飢饉、腐敗政治、最後は爆死……知られざる大塩平八郎の乱の真実。『泣ける日本史』
「大塩平八郎の乱」。有名な事件ですが、「なぜ反乱を起こしたのか」「なぜそれが教科書に載っているのか」を知っている人は少ないかもしれません。悪人のイメージをお持ちの方も多いかもしれませんが、実は飢饉で困窮する人々のために権力に反旗を翻した人物でした。飢える人や腐敗する政治を見て見ぬふりができずに私財をなげうち、最後には命をも懸けて決起しました。そんな大塩と、不器用な父を支えた息子の物語を、新刊『泣ける日本史 教科書に残らないけど心に残る歴史』(真山知幸著)からお届けします。
庶民の生活に関心がなかった幕末の役人たち
江戸時代後期、天保4(1833)年から天保7(1836)年にかけて、未曽有の大飢饉が起きた。「天保(てんぽう)の大飢饉」である。
大飢饉の影響が日本全土に波及するなか、大坂の町で、背を丸くして歩く一人の青年の姿があった。
「また、聞き入れてもらえなかった……」
そうつぶやくのは、大坂西町奉行所から追い返された、格之助である。とぼとぼと帰路につきながらも浮かんでくるのは、義父、大塩平八郎の怒りに満ちた表情だ。
さきほどまで、格之助は平八郎が考えた飢饉対策を、大坂東町奉行所の跡部山城守良弼(あとべやましろのかみよしすけ)に訴えていた。しかし、今回も全く聞く耳を持ってもらえなかった。
「前任の矢部様であれば……」
跡部の前任者は矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだのり)といい、平八郎のことをよく理解し、意見にも耳を傾けてくれた。矢部は飢饉対策のために、豪商から義援金を集めさせたが、それも平八郎のアイデアである。
当時、大坂町奉行は東西に二カ所あり、それぞれ一人ずつの奉行が江戸から派遣された。そして奉行の下に、現場で仕事をする「与力(よりき)・同心(どうしん)」といった役人たちが配置される。同心は与力より下級の立場であり、与力は地元に根差した役人として、現場を取り仕切る存在だった。
平八郎は37歳まで東町奉行で「与力」を務めていた。矢部は元与力である平八郎の経験をうまく自分の政策に取り入れてくれたものだった。
「大塩平八郎という元与力の意見をよく聞いてみてくれ」
実は、引継ぎの際に、前任者の矢部はそんな申し送りを行っていた。だが、跡部はそれを完全に黙殺し、平八郎の意見をことごとく無視した。
そんな経緯は誰も知る由もないが、自分が跡部に軽んじられていることくらいは、平八郎もわかっている。だからこそ、こうして養子である格之助を通じて、飢饉対策を訴えているのだが、毎回、ろくな返事がない。
跡部の対応を思い返しては、腹が立ってくるばかりだ。一つ深呼吸をして心を落ち着かせてから、格之助は私塾の洗心洞(せんしんどう)へと戻ってきた。
平八郎は奉行所を辞してから、この洗心洞での教育に専念している。午前二時に起床して、執筆や武芸の稽古などを行ったのち、朝の5時から門弟たちに講義をする。これが平八郎の日課である。夕方には就寝するため、昼下がりの今は、平八郎にとっては一日の終わりに等しい時間帯だった。
どう話すべきだろうか。何しろ、今回は理由さえ伝えられず、却下されている。ありのままを伝えてもいいが、怒りのあまりに何かをしでかしそうな迫力が、最近の平八郎にはあった。
私財を投じて人を助けた平八郎
悩みながら格之助が帰った途端に、平八郎は微笑んだ。
「わかっておる、そんな顔をするな」
話すまでもなく表情で伝わってしまったらしい。
子どもができなかった平八郎のもとに、格之助が養子に入ったのは、15歳のときのこと。ちょうど10年前である。平八郎と格之助の仲の良さは近所でも評判で、誰もが「実の親子のようだ」と声をそろえたほどである。
「(なんでもお見通しってわけか……)」
跡部のひどい対応を口にせずに済んでほっとした格之助だったが、格之助もまた平八郎のことはよくわかっている。
だからこそ思う。この穏やかさは妙だ、と。
仕事に戻ったのか、何やら熱心に書き続けている平八郎の姿に、格之助は不穏な気持ちになりながらも、それを口に出せずにいた。そもそも、部屋の様子がおかしいと、格之助は気づく。周囲を見回して、違和感の正体を見つけると、思わず叫んだ。
「父上、本はいったいどうなされたのですか! ここに大量にあったはずの蔵書がごっそりと……」
平八郎は表情を変えずに、書き物を続けながら言った。
「すべて本屋に売り払った。今、門下生に札を配らせている。あの札を本屋にもっていけば、金になる。みんなそれぞれ、米二升ほどなら買えるはずだ」
飢饉で米の価格が高騰して、庶民には米がなかなか手に入らなかった。
「(みなを救済するために、父上はご自分の宝を……)」
格之助は涙を堪えながら、ふと平八郎が書いているものに目をとめた。それは檄文(げきぶん)だった。
「天下万民に困窮を強いるようなことがあれば、天が与えた幸運は永久に途絶えるであろう。小人どもに国を治めさせておけば、災害が次々と生じてしまう」
これ以上、民を困窮させるわけにはいかない。平八郎の思いは、いつも民衆とともにあった。檄文は、さらにこう続いている。
「ここ245年の太平の間に、上の者たちは贅沢三昧でおごり、役人は公然と賄賂を受けとっている。私腹を肥やし、民や百姓に過分の用金を申しつけている。我々はもう堪忍できない──」
父上は幕府と戦うつもりだ……格之助は慌てて言った。
「くれぐれも早まった真似はおやめください。母上も心配されます。私がもう一度、奉行所に参って、必ず説得してきます」
平八郎は書き物を続けながら、静かに口を開いた。
「格之助、この大飢饉のなか、大坂の米は江戸にまわされているそうだ」
「え……それは一体なにゆえに」
「新将軍となる家慶(いえよし)様の、将軍宣下(せんげ)の儀式の費用を捻出するためとのことだ」
「そんなバカな!」
しかし、それで合点がいった。今日は全く話を聞いてくれないはずだ。跡部は新しい将軍への機嫌取りのことで頭がいっぱいで、はなから庶民の暮らしなど見てはいないのだ。
「格之助、わしはもう限界だ。見て見ぬふりなどできない」
もはや格之助は止めることができなかった。母上のことだけが気がかりだったが、平八郎はすでに覚悟を決めていた。
「家内にはすでに離縁状を渡してある。迷惑はかけたくない」
平八郎は二千字を超える檄文を書き上げると、それを刷って、摂津、河内、和泉、播磨などの村役人に送った。ともに立ち上がってもらうためだ。
決戦の準備と、幕府への告発状
年が明けて、天保8(1837)年の正月。門下生たちが洗心洞に集まっていた。
「諸君、これから私につき従ってほしい」
平八郎がそう呼びかけると、一枚の書状が回された。連判状である。
神妙な顔つきの門下生たちに平八郎はただ「血判を押してほしい」というだけで詳細の説明はしない。そのことが、格之助には不安だった。
「格之助には、話しておきたいことがある」
そう切り出すと、平八郎は、格之助に紙束を手渡した。門下生たちの姿はもうすでにない。それは3通の報告書であり、老中首座の大久保忠真(おおくぼただざね)、水戸家当主の水戸斉昭(みとなりあき)、大学頭の林述斎(はやしじゅっさい)にあてられたものだ。
「……告発状ですか」
中身を読むと、幕府の官僚がいかに腐敗にまみれているかが暴露されている。平八郎が与力だったころに、独自に調査し、つかんでいた情報である。
「これから、わしは自分の命をかけて、跡部に立ち向かう。だが……」
平八郎はふいに立ち上がり、天井を見上げながら言った。
「すべては幕府を良くしたいがためのこと。この報告書を読んでもらえば、わしが決して逆心を抱いているわけではないと、わかってもらえるはずだ」
ああ、父上は幕府への思いが誰よりも強いがゆえに、今の状態が許せないのだ。それは、叶わぬ片恋のごとくで、格之助は胸が締め付けられる思いがした。もう止められない。だけれども、一緒にいることはできる。
「はい、きっとこれをご覧になれば、これから父上がなさることの真意に、江戸城の上役たちも気づかされることでしょう」
平八郎は満足そうにうなずくと、武装隆起のための準備を手ばやく進めていく。大筒の弾丸や棒火矢(ぼうびや)、焙烙玉(ほうろくだま)など火薬を用いた兵器を、門下生たちとともに製造する。
武器を買い付けるにあたっては「石材を運ぶため」と理由を話し、外から見えない部屋に武器を入れた。かつて蔵書で埋まった洗心洞は、武器の倉庫と化しつつあった。
「すべて準備は整った。あとは決行するのみだ」
平八郎の力強い言葉に、格之助も腹をくくる。これは正義の戦いだ。何もかもがうまくいく……。
そんなふうに言い聞かせたが、それは計画を立てているときだけに味わうことができる、ほんのひと時の甘美な時間でしかなかった。
狂いだした計画
「火が上がったぞー!」
大坂の町でそんな叫び声が上がったのは、天保8(1837)年2月19日の早朝のことだ。最初に火が放たれたのは、平八郎の屋敷である。
平八郎は、集まった約100名の門下生に自分の屋敷に火をつけさせた。もはや ここには戻らない。そんな決意の表れでもあった。
たちまち火は平八郎の屋敷を包んでいく。格之助は後ろを振り返らない。ただ、平八郎とともに進軍していく。
次なる標的は、平八郎のかつての同僚で、大坂東町奉行所の与力、朝岡助之丞(あさおかすけのじょう)の屋敷である。
「みな、打てー!」
火矢が放たれ、大砲が撃ち込まれる。火の海のなか、平八郎と格之助は門下生たちを率いて、難波橋を渡る。いつの間にか軍勢は300人にも膨れ上がっていた。
必死に平八郎と並走しながら、格之助は唇をかむ。
「くそっ、裏切り者さえ出なければ……」
実のところ、入念に建てられた計画はすでに破綻していた。本来ならば、七つ時、つまり、午後の4時ともっと遅い時間に襲撃するはずだった。その時間になれば、一番の標的である跡部が朝岡助之丞の屋敷で休憩するとわかっていたからだ。そこに大砲を撃ちこんで、二人を爆死させたうえで出撃する、そんな予定だった。
ところが、決起直前になって裏切り者が現れて、東町奉行の跡部に密告されてしまったのだ。急遽、朝の8時に出撃時間を早めての決行となった。
「襲撃せよ!」
そんな計画の狂いなど感じさせないほど、平八郎は着々と実行に移していく。川を渡ると、立ち並ぶ商家を襲撃して、米俵や金銀を奪う。それを貧しき者たちで分けるということになっていた。
ところが、である。
「おい、待て! 勝手なことをするな!」
格之助が制止するのもきかず、軍勢の多くは商家を襲撃して得たものを、めいめいで略奪。金銀を奪って、その場から逃げ去っていく。
「父上、これではまるで……」
ただの火事場泥棒である。
平八郎はどこか達観した表情でそれを見つめるのみだった。
やがて、大坂城から出陣してきた幕府の鉄砲隊が到着すると、軍勢は散り散りになっていく。軍勢の多くは、初めから幕府と戦う気などなかったのだ。
反乱軍はたった半日で鎮圧されてしまった。火の手は強風にあおられて、大坂の5分の1 に当たる二万戸の家屋を焼きつくす。「大塩焼け」と呼ばれる大火災だ。
平八郎はみなのために立ち上がったが、行動をともにした軍勢はみな、それぞれ自分の生活のことしか考えてはいなかったのである。
「……格之助、行くぞ」
格之助は平八郎とともに走った。火が燃え盛る町の中をただ、ひたすら走る。ついていく、どこまでも。このただただ不器用で真っ直ぐな父親に……。
幕府衰退の種となった、大塩平八郎の乱
「見つけたぞ!」
40日あまり潜伏活動を続けていた平八郎と格之助。ついに、大坂城代の土井利位(どいとしつら)に居場所を突き止められてしまう。
「格之助、すまなかった。よき父ではなかったな」
「父上、あなたと過ごした時ほどの幸せはありませんでした」
ありがとう、と二人がともに口にした瞬間、爆発音とともに、突風が巻き起こる。そのあとには、爆薬を抱えて自決した、二人の死体が残されるのみだった。
こうして「大塩平八郎の乱」はあっけなく終焉を迎える。平八郎が書いた3通の告発状に至っては、取り次いだ役人に握りつぶされてしまった。
それでも、平八郎の激情は無駄になったわけではない。越後国では、国学者の生田万(いくたよろず)が柏崎の代官所を襲撃。「大塩残党」を名乗って、生田万の乱を起こしている。
そのほか、摂津能勢(現在の大阪府)の山田屋大助による百姓一揆や、備後三原(現在の広島県)の一揆もまた平八郎に大きな影響を受けて、みなが立ち上がった結果である。
平八郎の魂は各地に受け継がれて、やがて江戸幕府は衰退の一途をたどることになった。