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カランコエの花

随分と前に教わって感心したクイズがある。

ある日、トラックと乗用車の衝突事故が起きた。トラックの運転手は軽症。乗用車に乗っていたのは父親と小学生の息子で、父親は即死、子どもは頭に大きな怪我を負い、一刻を争う状態だった。子どもはすぐに近くの病院に運び込まれ、緊急手術を行うことになった。幸いなことに病院には脳外科の世界的な権威として名高い名医がいたのだが、手術室に現れた医者は患者を見るなり激しく動揺して「これは自分の子どもだ。とても冷静に手術なんかできない」と言った。

「さて、この医者と子どもの関係は?」というクイズなのだが、当時の感覚ではなかなかすぐには答えられなかった。「世界的権威の名医」と言われると、つい白衣の男性を思い浮べてしまうのがミソで、「死んだ男は継父で……」なんて答えをひねり出すのが精一杯の人が多かったはずだ。

ところがジェンダーに関する意識が大きく変わろうとしている今、改めてこのクイズを眺めてみると、「医者は子どもの母親」を「正解」とするのもなんだか無理があるような気がしてくる。「片方が父親だったらもう一方は母親に決まってるでしょ?」なんて種明かしをされても、スッキリどころか逆にモヤモヤしてしまいそうだ。現実に子育てをしている同性カップルはいるし、そもそも父と母、夫と妻という区別そのものが、社会的には意味を失ってきているように思える。

話は変わって先日、話題の映画「カランコエの花」を観た。ある高校で、クラスの中に同性愛者がいるのではないかという噂が広がり…という話だ。たった39分の作品なのに、思春期の眩しさと残酷さに綱引きされて、心が裂けてしまいそうだった。とても辛いのだけど、それだけではない強さと輝きも放っていて、おかげでエンドロールでは涙が止められなかった。

この映画でも描かれているけれど、時に善意の行いでさえ人を傷つけるのがLGBTQの問題の根深さだ。僕自身も古い価値観の中で生きてきたので、差別する気持ちはないつもりでも、まだ全てが当たり前のこととしてフラットに受け止められているとは思えない。だからこの映画のような機会があれば、なるべく自分を晒して歪んだ常識を地ならししたいと思っている。大の男が映画館でめそめそ泣くなんて恥ずかしいと、明るくなった劇場で焦っているようではまだまだ修行が足りないのだ。

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