ワタシはライバルが一人減ったとは思わなかった。
正美さんは、誰がどう見ても高倍率のゲイダイに受かる実力者だったからだ。
「受験間近かになると、精神を落ち着かせ、モチベーションを緩やかに保つためにヨビコウへ来なくなる生徒がいる。」と講師たちは言っていた。
「大体最後まで悪あがきをしているような奴は落ちる。」とワタシを見ながら水木しげる漫画のサラリーマン風講師はにやけて言っていた。
何となく、ワタシは正美さんのことが心配だった。
★★
一か月ほどたち、講評会を終え、皆でアトリエ前の喫煙所で話をしていたら、暗闇の中から白いワンピースを着た正美さんが現れた。
立川は暖かいとはいえ、夕方になるとさすがに冷え込んでいた。
正美さんは、けばけばしいニット帽を被り、自分の体より少し大きい目玉がギョロリとした黄緑色の気味の悪い人形を抱えていた。
「こんばんは、みなさんお元気?」テンションが高かった。
「あのね、ずっと休んでいたけど、ビダイ受験はやーめーた。」
コブさんはタバコを吸いながら「ホンマに!」と驚いていた。
周りにいた女子たちも「え!」と目を丸くしていた。
ワタシは人形を抱える笑顔の正美さんに少し恐怖を感じた。
村さんは「ニット帽いい色してるね。」と空気が読めなかったようだ。

後日、正美さんのことをよく知る仲間から、
「正美さんは最近失恋したんだって。どうやらビダイかゲイダイに彼氏がいたらしい。元々、お勉強の方はトップクラスだから、国立大学やどこかの私立大学の教育学部美術科みたいなところに、志願変更したらしいよ。ビダイ・ゲイダイじゃなければ、毎日デッサンの腕を上げる必要はないからね。」
ワタシの勘が外れてよかった。
あの人形は正美さんが死後の世界に道連れにするか、ニット帽は新興宗教団体へ入信するためのカムフラージュではないかと思い、一人不安になっていたが、別の大学を受験すると聞き安心した。
でも、ここまでやってきて、ビダイ・ゲイダイを諦められる思い切りのよさに正美さんの芯の強さを感じた。
世間をシャットアウトし、毎日デッサンをしていると、ビダイ・ゲイダイに入ることが全てになってくる。
ビダイ・ゲイダイを妄信するワタシたちの存在はかなり危険な団体と近いものがあったと思う。
当時、母親から「あんたは東京に行ってから、おかしくなった。ビダイ・ゲイダイが全てではないんだよ。」とよく言われていたが、
「母親は何てことを言うんだ!」と心の中で憤慨している自分がいた。
新興宗教に興味本位で通い始め、周囲の説得も聞かず、入信してしまう若者たちと構図は同じようなものだった。
社会が抱える不安を、少なからずワタシも抱え影響されていたことが、随分たってから分かるようになるのだが。

第30話 異世界なビダイ受験
ヨビコウ生のほとんどは、ゲイダイ(東京藝術大学)を受験する。
国立であり、学費も安く、ネームバリューは日本一。
世界ではほぼ無名だと思うが・・。
センター試験の点数と実技試験(1次試験を通ると2次試験)の合計点数で合否が決まる。
噂ではセンター試験が零点に近くても、実技がスーパーなら合格すると言われていた。
多浪生がひしめく理由も、そういった理由があるのかもしれない。
高倍率であり、どこの学科も20倍~40倍という狭き門。
現役生や浪人1年目くらいの実力では、到底、一次すら通過は難しいので、実質の倍率はもう少し抑えて考えられている。
ヨビコウ内では、講評会で最上段に上がっている人たちのみ、積極的な受験を勧められていた。
それ以外は、チャレンジや経験程度の認識しかもたれていなかった。
中段から下段にいる生徒たちは、ビダイ(多摩美術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学、東京造形大学)または、芸術学科のある、日本大学芸術学科を希望していた。
ビダイですら10倍~30倍あったので、受かれば儲けもんと言われていた。
団塊ジュニア世代なので、人数の多さにはある程度慣れていた。
地方にも多くの美術系大学は存在していたが、世間をシャットアウトし、身近に存在する講師たちは全てビダイ・ゲイダイ出身。
インターネットがまだ普及していない時代、携帯もテレビも無い閉ざされた環境内では、東京のビダイ・ゲイダイを受けることしか思考は向かなかった。
そもそも、ビダイ・ゲイダイを目指さない人たちにとっては、この妙なビダイ・ゲイダイ志向を理解することは難しいだろう。
ビダイ・ゲイダイに仮に入学したところで、大学卒業後のアーティストとしての活動が保証されている訳では全く無い。
ネームバリューにより、多少は贔屓目で見る人たちがいるかもしれないが、実力と才能が飛び抜けていなければ偽物の毛皮はすぐに剥がされる。
そんな安住とは無縁の世界になぜ憧れ、厳しい受験に向き合うのか謎な部分は多い。
★★
ビダイ・ゲイダイを受験する人たちの性質的な一面として、視覚優位な物事の捉え方をする特徴がある。
見たものを信じる特性だ。
ワタシは高校時代、教育実習生の百田さんからビダイヨビコウで発行されていた「アートユニブ」という本を貰った。
そこにはビダイ・ゲイダイを目指す、若者たちがいきいきと自己表現する写真がたくさん掲載されていた。
いきいきと表現していた写真は、ヨビコウ祭で自由につくった作品であったと後ほど知った。
ビダイ・ゲイダイを受験するためには、妙な言い方だが、個性を捨てて受験で通用する絵を描かないと合格できない。

長野の田舎では、小学4年生では決まってヘチマを描く。
ヘチマを収穫する自分の顔や手を画面に大きく描くことで、収穫の喜びを表す。
小学校の廊下には作者は一人なのかと思うほど、似たようなヘチマ画が並ぶ。
しかし、誰もその異常さを疑わない。
皆と同じようなヘチマが描けたことで、安心し、逆にヘチマを小さく描いたり、
自分とヘチマのサイズ感が怪しかったりする子供は肩身を狭くする。
ヘチマ画は大人になるための通過儀礼のようなものだった。

本当の個性を育むのは、お決まりの絵が描けるようになってから、大学ではご自由に・・。
果たして大学で個性は育まれるのか。自由になれるのか。
ビダイヨビコウにもそんな暗黙のルールが存在していた。
ピカソがキュービスムを生み出したのも、途轍もないデッサン力という基礎があったからという見方をする人が日本人には後を絶たない。
日本には型から入るという文化的な習慣や思考が色濃く残っている。
無意識のうちに目にした、ヨビコウ生のデッサンや作品に、強固な型を感じ取り、進むべき道に誤りがないと思い込む。
ヨビコウ生には、そんな心理状態が少なからずあったのではないか。
皆ができること、型(嘘)を表現しきる筋力があってこそ、本当の自由が手に入る。
型と表して、自分に嘘をつく行為を若いうちにやってしまうのだ。
嘘をつき通す筋力をつけないで自由を得ることは、門外生である。
そんな「マッチョ思考」の若者が当時多かったのではないかと推察する。
マッチョ思考とは、男性がもつという「強靱さ、逞しさ、勇敢さ、好戦性」といった性質を基礎とした思想や信条、行動をあらわす言葉。
マッチョ思考になっていった若者は、偏差値教育の被害者であったのではないか。
高倍率のビダイ・ゲイダイに入っている人間はそれを達成した象徴であり、皆が盲目的にその人たちやその生活に憧れていった。
★★
ワタシは東京藝術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学の彫刻科を受験した。
センター試験の勉強はしたことが無く、センター試験前日に日本史、世界史のどちらを受験するか決めたくらいだ。
多摩美術大学、武蔵野美術大学は英語と国語のみの学科試験があった。
学科の難易度は中程度だったが、高校を卒業して1年もたち、基本的な英単語や文法も忘れており、かなり手こずった。
3大学全て、石膏デッサンが課された。
冬期講習、受験追い込み講習を経て、多少自信もついてきてはいたが、講師陣たちからは150%の力を出さないと難しいかもしれないと言われていた。
講評会では、中段の左右を行き来していた。

武蔵野美術大学を受験する朝、鷹の台の駅を降り、電気屋のテレビから流れるどこかの情報番組の朝の占いを目にした。
駅を降りる受験生は沢山いて、並行して歩く油絵学科の生徒は旅行鞄を乗せるキャリアに油絵道具やキャンパスを乗せていたため、ガタンゴトンと音を鳴らせ、鷹の台の商店街は異様な光景を醸し出していた。
そんな喧騒の中、テレビの中の綺麗なキャスターが「牡羊座は第1位。ハッピーな一日になるでしょう。」と読み上げていた。
占いなんて1年ぶりに見たが、きれいなおねえさんがそう言うのだから、間違いないと思い込み、肩の力も抜け、デッサンは今まで描いたことがないくらい集中し自分でもある程度満足できた。
長野の彼女からは前日に千羽鶴が送られてきた。
受験後ヨビコウに帰り、試験の内容を講師陣に話した
今まで一度も描いたことのないレリーフだったため、新鮮な気持ちで取り組めた。
意外にも冷静だったため、細部に渡って再現デッサンを行えた。
「多分合格している。」とワタシは胸を張って言っていた。
東京藝術大学と多摩美術大学は周囲のデッサンに気を取られ集中できず、最低なデッサンを描いてしまった。

合格発表は郵送であずさ荘に送られてきた。
頑張った1年間を思うとあまりにも薄っぺらな紙に「合格(補欠)」と書かれていた。
一年間ピンと張りつめた緊張の糸が少し緩む感触を味わった。
後々、ワタシの点数を知ることができた。
学科は100点満点中、英語60点、国語50点。
デッサンの点数は公表されなかったが、満点近かったと、都合よく想像した。
学科がもう少し取れていればすんなり合格だったか。
ビダイ合格者の中には、多摩美術大学、東京藝術大学など他の大学と合格が重なる者が割合と多い。
補欠イコール合格と認識していた。
その後、大学事務局で補欠合格を電話で自動アナウンスしていた。
アナウンスを小まめに確認していた彼女から合格の連絡が来た。
内心喜びは爆発していたが、なぜか実家の両親には「2浪してゲイダイに入るから。」と公衆電話越しに強い口調で言っていた。
大学の事情など露も知らない父親は口をつぐんだ。
国立と私立とでは学費の額が桁外れに違う。
マッチョ思考に汚染されていたワタシは、ここでゲイダイを諦めたらダメな人生になると思い込んでいた。
後、数年受験してどこも受からないじゃないかという不安より、自分の信念を曲げることの方に恐怖を感じていた。
そんなワタシの思考を修正してくれた人がいる。
「おれも、ビダイだよ。君が後輩になるんだね。お前はビダイタイプだよ。」
水木しげる漫画のサラリーマン風講師の一言で気持ちが変わった。
ズルズルと多浪を重ねても、らちが明かないタイプとして認識されていたのか。
ゲイダイで古典的でアカデミックな教育を受けるような人材には性格的に成りえないと判断されたのか。
ワタシを一年間見てくれた恩師のアドバイスを受け入れた。
拘りを捨て、新しい世界を見てから色々考えようとふっきれた瞬間だった。
浪人1年目で、思考にも柔らかさが残っていたことが幸いだったのかもしれない。
★★
仲のよかった村さんはゲイダイの1次を通ったが、2次には遅刻して満足のいく制作ができなかったようだ。
村さんらしいエピソードで笑えた。
ワタシと同じ武蔵野美術大学に入った。
コブさんは、有言実行、東京造形大学、武蔵野美術大学とサクッと合格したが、実家の事情もあり、金沢工芸大学に行くことになった。
「村上龍の出身校へ行くのが夢やった。」が口癖で、皆と武蔵野美術大学に行きたかったと涙ながらに言っていた。
クールなようで一番人情に厚かった人だったのかもしれない
ゲイダイに合格したのは、講評会で上位を占めていた面々だった。
エリート講師陣の見る目は、ある意味間違えてはいなかった。

その後、ワタシがいたヨビコウで、ビダイ・ゲイダイを卒業して、アーティストとして活躍している人は何人いるだろうか。
合格したものは、あずさ荘を出ないといけない。
引っ越しの準備をし、立川高校のグランドを見つめながら「一コマ進んだなぁ。」と独り言を言っていた。
あずさ荘からは何人か合格者が出たが、多浪を重ねる先輩も多くいた。

第3章 解放されたビダイ生

第31話 心理の真理
小平野外展を終え、「謎のオブジェ」を実家に設置してから、燃え尽き症候群のような状態になっていた。
課題制作に身が入らず、大学の食堂で「ぼ~」とコーヒーをすすっている時間が増えた。
「おう!シノブ。」と、近くで親子丼を食べていた、長野県出身で大学院の大久保さんが声をかけてきた。
「野外展のお前の作品はどうなった。」
「実家に持って行きましたよ。」
「ふ~ん。あんなもん立てたら、近所迷惑だろうに。」
「そうですね、でもFRPなんで、劣化は早いと思います。5年もてばいいんじゃないかと。」
「オブジェの口にロケット花火仕掛けてバンバン飛ばせばいいんだよ。それか、あの中に住んで、住民を驚かせるとか。まだまだ、遊べそうでいいなぁ。お前の作品は!」
「シノブよぉ、今暇だったら俺の作品見に来ないか。」
ワタシは大学では、先輩方から「シノブ」と呼ばれていた。
同級生からは「ブー」か「ブーちゃん」だった。
大久保さんと一緒に院生が制作しているアトリエに行った。
そこには直径1mの切り株に様々な人間の顔を彫ったものがゴロゴロと転がっていた。
他の院生の荷物や制作中の作品は、アトリエの隅に追いやられていた。
20面くらいあっただろうか。
「大久保さん、これ一人で全部彫ったんですか。」
「うん。そうだよ。人間の顔って難しいんだ。俺、元々デザイン科志望だったから、どうも表面的な捉え方しちゃうんだよね。」
「そんなことは、ないと思いますよ。表面を超えて、人間の感情の奥深い何かが滲み出てるっていうか・・。」
「祭りで太鼓叩く台あるじゃん。櫓(やぐら)かな。あそこに提灯がたくさん吊るしてあるだろ。あんな感じにこの顔面どもを吊るすんだ。そして、この耕運機で櫓を引きずり大学内を駆け回るんだ。」
大久保さんのモヒカンは上下に揺れていた。
アトリエ内でブルーシートを被っていた耕運機をチラッと見せてくれた。
「皆には秘密だからな。あの軟弱どもをあっと驚かせるんだ。」と目を輝かせていた。
大久保さんはラガーマンのような体をしていて、北斗の拳ラオウのようで、大久保さん以外は皆軟弱と言われても仕方がなかった。
大久保さんのテーマは「祭り」であり、原始的な人間の感情や行為を、地元長野諏訪の自然と脈々と受け継がれてき御柱祭を重ねてダイナミックに表現している人だった。
★★
午前中は講義だった。1,2年で一般教養は大体取り終えていたので3年次は時間に少しゆとりがあった。
心理学の立花先生はいつも講義の始めにビデオの使い方が分からず20分くらいビデオデッキの前をうろつく。
結局、扱い方が分からず事務局の人を呼びに行く。
ほぼそれが毎回の講義で行われる。
立花先生は「俺は毎日腕立て、腹筋、スクワットを1000回やっている。」と言ってから講義を始めていた
白髪で細く、か弱そうなイメージだったが、そう言われてみると、引き締まった細マッチョのように見えてくるから不思議だった。
ワタシは何度か立花先生が板書をしている隙にサボろうと考え、講義室を出ようとした。
すり鉢状になった講義室の一番隅で、立花先生からはよく見えない位置に座っていたので、絶対にバレない自信があった。
しかし、ドアを出る瞬間に「おい、シノブさん、どこへ行く?」と呼び止められた。
講堂には100人以上の学生がいたが、途中退場する学生がいると必ず名前を呼んでいた。
「俺は一度会った人間は名前も顔も一瞬で覚える能力があるのだ。」と言っていた。
最初は信じられなかったが、町中で立花先生に不意に出会った仲間が、講義を履修していないのに名前を呼ばれたと、驚いていたものだ。
自閉症や知的障害、発達障害のある方々の中に、一部の能力が桁外れに高く優れている「サバン症候群」の方がいる。
要は天才だ。
立花先生は簡単な機械の操作は苦手のようだったが、記憶力は常人を超えていた。
それから、途中退席ができないことを知り、立花先生の話を、腹を据えて聞き始めると心理学の面白さを感じていった。
★★
立花先生の講義は難しい心理学と言うよりも「雑談」が多かった。
「雑談」が立花先生の心理学の中央に据えられていた。
雑談の延長から「俺の知り合いに役者がいる。」「ドラマ、ずっとあなたが好きだったで、有名になった冬彦さん役の佐野一郎くんを呼ぶ。」といきなり言い始めた。
立花先生が呼んできた冬彦さんは、本物の冬彦さんだった。
佐野氏は、ドラマのマザコン役の怖い印象とは全く違い、溌剌としたキレのある話し上手な人だった。
若い頃はビダイを目指したようだが、「美学校」という専門学校で学び、その後役者を目指したそうだ。
いつもビデオの操作で四苦八苦していた立花先生は、今日はビデオの操作も無く、佐野さんとのトークで気が楽だ!楽しみ!」と喜んでいたが、マイクの音が出ず、20~30分マイクと格闘していたから憎めない

佐野氏は、冬彦さん役を終えてからしばらく「燃え尽き症候群」になったと言っていた。
立花先生は面白おかしく「冬彦さんのイメージがついちゃったから、苦労しているんでしょ。」といじっていた。
「燃え尽き症候群になったら、また違うことやって燃え尽きればいいんですよ。」と立花先生が何気なく放った一言がワタシの心に突き刺さった。
「何だ、そんなもんだよね。違う役やってモエツキマース!」と佐野氏は明るくお茶らけていた。
燃え尽き症候群という言葉はよくよく考えると妙である。
物事には終焉があるのは当たり前で、生物はいずれ燃え尽きて死ぬ。
「死亡症候群」というものはこの世に無い。
生きているうちは、一つ燃え尽きた後、次の燃えるものが見つかるまではクーリングブレイク期とも言えるだろう。
そこに悩みや迷いはあって当然。
佐野氏は学生に向かって「何でもいいから、テキトーにでもいいから、やりたいことを素直にやっていれば、道は拓けるんじゃないかなぁ。」とさらりと言っていた。
大学に入ってマンネリ化した制作に飽き飽きしていた頃であったが、身近にいた人々から、次への燃えるきっかけをいただけたことは幸いだったと思う。

第32話 串田の串刺し① 美術狂育論
大学の図書館前広場で、大学院の大久保さんは複数の木彫のお面を櫓《やぐら》に吊るし、褌《ふんどし》姿で、櫓の周りを耕運機で回っていた。
 耕運機のカントリーな速度と、意味もなく雄叫びを上げる大久保さんのミスマッチが学生たちの視線を揺るぎないものにしていた。
「彫刻科の人でこんなことする人いたんだぁ~。すげ~な!」
「人体をつくっているだけじゃないんだね。かっこいい!」
「怖い顔が吊るされた櫓の周りをグルグル回るだけだけど、哀愁が漂っていていいんじゃない。」
見物人の学生たちは、それぞれ感じたことを素直に言葉にしていた。
大久保さんの作品は鑑賞者を「子供」にする力があった。
 彫刻科の他の学生は大体が、人体や動物を塑像していたり、鉄パイプで抽象
彫刻をつくっていたり、FRPでアニメのキャラクターをつくっていたり、論理
的にそれなりの作品解説をし、コンセプチャルアートを気取るものがいたりし
た。
 大久保さんのような原始的でダイナミックで飛び抜けた奇抜な発想を持っている人はいなかった。
 少し前まで、薄暗いアトリエの片隅でシコシコとデッサンを描いていたこと、少しでもデッサンが上達するように地道にヨビコウに通っていた時期のことを考えると、目の前で起きている現象とのギャップに細い目を無理やり開かされるほどのカルチャーショックを受けた。
★★
 ワタシは教師になる気は全く無かったが、両親から「就職ができないような大学へ行くのだから、せめて教職課程だけはとるのだよ。」と強く釘を刺されていた。
高額な学費を払ってくれている両親の為にも、そこだけは言うことを聞ていた。
いざ講義を受けてみると、性に合っていたのか、教職課程を楽しんでいる自分がいた。
ただ、美術教育論の講義だけは、少し趣が違っていた。
講義の初日、小柄で華奢な串田先生という淑女が講堂に入ってくるやいなや、「あなたたちは間違ったことを勉強して、この大学に入ってきた。その凝り固まった頭の中をぶっ壊さないと、私は単位をあげません!」とまくし立てた。
「今からその理由を言うからしっかり聞きなさい。」と、串田先生が戦前に尋常小学校で描いた、ノートと鉛筆を模写したスケッチをOHPで見せてくれた。
はっきり言って無茶苦茶上手かった。
他にもプロが描いたような串田先生自身のスケッチを見せながら、「こんなことしていた時間を返してほしいわ。くだらない!」と自分のスケッチに突っ込みを入れている。
「この中に、こんなくだらない模写やデッサンを今でもやっている人間がいたらすぐに大学をお辞めなさい!」ときりっとした目つきで、学生たちを睨んできた。
 「もうこんな芸術は古いの!腐っているの!ダメなの!」と、ダメな理由を言っているのか、感情で思いをぶちまけているのかがよく分からなかったが、そのエネルギーの高さにただ圧倒された。
 一緒に講義を受けていた村さんは、目を擦りながら「あのおばちゃん、本当のこと言っているね。ビダイの教授たちには絶対に言えないことズバッと言っていて凄いと思うよ。」と眠気が覚めたのか、珍しく興奮していた。
 「100年前と同じようなことを繰り返すだけなんて、なんてもったいない大学生活なことか、それをよく考えて、もっともっと自由になりなさい!考えなさい!」と講義が始まって30分間が経ってもその熱が冷めることはなかった。
 「おれ、やっぱりこのおばさん無理だわ~。」と言って、人体塑像に力を入れていた仲間は途中退席した。
 終盤、石膏デッサンが描かれたコピー用紙を破り、講堂の脇にあったごみ箱に投げ捨てた。
 やり過ぎなのではと学生たちは息を呑んだが、時折見せるいたずらを楽しむ子供のような串田先生の可愛らしい表情を見て、心のどこかで安心していた。
 ★★
 ワタシは新興宗教から脱退させるときの、洗脳の解除方法をどこかの本で読んでいた。
 それは至ってシンプルなやり方だった。
 教祖の写真を潰し破り捨てるのだ。
 たったこれだけ?とその時は思っていたが、いざ自分が同じようなことをされるとその意味が分かった気がした
 ヨビコウ時代、石膏デッサンを一生懸命に描いた日々は、串田先生の洗脳解除儀礼により、きれいにすっぱりと切ることができたのかもしれない。
 ただ、ヨビコウで一緒に過ごし励まし合い闘った仲間や講師陣との甘酸っぱい思い出が全否定されているようで、悲しい気持ちになった。
 前進するためには心を鬼にする必要があると、燃え尽き症候群から少し回復してきたワタシは強く思い始めていた。
★★
 串田先生は、一歩も怯まない。
大学で前衛的な表現をしている学生たちも次から次へと切り捨てた。
「そんな表現、私たちが若い頃に表現し終わっているわ。」とよく言っていた。
 確かに、戦後日本で巻き起こった前衛アートブームの頃の資料を見ると、その過激さと新鮮さは異常なほどだった。
 太陽の塔で有名な岡本太郎を筆頭に、モヒカンで大きな壁にボクシングアートをする篠原有司男、紐にぶら下がり足に絵具をつけてグネグネとアンフォルメアートを牽引する白髪一雄、巨大な偽札をつくり逮捕された赤瀬川源平、ニューヨークでフリーセックスのハプニングを起こし一大アート革命ムーブメントを起こしたた草間彌生・・挙げればキリがないが、日本又は世界にかけて、古い美術への価値観を壊し表現してきた先人たちは山のようにいた。
 そんな時代を見てきた串田先生から、ビダイの学生の制作や作品を見れば稚拙であり軟弱に感じたのだろう
 串田先生自身も現役前衛アーティストだった。
 串田先生の洗礼を、巷の教育学部では絶対に出会えないであろう巨匠から受けてしまった。
 「美術狂育論」だったと思う。
 しかし、ナマの前衛アーティストの迫力をショック療法的に感じたまではよかったが、では、ワタシはこれから何をつくればいいのだろうかと再び迷走することとなった・・。

第33話 串田の串刺し② 美術狂騒論
日向井は下駄を履き、楊枝をくわえていた。額には絆創膏を貼り、ジーパンの膝辺りは破けていた。
 ちばてつや漫画のやんちゃ坊主風で、皆から「ヒダチン」と呼ばれていた。
 ヒダチンは東京藝大のデザイン科志望だったが、2浪目、滑り止めで受けた武蔵野美術大学の彫刻科に引っかかった。
 美意識やプライドが妙に高い割には、古風な性格で、昭和初期の若者のような恰好を好んでいた。
 そんな装いから時代遅れのスターと先輩方からはいじられていたが、本人はどこ吹く風、全く気にしていなかった。
 古風なのは恰好だけでなく、行動も怪しく古めかしかった。
 ワタシの彼女宛に「シノブチンとはこういう男だ」と大学での愚かなワタシの姿を書道で培った素晴らしい書体で丹念に描写し、自分の好きなアイドル歌手の曲名とその曲の素晴らしさを長々と列挙した手紙を送りつけていた。
 やっていることの意味は謎だったが、「シノブチン」の近くにいる俺は「シノブチンなんかよりずっと教養がある」という謎のアピールをしていたことが、後々本人の談笑で分かった。
 埼玉の実家から通っていたヒダチンは、よく駅を乗り過ごしたとか、終電に間に合わなかったと言いワタシの家に泊まりにきていた。
 理由はいつも「考え過ぎて、体が動かなくなった・・。」と言っていた。
 食前にも関わらず楊枝をくわえ、怖い顔で、傷も無いのに貼り付けた絆創膏に血が滲んでいる、アトリエの脇にある階段下であぐらをかく青年を見て、話しかけられる者はいなかった。
 ある日、課題制作を終え、アトリエの外で涼んでいると、ヒダチンが「これを見てほしい。」とヨビコウ時代のデッサンを持ってきた。
「これどう思う。素直に感想を言ってくれ。」と近づいてきた。
 東京藝大に充分入れると言われたデッサン力だったそうだ。
 そこには何人か同学年の仲間たちがいたが、皆、賞賛の言葉を送っていた。
 ワタシも素直に「ヒダチン、実力があったのに、ゲイダイ行けなくて残念だったね。」と寄り添ってみた。
 するとヒガチンは、「それではダメだ、デッサン自体を全否定してくれ!」と迫ってきた。
 今までの自分を全て捨てたいとのことだった。
 ここにもヨビコウ時代の病を治療したがっている人物がいた。
 先日、串田先生から教わった、洗脳を解除する技術をヒダチンに試してみようと、とっさにワタシは動いた。
「ヒダチンの言うことはよ~く分かった。」と言い、ヒダチンが何十時間かけて描いたと思われるデッサンを・・
「ビィリ!びぃり~!」
と、破り捨てるボディーランゲージと共に、口で効果音を鳴らした。
 ヒダチンは「あっ!」と目を限りなく大きく開き、顔は見たことも無いような表情になっていた。
 「って、破るわけないじゃん!」とワタシはおどけて見せると、
 ヒダチンは目に涙を浮かべ「そのデッサンは最高傑作だったんだ!何てことするんだ!」と半泣きで怒っていた。
 「ヒダチンは、まだ自分を捨てきれないから、このデッサンを皆に見せてくれたんだね。ヨビコウから動けなくなっていたんだね。ひどいことして、ごめんなさい。」とワタシは謝った。
 皆、ヨビコウにいた時間の意味を大学で探そうとしていた。意味を探すだけで、大学生活が終わってしまう人もいた。
 今までの自分を否定し、新しい自分を見つけるためには大学の4年間は余りにも短かった。
★★
 串田先生の美術教育論で「OHPを使い、行為、光、音を組み合わせて表現をしなさい」というグループ課題が出された。
 一緒に履修していた彫刻科の仲間4人で次回までに準備し発表することとなった。
 これまでの串田節を体感していたワタシは普通のことをしていたら、単位どころか、OHPごと吹っ飛ばされるんじゃないかと恐れていた。
 他の2人、村さん、馬沢も同様にただならぬ緊張感をもっていた。
 ただし、ランランいう女子学生は全く動じていなかった。彼女は目がクリクリした美少女だった。串田節にはほぼ興味を持たず、口をぽっかり開けながら、目玉をグリグリ動かし大好きな漫画を講義中もガンガン読みふけっていた。
 彼女に頼るのは危険すぎる、止めておこうと、男子3人で結束した。
 馬沢は禁煙電車内でカウボーイハットを被り、パイプを吸うような変人だったが、妖精のような精練された魂の持ち主だった。
 馬沢のアイデアはビニール袋に金魚を数匹入れ、長渕剛の「命」をBGMに、OHPの上でビニール袋を動かし、カラーゼラチン紙の色を変えていくというものだった。
 何とも神秘的で、小さな命が揺れ動く表現は、串田先生もきっと感動してくれるものだろうと踏んだ。
 私たちにとって串田先生は教職課程の教祖となっていた。
 「これは、前衛を超えた感動だ!」と3人で声を上げた。
 馬沢はそのころ、「クリオネ」を見に池袋サンシャインの水族館へ、よく行っていたようだ。動植物を愛する彼ならではの発想が秀逸だった。

 講堂での発表当日、この風景どこかで、見たことがあるなぁと記憶がフラッシュバックした。
 小学校時代、漫画クラブで、授業参観日にOHPを使った漫画の発表をしたときの情景が浮かんだ。
 ふと、教室内の笑いを全てかっさらった「おりちゃんの発表」を思い出した。
 おりちゃんは口から唾を飛ばし、棒人間が冒険しながら谷や池に落ちるという至ってシンプルな表現を、アートの領域にまで高めていた逸材。
 あれから10年、ワタシには心強い仲間たちがいる。この人生2度目のOHPの発表でコケルわけにはいかない。そう自分に言い聞かせて発表に臨んだ。
 ワタシたちの発表は予想以上に評判がよかった。
 不安定に動くビニール袋の中で泳ぐ金魚たちが大きなスクリーンに映し出され、他の学生たち、串田先生の心を温かく動かした。
 串田先生は「素晴らしいわ!小さな命の美しさ、いや小さくなんかない、命の平等さや尊さをひしひしと感じるわ。長渕剛はいただけないけど、ナレーションをしていた彼女の声やセリフは一級品だわ!」
 当日ナレーションだけお願いしていたランランは本番に強い子で、高評価を得ていた。
 「まぁとりあえず、単位は大丈夫だな。」と皆で胸を撫で降ろしたが、ワタシは心のどこかで、まだ安心してはいけない不穏な空気を感じた。
 ワタシたちの発表の後に「串田先生、僕はグループがつくれなかったので一人で発表していいですか。」と、日本画科の冴えない男子生徒が手を挙げた。
 串田先生は「一人でもいいわよ、時間がないから急いでやってちょうだい!」と急かした。
 日本画科の男子生徒はOHPの操作が苦手なようでかなり手こずっていたが、ワタシの悪寒は的中した。
 OHPで流されたスライドは、釣竿を持った青年が、尾崎豊の「十五の夜」をBGMに山をジャンプしたり、谷に落ちたり大きな魚に食われたりする場面をギコチナイコメントを、添えながら発表する単純明快なものだった。
 これは、おりちゃんのパターンだ、やばい、もってかれる!と思った瞬間、講堂内は笑いと感動の渦が巻き起こっていた。
 現役前衛アーティスト串田も腹を抱えて、涙を流しながら狂ったように笑いこけていた。
「これ、サイコー!!」串田先生は、今までの全ての発表を忘れたかのように、この日本画科の作品を大賞賛した。
 美術は理屈ではなく「狂騒」なのか・・。

第34話 失われたロンバケ
「ピエール、ピエール」とワタシは後ろから、肩をぐいぐい押された。
 一緒にフランス語を選択していた石田先輩から呼ばれて目が覚めた
 講義中は本名で呼び合うことが禁止されていたため、石田先輩はニックネームで呼び起こしてくれた。
 フランス語の加藤先生は、フランスの田舎にブドウ畑を持っているらしく、「人生に一度はフランスへ行った方がいいよ。あっちは2か月くらい夏休みがあるんだよ。いいよね~。俺も、講義なんか止めて、フランスに移住したいよ。」と口癖のように言っていた。
 ワタシの横に座っていた油絵科の背の高いロン毛青年「モンブラン」は、フランス語の上達スピードが異常に早かった。
 ついには「加藤先生の仰る通りフランスに行ってきました!フランス人と違和感なく話せました。」とさらりと言ってしまう始末だった。
 モンブランから「ピエールも早くフランス語を覚えて、フランスに行くべきだ。」と何回か助言をいただいたが、日本語も怪しいワタシには実現が難しかった。
★★
 木彫制作を終え、学食で彫刻科の仲間たちと夕飯を食べていた。
 ロン毛でゲッソリしていた、ニックネーム「キリスト」と呼ばれていた彼が、食べていたうどんを残したまま、慌てた表情で食堂の薄暗い角で何やら携帯電話で話をしている。
 皆で、食堂の薄暗い角で青い顔をしているキリストを見ながら「ほんまもんのキリスト様や!」と言っていた奴もいた。
 キリストの背丈程あった観葉植物も、リアルさを演出していた。
 キリストは独特な世界観を持ち、万人に優しく、彫刻科には珍しく他学科にも友達が多くいる顔の広いタイプだった。
 皆、キリストが好きだった。
 私立の美術大学は学費が高額なため、学生はアルバイトをしながら、日々の食生活を削り、制作費や生活費を捻出している
 特にワタシやキリストは地方から出てきたので、家賃や生活費で苦労をすることは多かった。
 ワタシも痩せていたが、キリストは見ているこちらが心配になるほど痩せていた。
 ★
 その後、キリストと学食に行っても、お茶しか飲まず「何か食べないの?」と聞いても、「うん、お腹一杯だから。」と言って、無理やり笑ってみせていた。
 夕食後は、「じゃ、深夜バイトがあるから。」と言い、席を立って行ってしまった。
 週5で、朝からバイトを入れ、ほぼ毎日深夜バイトを入れていたキリストは本家と見分けがつかないくらい顔や体形のキリスト化が進んでいた。
 その頃、深夜バイトと言えば「ヤマザキパン」で、ベルトコンベアで移動するパンを仕分ける仕事だ。
 給料はそこそこいいが、生活リズムが崩れるので体には悪い。
 キリストがベルトコンベアの前に立っている姿は、祈りにしか見えないだろう。
 キリストは講義や制作はおぼつかなくなり、常にふらふらで立っているだけでも辛そうだった。
 いつも厳しい教授や講師たちもキリストには優しかった。
 ワタシは隣で木彫制作をしていたモッキーに「キリストが最近辛そうなんだけど、何か知っている?」と聞くと、驚くべき返答が来た。
 「ブーは気が付かないの?相変わらずドンカンだね。学食で青い顔してたところ見て、大概の仲間は気付いていたんだよ。彼女に赤ちゃんができたんだよ。」
 「え!え!マジで!キリストはお父さんになるの?凄いね!彼女って誰?」とワタシは持っていた彫刻刀を人体木彫の頭頂部に突き刺してしまうくらい驚いていた。
 「彼女は誰なんだろうね。あたしも知らなーい。」
 浪人生の頃、どこかのヨビコウで働いていた人らしいと後から聞いた。
 真実は分からない。
 あれだけバイトしてヘロヘロになっても、文句一つ言わず、生まれてくる赤ちゃんのために頑張るキリストは素敵だった。
 一度、キリストに、木製の大きな十字型をつくっていた韓国出身のオウさんの作品の前で、張り付けにされたキリスト像の恰好をして写真を撮らせてもらったことがある。
 嫌な顔一つせず、サービス精神旺盛な、優しく寛大なキリストだった。
 時が経ち、やつれ果てたキリストが、ぷりっぷりな赤ちゃんを抱っこして大学に見せに来てくれたときは、キリストの子として皆で崇め祭った。
 キリストは見たこともないデレデレとした表情で、幸せそうに赤ちゃんを見つめていた。
 キリストは彫刻をつくる前に命をつくった。
 二十歳そこそこの若者たちからすれば、非日常的な出来事だった。
 ロングバケーションを楽しむかのようにうつつを抜かしていたワタシは、リアルな世界を体現していたキリストの姿を見て、少し現実の世界へと引き戻された感覚があった。
 ワタシたちは、アーティストである前に人間なのだ。
 大学ではほとんどの人間が、のんびりとしているように見える。
 アルバイトや制作に追われる学生は一部なのか。
 長い夏休みが4年間続いているように見える学生は羨ましかった。
 キリストにはロンバケがあまりなかった。
 それは少し可哀そうだなぁと思った。
 しかし、それは試練なのか、ちょっと早まった幸福なのかは時間が経たないと分からない。
 ★★
 「シノブ!シノブ!」鉄工場の奥で、ワタシを呼ぶ声がする。
 もう一人、ロン毛のポニーテール、小牟田武三先輩が大きな声で「あの人が帰ってきたぞ!面白くなりそうだな。」と言っている。
 この時期、ロン毛青年が割と増え始めていた。キムタクの影響だろうか。
 バイト先の親方たちはヨシタク(吉田拓郎)世代で、毛があったころは皆ロン毛だったと言っていた。
 大学内にいたロン毛でキムタクと呼ばれていた人は少数。キリストは1名。残りは「落ち武者」がいいところだった。
 「落ち武者」と呼ばれていた助手の島さんは、髷《まげ》を結いイメチェンを図っていた。
ワタシの彼女もキムタクが好きだった。
ワタシは反発して坊ちゃん刈りかラーメンマンだった。
「え?あの人?」ワタシは小牟田先輩のヒールな物言いに嫌な予感がした。
「お前の苦手なあの人だ!やべーぞ!」
「まさか!」
確か、あの人もロン毛だった。
ただし、強烈なジジイのロン毛だ
あの世代の、有名なロン毛野郎が思い当たらない。
ワタシは急に頭の中がグルグルと回り始めた
「強烈だもんなぁ。あの人。絶対何か言われるか、怒られるかだ。」と・・。
周りの彫刻科生たちも、ざわつき始めた。

第35話 モガチャイルド
ワタシは助手の須薄井さんに彫刻科研究室に連れていかれた。
「男神輿が中止になったにも関わらず、今年もやろうと企んでいる奴はこいつです!主犯格です!」
 例年、美大祭最終日、男性器を模した高さ3mあるご神体を、モヒカン、褌姿の彫刻科の男子学生有志で担ぎ、大学敷地内から普段お世話になっている近所の商店や食堂を練り歩いていた。女子学生も希望者は際どい服装で参加し暴れていた。
 練り歩くというよりは、大学の出店を破壊して回っていた。
日本酒を一気飲みしてから出陣するので、中には泥酔する奴もいて危なかった。
最終日なので、ある程度は無礼講だったが、昨年度、先輩の誰かが酔って暴力騒動を起こしていたため、中止の勧告が出ていた。

 ワタシが陰でご神体をつくっているという噂が流れていた。
野外彫刻展で発表し、実家に設置したオブジェの形態がご神体に似ていたため、その噂を更に広げる元手となっていた。
「ワタシは主犯格でも何でもなく、今年の美大祭は参加するつもりがないんです。」
「お前、嘘言っても分かるんだぞ、陰で神輿、ご神体をこっそり作っているんだろ!」かなりしつこく聞いてくる。
 助手の須薄井さんは、普段からワタシに厳しい。
 ワタシは、やりたい放題、わがまま放題アトリエを占拠していたからだ。
 「いや~それは無いっすよ。ワタシはその日は参加しませんから。妙な言いがかりをつけないでください!」
 数十年前に彫刻科で初めて男神輿を発案し、男性器を模したご神体の歴史を創ったと言われている、当時彫刻科の学生だった、講師の浜真野先生は固く目を閉じていた。
 「浜真野先生の前で言うのも何ですが、新しい表現を創造する学生が、悪しき慣習に従って毎年同じことを繰り返すことに意味があるんですかね~」と須薄井さんは浜真野先生に直球を投げた。
 浜真野先生は目を薄っすら開き「もう辞め時かもね。」とボソッと言った。
 「最神先生!こいつどうにかしてくださいよ~!」須薄井さんは、最近、世界旅行から帰ってきたばかりの彫刻科主任教授の最神久雪《もがみひさゆき》先生に助けを求めた。
白髪混じりのロン毛でオーバーオールを着た最神先生はワタシをジロリと睨みつけた。
 「おう、お前か、ワシが研修(世界旅行)に行っているうちに、態度がデカくなったのう。神輿のことは助手の須薄井君に任せるとして、あの広場に置いてあるタイヤは何なんだ。」
 矛先が変わった。
 ワタシは謎のオブジェを制作した後、燃え尽き症候群になった。それから回復したころに、大学近所のブリッジストーン社から普通自動車、大型トラックの中古タイヤを無料で100本近く貰ってき広場に積み上げていた。
 今も昔も、気落ちした後にとんでもないパワーを出してしまう悪癖があった。
 「いや~。制作するんですよ。これから。」
 「ナ・ニ・ヲ、つくるんじゃ。」
 「・・・・。」ノープランだった。
 「ワシはお前と心中はせんぞ、責任もって作品にしなさい。いいな!」
 タイヤは夏場異臭を放ち、タイヤの内側に溜まった水に蚊が大量発生していた。
他方面からクレームがきていたため、最神先生もイライラしていた。
★★
 最神先生はワタシが大学2年生になるころ、現在の海外アートを見渡したいしたいと、大学側にゴリ押しし、長期研修として約1年間海外に出た。
 やることがワイルドである。
 大学に入りたてのワタシに「先端の先端にアートは存在するんじゃ。物はつくるな!」とよく言っていた。
 要するに「ゼロになれ」というような事を言っていたんじゃないかと勝手に想像していた。
 遠回しに「お前に彫刻家の才能はない。」と伝えてくれていたのかもしれない。
 最神先生は若い頃はサラリーマンをしながら制作をしていたらしい。
戦後のドタバタの中、リヤカーに鉄や木材を詰め込み、仕事が終わった後に制作をする生活を長い間行うような強者だったようだ。
 大学で教えるようになってから、美術史を徹底的に頭に叩き込んだと豪語していた。
 1960年頃、石、木、紙、綿、鉄板、パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて作品とする表現者が出てきた。
 もの派と言われている。
それまでの日本の前衛美術の主流だった反芸術的傾向に反発し、芸術の再創造を目指していた人たちを牽引する存在の一人が最神先生だった。
 日本のあらゆるところに最神先生の野外彫刻が設置されている。実家の駐車場にオブジェを設置してぼんやりしているワタシとは住む世界が全く違う偉人だ。
 横浜みなとみらい地区に設置された、ジェットコースターのコースを彷彿とさせるステンレス製の巨大彫刻「モクモク・ワクワク・ヨコハマ・ヨーヨー」 は有名な作品である。
★★
 日本美術界の巨匠であった最神先生だったが、学生からは陰で「モガちゃん」と呼ばれていた。愛される先生だった。
 モガちゃんの講評会が終わると、大概の学生は「くそじじい!」と呼び名が変わった。
 最神先生は講評会中に学生にケンカを吹っかけてくる。そのケンカにうまく乗せられた学生は泣いたりわめいたりする。
 巨匠は学生を扱うのがうまかった。谷底にも落とすし、べらぼうに褒めて勘違いもさせていた
 いつも本気でぶつかってきてくれたが、ワタシたち子供と遊んでくれていたと言ったほうが適切か。
 関わった学生の、その後の成長ぶりを丁寧に見届けてくれる、マメな人でもあった。
 講師の浜真野先生は、大学を卒業して数年間、最神先生のご厚意により大学のアトリエを使用させてもらっていたくらいだ
 最神先生は人を見抜く力があったので、才能豊かな浜真野先生を大切にしていたのかもしれない。
★ 
 痛烈な批判をされた後は、自分の作品の見方がガラリと変わり、今まで気づかなかった大事なものを見つけることができた。
 ワタシは「お前みたいな奴は、今はガシャガシャとバカでかいもん作っているが、そのうちモノはつくらなくなるだろう。でも、お前みたいなバカで変わった奴は今まで見たことがないぞ。いつか何かやりそうだな。」と言われたことがあった。
 突発的に何か仕出かしてしまう癖を案じてくれていたのかもしれない。
 残念ながらワタシは、今のところ大して何もしていないが、モガちゃんの「いつか」に期待したいと思う。
 モガちゃんが言っていた「物はつくるな」は、この世にモノはもう必要ないという嘆きだったのかもしれない。
 世界のアートを見た後も、更に強くそう語っていた。
 「もの派」の巨匠が言うのだから、きっと本当のことを言っていたに違いない。
 モノを作ってなんぼの精神で彫刻科に来たのに、物はつくるなとは理解し難いものがあった。
 同じことを繰り返す必要は無い。
 美術教育論の前衛アーティスト串田先生も言っていた。
 そんな的確な助言も、この頃のワタシには理解できず、過去と同じ過ちを繰り返す羽目になっていった・・。

 第36話 モガの刺客 アレクサ・・
今日からしばらく彫刻科で学ぶ「篠村アレクサンダー空海くんだ。ニューヨークから2日前、日本に着いたばかりで、時差ボケで疲れているから、お前たちよろしくな。」
 最神先生はニコニコしながら、半地下にあった薄暗い鉄工場で、素朴な佇まいの彼を紹介した。
 見るからに、どこにでもいそうな純朴そうな日本人であり、きっと海外帰国子女かなんかだろうと皆で話した。
 最神先生は時々、海外のアーティストや学生を連れてきていた。
 彫刻科生に刺激を与えるためだったのかもしれないが、内気で個人主義に陥っている学生が多かったワタシたちと、簡単なコミュニケーションをとること自体が難かしかった。
 昨年留学してきたアメリカオハイオ州出身の「マイク」は、背が高くヒョロヒョロしていたハイテンションな美男子だった。
 美大祭の男神輿で大量に日本酒を飲まされた。
 マイクもイケイケな奴だった。
 朝方、全裸で、道端で倒れているところを発見され、真っ白い背中にはテリーマンと油性マジックで粗く書かれていた。
 彫刻科流のコミュニケーションに、母国の両親は即刻帰国させた。
 結局、うまく交流できず、短期留学を終わらせる学生も多く、受け入れる側の期待が外れることもあったようだ。

 皆、「篠村アレクサンダー空海」の名前に疑問を持っていなかったようだが、ワタシは違和感で頭の中が一杯だった。
 「アレクサンダー?ギリシャかどこかの国を支配したアレクサンダー大王?空海?あの有名な平安時代のお坊さん?」教科書で微かに聞いたことのある、偉人の名前であることは理解できた。
 サッカーで言うと「ペレ釜本」、野球で言うと「ベイブルース長嶋」のようなネーミングであり、そんなウソみたいな名前をつける人がいるのか?と勘ぐり、仲間たちには、「きっと、ビダイに来るに当たって、ウケねらいでつけたニックネームみたいなものだろう」と言っていた。
 村さんは「空海を食うかい。」とつまらないダジャレを本人に言ってみたが、反応は薄かったようだ
 周りの仲間たちは「アレック」と呼んでいたが、ワタシはあえて「篠村アレクサンダー空海くん」とはっきり呼ばせてもらっていた。
 「篠村アレクサンダー空海くん」はかなり不思議な男だった。
 行動が異常にスローリーで、一緒に学食へ行こうと誘うと、立ち上がるまでに数分かかり、学食に着くまでに相当な時間を有した。
 行動がスローリーで有名だった、日向井と気が合うかとも思ったが、日向井の上をゆくスローリーさだった。
 終電を何度も乗り損ねた日向井が「あいつは遅すぎる!」と苛立つほどだった。
 一緒に話をしていても、猫背でうつむきがちで、たまにゆっくりと顔を上げて笑顔になるくらいだった。
 日本語をよく理解しているのか、あまり理解していないのかさえもよく分からなかった。
 ワタシは直感で、ワタシたちに合う学生を連れてきたんじゃないかと憶測した。
 最神先生がこれまで連れてきたアーティストや学生たちは、妙にハイテンションだったり、プライドが高かったりして、彫刻科の学生に馴染まなかった。
 最神先生の狙い通りだったのか、その後、彼は彫刻科内で不動の人気を獲得していった。
 特に話もせず、誰かの制作する姿をぼんやり見つめていることがほとんどで、何か制作をしている様子は全く無かった。
 ワタシがガチャガチャと何かをつくっている最中、気配を感じ後ろを振り向くと、アレックが目を閉じて座っていたこともあった。
 彼の特徴の一つに、分かれ際、深々とお辞儀をする習慣があった。
 彼の丁寧すぎるお辞儀が何度も見たくなり、100m先まで「アレックさようなら!」と何度も言う者も出てきた。
 そんな愚行にも一瞬たりとも腹を立てずに、深々とお辞儀をしてくれた。

 彼は2~3か月ほど日本に滞在し、再びニューヨークに帰ることになった。
 皆、彼と別れることが寂しく、分かれ際は、彼の腰と首の骨が折れ曲がるのではないかと心配になるくらい、お辞儀を強要していた。

 しばらくして、体調不良で長期休養していた鋳造担当の岩山先生が、帰ってきた。
 開口一番「アレックはどうだった?」と学生に聞いてきた。
 「いや~礼儀正しく、面白い人でしたよ。」
 「お前たちもあんなパワフルな人物と出会えて幸運だったな!」
 「えっ?篠村あれくさんだーくうかい?ですよね。変わった名前ですね。本名なのですか?全然パワフルさは無かったですけど・・。」
 「そりゃそうだ、あの篠村有司男の息子だからな!名前は一回聞いたら忘れられないな。お前たち、アレックがいた期間、ずっとここで制作していただけでしょ。アレックは寝る間も惜しんで、都内のギャラリーを見て回っていたらしいよ。どこかのアトリエを短期間借りて、制作もしていたらしいぞ!」
 篠村有司男とは、岡本太郎に憧れ、前衛アーティストとしてモヒカン頭でボクシングペインティングをハプニング的に世に発表し、一世風靡した稀代の天才アーティストだった。
 鋳造担当の岩山先生は、東京藝大時代の同学年だったらしい。
 篠村有司男は油絵科で、大学を中途退学し、奥さんを連れてニューヨークに行ってしまったそうだ。
 かなりの極貧生活を送りながら制作活動を続け、現在は、年はとったが、エネルギッシュに段ボールを使った数多くの作品を世に送り出している。
 ドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』を見ると理解が深まる。
 「篠村アレクサンダー空海」と言う名は、極貧生活中、毎晩仲間と飲んだくれていたさ中、奥さんに子供ができ、飲んだ勢いで命名したそうだ。
 当初はジャック(ジャック・ダニエル)、ハーパー(I・W・ハーパー)、ナポレオン、ヘネシーが有力であったそうだが、奥さんがウイスキーの名前ではあまりにもということで、世界的に有名なアレクサンダー大王と空海をくっつけたそうだ。
 ほんまもんのアーティストはやることが違う。
 ワタシの両親は命名するときに「小次郎とシノブで迷った」と言っていたが、レベルが違う。

 あのスローリーな動きは、ただの疲れだったようだ。
 ワタシたちと行動していないときは、エネルギッシュに活動していたとは、頭が下がる。
 インターネットが大学にも普及し始め、コンピュータ室で篠村アレクサンダー空海くんの姿や作品の画像を検索する機会があった。
 そこには、大学にいた彼そのものの姿と、異常なほどエネルギッシュな絵が立ち並んでいた。
 ニューヨークで個展を開いている様子だった。
 画像に写る素朴な出で立ちの彼を呼んでみたら、深々とお辞儀をしてくれているような錯覚が起きた
 皆が応援したくなる、もう一度会いたくなる、名前の通り素晴らしい人物であった。
 
第37話 カトちゃんモガちゃん彫刻祭り
 彫刻科では、先端造形コースと自然造形コースのどちらかを選択することになっていた。
 先端造形コースは、最神久雪教授。
 自然造形コースは、務藤秋男教授。
 務藤先生は、人体など具象物を原型とした、大型の作品を制作されていた。
 もの派(素材感やモノの在り方を見直した抽象彫刻)を牽引する最神先生とは同じ彫刻でも分野が違った。
 務藤先生は大学内で制作されていたこともあり、制作現場を何度か見学したことがある。
 アニメ「アキラ」の鉄雄が巨大化したような人体が、アトリエからはみ出んばかりに粘土で造られていた。
 「務藤先生、この作品デカいですね。アトリエからどうやって出すのですか。」とワタシは素人のような質問をした。
 「これは、そんなにデカくないよ。昔はもっと大きい作品を手掛けていたんだけどね。最近はここまでが限度かな。アトリエで、石膏で型をとって、バラバラにしたものを、鋳造屋さん渡すんだよ。」務藤先生はタオルで汗を拭きながら丁寧に話してくださった。
 最神先生の横浜みなとみらいにある巨大彫刻、務藤先生の巨大な人体彫刻と、この大学の教授たちの作品はとにかくデカかった。

 他にも、サトシタカノ先生、市川金平先生と現代アート(彫刻の世界)では、有名な方々が多く、こぞって作品がデカかった。
 市川先生は、上腕二頭筋、三頭筋辺りが異常に発達していて、男子学生が3人でやっと運ぶようなH型鋼材を一人で担ぎ上げ、更にその上に女学生を乗せようとしていたくらいだ。
 講評会中など、市川先生の姿が見えなくなり辺りを見回すと、ひたすら腕立て伏せをしていたこともあった。
 「1001回、1002回・・。」と何か特別な物でも食べているのかなというくらい、いつもハイテンションだった。
 市川先生は講師陣の中で一番若かったが、すでに学生の頃から名のある公募展で多く受賞され、最上先生から早くも才能のある学生として、目をつけられていたようだ。
 一度、教授や講師の作品をビデオやOHPで紹介してもらう機会があった。
 市川先生の作品は規模が桁外れで発想が異次元だった。
 大きな鉄板をバキュームカーの形に張り合わせ、細かい穴をたくさん開けた内側から黄緑色の光源を放ち、バキュームがグルグル回りながら室内を満点の星空に埋め尽くすというロマンチックなものだった。
 凄いのはそれだけでなく、趣味で集めたという数々の映画のレーザーディスクの山だった。
 「発想の原点はここにある!」と言いながら、自分の作品紹介よりも映画紹介に力が入っていた。
 あまりにもの熱量に、皆圧倒されたが、次元が違い過ぎて現実味が湧かなかったというのが正直なところだろう。
 彫刻科イコールバカデカい作品という公式がいつの間にか自分の中にカタチつくられていた。
★★
 ワタシは最神先生にシンパシーを感じ、先端造形コースを選択したが、務藤先生のところに話を聞きに行くことがよくあった。
 何となく、アニメ「日本昔話し」に出てくる、優しい爺さんのようだった。
 「ここの学生の作品は好きだな。みんな下手くそだけど、パワーがあっていいよね。型にハマろうとしても、技術がないからハマれないんだな。そこがいいんだよ。」と務藤先生はいつも言っていた。
 「ワタシの作品はどうですか。」と見せると、「なんじゃこりゃ。」と笑ってくれた。
 「真面目にやる奴は彫刻はつくれん。ヤクザじゃないとね。」と神妙な顔で言うときもあった。
 コースが違ったので、少し気を使ってくださっていたのかもしれないが、務藤先生と話をしていると、自然に幸せホルモンセロトニンが出てくる感覚があった。
 「日本昔話し」を見終えた後のような不思議な感覚・・。
 そんな特殊で強烈な個性を持った教授、講師陣に囲まれていると、学生たちの作品も自然に巨大化する。
 講評会では、単純に巨大化していた作品については、「デカければいいってもんじゃない!」と一括された。
 記憶にある最大級の作品は、数十メートルあるガンダムの下半身だったと思う。
 無類のキャンプ好きの大竹くんが「一番デカいものつくりたい!一番になりたい!」と息巻いて制作したものだ。
 勿論、講評会では「これ、下半身だけ?」と突っ込まれていたが・・。
★★
 通称死体置き場(作品置き場)も、先端・人間コースの巨大化した作品でスクラップ場と化していた。
 ただ、そんな巨大彫刻祭りで盛り上がっている中、その真逆を歩く先輩方もいた。
 ジャコメッティの彫刻はか細い。
 そんなジャコメッティを彷彿とする小さく薄い人体を作っていたのは、院生の富田先輩だった
 小さく薄いだけでなく、全体が白く存在感を限りなく消したような作品だった。
 巨大化された作品群の横に、細く白い棒が転がっていて、その端に薄く小さな人型がくっついている、そんな作風だった。
 巨大化が本道と思い込んでいたワタシは虚を突かれた。
 ただの反発でそのような形態になった訳ではなく、そこには富田さんの理論が構築されていて、教授や講師も認める存在だった。
 巨大化の巨匠、最神先生や務藤先生からは、「富田、小さくまとまるなよ!」と揶揄されていたが、完全に富田さんの才能を認め育てている様子だった。
 ワタシは改めて彫刻界の摩訶不思議と向き合うことになった。
★★
 富田先輩のように、巨大化とは別の道を歩みだす学生たちが少しずつ出てきた。
 SMの女王のように、日用品や廃材に蜜蝋を垂らし微笑む先輩。
 鉄筋を束ねて放射状にたわませて木のように見せ、一般の方々が黄色い紙に願い事を書き、絵馬のように埋め尽くす。鑑賞者参加型の作品を制作する先輩。
 丸太を削り白物家電や自動販売機をリアルに作る先輩。
 「先端の先端を行け」と最神先生は言っていたが、様々な先端が生まれようとしていた。
 巨大化だけが彫刻ではないと、新しい世界観を追求する雰囲気が、彫刻科のカオス化を促進していた。

 当時、巨大化とは別の道を歩んでいた先輩方は、独自の表現体系を築き上げ、現在もプロの作家として大成しているところに、一つの真実が隠されていたような気がする。
 時代や雰囲気に流されず、表現を真摯に追求した者だけが辿り着ける場所があるのではないかと・・祭りの後を見ていると感じざるを得なかった。

第38話 テキトー侍の審美眼
 ワタシは明日の講評会に間に合わせるために、鉄工場《てっこうば》で閉門ギリギリまで制作をしていた。
 サツマイモ(大サイズ)くらいのボディの先端に直径15cmの円盤がついている、グラインダーという、電動工具を高速回転させ鉄パイプを切っていた。
 しゃがみ込み、下腹部近くで、ギーギー鳴らしながら鉄パイプに高速回転する刃を当てた瞬間、手元が滑った。
 高速回転する刃が一瞬下腹部のズボンを割き、地面に叩きつけられたグラインダーはバウンドしワタシの右太ももを割いた。
 局部に損傷が無かったことに安心したが、右太ももから血が出ていた。
 傷を見ると、絆創膏を5,6枚貼って1週間くらい放っておけば治りそうな傷だったので、彫刻科研究室に絆創膏をもらいに行った。
 研究室では、助手の島さんが野球中継をテレビで見ていた。
 「島さん、絆創膏もらえますか。ちょっとケガしちゃって・・。」
 「何?まだ制作していたの、早く帰れって言っただろ!ケガ?お前はケガが多いな。」
 ワタシはつい先日も、発砲スチロールをノコギリで切っている最中、刃が引っかかり、ノコギリを強引に引っ張った挙句、支えていた自分の左腕をザックリ切ったばかりだった。
 彫刻科の人々はよく知っているが、発砲スチロールは電熱線で溶かしながら切るものであり、ワタシのようにノコギリで切る無謀な者はいない。
 その他にも、溶けた鉄を足の親指にダイレクトに落として火傷を負っていたこともあった。
「お前さ、集中力無いんじゃないの。ヒヤリハットって知ってる?大きな事故の前には小さなミスが繰り返されるってやつ・・。いつか、大きいのやるよ、お前は。」
「ヒマワリフワット?知りません、絆創膏もらえますか?」
「相変わらず、お前は人の話聞かねーな。ちょっと傷見せて。」
「わ!こりゃ、やべーやつだ。緊急医行こう。」
 島さんの顔色が急に変わり、島さんの車に乗って近所の緊急医まで行くことになった。
 島さんの駐車はテキトーだった。
 縦に入れるところを横に、しかもひどく曲がって駐車していた。
 「島さん、車、曲がって駐車していますよ。」
 「この方がいいんだよ。」島さんはそんなことどうでもよさそうだった。
 「まぁ、軽く縫っといたから大丈夫でしょう。」と医師。
 予想通り大したことはなく治療は終わった。
 ワタシは股間でなかったことの安心感で、太ももを縫うくらいは何でもなかった
 島さんは、親しみのある近所の兄さん、親戚の叔父さんタイプの助手だった。
★★
 鋳造の実習日の朝は早い。
 準備をすることが山のようにあり、助手や講師が、学生が来る前に一通り準備をしてくれている。
 ただ、この日は鋳造の岩下先生が異常にイライラしている。
 「岩下先生、今日は一人なんですか、皆で手伝いますよ。」と気を遣って声をかけた。
 「島が来ねぇんだ!あのやろーまたサボりやがった。」
 助手の島さんは愛想がよく、学生からは親しまれていたが、どうやら遅刻が多かったようだ
 鋳造実習が始まり、イライラしていた岩下先生も話をしているうちに落ち着いてきた。
 鋳造の説明が始まったころ、バンダナを妙に深く被った、汚いツナギを着た島さんが学生たちに交じって立っていた。
 今日の岩下先生の怒り具合からして、島さんはクビになるんじゃないかという噂もたっていた。
 その姿に気づいた岩下先生は、ギョロリと大きな目玉を島さんに向けた。
 「島、お前、遅刻は今日で何回目だ!社会人だろ、しっかりしろ!」と学生の前で大きな声で叱った。
 さすがに、学生の前でこんな怒られ方したら、少しはへこむだろうとワタシは思った。
 すると、島さんは「忍法、分身の術!」とお茶らけて、学生が並ぶ隙間からヒョコヒョコ顔を出し始めた。
 ワタシたちは、そんな島さんのかわし方に、思わずあっけにとられてしまった。
 「ごめんなさーい!岩下センセーイ」と妙に明るい。
 「次に遅刻したら、本当にクビだぞ!」と岩下先生も仕方がなく留飲を下げた。
 島さんは、その後の実習でも遅刻を連発していたようだが、持ち前のキャラクターで助手の仕事は続けていた。
 年齢はワタシよりも5~6歳上だったが、妙に肝が据わっていた。
 教授陣の最神先生や務藤先生、他の講師の先生方とも同等、時にはそれ以上の態度で接していた。
 見ているこちらが冷や冷やすることもあり、この人は一体何者なのだろうと思い始めていた。
 もう一人の助手須薄井さんは、テキパキと教授や講師の先生からの指示に従い、的確に働いていた。
 島さんは本当に助手なのかと思ってしまうほど、暇そうにしていた。
 学生とおしゃべりに興じる島さんに「仕事しなくていいんですか。」と聞いたことがあった。
 島さんは「これも仕事だよ、シノブは分かってないね。」と妙に偉そうだった。
 ★★
 アトリエ近くの大便器はワタシと島さんが頻繁に使用していた。
 早朝、トイレ清掃のおばちゃんが綺麗に掃除をしてくれた瞬間、ワタシと島さんの奪い合いになる。
 ワタシはトイレットペーパーホルダーの裏に「島さん、このトイレ使用禁止」と油性ペンで落書きしたことがあった。
 次の日「島さんこのトイレ使用禁止」の「島」が「シノブ」に書き換えられていた。
 誰も見るはずがないペーパーホルダーの裏までもチェックする島さんの人間性を垣間見た気がした。

 それからも、島さんのテキトーな仕事ぶりは更に拍車がかかっていた。
 ロン毛にしたと思ったら、額から後頭部を刈り上げ「落ち武者」にした。
 それはそれで恥ずかしくなり、工事現場の赤いコーンを頭に被り、学生が真面目に制作した馬にまたがり、「トナカイはどこじゃー」とふざけていた。
 学生や先生方が真面目になればなるほど、島さんのふざけ頻発頻度が加速した。
 ★★
 ある彫刻展の大きな賞を彫刻科の助手が取ったという記事を雑誌で見つけた。
 エネルギッシュに助手の仕事や制作をしていた須薄井さんだよなぁと思い、名前を見ると島さんの名前が・・。
 作品はボロ屋が崩壊したような形を鋳造で制作したものだった。
 あるべき形が朽ちてゆく様を、自然体で表したような作品。
 人がつくったモノではなく、自然界に身も心も委ねたような魅力が漂っていた。
 まさしく、島さんの生き方そのものが映し出されていた。
 ビダイに通っていると、そこには正解があるのではないかと錯覚する瞬間がある。
 整理整頓、準備万端、目標をもって計画的に進めることが「善」とみなされる現代社会。
 ビダイにもその影響は大きく伸し掛かっていたのだ。
 島さんの「テキトー」さは、才能であり、ビダイが失いかけていた美意識を取り戻すべく先駆者のように思えてきた。
 ★
 島さんに、受賞した作品のことを聞いたことがあった。
 「あーあれね、形はテキトーに作って、後は岩下先生にお願いしたんだ~。」
 「いいもんは、偶然生まれるのさ、結局誰が作ったっていいんでしょ。」
 真髄を突いた言葉である。
 ワタシは「何をつくるべきか、自分の個性とは何なんだ。」と自己中心的に考えていた自分が恥ずかしくなった。
 島さんは「自分はきっかけになればいいと思っている。俺がテキトーでも、そのテキトーな姿を見た奴が何かそれをヒントに創造すればいいじゃん。オレがオレがが強すぎるんだよ、この彫刻科の連中は・・。」と酒を飲んだときにぼやいていた。
 隣に座っていた岩下先生は、島さんの頭を小突き「偉そうなこと言う前に、ちゃんと仕事しろ!」と突っ込んでいた。

 第39話 破壊とソウゾーの女王
「あいつ、またぶっ壊したみたいだぜ。」日向井は困った顔をしている。
あいつとは、後輩のコマちゃんだ。
コマちゃんの世話係みたいになっていた日向井が、コマちゃんの代わりに助手から叱られたらしい。
 「何で、俺がいつも怒られなきゃいけないの。」日向井は真面目で助手に信頼されていたので、コマちゃんの世話係に充てられていた。
 彫刻科には鉄板や木材を切る高速カッターや、鉄を溶かすガスバーナー、溶接機、FRP(プラスチック)を作るための科学溶剤など様々な道具や材料が所々に置かれていた。
 どれも使い方を間違えると、大怪我を負ったり、火事や、場合によっては毒ガスも出たりする。

 コマちゃんはかなりの不思議ちゃんで、使い方もよく分からない道具を勢いで使い破壊したり、毒ガス騒ぎを起こしたりしていた。
 それを凝りもせず、繰り返すところに、不気味さも併せ持っていた。
 隣で制作していたら、彫刻刀が飛んできたこともあった。

 コマちゃんがいたところは、材料や道具が常に散乱しているのですぐに分かる。
 時間が経つとその場に戻り片付けるのだが、戻ってくるまで1,2週間かかることもあった。
 道具を壊しても「ぐへへ・・しゅみましぇん。」と謝られると、助手も許すしかなかった。
 彼女の行動を修正することはかなり困難で、ほぼマンツーマンで日向井が監視していた。
 ある日、約1年間かけて磨き上げていた先輩の作品を、鉄クズと見間違えて、グラインダーで分解しようとしていたときは、周囲にいた仲間たちも肝を冷やした。
 様々な道具を破壊しながらも、時間をかけて何かしら作っているようなのだが、いつになっても形ができてこないことが特徴の一つだった。
★★
 彫刻科で一番器用な庄村先輩が、コマちゃんの行動を見て気が付いたことがあった。
 「コマちゃんは、超簡単にできることを、超複雑にやろうとしている。」
 「俺なら半日あればできることを、彼女は3週間かけている。」
 彫刻科は絵画のように、うまくいかなくなったときにパッと消してやり直すことが非常に難しい。
 やり直すときは何週間か前に逆戻りして作り直さないといけない。
 自然と、段取りや構造を重視する制作になっていく。
 段取りの王と呼ばれていた庄村先輩は、段取りよく彫刻をつくり上げることに美学を感じ、どれだけ段取れたかを厳しく己に問うタイプだった。
 コマちゃんと庄村先輩の制作スタイルは正反対だった。
 コマちゃんは破壊と破綻に満ち溢れた存在として、周囲から注目を浴び始めていた。

 この頃、巷では、アクションペインティングや公開制作が流行っていた。
 ワタシは制作風景を他人に見られることはあまり好きではないが、世の中には、見られた方が生き生きとする人もいたようだ。
 アクションペインティングや公開制作も、見ていると何を描こうとしているか、何を作ろうとしているかが途中で何となく分かる。
 人に見せるパフォーマンスなので、妙に時間がかかったり、数時間も見せたのに何もできなかったりすることは、基本的には許されない。
 ステージに立ったアイドルが、鼻くそをほじって食べて帰ったら大騒動になる。
 作者の頭の中にはイメージがあり、即興と言っても、予定調和は免れないのだ。
 それは、普段大学で制作しているワタシたちにも同じことが言えた。
 講評会に向けて段取りよく進める。
 教授や講師の反応をどこか意識しながら制作する。
 前回の作品からの継続であり、自分のテーマを意識した範囲で、多少の表現の変化はあるが、大きく変わることはほとんどなかった。
 その現象は、正直に言うと、保守的に成らざるを得ない状況を生んでいた。
★★
 コマちゃんは自分自身が考えているイマジネーションに異常に素直だった。
 彫刻科で1番器用な庄村先輩が、コマちゃんの制作過程がスムーズに行くようにあれこれアドバイスをしても、「しゅみましぇん。わたしゅは違うと、思うんしゅ~。」と絶対に受け入れなかった。
 庄村先輩は元暴走族の総長だったこともあり、我々下々は右向け右の関係だった。
 後輩の面倒見がよく、ワタシなんかは、制作過程でかなりのことを教えていただき、助けてもらっていた。
 一生の御恩を感じているくらいだ。
 そんなスーパーヤンキーに向かって、「わたしゅは違うとおもうんでしゅ。」と言ってしまうコマちゃんが怖くなった。
 庄村先輩はまだ20代前半だったが、酸いも甘いも全て経験してきた完全な大人だった。
 「コマちゃんは本物だよ。コマちゃんには敵わない。ああいうこだわりを持って表現を追求している子は凄いんだよ。皆で彼女を全力でサポートしていこうぜ。」と我々舎弟に目に涙を浮かべながら言っていた。
 オームの群れがナウシカを支えるように・・。
 ★
 元総長の庄村先輩が言うのだからと、それ以降は全力でコマちゃんをサポートしていこう、コマちゃんから学ぼうというスタンスになっていった。
 道具が壊れようと、毒ガスを撒かれようと我々は耐え忍んだ。
 日向井は、コマちゃんから頭に石を落とされても、笑って許していた。
 コマちゃんは相変わらず「しゅみましぇん~」と言いながら、何ができるのか全く想像できないハラハラどきどきな、公開制作を永遠と続けていた。
★★
 ある日、アトリエの片隅に見たことも無いとても美しい瑠璃色の塊が置いてあった。
 不思議な調合で偶然生まれた、宝石のようだった。
 こんな綺麗なものを作る人がいたかなぁと周囲を見渡すと、コマちゃんがアトリエの隅で寝ていた。
 「これ、コマちゃん作ったの?」と大きな声で聞いた。
 「しょうでしゅ、半年かけて、ようやく考えていた形と色が出ましゅた。」
 昨夜遅くまで、コマちゃんが何かをかき混ぜてると、日向井が言っていたが、このことだったか。
 この作品が生まれるまでに費やした時間と労力、壊れていった道具類、傷つきもがき苦しんだ仲間たちの顔がパッと浮かび上がった。
 素晴らしい作品、記憶に残る作品には物語がある。
 その物語を人々は信じ、物語を重ね合わせた作品(モノ)に価値が生まれる。
 そんな物語が生まれた創造の瞬間を、ワタシはコマちゃんの壮絶な公開制作から学ばせてもらった。
 その後、日向井はコマちゃんの監視役を辞退した・・。

第40話 トラウマウンティング
ワタシの作品や制作スペースが徐々に拡大し、アトリエ内では納まらなくなった。
 校舎のエントランスのような場所ではあったが、人通りが少なく、誰も使っていないスペースだったので、そこに道具や材料を持ち込み制作していた。
 ワタシは、次の講評会に向けた作品を制作していると、後ろから声をかけてきた人がいた。
 話しかけてくる人がいるなんて珍しいなぁと思いながらも、振り向くと、油絵学科で立体講師をしていた戸山正雄先生だった。
 戸山先生はチェーンソーで木材を削ることで成形する彫刻作品を手がけていた、世界でも名が知られている有名な作家先生だ。
 もの派以降、「彫刻」の再構築と新たな可能性を探るため、ポスト・ミニマリズムとして、「表面」「境界」「関係」「影」「存在」といった問題に切り込んでいた。
 小難しい概念をテーマとしていた。
 風貌はひょろりとしていて、目がギラギラしている
 額は限りなく広く、常に酒臭い。
 ワタシは行かなかったが、彫刻科の仲間たちは、夏休みになると戸山先生の埼玉にあるアトリエでアルバイトをしていた
 日向井もよく戸山先生のアルバイトに行っていたが、深夜から始まる制作スタイルと、終わりがない戸山さんの長話に疲弊していた。
 ワタシに声をかけてくださったときも、少し酩酊していたような雰囲気があった
 「おう、君は彫刻科の学生か。君は、アメリカが好きか?。俺は奴らに一発食らわしたいと思っているんだ・・。」
 いきなり、直球だった。
 「 いや~。そうですね、アメリカはあんまり好きじゃないですけど、生活スタイルがほとんどアメリカの輸入品で成立しているようなものなので、深く影響は受けちゃっていますね・・。一発食らわしたいかと言われると・・それは無いですね。逆にやられちゃいますから。」
 「じゃ、お前の作風は、アメリカ寄りか。
 その時、ワタシは発泡スチロールで抽象とも具象とも言えない気味の悪いものをつくっていた。
 「半分半分でしょうか。でもその辺はよく分からないですし、どっちでもよくないですか。戸山先生は、森シリーズとして、丸太をチェーンソウでギザギザにカットしておられますが、あの作品にはどんな意味があるんすか?」
 「俺は、田舎が長野の小川村というところなんだ。子供の頃、屋外にあった真っ暗な便所に行くのが怖くてな。小川村は山で囲まれているんだが、真っ暗な闇の中に静かに潜む森の群れに恐れを感じたんだ。それが私が一番初めに抱いた創作の動機だよ。今もそのトラウマをチェーンソウで消し去ろうとしているのかもな。」
 ふざけて言っているのか、真面目なのか分からなかったが真相を聞いた気がした。
 「ワタシの父も小川村出身です。父の兄が多分、戸山先生と中学校で同学年だったと思います。」
 「そうか、君のお父さんは私と同郷か。創作の原点を知ることは大事だよ。頑張ってな・・。俺は今日は休みだ。学生の作品を見に来たんだ。じゃあな。」
 立ち上がると千鳥足で去っていった。
 戸山先生には同郷ということもあり親近感があったが、ワタシは目が細く額が無いのに対して、戸山先生は目が大きく額が限りなく広い。
 住む世界、見ている世界は大分違うだろうなと思った。

 その後、父の同級生であった、小川村の600年続く通称猫寺の和尚さんに、戸山先生の話をしたら色々調べてくれた。
 古い家系図を見ると、かなりの大昔だが、ワタシの父の家系と戸山先生の家系は親戚関係だったようだ。
 山に囲まれた何の幸もない小さな村だったが、武田上杉の対戦で、武田に追われた戸隠三院が小川村に避難し、30余年の居住という歴史もあり、謎めいた村であることは子供の頃からよく聞かされていた。
 縄文土器や住居跡もたくさん出てきている。
 この深い森に、太古の人々は惹きつけられたようだ
 謎めいた村から、世界的な彫刻家が誕生したのか~と感慨に耽ったが、和尚さん曰く、この村に戸山さんの偉業を知るものはほとんどいないそうだ。
 世界で有名な人は、割と地元では知られていないことが多々あるようだ。
 小川村の人々にポストミニマリズム「表面」「境界」「関係」「影」「存在」なんて言っても、だから何なんだと返されて終わりそうだ。
 父の兄は「小川村の深い森を見て、俺はここで何やっているんだ。俺のいる場所はここじゃない。」と言って、東京へ出て人事院に入った。
 現在小川村は過疎化が急激に進んでいる。
 多くの団塊の世代の人々は、ほとんど村を離れ都会へ行ってしまった。
 深い森は、きっと人々を引き寄せたり、人を覚醒させたり、引き離したりする魔力があるのだろう。
★★
 卒業展覧会で、ワタシと同郷の院生大久保先輩が、大学中が大騒ぎになる展示を行った。
 スクラップした車を横から鉄の棒で串刺しにし、高さ5m付近までH鋼材の土台で持ち上げ、耕運機の動力を使って、スクラップした車をグルグル回していた。
 高さ5m付近でゆっくりグルグル回る車の下で、モヒカン褌姿になった大久保先輩はどこかで拾ったラジカセからド演歌を流し、気持ちよさそうに周囲を見渡していた。
 講評会では、最神先生の「あっぱれじゃ!」で大久保先輩の評価が急上昇した。
 他の学部の教授からも「君は世界で戦えるアーティストになる!」と太鼓判を押されていた。
 大久保先輩は、狙い通りと言わんばかりに興奮していた。
 ワタシもこんな作品は見たことが無いし、彫刻は大きさじゃないと思っていたけど、大きさと迫力があるからこそ伝わるものもあるんじゃないかと感じた。
 相変わらず、富田先輩の作品は、大久保先輩の迫力満点の作品の横にそっと細く薄く白く小さく置かれていた。
 「ここは遊園地じゃない、美術大学よ!」と言う講師もいたが、大久保さんの作品の周りを囲む、老若男女問わず、いきいきとした目をした人々の姿をみると、その言葉はか細く聞こえた。
 そんな高評価を得た大久保さんだったが、沈着冷静な思考で自己評価をしていた。
 「この作品も時代に乗れなければ、ただのスクラップで終わる。」
 「オレさ~子供の頃、長野の田舎の畑に捨てられていたボロい車をいつも見てたんだ。周りの奴らと気が合わなくてさ。今オレはこんなガタイで威勢がよく見えるけど、昔は村のガキ大将にいじめられてたんだ。いつかあのボロい車をそいつにぶん投げてやろうと思っていたんだ。」
 人は人に言えぬトラウマを抱えているものだ。
 トラウマを解消するためには、トラウマを打ち消す行為が効果的だ。
 アートは自己浄化をする作用がある。
 トラウマの大きさと、それを解消する技術が長けた人に、アートの神は宿るのかもしれない。

第4章 有終のビダイ

第41話 ダムザン①~ダムと山と交雑~
大学3年の春頃、ヨビコウ時代から親交があった、ヨビコウ講師の羽丸さんがワタシの家にいきなりやってきた。
 ヨビコウ時代、羽丸さんにはよく面倒を見てもらっていた。
 羽丸さんは、具象の人体を制作しており、ワタシと村さんはよく羽丸さんのアトリエで石膏取りや、FRP塗りを手伝だっていた。
 アルバイト代は近所のバーミヤンで夕食が常だった。
 羽丸さんは、ヨビコウで働きながら制作を続けていた人で、大学卒業後のワタシの在り方を考える上で参考になる人だった。
 「おっす!シノブ元気か。上がっていい。部屋汚いなぁ。土足で上がるけどいい?」
 羽丸さんはいつも明るくテンションが高い。
 「作品ちゃんと作っているか?大学に入ると怠けて遊ぶ奴がほとんどだからね。」
 不器用で田舎者、そんなワタシの制作状況をいつも気にかけてくれていた。
 「ちょっと相談があるんだけど、富山の実家の近くに新しく、文化ホール(黒部こらーれ)ができたんだ。そこでグループ展一緒にやらないか。急な話だけど、ヨビコウの教え子や、俺の友達、身近なところで参加者を募ってやりたいんだよね。」
 「富山の黒部市でグループ展ですかぁ。見に来る人いるんですか?」
 「お前、失礼な奴だなぁ。嫌ならいいよ。ベツニー。」羽丸さんは少し怒っていた。
 羽丸さんは、怒ると頬を赤らめながら口元をへの字にする。
 「ごめんなさい。ワタシのような者でもよければお願いします。」
 「よし、心当たりのあるメンバーに声をかけてみるわ。シノブも協力してくれ。」
 羽丸さんは、ヨビコウの教え子や知り合いに声をかけ、10人くらいのメンバーが集まった。
 ビダイ・ゲイダイ生、ヨビコウ生、社会人と様々な顔ぶれだった。
 皆で、羽丸さんの埼玉の自宅に集まり、グループ展の名称を考えた。
 色々なアイデアが出たが、結局ワタシが考えた「ダムザン」に決定した。
 富山は「黒部ダムと山」が有名で印象が強いという、とてもシンプルな理由であった。
 DMデザインはヨビコウ生のモモちゃんにお願いした。
 モモちゃんの母親がDMデザイナーだったので、若い個性がぶつかり合うイメージでサイケデリックに制作してもらった。

 夏休みに入り、展示に向けて富山県黒部市にある、羽丸さんの実家へ行った。
 羽丸さんの実家は鉄工所であり、体育館のような工場が3つくらい並び、中には大きなタンクや、クレーンなど、大型の機械がたくさんあった。
 羽丸さんの弟(正明さん)さんが鉄工所の若社長で、ワタシたちに鉄工所内を案内してくれた。
 工場には働いている方が多くいて、ワタシたちに何か話しかけてくれていた。
 聞いたことのない方言と早口で、ほぼ何を言っているのか分からなかった。
 羽丸さんに同時通訳をしてもらった。
 「東京もんが黒部まで何しに来たんだ。ここで働いてくれるのか。」というようなことを言っていたらしい。
 グループ展に参加するメンバーはほとんどが地方出身者だったがそれは言わなかった。
 ★
 いつも大学の狭いスペースで鉄の溶接を行っていたので、羽丸さんの実家の工場の規模の大きさに皆驚いた。
 ワタシは当時、中古の軽トラックを購入し、制作用の材料などを運んでいた。
 時速80kmを出すことが精一杯のポンコツ軽トラで、東京から黒部まで約8時間かかり、着いた時にはヘロヘロだった。
 その後も何度も往復することになり、いつしか、目を閉じても余裕で黒部に到着できるようになっていた。

 鉄工所の近くに古民家があり、展示準備の一か月間、皆で共同生活することになった。
 大型トラックに、各自制作途中の作品を詰め込み、羽丸さんの知り合いの鉄工所に運び込み、制作の続きを行った。
 富山の夏は暑く、工場内は毎日38度を超えていた。
 鉄の溶接やガスバーナーを使っていたので、余計暑く、大型扇風機を背中付近に当てながら制作をしていた。
 鉄工場で働く方々はそんな暑さの中でも、平気な顔をしていたので、本物の職人さんは違うなぁと感心したものだ。
★★
 この頃、ワタシは大学3年にもなり、実力も無いのに、周囲で活躍するアーティストに影響を受けたかのような作風になっていた。
 大学で見る仲間たちの作品群に目を白黒させ過ぎており、自分を見失いかけていたのだ。
 本来、ワタシは泥臭い人間であり、キャプテン翼でいう、顔面ヘッドの石崎君タイプだった。
 しかし、大学生になって、手抜きをしてオシャレに表現しようとする、いやらしさが見え隠れする人間になっていた。
 黒部こらーれでは、大学の講評会で一回展示した作品を少し改造して展示しようと考えていた。

 黒部に持っていった作品は、長さ2m程の流木(丸太)の、腐っていた中心部をガッポリくり貫き、その内側にキースヘリングを模した絵を描いた。
 そして、その流木に2枚、星形のように型取った1m四方のFRP素材の形態を鉄棒に刺し、2枚の羽根のように流木に括り付けた。
 流木ごと、高さ3mの鉄柱の先にはめて、空中を流木が舞うようなイメージで展示した。
 浮ついた自分が表現されていた。
 大学の講評会では、不評だった。
 最神先生からは「奇想天外・・のようだが。空中にある割には空間性が無い、浮ついていて何も伝わってこない!」と切り捨てられた。
 心の中を見透かされているようだった。
★★
 黒部の鉄工所で夜遅くまで制作をしていると、羽丸さんが様子を見に来てくれた。
 「シノブ、どうだ、進んでるか?」
 「今一、気が乗らないんですよね。展示できるか不安です。今のところ・・。」とワタシは素直に羽丸さんに話した。
 すると、堰を切ったかのように、
 「お前は、こんな作品をつくる奴じゃないだろ。格好つけるなよ!」と怒り調子で言われた。
 親しくしていた羽丸さんからは、ヨビコウ時代から厳しいことは言われていた。
 言われる内容はいつも「下手くそだけど、お前らしい。」と・・。
 実力が無くても、素の自分を表せていたところが、評価されていた。
 格好をつけている自分は恥ずかしく、その晩、黒部の田園のあぜ道で、一人転がり寝た。
 カエルの声がうるさく、蚊にも死ぬほど刺されたが、逆にそれらが妙な集中力を生み、腹の底に何かが落ちる神秘的な体験をした。
 後にも先にもこの体験は初めてである。
 難しい話や理屈が「胸に落ちる」という比喩があるが、ワタシの場合は「腹にズドーンと落ちた」のだ。
★★
 ダムザングループ展が始まった。
 こらーれの、エントランスを入ると、螺旋スロープが3階まで続き、その中央には天井まで高さ10mある筒抜けの第2展示室があった。
 展示会場のメインホールとなる第2展示室は奪い合いになっていた。
 第2展示室には大久保先輩が大学で制作していた大きなお面が数十枚並び、ゲイダイ生のヨビコウ時代の友人エイちゃんは、大きな赤い布を大胆に吊るし、布に大きなドクロを描いていた。
 その他にも、個性溢れる作品群が、新設された黒部こらーれ内を彩っていた。
 ゲームキャラクターのデザインをしていた、羽丸さんの親友の作品が、人気が高く、地元の子供たちがたくさん群がっていた。
 グループ展を企画した羽丸さんは、黒部こらーれの南側にデザインされていた、大きく広い池に作品を展示し個展を開いた。
 ワタシたちは羽丸さんのバーター(抱き合わせ)として、参加しているという形であった。
 羽丸さんの作品は、白く塗られた人体がSMプレイごとく様々な縛り方で紐に巻かれていた。
 それらが、数十体、広く美しい池に設置されていた。
 自分の趣向や芸術性を前面に押し出してきた、格好をつけていない作品群だった。とワタシは感じたが・・
 大学からわざわざ展覧会を見に来てくれた、助手の島さんは、羽丸さんの作品を見ながら「羽丸さん~相変わらず気取ってますね~かっこういい~フー!」とお茶らけていた。
 ワタシは羽丸さんの顔色が赤く膨れ上がっているのが分かった・・。
 夕暮れ時には、黒部こらーれの企画で、ライトアップされた池で、人体作品の周りを、全身白く塗った暗黒舞踏の人たちが踊っていた。
 不気味なショーを黒部市民が見に来るのかと心配になった。
 近所の農家の夫婦が、軽トラに乗りながら物珍しそうに眺めているのが印象的だった。

 辛うじて第2展示室をゲットできたワタシの作品は、格好をつけた部分を全て削見直し、今の自分を表しているかのような、気取らない表現へと変化していた。
 流木の皮を削ぎ落し白く見せていた表面には、黒部の海の砂を塗り込んだ。
 流木の後方から可愛く飛び出していた二つの星は、流木と繋がっていた鉄棒部をぐにゃりと、前方に折り曲げ、鑑賞者の目の前にとびかかるように変形させた。
 流木が荒波に乗って、勢いよく流れ落ちてくるような作品へと変えていた。
 まさに、激動のビダイ時代を生きる自分を表した。
 周りの仲間たちの作品が素晴らしく、ワタシの作品を見ている人はほとんどいなかったが、ワタシは充分満足していた。
 今できることを、自分らしく積み上げていくこと。
 気取らず地味に歩む、飾り気のない自分を見つけた気がした。 

第42話 孫悟空のアブナイ話
 黒部こらーれでの、グループ展を終え、東京に帰る前に長野の実家に寄った。
 実家に帰ると、母親から一枚のチラシを渡された。
「今度、東急デパートで しまづよしひこさんっていう彫刻家の人の展示があるみたいよ、時間あるなら行ってみたら。」
 ワタシは、ぱっとチラシに目を移すと、そこには木彫の作品群が並んでいた。
 動物や昆虫が見たこともないような美しさで彫刻され、森の妖精のような女性は切り株の中にうずくまっていた。
 作者はチラシの写真で見ると、一心不乱にノミを振るう、椎名誠によく似た紳士だった。
 ワタシは椎名誠似の気品溢れる紳士と、美しい彫刻群に会えることを期待し、展示会最終日、東急デパートの展示会場へ行った。

 展示会場では、しまづよしひこさんの、幼少期からの神童的な作品の数々と、最近制作した木彫作品が所狭しと置かれていた。
 展示会場の片隅で写真で見た椎名誠に似た紳士が座っていたので、しまづさんだとすぐに分かり、声をかけた。
 「しまづさんですか?」
 「うぉう。」奇妙な声で、しまずさんは返事をした
 「この木彫の作品素晴らしいですね。どこで制作されたんですか?」
 しまづさんは会場の入り口付近に貼ってあった、プロフィールを指さした。
 「さっき、プロフィールは読ませていただきましたが、制作場所が長野県栄村って書いてありました。でも、埼玉在住なんですよね。埼玉で制作して、栄村に運んで来られたんですか。」
 「う・・う・・ごご・・」再び奇妙な声を出した。体調があまりよくないらしい。
 椎名誠の身長は知らないが、しまづさんは身長がかなり小さく、テレビで見る堺正章にも見えてきた。
 よくよく見ると赤ら顔だ。鼻の頭は真っ赤になっていた。
 西遊記の孫悟空(堺正章)にしか見えなくなっていた。
 「お前さんは、何者じゃ。」
 「学生です。彫刻作っています。しまずさんの彫刻に惹かれて見に来ました。」
 「ここは、どこじゃ。」
 「え?ここは長野市ですよ。」
 「そんなところは知らん。ぐへぇ。今度ボクのアトリエに遊びにきなちゃい。」
  そう言って、しまずさんは、受付にいたお姉さんに、自分の住所を聞きながら、チラシの裏にヨレヨレの文字で住所と電話番号を書いて渡してくれた。
 「電話はないのよ。元々小学校の廃校だからね。その電話番号はボクのワイフがいる埼玉の自宅なの。うぉえ~。」
 ワタシは、しまずさんが酔っていることがようやく分かった。緊張のあまり、酒臭さにも気づかず話し込んでいたのだ。
★★
 展示が終わりしばらくしてから、しまずさんに会いに栄村まで行った。
 栄村とは長野県最北端の豪雪地帯である。
 この時は秋口だったので、まだ雪は無く、燃えるような紅葉が始まっていた。
 地図帳を見ながら、何度も道に迷い、最後は畑で仕事をしている人に道を尋ねて到着した。
 しまずさんのアトリエは栄村の中でもかなり奥の方にあった。
 しまずさんの言う通り、廃校になった小学校の体育館をそのままアトリエにしていた
 体育館の前には巨木がゴロゴロと転がり、作りかけの彫刻も沢山あった
 アポなしで訪問したので、迷惑かなぁと思いつつ、恐る恐る体育館の中に入っていった。
 「しまずさ~ん。昨日の者です。遊びにきました~。」と割と大きな声を発した。
 すると、遠くから「ボクに会いに来たの。だ~れ~。」と高い声がした。
 昨日会ったしまずさんはスーツを着ていたが、今日は白いランニングシャツに赤いハーフパンツ姿でスポーツドリンクを片手に奥の扉を開けて出てきた。
 「よお!昨日の君だね。そこに座りなさい。お話しよう。
 ワタシは昨日よりシャンとしたしまづさんを見て少し安心した。
 しかし、そこからのトークの内容が過激で強烈だった。
 ビダイで下ネタや猥雑な話は仲間たちとよくしていた。
 男子とはそういうもので、仲間意識を深める行為として、時には必要なコミュニケーションだった
 しまづさんのトークは、今まで聞いたこともないような下ネタや猥雑を余裕で超えていた。
 森の妖精を表現するような、心清らかな紳士であると思い込んでいたので、そのギャップに面を食らった。
 そして、昨日と同様、明らかに酒臭い。
 がぶがぶ飲んでいたスポーツ飲料の中身は焼酎のようだ。
 徐々に赤ら顔になり、ハイテンションになってゆく様は、孫悟空が三蔵法師の目を盗んで、悪戯をしているようだった。

 ワタシは少し気分が悪くなり、トイレを借りた。
 トイレのドアを開けた瞬間、見てはいけないものが「ビロロロン」とあった。
 すぐに、ドアを閉め、しまずさんのところに戻ると、しまずさんの目が座っていた。
 「ボクは恥ずかしがり屋なんだ~。ボクは島津藩の末裔で、いつだってこのノミと金づちでヤレルンダ。見てくれこの力こぶを!こんな作品、簡単に作れるんだ。ボクは生まれつきの天才だからね。
 ワタシは少し恐怖を感じ、いつでも逃げられる構えをしていた。
 「ジョーダンだよ。ワタシは素人、天才なんかじゃない。でも島津藩の末裔は本当なんだよ。一般市民とは遺伝子が違うからね。」
 ワタシは車のカギをポケットにしまい、しまづさんの方に膝を向けた。
 目の前に置かれている巨木に彫刻されている作品はどれも高密度で高品質だった。
 誰が見ても天才にしか成しえない表現力。
 こんなに酔った状態でどうやって彫るのだ?と思わざるを得ないほど、目の前の孫悟空はふらふらだった。
 「ボクは人が嫌いなのだ。君は特別OKだけど、普段は絶対に人には会わない。」
 「何で、ワタシはOKなんでしょう・・。
 「何となく。気楽そうな人間に見えたからね。気が合いそうだった。」
 「ありがとうございます。でも、ワタシは森の妖精をつくるような紳士としまづさんのギャップに驚きましたよ~。」
 「ひゃひゃひゃーあ。自分の生き様が純粋でないから、作品に癒しや純粋さを求めるんじゃ。お前さんは、純朴な奴だから、きっとつくる作品はエロ・グロだろ。」
 何となく当たっていたので、ワタシは苦笑いした。

 しまづさんには愛すべき家族がいたが、40歳を過ぎた頃に本気で彫刻家になろうと決意し、勤めていた会社を辞めたそうだ。
 家族は埼玉に住んでいて、子供は手がかからない年頃で、たまにアトリエに来るらしい。
 栄村の地域起こしの一環として、アーティストを村に呼び活性化させるプロジェクトにタイミングよく誘われ、栄村に移り住んだとのこと。
 しまづさんは、大の人間嫌いだったため、村の役人とは折り合いが悪く、山の奥地で孤独を味わっていた
 人間嫌いにも関わらず寂しがり屋で、個展に来てくれた気の合いそうな人に声をかけていたそうだ。
 大体の人がしまづさんの酒臭さに参り、ワタシが初めての訪問者だった。

 ワタシは、彫刻を作る、ヨビコウや大学の先生たちばかりを見てきた。
 世にいう仕事をせず、作家一本で生活しているしまづさんは魅力的だった
 ただ、展覧会や作品販売は嫌いで、今回の展覧会は家族と村の役人から無理矢理やってくれと頼まれ、ケンカしながらようやく実現したそうだ。
 しまづさん曰く、アーティストが先生をやったり、作品販売をしたりするのは、欲にまみれたクズだそうだ。
 お金も嫌いだそうだ。
 家族は苦労しているのだろうなぁと、孫悟空のいきり切った表情を見て感じた
 帰り際に、畑で獲れたスイカとメロンを貰った。
 ワタシは車に乗り込み、帰ろうとすると、何度も「ここに住まないか。」と言われた。
 死んだワタシの祖父のような、優しい爺さんの顔になっていた。
 「また来ますね。」と言い残し、車を出すと、深々とお辞儀をして、遠くまでずっと手を振ってくれた。
 聞いてはいけないもの、見てはいけないものを、沢山いただいた。
 西遊記の孫悟空に化かされたような気がした
 それから、何度か、しまづアトリエに通った。
 モーツアルトだって、ピカソだって、天才はみんな変人なのだから・・。
 ワタシにはしまづさんの生き様が、新鮮だった。
 ワタシは、いつの間にかしまづさんの下ネタ猥雑話を超えた過激で強烈なトークを楽しめるようになっていた。
 気が付くと、ビダイ生活で弱っていた精神に力が漲ってきていた。

第43話 万治の呪い
しまづさんから、長野県下諏訪町に「万治の石仏」という不思議な石仏があることを聞いた。
 しまづさんとは、いつも下世話な話題で盛り上がっていたが、意外と歴史や近代芸術、小説について詳しかった。
 岡本太郎や小説家新田次郎のことを話していた流れで、この二人の作家が認めた凄い仏像が諏訪にあることを教えてくれた。
 しまづさんは土地感覚が全くなく、常に焼酎入りのスポーツドリンクでグラグラだったので、ワタシの車で石仏を見に行くことにした。
 高速道路で3時間くらい走らせ、岡谷インターで降り、諏訪湖の東側を走った。
 観光で歩いていた人に、秋宮という神社付近の駐車場に車を停め、脇の山を少し入ったところにその石仏はあると聞いた。
 小川の流れる細い小道を歩き、小橋を渡ると、パッと開けた野原に大きな楕円形の石が現れた。
 高さ約3メートル、奥行き約4メートルの胴体の上に、高さ約60センチメートルの頭部がちょこんと載っていた。
 手の込んだ彫刻はされておらず、至ってシンプルな石彫。
 正面から見ると何とも言えぬ穏やかな存在感。
 しまづさんは「こりゃいいわね。」と手に持っていた焼酎を石仏の横に置いて席石仏を撫でた。
 石仏の胴部には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と銘が刻まれていた。
 万治がいつの時代か二人ともよく分からなかったが、とにかく、こんな石仏は見たことがないと目を見合わせた。
 しまづさんが「万治っていうくらいだから、病気が流行っていた時代だったんだろう。」と推測した。
 石仏の顔はどこかしら、モアイ像にも似ていた。
 ワタシは「山からゴロゴロと流れてきた巨石を見つけた、当時の素人石彫家が、仏像みたいだなぁと勝手に想像し、彫刻したんじゃないのか。」と思い、しまづさんに話した。
 石仏の表面があまりにも簡単な彫刻だったので、素人仕事ではないかと感じていた。
 すると、しまづさんは「そうかなぁ。それならお前さん、このひょうきんな石仏の上に乗りなさい。」と悪戯を企んでいる孫悟空の表情で、ワタシの肩を押した。
 「それは、まずいですよ。バチがあたりますよ!」
 「だって、これ、石コロでしょ。いいじゃん、いいじゃん・・。」
 しまづさんの目は完全に座っていた。
 ワタシは頭の輪で孫悟空をギュっと締め付けてやりたいと思った。
 仕方なく、完全に石仏に乗るのはまずいと思い、後方部から少し乗り上げ抱き着いた。
 「パシャリ。」
 しまづさんは、酔っているくせに、ワタシのカメラでその瞬間を写真に収めた。

 後味が悪いまま下諏訪を後にし、車内で寝続けたしまづさんを送り届けて、実家に帰った。
 その後、万治の石仏を収めた写真を近所の写真屋で現像した。
 現像された写真を見た店員さんが「ちょっとおかしなもの撮りましたけど、どうします?」と聞いてくる。
 「石仏を撮っただけですが・・・。何か?」
 そう言って現像された写真を見ると、ワタシが石仏に抱き着く後ろを覆いかぶさるような黒い影がはっきりと写っていた。
 ワタシは、心霊写真は信じてないし、幽霊も見たことがない。
 その写真はたまたま、妙な影が写っただけと思うようにした。

 東京のアパートに戻ると謎の腹痛が続いた。
 大学を1週間ほど休んだ。
 一向に腹痛が治まらなかったので、実家に帰り、内科で大腸検査を行った。
 2リットルくらい水を飲み、腸内の便を全て出し切った後、腸をパンパンに張らせるガスを入れ、肛門から一気に大腸カメラを入れられた。
 初めての経験に悶絶状態だったが、しばらくすると医者と一緒に腸内を映す映像を見る余裕ができた。
 ワタシの腸内はとてもきれいだった。
 医者も「若いね~まだピンク色している。いいね~。」と腸内を褒めてくれた。
 結局何も無く検査を終えた。
 ただの過敏性大腸炎であった。
 万治の石仏にしがみついた罪悪感と、心霊写真のようなものを見たことで、勝手にストレスを感じていたようだった。
 以降、腹痛は無くなった。
★★
 子供の頃からよく下痢をしていて、何度自身の大腸を恨んだことか。
 大腸カメラを入れ、内部を見たことで、腸へのイメージが変わった。
 カメラを入れる前までは、大便が入っているくらいだから、キャンプ場の便所みたいに、汚くなっているものとばかり思っていた。
 どんな美しい女優もお腹の中には暗黒があると想像することで、女優を崇め過ぎないように保っていた。
 しかし、表面に見える皮膚よりも、もっと美しいものが体内には存在するのだと尊く感じ、魅力的にすら思えた。
 体の内部には、自分が知らない別の生命体がいるのかもしれない
 万治の石仏の表面的な印象から、最終的には自分自身の内部に意識が向いた。
 石仏からのワタシへのメッセージだったのかもしれない。
 これまで、自分について考えることは、個人主義的で浅はかなのではと思っていた。
 個人の趣向や内面を突き詰めれば、もしかしたら人間全体の普遍的な問題に向き合えるのではないかと思うようになってきた。
 自己中心的な物の見方は、人間を知り、表現を追求するために本気でやるべきでテーマはないかと感じていた。
★★
 しばらくして、東京のアパートに、しまづさんから絵ハガキが届いた。
 「万治の石仏よかったなぁ。あれから、原因不明の頭痛で、埼玉の実家に帰りました。あのとき、何かおかしなもの食べたっけ?また遊ぼうね~。」
 絵ハガキの裏面にあったしまづさんの作品「静かに寝ている妖精」の顔が万治の石仏の顔のように見えた。

第44話 夢を抱いたハニベの女
ワタシと村さんで、ヨビコウ時代の友達コブさんに会いに、金沢へ行った。
 コブさんは、金沢工芸大学彫刻科で学んでいた。
 久ぶりの再会に、コブさんのテンションは高かく、ハイライトをスパスパ吸っていた。
 ワタシたちも、喜んでお互いの近況を話した。
 住まいは平屋のアパートで、ヨビコウ時代もガランとした何もない部屋だったが、こちらのアパートは更に何も無かった。
 夕食を適当に済ませ、アパートでお酒を飲んでいたら、ちょっとした芸術論に発展した。
 コブさんは「ワイはもう人体塑像をやっていない。人体塑像は芸術ちゃうと思うてる。」と深刻な表情で言い始めた。
 さすが、芸術について造詣を深めてきたコブさん、思い切った結論を導き出していた。
 ワタシも村さんもそこまで深く人体塑像については考えてこなかったので、
 「ふ~ん、そうなんだね。表現は自由だしね。」くらいしか言えなかった。
 コブさんは、深夜でも大学に忍びこめると、酔った3人で大学の彫刻科アトリエに向かった。
 コブさんが、自分が制作している作品を見てほしいとのことだった。
 忍びこむという程でもなく、学生が持っていた合カギでガチャリと開けるだけで入れた。
 様々な作品群の中を歩くと、制作中の人体塑像が何体かあった。
 名前が貼ってあったので、よく見るとコブさんの名が・・
 人体作品は試行錯誤しながら、一生懸命に制作していた様子が伺えた。
 コブさんは「こんなの作っている内に入らん。課題だから仕方なくやっているだけや。」と恥ずかしそうに言っていた。
 その後、人体作品は見なくていいからと、近くに置いてあったブルーシートを剥がして、中から土の玉のようなものを見せてくれた。
 「ワイの作品や!」コブさんは、目をキリッとさせてこちらを向いている。
 様々な芸術論、現代美術を深く学んだコブさんだからこそ、生み出せる形態なのだろう。
 不勉強なワタシと村さんには、ただの土の塊にしか見えなかった。
 夜が明けるまで、アトリエ内にある他の学生たちの作品をじっくりと見て回った。

 次の日、コブさんが「面白いもん見せちゃる。」ということで、大学から少し北方の山へバスで向かった。
 田園風景をのんびり眺めていると、コブさんが、「見てみい、ここがハニベや!」と指さした。
 奈良の大仏の顔よりも大きな仏の顔が、山肌にドーンと建立されていた。
 「ここは何なの?」とコブさんに聞くと、
 「ハニベ巌窟院《がんくついん》や、この中に洞窟があって、たくさんのおもろい彫刻や鬼がいるんや。」と半笑いしながら興奮気味だった。
 ハニベとは、埴輪を作る人という意味があるらしい。
 受付を済ませ、洞窟の前に行くと、FRP素材で作ったと思われる「阿吽像」が立っていた
 少し違和感を感じながらも、洞窟内に入ると、中はかなり薄暗く、冷たい風が吹いていた。
 スポットライトを頼りに、恐る恐る洞窟内を歩いていくと、コブさんの言っていた意味が分かった。
 そこには古今東西、様々な仏像がユニークな形をして設置されていた。
 特に人間の欲深さをユーモラスに表現している像は、観光客にも人気があった。
 背中にマキ、手には本ではなく携帯電話を持ちながら歩く、二宮金次郎像。
 パフェを貪り食う、邪鬼。
 中には笑いをとりに来ているだろうと思ってしまう、彫刻も数多くあった。
 「こんな世界もあるんやで。芸術って奥が深いねんなぁ。」コブさんは面白がって言っていた。
 インド彫刻、地獄巡りと続き、最後は4体の鬼がちゃぶ台を囲み飯を食い、酒を酌み交わす彫刻があった。
 「お腹一杯だなぁ。」と村さんと言いながら、出口を探した。
 コブさんは「おもろいのはこれからやで。」とまた半笑い
 するとどこからか、スタタタタタ・・・と何かが近づいてくる足音が洞窟内に響いた。
 後ろを振り返ると、お婆さんが朱色の器を持ちながら、「お兄ちゃん、お兄ちゃん、寄付を頼んます。寄付を~!」と迫ってくるではないか。
 コブさんは、ワタシと村さんに逃げろと言って一人で走って行ってしまった。
 ワタシたちはコブさんの後を追うように猛ダッシュした。
 お婆さんはスタタタタ・・・と駆けながらワタシたち3人を追いかけてくる。
 洞窟内を4人でグルグル3周くらいしただろうか。
 最後は、出口付近で待ち構えていたお婆さんが、「頼んます!」と言いながら、近寄ってきた。
 ワタシは逃げるのは止め、話を聞いてみようと思った。
 お婆さん曰く、洞窟の山肌に建立された仏像の大きな顔(高さ15m)は、未だ制作途中だそうだ。
 お婆さんの旦那様(彫刻家都賀田勇馬氏)が、長い年月をかけて洞窟内の彫刻を作り、外にある巨大大仏を完全体(高さ33m)にすることが、夫婦の夢だということだった。
 寄付金を集めて、顔から下の胴体を作りたいと考えているとのこと
 ビダイに巨大なガンダムの下半身のみ作っていた仲間がいたが、その逆だ。
 ニューヨーク在住、クリフトとジャンヌ=クロード夫婦は、ビルや島をピンク色のシートで覆ってしまう超ド級有名現代アーティストだ
 夫婦愛で現代アートの世界をひっくり返した存在。
 ハニベ夫婦同様、夢がデカい。
 ハニベ夫婦はとんでもなく、大規模な夢の実現のため奮闘していたのだ
 お婆さんの寄付金ダッシュも、その夢実現のための地道なアーティスト活動だった
 「ハニベ大仏」は夫婦愛の結晶のようなものだ。
 いくら貯まったら、作り始めるのか。
 そんな夢のないことは考えてはいけない。
 途轍もない大きな夢の一端を垣間見たハニベの体験は、ワタシの心に何かしらのヒントを与えてくれた。
 夫婦で夢を追うなんて何て素敵なんだ。
 コブさんは、帰る最中もずっとニタニタしていた・・。

 訪問最後の夜、恒例のUNO大会をやった。
 ヨビコウ時代同様、再び3人の眉毛は無くなった。
 汗が目に入り、心にとても沁みた。
 コブさんと別れ際、眉なしの3人は傍から見てどんな感じだったのだろうか。
 そんなことを話しながら、帰りの電車で村さんと笑った。

第45話 即席!地下道セクシー
大学の映像概論の講義では、最終試験が、短編映画制作だった。
 ワタシは中学生の頃、映画監督に憧れ、いつか映画を撮ってみたいという夢があった。
 進路も日大藝術学部映像学科へ行くことを真剣に考えていた時期があった。
 しかし、シナリオを考えたり、役者の演技指導をしたり、本当にできるのだろうか自信が持てず諦めた経緯がある。
 その頃の淡い思いが残っていたため、映像概論を選択していた。
 短編映画は20分程度であり、グループで1作品、発表することになっていた
 ワタシは村さんと、キックボクシングに精を出していた松ちゃんと3人で制作をすることにした。
 中学生時代の淡い思い出話を2人にすると、ワタシがシナリオを考えることになった。

 ワタシは映画には必ず美しい女優が必要だと考えていた。
 ワタシは「泥の河」(1981年公開) という、映画に衝撃を受けていた。
 昭和30年の大阪。
 安治川の河口で暮らす少年(信雄)は両親から、近づいてはいけないといわれた舟に暮らすきょうだいと交流をもつことになる。
 きょうだいの母親は船上で売春をしていた。
 モノクロの映像と、朴訥とした少年少女たち、そして戦後間もない大阪で、身を振り乱し働く大人たちが淡々とストーリーを進めていく。
 錆び突き、汚れた舟で生活するきょうだいと遊ぶ約束をした少年信雄は、もぬけの殻になった舟で、仲良くなったきょうだいを探していると・・。
 「信雄さん」と呼ぶ声が・・。
 きょうだいの母親に呼び出されたのだ。
 きょうだいが生活するスペースとは反対側にあった母親の部屋へ行くことになる。
 そこに現れたのが、何とも言えぬ美しさを纏った「加賀まりこ」だった
 ワタシはモッサリと重く感じていた映画の雰囲気が、ガラリと変わる瞬間を体験した。
 映画に美は必要不可欠であると村さん松ちゃんに進言し、女優探しを始めた。
 大学内で、映画の雰囲気を一変させることのできる女性を探し、声をかけた。
 傍から見れば、ただのナンパだろう。
 ワタシはマジだった。
 何度か気味悪がられ断られた挙句、ワタシの映画製作に理解を示してくれた女性に出会うことができた。
 インド出身のムンビーさんだった。
 ムンビーさんは、日本文化が大好きで、当時流行していた「ゴスロリ風ファッション」でギラギラ着飾っていた。
 顔立ちは端正で美しかった。
 ただ、日本語をあまり理解しておらず、意思疎通にかなり苦労した。
 ★
 短編映画の内容は、精神的に弱くもろい青年が、キックボクシングに目覚め、強姦に襲われそうになった女性を助け自信をつけ人生を再スタートするという簡単なストーリーだ。
 ストーリーは単純だが「泥の沼」の演出技法を真似した
 混沌とした暗い世界を見て胸糞が悪くなっている途中に、パッと輝くムンビーさんを出す。
 強姦に襲われるムンビーさんを、観客全員で助けたいと思わせ、見る側の意識を揺さぶる。
 精神的にもろい青年がムンビーさんを助け、青年の株が急上昇すると共に、観覧者の思いを昇華させることが狙いだった。

 撮影当日、ムンビーさんは、約束の時間に来なかった。
 携帯電話で以前聞いていた番号にかけると、声が低く地獄の番人みたいな男性が「テメーぶっ殺すぞ!」と連呼していた
 ムンビーさんの出演は急遽取りやめになり、発表は明日の午後ということもあり、シナリオを変更した。
 ここには男子3人しかいない。
 ワタシが白いバスタオルを下半身に巻き、顔はストッキングで隠した
 主人公はワタシとなり、夜の公道や地下で、ヤンキー少年(キックボクシングをやっていた松ちゃん)にカツアゲや暴力を受けながら、惨めな生活を強いられる。
 道端に咲いていたタンポポを見つめながら気を失い、通行人の村さんに両足を持たれ、引きずられ暗い公道の闇の中へ消えていくというストーリーに変更した。
 夕方になり辺りが暗くなってきたこともあり、そのような設定とせざるを得なかった。
 ムンビー的な、ストーリーを引き締める役として、村さんを女装させてみたが、気味が悪く止めた。
 華やかさの象徴は、タンポポが風に揺れるシーンとした。 

 撮影中、キックボクシングの練習を休んで来ていた松ちゃんが、イライラし始めた
 本気のキックがワタシに何度が当たり、もがき苦しんだ。
 そんな本気で痛がる場面も、村さんは容赦なく撮影していた
 途中、巡回していた警官に職務質問をされたときは、村さんと松ちゃんは公園の遊具に隠れてしまい、ストッキングを被ったワタシがきつく尋問される羽目に。
 ワタシがペコペコしながら警官の質問に答える姿も、村さんはちゃっかり撮影していた。
★★
 発表会にはギリギリ間に合った。
 3人で、徹夜で編集し、ある程度見応えのあるものに仕上がったんじゃないかと、自負していた。
 寝不足で確かな判断力は皆無だったが・・
 映像概論の楠木先生は、デザイン科や日本画科の学生がつくったオシャレでシャープな短編映像を堪能し、気分を良くしていた。
 他の学生たちは笑ったり、やじったり、それぞれの映像に反応を示していた。
 ワタシたちの短編映画が始まった。
 いきなり、講堂内は静かになった。
 誰も何の反応も示さない。
 ワタシたちは「やばかったんじゃないか。」と不安になった。
 楠木先生の表情もかなり曇っている。
 映画が終わり、蛍光灯が付くと同時に楠木先生は「素晴らしい!」とマイクで大きな声を出してワタシたちを褒めてくれた。
 「現代社会の歪《ひずみ》をリアリティに溢れた表現方法で映像化している。特に隠し撮り風に見せている技法。タオルを巻く青年が地下道でヤンキーに暴力を受けているシーンはなぜかセクシーにすら感じる。味方だと思っていた警官にひたすら頭を下げ、見放されるシーンは逸品だ!」と評価をいただいた。
 「この先、映像の分野は途轍もないスピードで進化していくだろう。いつの日か素人の誰でも映画のようなものを撮り世界に発表する日がくるはずだ。」とYoutubuを予言しているかのようなことを楠木先生は言い、映像概論の講義は終了した。

 しばらくして、ムンディーさんから連絡があった。
 撮影日を間違えていたこと、ワタシたちに教えてくれた電話番号は、元彼のものだったことが分かった。
 ムンディーさんには喫茶店でチョコレートパフェを奢って、もう撮影は終わったことを伝えたが、あまり意味が分かっていなかった。

第46話 ダムザン②~崩壊前夜~
ワタシは思いつくまま後先考えずに行動してしまう悪癖がある。
 これまでも様々な場面で、多くの失敗をしてきた。
 懺悔をしてもしつくせぬことはよく分かっている・・。

 黒部こらーれで行ったグループ展「ダムザン」を、2年目も行うことが決まった。
 「ダムザン1年目よかったよなぁ。皆の若い力が出せたと思うよ。今年もダムザンやろうよ。こらーれのスタッフさんたちも、新たな展示を楽しみにしてくれてるみたいだし。」
 ワタシが大学4年になった春先、羽丸さんが自宅に来た時に、そう話してくれた。
 ワタシも再び、黒部で制作をし、展示ができることに胸を躍らせた。
 「ところでさ、俺が展示したあの池で、今度はお前がやってみないか?」
 ワタシは一瞬、羽丸さんが何を言っているのか理解に苦しんだ。
 「羽丸さんが、個展をやったあの大きな池で、やるんすか?」
 「そうだよ、お前ならできるんじゃないかと思って。」
 数秒も考える間を使わず、
 ワタシは「やらせてください!」と言ってしまった。
 悪癖が出てしまった。

 その頃、ワタシのアパートの近くにアトリエとして使われていた倉庫兼空き家があることを見つけた。
 アトリエを探していた羽丸さんに話すと、共同アトリエにしようということになった。
 大学も近かったので、ワタシは材料や作品を持ち込んでいた。
 そのアトリエは割と大きく、羽丸さんは他の仲間の作品も融通を利かせ置くようになっていた。

 ある日、第1回目の「ダムザン」に参加していた明日香さんが、ワタシに相談があると言いアトリエに来た。
 明日香さんは今回のダムザンにも参加する予定だった。
 「シノブさん、こんなこと私が言うことじゃないかもしれないけど、羽丸さんは、参加者に自由な作品展示の場だと言い触れているけど、今回は羽丸さんのテーマに沿った展示を参加者にさせようと考えているみたいなの。参加者の達夫から聞いたんだ。」
 ワタシはテーマがあることは別にいいんじゃないかと思っていたが、明日香さんは少し違う考えを持っていた。
 「私たちは、羽丸さんの価値観に縛られるのは嫌なんだ。自由な展示の場を求めたいの。」
 「でも、ほぼ無料で展示会場を借りる訳だし、羽丸さんのご厚意でここまで企画が進んでいるのだから、ある程度は仕方がないんじゃないんすか?」
 「シノブさんがそういうのなら、私たち全員参加しません。それでもいいの?」
 「いや~それは困りますね。今更新しいメンバーも見つけられないし・・。」
 「シノブさんはあの大きな池で個展をするそうじゃないの。羽丸さんに一番近い存在なんでしょう。一言でいいから、羽丸さんに、自由な展示がしたいと、代弁してくれない?」
 「分かりましたよ。ちょっと言うだけですよ。でも嫌な予感するなぁ~。」
 「大丈夫、まずくなったら私がフォローするから!
 ワタシは明日香さんと、深夜仕事を終えてアトリエに来る羽丸さんを待った。
 「おっす!明日香ちゃんとシノブで何してたの?怪しいなぁ~。」
 羽丸さんはいつも明るくテンションが高い。
 しばらく、世間話をしてから、明日香さんからの話を羽丸さんに伝えた。
 予想は的中した。
 見る見る、羽丸さんの頬は赤くなり、口がへの字に曲がった。
 完全に切れていた。
 明日香さんは、フォローするどころか、そのような考え方になったのは、ワタシの影響が強かったからと矛先を変えた。
「シノブ、お前もそんな考え方なの。どういうつもりなんだよ。
「やっぱり、皆で展示方法とか考えた方がいいのかなぁと・・。」
「分かったよ。その代わり俺は何も手も口も出さない。勝手にやれ。」
完全に怒ってしまった。
ワタシは当然だろうと思った

 それからというもの、共同で使っていたアトリエ内ではお互い口も聞けない状態になった。
 それまで、師弟関係のような間柄で活動を共にしてきたが、完全に関係性が崩壊した。
 ワタシは精神的にきつい状況に追い込まれた
 次第に、共同アトリエとは言えぬ程ワタシのスペースは狭くなり、遂にはアトリエに入れなくなってしまった。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)という病名は当時知らなかったが、アトリエ周辺を通るだけでも動機が激しくなったので、その病気を発病していたと思われる。

 明日香さんは何だかんだ振り回した挙句、グループ展が始まる頃に、パリへ旅行に行くことになったという理由で脱退した。
 完全に干された状態のまま、ワタシは個展に向けて制作を始めた。
 初めての個展で、不安も大きかったので羽丸さんを頼ろうと思っていたが、それは全くできなくなった。
 大きく広い池の展示なので、余程のものを作らないと成立しないことはよく分かっていた
 グループ展に出品する仲間たちは、普段羽丸さんと会うことはほとんどなく、展示準備間近になって黒部入りする予定だった。
 ヨビコウ時代の友達、村さんとコブさんにも相談してみた。
 村さんは、以前、羽丸さんの作品を公募展に運搬している途中に、石につまずき作品を壊した。それから、音信不通になってしまったようだ。
 「シノブくん、僕は羽丸さんと合わす顔がありません・・。」とのことだ。
 コブさんは、お世話になった羽丸さんのこともすっかり忘れ、金沢生活をエンジョイしていた。
 「知らん、そんなの、ほっといて勝手にやればいいんちゃうん!」
 コブさんの性格が初めて羨ましくなった瞬間だった
 ワタシが勝手にできない理由が一つあった。
 それは、今回考えていた作品の一部を羽丸さんの弟さん(正明さん)に発注していたこと、展示一か月前に黒部入りして、羽丸さんの実家で制作をする予定だったこと。
 羽丸さんの弟さんは人間性が素晴らしく、1回目のダムザンでかなり親しくさせていただいていた
 お兄さんを心から尊敬している弟さんに、今回のことを伝えるのは忍びなかった
 そして、羽丸さんのご家族に合わす顔がないまま、一か月も制作できるのか心配だった

 今までいろいろと失敗はしてきたが、こんなにも仲良くしていた人と関係がこじれるとは思っていなかった
 年齢は10歳以上離れていたので、ワタシにも甘えがあったのだろう。
 人間関係の難しさを痛感し、明日香さんにそそのかされた自分を恨んだ。
 日々、目に見えぬストレスが蓄積し、本当にこのまま個展ができるのだろうかと考えるようになってきた

 深夜、自宅に電話がかかってきた。
 小学校の同級生庄司からだった。
 たわいもない、世間話をするなか、自分の現状がうまくいっていないことを話した。
 同級生庄司は、
「一般市民のほとんどが興味を持たない彫刻に、そんなに熱を入れてるシノブは凄いね。」と言った。
「そんな、あってもなくても誰も痛くも痒くもない芸術に、何でそこまで夢中になるの?シノブは世間から期待されている芸術家なの?テキトーにつくって、池に浮かべておけばいいんじゃないの。その、関係が悪くなった、ヨビコウの先生?その先生にシノブは取り込まれ過ぎなんだよ。」
ワタシは目から鱗だった。
 ヨビコウ時代から約5年間続いた「ビダイ物語」に完全に取り込まれていることに気が付いたのだ。

第47話 ダムザン③~運命の交錯~
「ビダイ物語」に取り込まれている自分に気が付いたワタシは吹っ切れた。
興味と勢いで飛び込んだこの世界に、いつの間にかどっぷり浸かり、我を失っていた。
 小学校の同級生庄司の言葉は厳しかったが、ワタシの目を覚ましてくれたようだ。
 勝手に乗せていた肩の荷が下り、こらーれの池に展示する作品も方向性が定まってきていた。
 ★
 展示一か月前に黒部入りしたが、羽丸さんの実家をお借りすることは遠慮し、黒部川の川岸にテントを張り生活することにした。
 アトリエだけは、羽丸さんの弟さんに相談して、近所の鉄工所をお借りした。
 制作も徐々にペースを掴んできた矢先、急な大雨で河川が上昇したと情報が入った。
 大雨の中、大急ぎでテントに戻ろうと土手を軽トラックで走っていたら、見覚えのあるワタシのテントと作品の一部が濁流に飲まれていた。
 命が助かっただけよかった。
 テントと作品の一部は諦めた
 それから、軽トラの荷台に段ボールを敷き、そこに寝泊りする生活をすることになった。
 黒部の夜空の星は美しく、月も輝いて見えたが、囲いが無い軽トラの荷台では、蚊に死ぬほど刺された。
 自分が招いたことであり、宿に泊まるお金も無く、腹を据え過ごすことに迷いは無かった。
 ★
 ワタシと羽丸さんの関係性の悪化は、グループ展を行う仲間たちにもすぐに伝わっていた。
 感受性の豊かな若手女性アーティストは、こんな空気の悪い関係性のグループでは、気持ちよく展示ができないので辞めたいと言い始めていた。
 当初、羽丸さんが提示したテーマ性を受け入れた仲間たちも何人かいたが、それに反発して全くの個人的なテーマで展示を計画する人たちも出てきた。
 羽丸さんが提示したテーマは「繋がる」だった。
 「皆で協力し合って、黒部こらーれの夏を盛り上げ、地域の人たちにアートを楽しんでもらおう。」と言った、とてもピュアで捉え方によっては幅広い表現が期待できるものだった。
 ワタシも順当に歩んでいれば、この「繋がる」を意識した作品つくりを行い、気持ちよく展覧会を終えていただろう。
 しかし、今の状態はワタシ自身に、「繋がる権利も余地」も残されてはいなかった。
 気が付くと、「繋がる」ことを完全に拒否された「断絶」がテーマとなっていた。

 ワタシの「ビダイ物語」のスタートは、ヨビコウ時代に住んでいたあずさ荘だ。
 4畳半のぼろアパートで、当時引っ越しを手伝ってくれた父親は、ショックを受けていた程だ。
 ワタシはそのアパートで、「ビダイ」を夢見て必死でデッサンを描いた。
 昼間は予備校でデッサン、アパートでは100枚を超える自画像を描いては、講師だった羽丸さんに見せ指導をいただいていた。
 薄暗いアパートで夜な夜な自分を鏡で見続けた1年間は「ビダイ物語」の原点である。
 1年後、念願のビダイに合格し、ビダイで巻き起こる様々な出来事や経験をしながら、次第に自己意識が肥大化していった。
 あずさ荘の三角コーナの便所で外した大便の姿は、「ビダイ物語」の結末を象徴しているかのように思い起こされる。
 この原点回帰を表現した作品を、黒部こらーれの池で展示することで、ワタシ自身の「ビダイ物語」を完結することになるのではと考えていた。
 直径3mのワタシの顔を発泡スチロールで彫刻し、あずさ荘をイメージした建物の頂点に顔を乗せ、長く細いカマキリのような腕が2本飛び出し、右手には箸を持ち、目の前にある肥大化した夢や希望、自分自身をバクバク食べようとする彫刻を制作した。
 建物の後方からは、三角コーナーで外した大便を模した形態を発泡スチロールで作り、20m繋げて池に浮かべた。
 頭でっかちな欲にまみれた自己意識が、暴走しながら関係性を食いちぎり、排泄するという状況を表したかった。
 題名は「いただきます!」
 前方に広がる夢や希望を一心不乱に求める、純粋で傲慢な自己を表す言葉として使った。
 DMには、大学のアヒルが泳ぐ池に、白ブリーフ一枚を履いたワタシが箸を持ってダイブする写真を使った。
 池にダイブする姿は異様に感じるが、「全ての関係を断絶」する覚悟を表していた。
 写真家を目指していた、加茂くんに、ボランティアとして無理やりお願いした。
 加茂くんは「おっうん、わかりました。」と苦笑いしながら受け入れてくれた。
 全ての迷走はあずさ荘から始まり、肥大化した自己意識をそのまま表すことで、若者にありがちで、人としての普遍的な問題定義をすることができるのではないかと考えた。
 水面でもがき苦しみながらも、前進しかしようとしてこなかった自身の象徴となりえる作品になると信じていた。
 ワタシには失うものが何もなく、最高の「断絶」ができると考えた。

 すったもんだの問題を抱えたまま、グループ展の準備と個展準備が整い、展覧会がスタートした。
 羽丸さんは前日、何事も無かったように、展示会場をチェックし準備をしていた
 周囲とのギクシャク感は半端なく、ワタシも自分の作品を見てほしいと声は何度かかけたが、反応は無く、そのまま東京に戻ってしまった。
 会期中は昨年度よりも客足が増え、反響も良かった。
 ある日、ワタシのDMを見たという富山の青年が、いきなり話しかけてきた。
 眼鏡をかけた線が細そうな青年の声には張りがあった。
「ボクは芸術をやろうと志してきたけど、一歩が踏み出せないんです。皆さんがボクと同じくらいの年齢でこんなに凄いもの作っているなんて感動しました。」とその声には勢いがあり、新鮮だった。
 その青年吉沢くんは、高校卒業後、工場で働いていた。
 いつか美術をやりたいと300万円を貯めたそうだ。
 工場を辞め、図書館で美術書を読んでいた時に、ワタシがブリーフ一枚で池に飛び込むDMを見て、黒部こらーれまで来てくれたとのことだった
 ワタシが「ビダイ物語」から離れようとした作品に惹かれ、美術を始めようとする青年を引き付けてしまったようだ。
 この何とも言えぬ出会いから、吉沢くんは美術を志し東京へ行くことを決心したのだ。
 その後、吉沢くんは日本各地を放浪し、多くの人と繋がり多くの作品を生み出し、名のあるアーティストとなっていく。
 運命が交錯した瞬間をワタシは経験した。

第48話 ダムザン④~天才孫悟空の宴~
ワタシは、自分の作品をしまづさんに見てほしいと考えていた。
 人間嫌いで、人の作品は絶対に見ないと言っていたので、不安はあった。
 久しぶりに栄村のアトリエを訪れると、そこには今まで見たことのない形相で必死に大木と格闘しているしまづさんがいた。
 孫悟空が魔力を発揮している瞬間を見てしまった。
 本気のしまづさんを見てはいけなかったような気がした。
 そのまま帰ろうとすると、
 「あら、どなた様?パパのお知り合いかしら・・。」
 駐車場の陰から女性の声がした。
 しまづさんの奥さんだった。
 「こんにちは。制作中にすみません。しまづさんのアトリエを何回か見学させていただいていたものです。シノブと申します。」
 「そうなの。パパ~、シノブさんがお越しよ。」
 とても美しく、優しそうな奥さんだった。
 「おお、シノブさんか、久しぶりだね。何しにきーたーのー。」
 大木にかけたハシゴから小さな体をくねらせながら、ふざけた口調で降りてきた。
 「お久しぶりです。実はワタシ、個展をやっているんです。仲間たちもグループ展をやっています。是非、しまづさんに作品を見ていただきたく思い、今日は来ました。」
 「どこでやっているの?」
 「富山の黒部というところです。」
 「それは、どこなの?ボクは地方のこと詳しくないからさー。」
 「いいじゃない。あなた、シノブさんの個展を見に行ってあげなさいよ。」
 奥さんは、終始にこにこしていた。
 「でも、ボクは人の作品を見ない主義だからね。でもまぁ、シノブさんならいいかな。でも、他の人の作品は絶対に見ないから。」
 「ありがとうございます。」
 「近所なの?今、行こうよ。」
 「えーと、近所ではないです、高速道路で3時間くらいなので・・。」
 「ふ~ん、じゃぁそのトヤマ?というところで泊まるから連れていってよ。」
 そう言うと、制作中の大木のふもとに置いてあったスポーツドリンクを片手に、ワタシの車に乗ってくれた。
 優しそうな奥さんは、「シノブさん後はよろしく。」と言って深々とお辞儀をし、ワタシとしまづさんが見えなくなるまで手を振り続けてくれた。

 車中では、しまづさんはいきなりスポーツドリンク(焼酎)を一気飲みしていた。
 完全に酔いながら、寝たり起きたりを繰り返していた。
 「トヤマはどこなんだ?個展をやるなんて凄いな。でも他の奴らには絶対に会いたくないから、誰もいないときに、シノブさんの作品を見るからね。」と、ずっと言い続けていた。
 黒部こらーれに夕方到着したころには、人はほぼいなかった。
 早速、しまずさんの肩を抱えながら、車から降りてもらい、ワタシの作品が展示してある池まで歩いた。
 ぐでんぐでんになったしまづさんは、グループ展の作品が少しでも目に入ると、目を反らし、うつむきながら歩いた。
 辺りは薄暗くなってきたので、夜バージョンとしてセッティングしてあったライト照明で作品を照らした。
 さっきまで酔っていたはずのしまづさんは、急にシャキッとし、細い目を全開にし、ワタシの作品を隈なく見てくれた。
 足取りは軽く、筋斗雲で飛び回るように、作品の周りを走っていた。
 池は浅いので、中に入ることもできたので、しまづさんは靴を脱ぎ捨て池に入った。
 「シノブさんは、ゲージュツ家だったの?ボクはただの遊び人かと思っていたんだ。シノブさんの叫び声が聞こえるね。好きだな~。」と感想をゆっくりと言ってくれた。
 すると、遠くの方から「何このデカい顔ー。超気持ちわるー」と、池の横の公道を歩く二人の高校生だった。
 その二人を見たしまづさんは慌てて池を出て、誰もいないロビーに隠れてしまった。
 「もう、ボクはシノブさんの作品を充分見たから、直ぐに宿に行きたい。」と言うので、慌てて近所の宿を探して、連れていった。
 ワタシはお金が無かったので、しまづさんだけ宿に残し、こらーれの駐車場に軽トラを停めて一人寝ることにした。
 深夜、軽トラの荷台で蚊と戦っていると、携帯電話にしまづさんから着信があった。
 「もしもし、すみませんが、今日お泊りになっているしまづ様のご関係の方でしょうか。」と宿の女将さんからだった
 「はい、先ほど玄関まで同行したものです。どうかされましたか。」
 「大変申し上げにくいのですが、今すぐにお迎えに来ていただけますか。
 ワタシはしまづさんは大分酔っていたので、宿では直ぐに寝るだろうと思っていた。
 しまづさんは、宿に着いてから、酒をもってこいだの、刺身を用意しろ、など、深夜にも関わらず大騒ぎだったようだ。
 他のお客さんの迷惑になるということで、宿泊を拒否されてしまったのだ。
 「おう、シノブさん、ごめんなさい。追い出されちゃった。でも、ボクは許せなかったんだ。宿の連中が、こらーれで展示していたシノブさんの作品にケチをつけていたんだ。シノブさんのことを考えたら腹が立って、暴れちゃったんだ。後悔はしてないよん。ボクはプライドを守る方が大事だと思っているからね。
 しまづさんは、ワタシよりも30歳以上年上の大人である。
 その大人が、20歳少々の若造の作品について言われたことで、ケンカしてしまうなんて
 天才孫悟空はさすがである。
 ワタシは、羽丸さんとの一件から、疑心暗鬼になっていた。
 しまづさんの言動に救われた気がした。
 作品を見てもらってよかったと思った。
 結局、深夜栄村まで帰ることになった。
 到着すると奥さんが「あなた、わりとゆっくりできたのね。」と言っていた。
 奥さんは、しまづさんが酔って暴れることは予想していたようだ。
 「この人は、見た目はオジサンだけど、小さな子供みたいに我がままなの。芸術家さんだから仕方がないのよね。シノブさん、一緒に付き合ってくれてありがとうございました。また遊びに来てくださいね。」奥さんは深夜だったけど、寝ずに待っていたようだった。 
 帰り際に大きなカボチャを2つ頂いた。

 アートの神様が宿る人には共通点がある。
 いつまでも子供のようであり、子供のままでいることを誇りにしていること
 そして、周囲が子供であるアーティストを認めていること。
 ワタシは子供には成り切れないなと、本物のアーティストと過ごして感じた。
 しばらくして、ワタシの元に高額の宿代の請求書が届いた。
 孫悟空の宴代は、ちょっと高くついた。

第49話 ダムザン⑤~SM女王の微笑み~
 ダムザングループ展、ワタシの個展最終日、羽丸さんの弟さんから「ちょっと話があるから皆を呼んでくれ。」と言われた。
 ライトアップされたワタシの作品の池の周りには芝生の広場があり、そこに皆が集まった。
 しばらくすると、羽丸さんの弟さんが、お兄さんである羽丸さんを引っ張ってこちらに歩いてきた。
 羽丸さんはワタシたちが座っていたところに、しゃがみ込み、
「皆さんにご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。」といきなり芝生に頭をつけた。
 何とも言えぬ寂しい空気が流れた。
 生意気なワタシは、返事もぜず、芝生をむしっていた。
 周りの仲間たちから、シノブも謝れという圧力を感じたが、「ごめんなさい。」とは言えなかった。
 しまづさんに言われた「プライド」が頑なにワタシを硬直させていた。
 初めてダムザンを開催したときから、ワタシたちのことを応援してくださっていた、こらーれのスタッフ飯島さんが見かねてこちらに来た。
 飯島さんは、お若くスタイリッシュな女性だったが、物事をはっきり言ってくれる方だった。
 ワタシたちの作品をザックザクに容赦なく切り捨てる「黒部の女王」と陰で呼ばれていた。
 展覧会準備で、パジェロに彼女を乗せて、意気揚々とこらーれに来た村沢くんは、女王に「こんなどこにでもある絵をよく黒部で展示しようと思いましたね。」と言われ、東京にトンボ返りした。
 ワタシも、巨大な顔を池に展示したときには、「もっとイケメンにしてよ。こんなブタゴリラみたいな顔じゃ、お客さん怖がるから。」と女王に鞭打たれた。
 羽丸さんは、昨年この池で、縄に縛られた人体を並べたが、そのとき女王は割と静かだった。
 黒部の女王はワタシたちの姿を見ながら、
「青春しているね。一人ずつ池に落としてやろうか。羽丸さん、男気あるじゃん。大人は違うね。それに比べて、君たちは・・。でもいいんじゃない、今こうやって、色んな人の力を借りて、甘えながら自分たちはイケてるって勘違いしてるけど、そのうち、本当の実力が分かっちゃうんだからさ。君たちの進もうとしている世界って厳しいんだろ。」と微笑みながら諭した。
 ワタシを含め、皆何も言えなかった。
 羽丸さんは正座で腕を後ろに組んだ状態で屈みこみ、女王の言っていることに何度も頷いていた。

 気まずい雰囲気でその場は終わった。
 羽丸さんの弟さんには、東京から来た、ワタシたち変な奴らの世話をしていただいたことを感謝し、この日のことを深く謝罪した。
 もう羽丸さんと話すことも会うこともないだろうと思い、
 「お世話になりました。色々勉強させていただきました。」とワタシは一言だけ伝えた。
 羽丸さんは「もういいよ。」と言っていたが、口はへの字に折れ曲がっていた。

 その晩、東京からビダイの仲間たちが駆け付けてくれて、展覧会の打ち上げという名目で海辺でバーベキューをやってくれた。
 腹が減っていたので、勢い余って生肉を食らい、ワタシは軽い食中毒になった。
 岩陰でたくさん吐きながら、嬉しいような悲しいようなで涙が出てきた。
 黒ずんだ波しぶきが顔面に当たった。
 これまでの経験を全て黒部の海が洗い流してくれるような気がした。
 その時、ワタシの後ろから、椎名林檎似の姉さん気質、荻久保先輩が、酔った勢いで海に飛び込んだ。
 暗闇の海を、皆で必死になって探した。
 かなりやばい状況であることは分かったが、酔いつぶれているもの、酔いの延長ではしゃいでいるものと、まともな捜索ができていなかった。
 20分くらい経つと、ずぶ濡れになってゾンビのような姿で岩陰から荻久保先輩が出てきた。
 「もう一杯飲もうぜー!」と微笑み、酔いつぶれた仲間を踏みつぶしていた。
 みんな安堵して、その後のバーベキューは朝まで続いた。
 ワタシは安心して、岩陰でしゃがみ込み、上も下も全て出し切ることができた。

 一緒に来ていた先輩から、「お前の作品見たよ。もう出し尽くしたなって気がしたよ。東京に帰らず、もしかしてどこかに行っちゃうんじゃないの?」と核心を突いてきた。
 「いやー、まだまだ、作りたいんものは沢山あるんで、頑張りますよ。これからも・・。」虚勢を張ってみた。
 作品を展示するまでは、時間と労力がかかる。
 撤収するときは、あっという間だ。

 こらーれエントランスには、数十枚の脇毛のモノクロ写真・・。
 エントランス付近の芝生には、逆立ちする女性像、鉄筋で作った抽象彫刻・・。
 建物の隙間には、カラフルな布が空中に吊りさげられ・・。
 広い芝生に直径4m程の円形の大きな穴を掘り、巨大な玉を入れた作品・・。
 こらーれ内に入り、スロープを上がると、目の高さのパネルに「繋がる」をテーマにしたレリーフ群・・。
 中央第2展示室には、球体が積み重なるコンセプチャルアート・・。
 羽丸さんの弟さんも、鉄で作った部屋を芝生の上に展示していた。
 東京の若者に影響を受けて作ってみたという、ひと際完成度の高いピュアな作品だった。
 2年目のダムザングループ展はとても充実していた。
 テーマを超えた、個性の輝きが眩しかった。
 そんな作品群も、半日で片付けられてしまった。
 祭りの後になった黒部こらーれは再び日常を取り戻した。

 ワタシの作品も翌日、撤収した。
 看護師をしていた彼女が長野から駆け付けてくれた。
 巨大な顔を外すときに、何かあったら救護してもらうつもりだった。
 それだけ危険な作業だった。
 彼女は早く撤収して、海に遊びに行こうとワタシたちを焦らせた。
 彼女のプレッシャーに、搬出の手伝いに来てくれた馬沢が足を滑らせ、高さ3mの脚立からワタシの巨大な顔を支えたまま池に落ちた。
 彼女は池に藻があって気持ちが悪いから入れないと言い、馬沢は泡を吹いたまま池に浮かんでいた。
 ワタシも慌ててダイブしたが、藻に足を滑らせ腰を強く打った。
 彼女はコントのような状況を見て微笑んでいた。
 カエルの鳴き声が鈴虫の声に変わり始めていた。
 夏が終わりを告げようとしていた。
 ワタシは2トントラックに作品の全てを載せ、皆とお別れをし、黒部を後にした。
 荷台からは、ワタシの大きな顔が名残惜しそうに黒部の海を見つめていた。

 第50話 モモ尻 ビチボイ ファイヤー
アパートのテレビデオで、再放送のビーチボーイズを見ていた。
 ダムザン、個展を終え、卒業単位は全て取り終えていたので、水道工事のアルバイトと卒業展示に向けて制作するのみだった。
 人生でこんなに暇になるのは、この先いつになるのか分からない。
 ビーチボーイズの反町と竹野内のように、プラプラ感を出そうと大学では暇オーラを出しまくっていた。
 エントランスのマイアトリエでは何もせず寝転び、通行人を見ていた。
 いつしか、勝手に占いをしてくるどこかの科の怪しい女性が寄り付くようになった。
 「あなたを占います。」
 「またですか、もういいです。」
 「あなたは、将来黒光りしているでしょう。」
 「今も充分、日焼けしいてます。将来もそんな感じなんですか。」
 「そして、お尻の火傷に注意しなさい。」
 「ケガはよくします。先日も顔面にFRPをつけてしまい火傷しました。」
 「そして、あなたはまぬけな子です。
 「分かっています。」
 「ここで暇をこいてる場合じゃありません。将来の為に学びなさい。」
 「それ、占いじゃなくて、説教ですよね。」
 「あなたの隣には魔王が座っています。」
 「昨日は毒蛇でしたよね。」
 「ここのエントランスには邪気があります。今すぐ移動した方がいいですよ。」
 「どこのアトリエも追い出されちゃったので、ここにしか居場所がないんです。昨日、助手からは大学を出ていけと言われました。
 「明日、あなたではなく、広末涼子さんに来てもらっていいですか?」
 「・・・・・。」
 いつも話の途中で無理難題を吹っかけると、彼女は去っていった。

 大学の先生からは、大学院を受験しないのかと何度か聞かれた。
 高額な学費を、2年間も払い続ける体力は我が家には無かった。
 もう美術とは関係の無い世界へ行きたいという気持ちと、もっと美術を学びたいという気持ちがせめぎ合っていたが、ダムザン・個展での経験からもう潮時だろうと感じていた。

 占いの彼女の助言を聞いたか聞かぬか、ビダイの施設は取り合えず使い尽くしておこうと思った。
 日々、鉄や木、石、FRPをいじる「The彫刻科」の印象の強いワタシだったが、「Power Macintosh G3」が入っていたパソコン室に入り浸る生活が始まった。
 CADを使って設計や、簡単なアニメーションを作ったり、ネットサーフィンをしたりして遊んでいた。
 汚いツナギを着て入るような場所ではなかったので、ハーパン半袖で、エアコンが効いたパソコン室でアイスコーヒーを飲みながら気楽に過ごしていた。
 たまに、コーヒーをこぼしたまま居眠りをし、担当講師に叱られた。
 周りの仲間たちからは、彫刻を諦めた男として呆れられていたが、「これからはPCの時代、慣れとかないとね。」とかなんとか言ってはぐらかしていた。
 インターネット、画像や動画が自由に見られる世界は新鮮だったが、感触や感覚の世界で生きてきたワタシは飽きるのも早かった。
 ある程度、操作や遊び方を覚えたところで、パソコン室を出た。
 黒部こらーれでの個展の後、そのまま死体置き場(作品置き場)に放置してあった作品のブルーシートを剥がし、半年ぶりにまじまじと見た。
 卒業制作では、新作を出そうと考えていたが、まだこの作品は表現しきれていないものがあると直感的に感じた。
 半年間、パソコン室で遊んでいたからこそ、客観的に見えてきた世界があった。

 夢や希望、欲を食い漁る表現(自意識の肥大)から、食い漁る自分がもっと大きな存在に食われ、ドロドロに溶けていく様を表現しようと考えた
 「ビダイ物語の終焉、自我の崩壊」をテーマに据えた。
 ビダイに浮かされ、ビダイに取り込まれ、ビダイに食われ卒業する。
 巨大な顔はボロボロにした。
 立方体に組んだ高さ5mの足場の先端に顔を設置した。
 あづさ荘を模した小屋も崩壊し、腕やクソ、欲を表したコンパネに描いた数十枚の絵はバラバラにした。
 曲がりくねった胴体にランダムに取り付けた。
 怪物の胃袋の中でグチャグチャにされた愚者のように・・。
 図書館前は広いスペースがあった。
 毎年、そこのスペースは各科で奪い合いになる。
 意を決して、場所取りジャンケン大会に行くと、運が珍しく味方した。
 図書館前スペースを、作品で全てを埋め尽くした。

 卒業展示会前日、大雪注意報が出た。
 ワタシは雪国長野県出身、雪対策には自信があると周囲に吹いた。
 当日、東京でも数十年ぶりの大雪となり、作品は更に崩壊が進んでいた。
 朝早くから大学に行き、修正できるところは手を入れたが、雪かきに時間がかかり、作品なのかガラクタなのか際どいものになってしまった。
 有終の美を飾るべく、それ相応の時間をかけて制作した作品だったので、諦めがつかず表現に落とし込む策を必死で考えた。
 最後の講評会が始まった。
 皆、最後の講評会ともあって、涙ぐみながら教授や講師にお礼を伝えたり、励まし合ったりする場面があった。
 ワタシの番が来た。
 ワタシは雪跡が残る、凍てつく作品の中に裸で飛び込んだ。
 奇声を上げながら、崩壊した作品を素手で叩いたり蹴ったり棒を振り回して破壊した
 テンションも高くなりかけた瞬間、宙に浮いていたゴムチューブに片足が挟まった。
 チューブと共に巻き付けられていた角材の逆側についていた重りが、テコの原理のように働き、ワタシを宙吊りにした。
 大きな顔の下に、全裸で逆さまに吊り下げられたワタシは、もう隠すものは何もなかった。
 作品の一部と化していた。
「予想外の出来だ!これこそアート!」とは誰も言わなかった。
 しばらく宙吊りを堪能した後、助手の島さんが「シノブおもしろいぞ」と小さな声で言い、ワタシを降ろしてくれた。
「ビーチボーイズ期が長かったから、罰が当たったんじゃない。」と村さんがニヤニヤして言った。
 最神教授からは、「お前みたいな奴は見たことが無い。でも賞はあげない。賞なんかいらんだろ。自力で生きていけそうだからなお前は、かっかっか!」と楽しそうに笑っていた。
 卒業展教授賞は、精神を病みながらも自宅でコツコツと作品を作り続けた、千葉県出身の今井さんが受賞した。
 半年ぶりに見た彼女はかなり痩せ細っていた。
 全員が納得する、密度の濃い作品だった。

 講評会中、後輩にビデオ撮影をお願いしていた。
 自宅のテレビデオで見てみると、ワタシの寒くて冷えた、赤くなったモモ尻が画面を覆っていた。
 BGMとして福澤朗の「ファイヤー」が連呼していた。
 一緒に見ていた彼女は大爆笑。
 フェチアートを好み表現していた後輩マチ子は、ワタシの尻しか映していなかった。
 ビダイ物語の終わりにしては、あっけなく、惨めで、悲しいものがあるが、これが現実であり、華々しいことなんて何一つ無かった。
 でも、あほでまぬけでばかな日々はワタシの宝物であり、人生で最高の日々だった。
 人生でやり直したい時期に戻れるとしたら、間違いなくビダイ時代を選ぶ。
 もう一度大学へ行くとしたら、やっぱりビダイを目指すに決まっている。
 そのくらい、魅力あふれる時間であった。
 ワタシのビダイ時代に、強弱問わず様々な影響を与えてくださった方々、多大なるご迷惑をおかけした皆様に心より感謝する。

        終わり

#創作大賞2022


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