【映画】「流浪の月」感想・レビュー・解説

僕は、「目で見て分かること」に”しか”反応できない世界を日々軽蔑している。

「目に映ること」で”しか”語れない人に対して日々苛立ちを覚えている。

だから、毎日イライラしている。

【なんだか生き返ったみたい】

更紗は、映画の中で2度この言葉を口にする。どちらも、文と出会ってすぐのことだ。

僕は、更紗のこの言葉を、割と日常的に感じている。「なんだか生き返ったみたい」と感じさせてくれる経験によって、どうにかこの世界で息をし続けられている。

少なくとも、僕の周りには、そういう人は結構いる。

最近印象的だったのは、3年ぶりに連絡を取り合い話をした相手から、「久々に人間と喋った」と言ってもらえたことだ。僕も似たような感覚を持った。「人間と喋った」という感覚によってしか、僕は「生き返る」ことができない。

更紗もきっとそうだっただろう。

【文が知っている私のままじゃ、生きてこれなかったなー】

更紗は、誰とも話が通じない世界で、どうにか生き延びてきたのだ。

更紗が誰とも話が通じなかった理由ははっきりしている。それは、どこに行っても「被害者」としか見られないからだ。彼女は付き合っている相手に、

【亮くんが思ってるほど可哀想な子じゃないと思うよ】

と冗談っぽく言う。しかし、亮にはその言葉は理解できない。「更紗は被害者なのだから可哀想に決まっている」という見方しかできない。

世の中は、残念ながらそんな風に回っている。

【自分を好きだと言ってくれる人と付き合ったら、私のことをちゃんと見てくれるんじゃないかって思ってた。でも、人は見たいようにしか見てくれないのかもね】

「目に見えるものをどう解釈するか」が障害となることもあるが、それよりも問題なのは「目に見えないものはどう解釈してもいい」という判断だ。「いつも独りでいる」というのは目に見える。しかし、その理由は目には見えない。本当は「孤独を愛する人物」なのかもしれないのに、「友だちが出来ないから独りでいるんだ」と解釈される。

その想像力の無さに、僕は絶望的な気分になる。

僕は、更紗と文の関係が羨ましく感じられる。なぜなら、「『目で見て分かること』を乗り越えなければ関わり続けられない関係」だからだ。

「大学生の男」と「10歳の少女」という「目で見て分かる情報」からは、この2人の間に関係が生まれるとは普通判断されない。これは、「この2人の間に関係が生まれるべきではない」という主張ではない。法律や社会通念のことを無視したとしても、「大学生の男」と「10歳の少女」の間に結びつきが生まれるとはなかなか想像しにくい、という話をしている。

しかしそれは、絶対に起こらないことではないはずだ。性別が違っても、年齢がかけ離れていても、共通の趣味や関心が存在しなかったとしても、そんなこととは関係なしに、誰かと誰かの間には、予想もし得ない深い結び付きが生まれる可能性がある。

【2人のことを知って、吐きそうになった】

そう断罪されることは、本当に正しいのだろうか?

もちろん、「被害が出てからでは遅い」なんてことは分かっているし、「深い結びつきが生まれにくいと思われている関係性では、被害が生まれやすい」ということも理解している。だから、文の行為が「法律の世界で『誘拐』と判断される」という事情は受け入れるつもりだ。

しかしこの物語は、描かれているポイントが違う。「被害者」であるとされている更紗が、大人になってから自らの判断で文と関わることを決めているのだ。

それなのに何故「吐きそう」と言われなければならないのか。僕にはイマイチ理解できない。

この映画は、本屋大賞受賞作である同名タイトルの小説が原作だ。僕は原作小説を読んでいないのだが、この作品のざっくりとした内容がテレビで紹介された時から、折に触れて考えてしまうことがある。

もし自分の元に、未成年の子どもが「匿ってほしい」と言ってやってきたら、自分はどうするだろうか、と。原作小説を読んだわけでもないのに、僕は定期的にこの問いを頭の中で考え続けている。

とても難しい問いだ。ただ、僕の答えは毎回変わらない。僕はきっと、その状況で、その未成年の子どもを匿うだろう。発覚したら「誘拐犯」のレッテルを貼られることを理解した上で、きっとそうしてしまうと思う。

そうしなければきっと、未来の自分が後悔すると思うからだ。

ただ、その想像の中で、助けを求める未成年の子どもに僕は毎回同じ質問をする。それが、「君を匿うことで、僕は誘拐犯として逮捕されるけど、そのことに君は耐えられるか?」だ。

映画で描かれる人物は、それぞれの理由で深く傷ついていく。しかしやはり、一番しんどいのは更紗だろうと思う。

【もし文に会うことがあったら土下座して謝らなきゃと思ってた。
死ねって言われたら死のうと思ってた。】

更紗にとっては「運が良かった」としか言いようがないが、結果的に彼女は「生き返ったみたい」と感じるような出会いを果たした。しかし、自分が自分のままでいられるような相手と一緒にいることを、社会が許さないのだ。それでも「一緒にいたい」という気持ちを捨てきれない更紗は、結果として文の人生をおかしくしてしまう。

それは、とても残酷な現実だと思う。

文は誰も傷つけたいと思ってないし、更紗も文からは傷つけられたと思っていない。しかし世間は、「文は更紗を傷つけたし、更紗は文に傷つけられた」と捉えて、批判と同情を無遠慮に繰り出してくる。

この場合、加害者・被害者は結局誰なのだろうか? 僕は、文も更紗も「世間」という加害者による被害者なのだと思う。

映画の描き方で興味深い点は、どちら側も過剰に描き出すことで一般的な倫理観が逆転している点だ。

文と更紗は、映画で濃密に描かれるような深い事情を知らなければ、安易に批判にさらされる対象だと言える。しかし、恐らく映画を観た人は、「文も更紗も報われてほしい、良い人生であってほしい」と願うだろう。

一方、更紗の恋人である亮は、基本的なスタンスは「世間一般」を代表する存在だと思う。文と更紗に対する世間の印象を代弁する立場だと言っていいだろう。しかし亮は、その常軌を逸した行動により、映画を観る観客からは基本的に共感されないはずだ。

つまり、僕らが生きている社会で批判されるはずの人物が映画では共感を集め、社会で共感されるはずの人物が批判される、という構成になっているのである。

そして、そのような構成になっているからこそ、映画で突きつけられる刃は、観客一人ひとりにも向けられることになる。

観客の多くは亮の言動を拒絶したいと感じるだろう。しかし一方で、実生活では、程度こそ違えど多くの人が亮側にいるはずだ。週刊誌やネットニュースを見て、事情もよく知らないくせにあーだこーだと適当なことを口にする。その延長線上に、亮がいるのだ。

亮に対して嫌悪すればするほど、その嫌悪は自身に跳ね返ってくる。あからさまにそのような構成になっているので、観終わって気分がざわつく感覚を味わう人も多いのではないかと思う。

人は、自分が信じる正義が崩れる瞬間を経験したくはないものだ。しかしこの映画は、「文と更紗の関係を受け入れたい」という感覚をもたらす。2人にはどうにか幸せになってほしいと願ってしまうはずだ。しかしそう感じれば感じるほど、大なり小なり亮側の振る舞いをしてきた自身のこれまでの振る舞いの整合性が取れなくなっていく。

自分の正義が整合性を保つためには、文と更紗を嫌いにならなければならない。「吐きそう」と言わなければならない。しかしそれは出来ない。そのような葛藤に観客を叩き込む、ある種「不愉快に感情を揺さぶる作品」だと言っていいだろう。

法律が、文を「誘拐犯」とみなすことは仕方ない。しかしそれと同時に、文と更紗のような関係がどうにか成立する余地はないものか。

そのためにはきっと、多くの人が「目に見えること」だけで判断するやり方を改めなければならないだろう。そう考えると、「たぶん無理なんだろう」と思わされてしまう。

メインの3役を演じる広瀬すず・松坂桃李・横浜流星の演技は素晴らしかった。特に広瀬すずは、ちょっとした表情の変化や目線の動かし方で言葉にし難い感情を存分に浮き上がらせていたと思う。松坂桃李も、ほぼ表情を動かさない役でありながら、そこに独特の暖かみを醸し出す演技が素晴らしいと思うし、横浜流星の、狂気的なんだけど現実にいそうな感じのするヤバい奴っぷりも見事だった。

ただこの3人以上に惹かれたのが、更紗の子ども時代を演じた白鳥玉季だ。素晴らしかった。なんと言ったらいいのか分からないが、とにかく彼女の演技のお陰で、「更紗は被害者ではない」という物語の説得力が成立していると感じる。

文と更紗という、「普通には成立しないと判断される関係性」がリアルなものに感じられたのも恐らく彼女の演技あってのものだろうし、とにかく素晴らしかった。

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