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【本】野崎まど「タイタン」

とんでもない作品だった。
野崎まどは凄いと「know」の時に思っていたけど、僕が思っている以上の天才だった。
読みながらずっと、「よくこんなこと考えたな」という言葉が、脳内から離れなかった。

【僕より以前から存在して、僕はずっとそれをやっていて、そしてこれからもやっていきます。つまり仕事とは僕のようなもので、僕は仕事です】

「働きたくないなぁ」と、僕も思うことがあるし、そう言っている人の発言を耳にすることもある。確かに、そう思う。「働きたくないなぁ」と思う。そう思う自分は間違いなくいるし、そう思う感覚は100%理解できる。

でも、ふと自分がそう思ってしまった時、あるいは、誰かがそう言っているのも耳にした時、同時に僕はこうも思う。

「でも、仕事をしてなかったら、ヒマだよなぁ」

本書では「仕事」についてかなり深堀りされ、その中で、「どういうものが『仕事』と呼ばれるのがふさわしいか」という議論もある。ただ、そういう話を含めると面倒なので、ここでは「生活のためのお金を得るために働くこと」を「仕事」として話を進めよう。つまり、宝くじに当たるなどして「生活のためのお金を稼ぐ必要がない」という状況について考える、ということだ。

僕は何をするだろうか、と思う。

普段自分がしていることを思い浮かべてみると、色んなことが、結局仕事と絡んでくる。「仕事そのもの」の他にも、「仕事そのものではないが、仕事のためにやっていること」もある。例えば、ビジネス書を読んで自分の見識を広げたり知識を得たりすることは、仕事そのものではないが仕事のためにやっていることだろう。そういうイメージだ。「仕事そのもの」がなくなれば、同時に「仕事そのものではないが、仕事のためにやっていること」も無くなる。

例えば僕は日々、本を読んで、読んだ感想を文章にしている。これは「仕事そのもの」ではない。僕は書評家ではないし、本を読むことそのものや、読んだ感想を書くことそのものが仕事なわけではない。しかし一方で、本を読み、その感想を文章にする、ということを日々やらないと、僕自身の仕事は成立しない。まったく成立しないとは言わないが、僕が「その他大勢の一人」としてではなく、何らかの立場を取って社会と関わっていくために、本を読み感想を書くことは必要だ。

じゃあ、「仕事」をしなくなったら、僕はどうするだろうか?

本は読むかもしれない。本の感想も書くかもしれない。でも、それまでと同じ熱量で、同じぐらいの努力をそれに費やせるかというと、無理な気もする。今、「仕事にも関わるから」という理由で本を読み感想を書くのを「100」とすると、「仕事」をしなくなった後で本を読み感想を書くのは「50」ぐらいでしか出来ないかもしれない。今僕が続けている、本を読み感想を書くという行為は、一般の人からしたらかなりハードなことをしていると思う。僕は、月に20冊ぐらいの本を読み、それらについて毎回5000字程度の感想を書いている。これを毎月毎月、ずっと続けている。正直、かなり大変だ。でももうこんなことを15年も続けている。これが「仕事そのもの」であっても続かなかったと思うが、逆に「100%趣味」でも15年も続かなかったかもしれない。これをやり続けることが、仕事にも関わってくるのだ、という意識が常に頭の片隅にあったからこそ、15年間も続けてこれているんだと思う。

【まあ何をするとしても好きなようにやればいい。少しでも不安ならやめればいい。差し迫るものも、追ってくるものも、何もない】

本書では、「仕事」というものが社会からほぼ消え去った世界が描かれる。そういう社会で生きる主人公・内匠成果の感覚だ。「仕事」から解放されているのだから、何をしても何をしなくてもいい。やってみて、何か「不快」だったらすぐに止めればいい。彼女はそう考えている。そしてそれは、「仕事」がなくなった時代に生きる一般的な人の感覚だ。

まあそうだろうと思う。人間は、ある程度の強制力があるから、大変なことでも続けられる。本当に好きで好きで仕方のないことは、誰に止められてもやり続けるだろうが、そういうものに出会えることはそう多くない。「熱中」という状態になれないのであれば、続けるためには強制力が必要だ。

「仕事」というのは、「熱中」という状態になれない僕にとって、そういう強制力を与えてくれる存在だ。

だから、「仕事」をしなくていいとなれば、今みたいな形で本を読んだり感想を書いたりすることはなくなるんじゃないかと思う。だから、「仕事」をしなくなり、強制力から解放された僕が一体何をするのか、あまりイメージできない。

誰もが迎えうる「定年後」というのが、まさにそういう状態だと言えるだろう。僕は、50歳ぐらいには死んでいるのが理想なので、定年後というものがない想定をしているのだけど、まあきっとあるだろう。人間、そう簡単に死なない。もちろん、僕が生きている間に「定年後」という概念はなくなるかもしれない。既に「定年」の年齢は後ろ倒しにされつつある。年金ももらえないだろう。僕らは、死ぬまで働き続ける世代になるかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのかさえ、もはやよく分からなくなりつつある。

【<仕事>。
興味がないといえば嘘になる。これまで一度も触れたことがなかった世界。ほとんど全ての人が知らないまま死んでいく社会のブラックボックス。】

「AIが人間の仕事を奪う」という言い方と、「仕事なんかAIにやらせればいい」という言い方が表裏一体なのか、あるいはまったく別のベクトルを向いているのか、僕には正直良くわからない。AIが人類の生活をどう変えていくのかは、誰も予測が出来ないだろう。「インターネット」というものが世の中に出始めた頃、今日のようなネット社会を予見出来た人がどれだけいるか、ということを考えた時、AIがもたらす変化もまったくの予測不能に僕には感じられる。

だから、本書で描かれる未来も、あり得る選択肢の一つであるという実感は持てる。AIの登場が、人類に最も良い形で貢献するという、考えうる限り最も理想的な世界が、ここでは描かれる。

しかし、そんな理想的な世界にも落とし穴があり得る、ということを、本書で野崎まどは指摘する。「AIの登場が人類を危機に陥れる」という物語は、古今東西様々に描かれているだろう。しかし本書では、AIが最も理想的な形で人類社会に実装された場合に起こりうる危機が想像されている。

本書を読むまで、本書で野崎まどが指摘する”危機”について、頭の中に一瞬足りとも浮かんだことはなかった。しかし本書を読んだ今、起こりうる”危機”だと感じる。いや、もっと強い言葉を使える。起こらなければおかしい”危機”だとさえ感じられる。

【仕事がしたいのかしたくないのか判断できないのは、仕事についての認知が不足しているから。貴方は”仕事とはなんなのか”を解っているつもりで解っていないの】

「仕事」という概念が150年前から徐々に無くなっていった世界で、この発言が成されるのは、まあ理解できる。しかしじゃあ、「仕事」という概念に人生の多くを囚われている我々は、きちんと理解しているといえるだろうか?「仕事とはなんなのか」を解っているだろうか?

「仕事」という概念が失われた世界で「仕事」について議論をして、「仕事」の本質が理解できるのか、と思うかもしれない。ただ、「仕事」という概念にどっぷり浸かりながら「仕事」について考えることは、地球上にいながらにして地球の形を知ろうとすることに近いかもしれない。今では僕らは、宇宙から見た地球の姿を知っているが、まだ人類が宇宙に行けなかった時代は、地球の形がどうなっているのかについて様々な議論があった。

近すぎると、理解できないことがある。

【異性を性的にからかうような頭のおかしい男とも、仕事というだけで我慢して付き合わなければいけないというのか。職場とはつまり地獄という意味なのか。】

【自分より経験豊かな年長者に敬意を払えと言うならまだわからないでもないが、ここで知った<上司>とかいう機能上のポジションに敬意まで払ってやる必要はない。人間的に評価できない相手ならばなおさらだ】

【そう。仕事には期限がある】

【しかしいくら識別に便利とはいえ別々の人間が一様に同じ服を着るというのは多少違和感がある】

近くにいると当たり前すぎて疑問にも感じられないことが、離れてみると分かることがある。

「『仕事』というものについて考える物語」という捉え方をすると、その実現のために大層な世界観を創り上げたものだ、と感じる。しかし、逆にいえば、それぐらい御大層な世界観の創出をして飛躍しなければ、あまりにも日常すぎる「仕事」について、客観的に考えることは難しいのかもしれない。

純粋に、「物語」として面白い。面白すぎるほどだ。しかし、「『仕事』というものについて考える物語」という意味でも、本書はずば抜けている。「仕事」について考えるためにSFエンタメ小説を読むというのも奇妙な話ではあるが、本書は、それが成立してしまう作品だ。

内容に入ろうと思います。
舞台は2205年。2048年に、世界標準AIフォーマットとして発表された『タイタン』が世の中を一変し、現在では「仕事」と呼ばれるものはほぼ無くなっている。生活のためのライフラインも、家の建造も、ショッピングやその配送も、恋人探しのマッチングも、すべて『タイタン』がやってくれる。生活のありとあらゆる部分を『タイタン』がサポートしてくれ、地球上に125億人にいる人類は、世界中の12の知能拠点に配された『タイタン』のサポートのお陰で、趣味ややりたいことだけをして暮らしていけるようになった。
内匠成果も、そんな恩恵を受け、趣味で心理学の研究をしている人物だ。【大昔ならいざしらず、現代で心が不健康な人を見つける方が難しい】という時代に心理学の研究などほとんど意味はないが、しかし趣味なのだから問題はない。やりたいことには手を出し、ちょっとでも不安があればやらない。何をしてもいいし、何をしなくてもいい。生まれた時からそういう環境で生活をしてきた彼女は、その状況になんの不満も覚えていなかった。
ある日彼女は、想定もしなかった展開の末に、ナレインという人物から「仕事」を依頼された。
そう、この世界にもまだ若干の「仕事」は残っており、その数少ない労働者は「就労者」と呼ばれている。ナレインは「就労者」であり、そのナレインから、強引すぎる形で、とあるプロジェクトに引き入れられたのだ。
それは、一言で説明するなら「カウンセリング」だ。趣味で心理学を研究している彼女に、ピッタリの「仕事」と言えなくもない。
しかし、”一言で”という制約を外すと、それはとても「カウンセリング」などという枠組みに収まるような「仕事」ではなかった。
彼女は期せずして、今までまったく関わったことのなかった「仕事」に従事することになり、さらに、人類の明暗を握る存在になってしまう…。
というような話です。

冒頭でも書きましたけど、凄すぎました。今までさんざん色んな小説を読んできて、それらを同じ土俵に上げて語ることは無理だと思いつついうと、これまで読んだ小説の中でもトップクラスに面白かった作品でした。

これまでももちろん、AIが登場する作品や、近未来を描いた作品を読んできましたけど、本書ほど、「リアルさ」と「非リアルさ」を同時に感じさせる作品はなかなかないだろうと思います。

「リアルさ」については、始めの方でつらつらと書いた「仕事」の話と関係してきます。本書は「AIのお陰で人類が仕事をしなくて良くなった世界」を描いているにも関わらず、「仕事とは何か?」という議論がかなり深くなされます。そしてその議論と結論は、2020年現在働いている人、そしてこれから働く人に、直結するものだと感じさせられました。この小説で描かれているのは、現在とはまったくかけ離れている世界です。設定だけであれば、2020年現在と地続きであるようには感じられないほど、まったく違う世界です。しかし、そんな世界で語られる「仕事」の話が、まさに2020年現在の「仕事」を照射する。こんなことが出来るんだ、と感激しました。この物語の構成は、メチャクチャアクロバティックだなと思いました。

そして「非リアルさ」。こちらについては、詳しくは書きませんが、2章の終盤から最後まで、「いやいや、ンなアホな!」というような展開が連続します。ホントに、正直なところ、「バカバカしくて笑っちゃう」というレベルの、あまりの「非リアルさ」が展開されます。特に2章の最後の辺り、「嘘でしょ!」っていう展開は、さすがに衝撃でした。

ただ、映像的には「バカバカしい」にもほどがあるような描写がなされるんですけど、ただ、世界観や『タイタン』の設定が非常に絶妙に精緻になされるので、「バカバカしい」って感じるんだけど、でも「冷静に考えると、まあそれしかないか」という、妙な納得感もあります。「バカバカしい」んだけど、一笑に付して終わるわけにもいかないという感じもあるわけです。

この「リアルさ」と「非リアルさ」の表出と融合は、驚きました。「リアルさ」も「非リアルさ」も、どちらも振り切った極北のような感じになっていて、両極端である「リアルさ」と「非リアルさ」がきちんと混じり合っているのがまず素晴らしかったと思います。

「リアルさ」をもたらしている「仕事」に関する議論は、本書の中で明確な結論を持ちます。その結論はここでは書きませんが、この世界観の中で、内匠と彼が長い議論を続けた果てに行き着いた結論だからこそ受け入れられる結論だ、と感じました。例えば、本書に登場する「仕事」に関する議論の結論部分だけポンと聞かされたら、「ふーん。で?」って感じになると思います。しかしそうではなく、この壮大な物語すべてを使って行き着く結論だからこその納得感がある。

さらに、その「仕事」の議論の延長に、物語全体のラストがある。このラストについてもここでは触れないが、これも凄かった。確かに、「AI」というものについて、論理に論理を重ねて考え続ければ、こういうラストに行き着ける可能性はある。しかし、僕の頭の中からは、この発想が生まれ出ることはなかっただろうな、と思う。それぐらい、ハッとさせられる部分だった。さらに、「言われてみれば確かにね!」とみんなが思うだろう結論だと思うし、「なるほど、そんなところに”危機”の可能性があったのか」と思い知らされる感じがした。

「仕事」に関する議論や、『タイタン』がどうなるのかみたいな部分についてあまり具体的に書きたくないので、内容について触れられることが少ないが、本書を読んでいて面白かったのが、「人類の幸福を願い続けて動き続けるAIがいる世界で、人類はどうなるのか?」という部分に関する著者なりの考察でした。

【混乱している様子もなければ憤りを見せるような人も見当たらない。その気持ちが私には容易に想像できた。
彼らは”待っている”。
この後どうすればいいのか、どうしたら最善なのか、それをタイタンが教えてくれるのを待っている。そして待っている間はほとんど何も考えていない。なぜならそれが最も効率的な生き方だからだ。
私達は多くの<判断>をタイタンにアウトソーシングしてきた。】

【そもそも大半の人は”綺麗な写真”しか撮らないのだ。その「何が綺麗か」という判断すらも私達はタイタンにアウトソーシングしてしまっている。】

どちらも、「タイタンにアウトソーシングしている」という話なのだけど、意味合いは大きく変わると思っています。

前者のアウトソーシングは、”正しい”と感じます。ここでの正しさというのは「最適解」という意味です。これは、ちょっとした(とは言えないレベルだけど)トラブルが起こった際の人々の様子を描写した場面だけど、トラブルが起こった際には、「最適解」が存在すると信じることは”正しい”と思う。そして、その「最適解」にたどり着くのに最も適した能力を持つのは『タイタン』なのだから、その判断に身を任せるという行動は”正しい”と感じる。

しかし後者についてはどうだろうか。どんな写真が綺麗かということには、確かに理論上の「最適解」はあるでしょう。写真の学校などで、「こういう時はこう撮るのが最善だ」と教えるというような意味での「最適解」は、きっと存在するのだろうと思います。しかし、結局のところ、「何が綺麗か」の判断は、個々の感性に委ねられているはずです。理論上の「最適解」より、個々の感性の方が優位に来るはずだ、と僕は感じます。だからこそ、「何が綺麗か」という判断をアウトソーシングする行動を”正しい”とは感じられない。

しかし実際のところ、『タイタン』のようなAIが生まれたら、その両者を区別することなく、どちらもAIの判断にアウトソーシングしてしまうようになるんだろうな、とも一方では感じます。そして、自分がそうなってしまうのを、嫌だなと感じます。

まあ、僕が死ぬまでの間に、本書で描像されている世界が到来することはまずないでしょう。しかし、少しずつではあるだろうけど、何らかの形でAIの判断が社会の各所に入り込んではくるでしょう。そうなった時、個人の感性より優位である「最適解」の判断はAIにアウトソーシングし、理論上の「最適解」より個人の感性が優位になる場合は自分で判断する、という使い分けがきちんと出来るかどうか。「自信がある」とは、ちょっと言えないだろうなぁ、と感じました。

もう一つ。これも詳しくは書けないのだけど、ナレインの人生的背景は、本書全体のテーマをまた別の角度から貫くような部分があって、非常に興味深いと感じました。彼が言う、【唯一俺の価値観を認めてくれたのが、タイタンだ】という言葉は、非常に深く、示唆的です。これは、「正しさ」というものとも関わってくるでしょう。AIは「正しい判断」をすると思われているでしょうが、じゃあその「正しさ」とは一体何なのか、ということは、最後まで問題になるでしょう。ナレインの主張は、「正しさ」というものを考える時のノイズになる。とはいえ、はっきりとこれを「ノイズ」と言ってしまっていいのかもちょっと難しい。そんな、ある種のスパイス的な存在として、ナレインはいい味出してるなぁ、という感じがしました。

あと、読んでてずっと感じてたことは、この物語、アニメで見たいなぁ、ということ。絵になるシーンが、メチャクチャたくさんあるんだよなぁ。

とにかく、凄まじい作品でした!

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