【映画】「FLEE フリー」感想・レビュー・解説

正直に言うと、あまり面白くなかった。
そして、その感想は「良くない」と感じる。
この映画を観て、「自分の『世界の捉え方』」について色々と考えさせられた。

映画の冒頭で、

【これは実話である。(This is a true story.)】

と表示される。この「This is a true story.」英語は、映画にはあまり表記されない。僕が観ている映画の多くは、「事実に基づく。(Based on a true story.)」でることの方が多いからだ。

もちろんこの映画は、主人公であるアミンの証言によって成り立っている。彼の証言がすべて事実であるか、取材などで確かめたわけではないだろう。つまりここでいう「実話」とは、「『そういうことが本当にあった』と客観的に確定している」という意味ではなく、「『アミンが語ったこと』をそのまま作品にしている」という意味で受け取るべきだろう。もちろん僕は、アミンの話を疑っているとかではまったくなく、彼の話を全面的に事実だと信じている(ただ、身元が明らかにならないよう適宜脚色が加えられているので、この映画のすべてが事実ではないことも理解している)。

さてその上で、こんな風に感じてしまった。アミンが経験した出来事は、決して彼に特有なものではなく、同じような経験をしている人はたくさんいるのだろう、と。

そしてこの感覚が、僕に2つの感情を呼び込むことになる。1つは、「同じ経験をしている人がたくさんいるはずの出来事だからこそ、この現実を社会は広く知るべきだし、世界をより良い方向に変えるために全員でなにかすべきだ」ということ。そしてもう1つは、「同じような経験をしているはずの出来事だからこそ、物語としてはさほど面白くはない」ということだ。

僕の中で、この2つの感覚に折り合いをつけることはなかなか難しい。やはり、「全員でなにかすべきだ」という「ちょっと遠く感じられてしまう選択肢」よりも、「さほど面白くはない」という自分の感覚が強く優先されてしまうからだ。

僕たちは、「刺激まみれの社会」に生きていると言っていい。それが実話であれ物語であれ、映画でも小説でもなんでも、様々に刺激的な出来事を知ったり体験できたりする。それ自体は、とても素晴らしいことだ。

しかし、刺激に慣れれば慣れるほど、もっと強い刺激を欲してしまう。自分でもやはり、「こんな現実が存在したのか!」と感じる実話や、「そんな伏線回収があり得るのか!」と感じる物語に、やはり心躍ってしまう。

しかし一方で、「こんな現実が存在したのか!」と驚かされる事実は、ある意味で「ほとんど起こらない」「稀にしか存在しない」からこそ驚きを与えるのだ。そしてそうだとするなら、そのような「稀な現実」を多くの人が知ったところで、世界は劇的に変わらない。

一方、アミンが語る物語は、世界中かなり多くの人に当てはまる現実だと思う。すべてアミンと同じという人はもちろんいないにせよ、アミンが経験した様々な出来事をそれぞれ経験したことがあるという人は、過去から現代に至るまで世界中に数多く存在するはずだ。そしてそういう現実こそ、僕たちは知り、広め、声を上げていかなければならないと、頭の片隅では確かにそう感じている。

しかし同時に、自分の中でそれが「欺瞞だ」という感覚も覚えてしまう。自分で分かる。僕がこの物語に感動していないことが。心打たれていないことが。それは、頭では「良くないこと」だと理解しているが、やはり思考より感覚の方が強い。

以前本で読んだエピソードを思い出した。『子どもと貧困』(朝日新聞取材班)で取り上げられていたあるテレビディレクターがこんな話をしていた。社会全体の問題提起をしようと思って、ある個人の実例を取り上げたドキュメンタリーを制作しても、「テレビで取り上げられていたその人を支援したい」という声ばかり上がるという。個人の物語を通じて、これは社会全体の問題であると認識してほしいのだが、なかなかそうは捉えてもらえず、「目の前の困りごと」だけに焦点が当てられてしまう、と。

その本を読んだ時には、「なんてアホな世の中なんだ」と思っていたのだが、この映画を観終えた僕が感じていることも、似たようなことだと感じている。「心が動いたものに手を差し伸べたい」という感覚は共通だからだ。本来的には、「自分の心が動くかどうかに関係なく、客観的な深刻度や対策を取った場合の影響度などによって判断すべきだ」と頭では分かっているのだが、なかなかそうはいかない。自分の中でどう折り合いをつけるべきか、映画を観ながらずっと考えさせられた。

また、この映画からもう1つ痛いところを衝かれたと感じる点があった。それは、アミンのこんな言葉に関係している。

【多くの人には想像もつかないだろう。脱出が与える影響を。どれほど心を壊してしまうのかということを。】

僕は普段から、「目に見えるものだけで”しか”物事を判断できない」という状況に対して苛立ちを覚えている。目に見えるものがどんなものであっても、見えない部分に思いがけない何かがあるかもしれない、という視点を常に忘れないでいるつもりだ。これまでにも、「いつも笑顔で楽しそうでリア充にしか見えないような人」が実は心の内に辛く苦しい部分を抱えているということを何度も経験してきているので、「目に見えるものだけ」で物事を判断しないように意識しているつもりだった。

ただ、先のアミンのセリフはまさに、「外から私のことを見てもなかなかその辛さは分からないだろうけど、私の心はズタボロに壊れているんだ」と言っているのだし、この映画を「面白くなかった」と言っている僕は、目では見えないアミンの本当の辛さに思い至れていない、ということになる。

もちろん、アミンと同じ経験をしていない人間がその辛さを本当に理解できるはずもない。そのことは十分に理解した上で、しかしやはり「もっとその辛さを分かろうとするべきだ」と感じる。しかし「分かろうとするべきだ」と感じている時点で本当の理解には程遠いとも言える。

いずれにしても、「自分の感覚」と「自分の思考」が乖離してしまい、そのことにもどかしさを感じる。僕はどうしても、この映画を「面白い」と感じられない。そしてそのことは、「本来的には優先して解決されるべき問題に対して、僕の心はあまり動かない」という事実を示している。そしてそんな自分の状態に対して「良くない」と感じてしまうのだ。

Filmarksの感想をチラ見すると、評価が高いようでホッとする。この映画の評価は、高くあってほしい。多くの人が、この物語に心打たれてほしい。そうであればあるほど、アミンのような経験をする人が減る社会になるはずだから。

そんな風に願っている。

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