見出し画像

【本】ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」感想・レビュー・解説

メチャクチャ面白い本だった!

まずそもそも、「タコに脳(=高度な神経系)が存在する」という事実を知らなかった。本書の存在は昔から知っていちゃけど、「タコの心身問題」というタイトルは、「哲学的な比喩」だとばかり思っていたのだ。僕はこの言葉を、「タコには脳はないけど、脳があると考えた時にどうなるか考えてみよう」という哲学的な命題だと思いこんでいた。

だから、タコに脳(高度な神経系)がある、という事実にまず驚かされた。

【頭足類は、無脊椎動物の海に浮かぶ孤島のような存在である。他に彼らのような複雑な内面を持つ無脊椎の生物は見当たらない】

と書かれているように、基本的に脳を持つのは脊椎動物だ。無脊椎動物で唯一、タコやイカなどの頭足類が、脳(高度な神経系)を持つ。

つまり、脊椎動物の脳の進化とはまったく別系統で、脳(高度な神経系)が進化した、ということだ。

この点に関しては、本書のかなり後半で、さらに驚くべきことが書かれていた。

「タコとイカは、独立で脳(高度な神経系)を進化させた」

ご存知のように、タコは8本足、イカは10本足であり、同じ頭足類だが別の生き物である。つまり、どこかのタイミングでタコとイカは分岐した。

「頭足類が脳(高度な神経系)を進化させた」と聞くと、誰もが大体こうイメージするだろう。タコとイカの共通の祖先が既に脳(高度な神経系)を発達させており、そこからタコとイカに分岐したのだ、と。

しかし、近年のDNAによる研究で、これは覆されているという。事実は、「タコとイカにまず分岐し、その後それぞれが独自に脳(高度な神経系)」を進化させた、というのだ。

【この事実は、頭足類が複雑な神経系を持つよう進化したのは単なる「偶然」ではないことを示唆する。単なる偶然であれば、何度も起きる可能性は低いからだ】

確かにその通りだ。しかし、頭足類が脳(高度な神経系)を発達させたのは、一見すると不思議である。何故なら頭足類は「単独行動を好み」「寿命が短い」からだ。

社会生活が複雑な場合、脳(高度な神経系)を進化させる必然性は理解しやすいが、頭足類は基本的に単独行動を好み、そこに社会生活があるようには思えない。また頭足類は2年ほどしか生きられないという。仮に頭足類に高度な知性があるとしても、たった2年しか生きられないのであれば、高度な知性を持っている意味があまりない。

脳(高度な神経系)というのは、異常にエネルギーを食う。

【私たち人間は、エネルギーの大半を食物から得ているが、そのエネルギーの四分の一近くを、ただ脳の正常な活動を維持するためだけに消費している。人間意外の動物でも、神経系がコスト高な機械であることは同じだ】

にも関わらず、頭足類には無用な脳(高度な神経系)が発達したのは何故か。これは確かに疑問である。

本書では、この辺りの疑問にも丁寧な論証で現時点での答えを提示する。それをここで詳しく書くことはしないが、

「頭足類は、かつて持っていた殻を捨てることで、身体の形を無限に変えることができるようになったが、そのような身体を制御するために高度な神経系を持つ必要があった」

ということになるようだ。

さて、この話とも関係するが、僕はここまで『脳(高度な神経系)』という表現をしてきた。これにはちゃんと意味がある。

【さらに面白いことに、頭足類の神経系全体を見ると脳の中にあるのはごく一部にすぎない。頭足類の神経系では、重要な部分が身体のあちこちに分散している。たとえば、タコの場合、ニューロンの多くが腕に集中している。腕にあるニューロンの数は、合計すると脳にある数の二倍近くになる】

神経系が知性を生むと考えられているが、頭足類の場合、その神経系は脳だけに集中しているわけではない、ということだ。だから『脳(高度な神経系)』という表記にしている。

ちなみに、頭足類の脳には、こんな衝撃的な特徴もある。

【私たちから見て興味深いのは、口から入った食物を体内へと運ぶ管である食道が、頭足類の場合は脳の中央を貫いているということだ。その位置関係はあまりにもおかしいように私たちには思える】

うまく想像できないが、確かにヤバそうではある。例えば食道を何か尖ったものが通る場合、うっかりするとそれが脳に刺さってしまうことがあるわけだ。恐ろしい。しかし、頭足類の場合は神経系が脳だけに集中しているわけではないらしいので問題はないのかもしれない(としても、脳を食道が貫いている必然性があるとは思えないが)。

このように、脊椎動物の神経系と頭足類の神経系はまったく異なっている。

本書では「オーケストラの指揮者」と「ジャズバンドのプレイヤー」の喩えが登場する。かつて脊椎動物の脳は「オーケストラの指揮者」のように考えられていた。脳こそがすべての司令塔であり、他の器官は脳の指示に従って動く、というわけだ。

しかしこの見方は徐々に薄れているという。代わりに、「ジャズバンドの一プレイヤー」という見方をされるようになる。脳は決して司令塔なのではなく、自身も他のメンバーと一緒に演奏するプレイヤーの一人だ、というわけだ。脊椎動物の脳の場合この見方をイメージするのは難しいが、頭足類では簡単だ。頭足類の場合、脳だけではなく腕にもある。これは、腕は腕だけの意思で動くことが可能だ、ということだ。本書では、この状況をこんな風に描像している。

【しかし、あなたがタコになったとしたら、この境界は曖昧になる。自分の腕であっても、思いどおりに制御するのは途中までで、そのあとは腕が何かするかただ見ていることになるのだ】

著者はこの文章のすぐ後で、【だが、このたとえ話は本当に正しいのだろうか】と疑問を呈し、この見方が正しくないことを示唆するのだが、この表現は、イメージしやすくなるだろうと思って紹介した。

著者は哲学者だが、タコについてかなり研究してきた。何故かタコが集まる「オクトポリス」という場所を複数の研究者と定点観測しており、そこでタコの生態について詳しい観察を行ってもいる。

【私たち人類とはまったく違う道筋を通って進化してきたにもかかわらず、高度に発達した神経系を持つにいたったのだ】

とあるように、人間とタコの脳はまったく違う。しかしその一方で著者は、

【私は、タコがそうした認知能力を持っているのは驚くべきことだと思う。その能力はあまりに私たちに似ていて、あまりに人間らしい。それに私は驚かされる】

と実感を込めて書いている。

具体的には本書を読んでほしいが、タコは「餌ではないとわかっているものにも興味を示す」「人間を一人一人識別する」「イタズラが好きな個体もいる」「人間の睡眠に近い行動も取る」など、著者は様々な驚きを本書の中で語っている。

【頭足類を見ていると、「心がある」と感じられる。心が通じ合ったように思えることもある。それは何も、私たちが歴史を共有しているからではない。進化的には互いにまったく遠い存在である私たちがそうなれるのは、進化が、まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくったからだ。頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう】

この「地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう」について、訳者があとがきで興味深いことを書いている。

本書の原題は「Other Minds」である。「mind」という単語に関しても注意書きがあるので、それは後に触れるが、まず注目すべきは「minds」と複数形になっている点だ。訳者はこんな風に書いている。

【だが、本書では、仮にサルやイヌなど人間以外の哺乳類に心があったとしても、それを”other minds”とは呼ばない。彼らの心はどちらかといえば、私たちのものと同種のものとみなす。区別する基準は何かといえば、「進化」だ】

「minds」と複数形になっていることで、「脊椎動物と頭足類の『mind』は別種のものだ」ということを示しているのだという。これは、英語ネイティブではない人間には、説明してもらわなければ理解できない部分だ。地球外の知的生命体と出会えば「minds」と複数形になるだろうが、それは頭足類に対しても同じである、ということだ。非常に興味深い。

また「mind」という英単語については、本書の冒頭に注意書きがある。少し長いが抜き出してみよう。

【この本の性格上、「心」に関連するいくつかの重要語が頻出するが、日本語訳にあたっては原則的に、原文のmindに「心」、intelligenceに「知性」、consciousnessに「意識」という訳語を当てて訳し分けている。しかし英語のmindと日本語の「心」は指している意味領域が都合よく一致してはいないので、読者には次のことに留意していただきたい。
英語のmindは、心の諸機能の中でも特に思考/記憶/認識といった、人間であれば主として“頭脳”に結び付けられるような精神活動をひとくくりに想起させる言葉である。したがって本書で著者が「心」と言うときには、つねにそのような意味合いで語られている。(そして頭足類の場合、その種の心の機能が必ずしも“頭脳”だけに結びつくとは限らないことが、本書の興味深いテーマの一つとなっている)】

なるほど、これも英語ネイティブでないと、説明してもらわなければ分からない部分だろう。

本書には、生命が誕生してからの進化についてもざっと概説されている。「カンブリア紀爆発」と呼ばれるように、カンブリア紀に生命が一気に多様化したとされており、従来ではそれ以前は生命活動は活発ではなかったと考えられていたのだが、1946年にオーストラリアの地質学者であるスプリッグが偶然発見した化石から、カンブリア紀以前にも生命が多様だったことが明らかになった。エディアカラ紀と呼ばれるようになったその時代にどんなことが起こったと推測されているのかも描かれている。

また、生命が外界の情報を取り入れる機能(目」など)を発達させたのは、カンブリア紀爆発が要因だという。エディアカラ紀には、たくさん生命はいたが、食料も偏在しており、生命は自分の周囲にある餌を食べるだけで十分で、外界の情報を取り入れる必然性がなかった。しかしカンブリア紀に、食うか食われるかという生命同士のやり取りが活発になったことで、外界の情報を取り入れ処理する必然性が生まれ、そこから、それらを処理するための神経系が発達した、と考えられている。

などなど、頭足類に限らず面白い話題は多々ある。また、本職が哲学者らしく、哲学的な論考も展開される。「ヒトの心と他の動物の心」と題された章では、「言語と知性」の関係について論じられるが、この章は僕にはなかなか難しかった。

さて最後に、頭足類の話とは関係ないが、非常に興味深いと感じた話に触れて終わろうと思う。

それは、「なぜ生命に寿命が存在するのか」という話だ。僕は、本書で書かれている説を知らなかった。

それまで僕は、「種のDNAを多様に保つために、古いDNAは朽ちなければならない」という説明で納得していた。しかし本書には、まったく別の理屈が説明されていた。しかもこの理屈は、1960年代にはある天才進化生物学者によって、数式で表現されているのだという。凄いな。

ちょっと細々した説明を要する説なので、ここではざっと書くに留めるが、要約すると以下のようになる。

「生命には様々な突然変異が起こる。中には、『長く生きた個体にだけ影響をもたらす突然変異(これを「A変異」と呼ぼう)』もある。様々な要因について長期的な検討を加えると、『いずれすべての個体が「A変異」を持つ』ことになる。この「A変異」が「老化」のような状態だとすれば、「老化」の原因は説明できる。つまり、『あらかじめ時限爆弾のようにセットされた変異が、時間がやってきたから発動しただけだ』と考えるのだ」

この考え方は初めて知ったし、非常に納得感があると感じた。なるほど、今まで聞いたどの「老化」の説明より理解できる。

もしこの説が正しいとするなら、理論的には、「人体から『A変異』を取り除くことができれば、老化せずに永遠に生きられる」ということになるかもしれない。原因となる遺伝子が特定できているなら、それを取り除く技術は既に存在する。複数遺伝子による協働によって発動するなら難しいかもしれないが、1遺伝子の変異によって起こることであるなら除去は可能だ。

僕自身は不老不死はまったく望まないが、「A変異を取り除くことで不老不死が実現される」という世界が実現するなら、それは見てみたいと思う。


ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」


サポートいただけると励みになります!