【映画】「僕が跳びはねる理由」感想

この映画の原作となった、東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』は、読んでいない。しかし、「重度の自閉症児でありながらコミュニケーションの方法を確立し大学に入学した子」や「重度の自閉症児でありながら大学で相対性理論について研究している子」(共に外国の例)を本で読んだことがあるので、ごく一般的な人よりは、自閉症に対する知識はあるつもりだ。

【突然飛び跳ねたり暴れたりする自閉症児は、悪魔と結び付けられやすかった】
【20世紀前半まで、自閉症児は知能が劣ると思われていた】

僕も、前述したような本を読むまでは、申し訳ないけれども「自閉症児=知恵遅れ」のような印象を持っていた。知能に遅れがあったり、認知機能に障害があるのだろう、と。

しかし、決してそうではない。そのことを、13歳の東田直樹は鮮やかに証明してみせた。

【自閉症児の口から出る言葉は、本心ではない。それは反射のようなものだ】

東田直樹はこう書いている。これを僕なりに解釈して説明したいと思う。

「反射」をイメージするには、例えば「ドッキリを仕掛けられて驚く」というのがあるだろう。これもまあ人によるかもしれないが、大抵の人は、何か驚かされるような行為をされた場合に「わっ!」と声を上げてしまうものだろと思う。

ではここで、「驚かせた時、『わっ!』って声を上げないでくださいね」と言われたらどうだろうか?どれだけ我慢しようとしても、「わっ!」と声が出てしまうのは「反射」なのだから、自分の意思では制御できないだろう。

と同じような状態に陥っているのが、自閉症児だ。

【何か話そうとすると、言葉はすぐに消えてしまう】
【その時見たものや思い出したことに反射している】

僕らが「驚かされた時に『わっ!』と声を上げるという反射行動を取ってしまう」のと同じように、彼らは「喋ろうとする時に、その時見たものや思い出したことを口にするという反射行動を取ってしまう」のだ。

【言いたいことが言えない生活を、想像できますか?】

かつて専門家を含めほとんどの人(一部の親は違ったかもしれない)は、自閉症児は知能が劣っていると考えていた。だからコミュニケーションが取れないのだ、と。しかしそうではない。彼らは、肉体の内側に様々な感情や言葉を持っている。しかし、それを出力する方法が分からない。

以前読んだ、自閉症児が書いた本には、その状況は「地獄だ」と書かれていた。自分だけが、自分にはまともな知能があると信じている世界。自分以外の全員が、自分のことを知恵遅れだと見ている世界。確かにそれは、地獄以外の何物でもないだろう。

【直樹の本を読んで、娘の苦労を知った。正しい母親であろうとするあまり、我が子を見ていなかった】
【かつて息子に、何故こんなことをするんだと何度も聞いた。この本には、その答えが書かれていた。この本は僕にとって、未知の国からの使者だ】

この映画は、実在する自閉症児を映し出すドキュメンタリーのような構成になっている。「ような」と書いたのは、ドキュメンタリーではない部分もあるからだ。日本人らしい少年(エンドロールには「JIM FUJIWARA」と表記されていた)が優美な映像世界の中を駆け回るような描写が、随所に挿入される。ドキュメンタリーを核としながら、東田直樹を連想させる少年をフィクションとして差し込む造りになっている。

そして全員ではないが、東田直樹の本を読んだことで、自閉症児の世界を理解できるようになった、という発言をしている。先程引用した二番目の発言(【かつて息子に~】の方)は、東田直樹の本を英訳し、世界に発信するきっかけとなった人物のものだ。彼の息子も、自閉症児だという。また、この映画のプロデューサーの息子も自閉症児だが、英訳された東田直樹の本がプロデューサーの目に留まったことでこの映画が生まれることとなった。

映画に登場する自閉症児とその家族は、こういう表現が適切かどうかは分からないが、恵まれた環境で生きていると言える。自閉症児に対する偏見がまだまだ根強い中で、子供を手放す選択をする者もいる中で、この映画に登場する家族は子供を理解しようと奮闘する。

中には、こんな発言をする人物もいた。

【ジェスティナが僕を親にしてくれたし、我々の人生観さえ変えてくれたんだ】

自閉症児を育てるという経験の中で、物の見方や価値観が変わった、ということだろう。そういうポジティブな捉え方が出来る人は、素晴らしいと思う。

この映画には、東田直樹の原作の文章はナレーションとして随時挿入されていく。その東田直樹自身の言葉にも、こんなものがある。

【ずっとみんなと同じように生きられたらいいのにな、と思っていました。でも今は、もし自閉症が治るとしても、今の自分を選ぶかもしれません。僕は自閉症が普通だと思っているから、みんなの普通が分からないし、どっちでもいいのかもしれません】

まったく凄いものだ。もし僕が自閉症だったとしたら、永遠にそんな境地にはたどり着けないだろう。

それどころか、こんなふうにも言っている。

【僕たちはきっと、文明の支配の外に生まれた。多くの命を殺し地球を破壊してきた人類に、大切な何かを思い出してもらうために。】

痺れるなぁ。もちろん、自閉症に限らず障害を持つすべての人に言いたいのだけど、誰もがこんな強く生きなければならないと思ってなんか全然ない。東田直樹は、特殊例だと思う。だから僕は、特殊例として東田直樹を絶賛したい。凄いよ、あんた。

映画では、自閉症児がどのように世界を捉えているのかも語られる。例えば、僕らは普通全体を見てから部分を捉えるように意識を向けると思うが、自閉症児はまず部分が目に入り、その後視野が広がっていくようにして全体を捉えるのだという。印象的な色や形が視界に入ると囚われてしまい他のことを考えられなくなるとか、繰り返しの行動は安心をもたらすなど、彼らの感覚が語られる。

そして映画の映像は、観ている人にそういう感覚を実感させるような造りになっている。場面の一部だけにフォーカスしてしまうがために、それが一体何を写しているのか分からない映像などが出てくる。言葉ではなかなかイメージしにくい「自閉症児が捉えている世界」を出来るだけ視覚的に体感してもらいたい、という意図がおそらくあるのだろうと思う。

【みんなはおそらく、自然を見てその美しさに惹かれるのだと思う。僕の場合は違う。どれだけ否定されても、自然だけは僕を抱きしめてくれる。自然を見ていると、この世界で生きていていいと感じられる】

映画は自閉症児の話だが、「この世界で生きていていいと感じられる」という言葉は、病気や障害であるかどうかに関係なく「生きづらさ」を抱えるすべての人に届く言葉だと思う。

【人として満足に生きられるのか、ずっと不安だった】

生きていくことの難しさと向き合うという意味でも、観るべき映画だと思う。

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