【映画】「熊は、いない/ノー・ベアーズ」感想・レビュー・解説

いやぁーーーー、なんというのかホント、絶句させられるほどの凄まじい映画だったなぁ。撮り方や物語の展開などは、明らかに「フィクション」なのだが、それでも、観れば観るほど、「異様な現実感」が押し寄せてくる作品だ。そう思わせるだけの特異な外的要因を持っていることを含め、この監督にしか撮れない映画だと言っていいだろうと思う。

しかし一方で、久々に「言葉で説明するのが難しい映画」だとも思う。これは別に、「感じたことを言語化することが難しい」なんて意味ではない。言葉通り、「映画の内容を文字で説明するのが困難」なのだ。しかし、内容に触れないとその異様さにも触れようがないので、少し頑張ってみよう。

ちなみに、この映画の監督であるジャファル・パナヒは、本作発表後、イラン当局によって収監されたそうだ。また、映画の内容に触れるために書いておく必要があるのだが、パナヒ監督は、「2010年に、6年の懲役刑と、20年間の映画制作と出国禁止」を言い渡されている。理由は、ただ映画を撮って発表しただけである。

さて、映画『熊は、いない』は、ジャファル・パナヒ監督自身が主演を務めている。つまり、「監督・脚本・主演」がジャファル・パナヒであり、しかも主人公であるパナヒを自身が演じている、というわけだ。この時点でなかなか混乱しそうな状況である。そしてさらに、映画の中のパナヒもまた、やはり映画を撮っている。

というわけでまず、この記事で使う用語を整理しておこう。

この記事では、映画『熊は、いない』の監督をパナヒ監督とそのまま表記する。そして、映画『熊は、いない』の主人公を【パナヒ監督】と書くことにしよう。また、映画『熊は、いない』このことは映画と表記するが、映画『熊は、いない』の中で【パナヒ監督】が撮影している方を【映画】と表記することにしよう。

では、内容の紹介である。

映画『熊は、いない』では、大きく2つの物語が展開する。

1つは、【パナヒ監督】が【映画】を撮影しているパートである。彼は今、「偽造パスポートを使って出国を試みるカップルを主演にした、ドキュメンタリードラマ」の撮影を行っている。「ドキュメンタリードラマ」というのは、「カップルが偽造パスポートで出国しようとしているのは事実でありドキュメンタリーであるが、そんな2人にカメラの前で演技をしてもらって、彼らの現状をよりドラマティックに描き出そうとしている」ということだ。フェイクドキュメンタリーの逆、という感じだろうか。

この【映画】の撮影は、トルコで行われている。このカップルに何があったのかは詳しく描かれないが、「拷問にも耐えた」などの発言もあったので、トルコ国内で何らかの政治犯的な扱いがされているのかもしれない。彼らは過去10年間に渡り、様々な手段で出国を試みたが上手く行っていないということが、撮影中やその合間に示唆される。

さて、この撮影の現場に【パナヒ監督】はいない。当然だ。彼はイランからの出国が禁じられている人物だからだ。現場はレザという【パナヒ監督】の右腕が仕切っており、【パナヒ監督】自身はトルコとイランの国境付近にある村に滞在し、リモートで撮影の指示を行っている。

さて、2つ目の物語は、そんな【パナヒ監督】が滞在している村で起こる。彼は村長を経由してガンバルという村の人物の所有する建物に住まわせてもらっており、食事の用意はガンバルの母親にしてもらうなど、ガンバル家が【パナヒ監督】の滞在をサポートしてくれている。

さて、トラブルの芽は実に些細なところからやってきた。ある日、何人かの村人が【パナヒ監督】の滞在する部屋へとやってきて、「写真を渡してほしい」というのだ。

話はこうだ。村にはゴザルという女性がいる。そしてこの村には、「女性の場合、未来の夫を決めてからへその緒を切る」という、「へその緒の契り」と呼ばれる風習がある。ゴザルの場合、未来の夫と定められていたのはヤグーブという人物だった。一方、同じ村に住むソルドゥーズという男がゴザルに惚れており、2人が仲良くしているという話がある。ヤグーブとしてはたまったものではない。

そんな時、「【パナヒ監督】が、ゴザルとソルドゥーズが2人でいるところを写真に撮った」という情報が出回る。その写真があれば、ゴザルの不義理が明確になる。だからその証拠となる写真を渡してほしい、というわけだ。

【パナヒ監督】はイランの首都テヘランからこの村にやってきたこともあり、そのような「古いしきたり」のことはいまいちピンと来ない。それもあって、「まあ大した問題じゃないだろう」とほどほどの対応をしていたのだが、その内、その写真を巡って村が少しずつきな臭くなっていく。

やがて【パナヒ監督】は、「熊がいる」といわれる道を通り、村のしきたりに参加させられることになるのだが……。

というような話です。

さて、ここまでの説明でざっと、「映画『熊は、いない』が持つ特異な外的要因」のことが理解できるだろうと思う。それは、「【パナヒ監督】がパナヒ監督そのものであること」、そして「パナヒ監督が映画の撮影が禁じられている最中に撮られている映画であること」だ。

まず、映画の主人公である【パナヒ監督】は、基本的にパナヒ監督そのものである。出国も映画撮影も禁じられているのだが、そんなことはお構いなしに映画撮影を続けているという状況は、パナヒ監督が置かれているのとまったく同じだ。恐らくだが、【パナヒ監督】の雰囲気もパナヒ監督と同じようなものなのだろうし、つまり「パナヒ監督は別に演技をしているわけではなく、本人そのままの姿でカメラの前に立っていて、それが【パナヒ監督】として映し出されている」ということでいいのだと思う。

さらにパナヒ監督は、2010年から20年間映画の撮影が禁じられているにも拘らず、2010年以降、本作を含めて5作の映画を発表している。公式HPには「すべて極秘裏に撮影」と書かれているのだが、そんなこと出来るものだろうか? 同じく公式HPには、

「控訴の結果を待つ間に撮った、ビデオ日記の形で綴られるドキュメンタリー長編映画『これは映画ではない』(11)は、撮影データを入れたUSBをケーキの中に忍ばせイランから運び出し、2011年の第64回カンヌ国際映画祭でプレミア上映され絶賛された。」

とも書かれている。「USBをケーキの中に忍ばせ」など、現実の世界の話なのかと思わされるだろう。

このような、パナヒ監督以外にはなかなか持ちようがない外的要因があることによって、映画『熊は、いない』は、「明らかにフィクションなのだが、観れば観るほど現実感が積もっていく」みたいな、普通の映画ではまず感じることのない感覚を味わうことが出来る。

そしてさらに、映画の中で「フィクション」として描かれる2つの物語がまた、否応なしに「現実感」を高めていくことになる。正直、イランやトルコという国について詳しいわけではないが、なんとなく勝手なイメージとして、「映画の中で描かれる『フィクション』は、イランやトルコではいつでも起こり得るものだ」と感じさせられた。というか、パナヒ監督自身がそういう風に感じてもらうために映画を作っているはずなので、そのような受け取り方で正しいのだと思う。

そして、「起こり得るのだろう」と感じさせるその「フィクション」は、なかなか醜悪である。特に、【パナヒ監督】の前で展開される村人たちの争いは、現代を舞台にした物語だとは思えない。

しかし一方で、この村人たちの振る舞いは、地球に住むすべての人の引き写しであると見ることも可能だ。

村人たちは、「しきたり」や「因習」に従って生きている。そして、それら「しきたり」「因習」が意味不明なものであるが故に、観客は村人たちを「時代遅れ」のように捉えてしまう。

しかし僕らの日常にも、そのような「謎のしきたり」はたくさんある。「学校の校則」「会社で出世しやすい人の傾向」「『女性だから◯◯』と言った言説」「敬語の適切な使い方」など、「無ければ無いでいいはずだし、そう思っている人だってきっと多いはずなのに、それでも世の中からしぶとく無くならないもの」はたくさんある。今挙げたものはどれも、それを破ったところで影響力の薄いものだが、例えば現代の日本でも、「田舎に移住して、その土地のルールに従わなかったために、村八分的な扱いを受けた」みたいな話は全然あるだろうし、そう考えると、この村人たちの振る舞いを「時代遅れ」と捉えることは難しくなるように思う。

そして、そのような話をすべて総合するものとして「熊」が象徴的に登場するのだと思う。『熊は、いない』という映画のタイトルを十全に理解できている自信はないが、しかし、その言葉は、「【パナヒ監督】が村人たちに向けているもの」としてだけではなく、「パナヒ監督が観客に突きつけているもの」としても受け取るべきなのだと思う。

また、非常に興味深いのは、この映画では、「撮影されなかった(撮影されるはずではなかった)こと」が物語の展開において重要であるという点だ。

例えば、これを書いてもネタバレにはならないと思うのだが、実際のところ【パナヒ監督】は、ゴザルとソルドゥーズの写真を撮ってはいなかった(それが本当なのかどうか確信できる描写はないものの、観客としてはそう理解するのが適当だろうと思う)。しかし、そんな「撮影されなかった写真」によって、村で大騒動が起こってしまうのだ。

また、映画の冒頭で【パナヒ監督】は、「婚約の儀式」に参加するというガンバルにカメラを渡し、その儀式の様子を撮影してくれと頼む。これに絡んで、「撮影されるはずではなかった映像」が、2人の関係に微妙な歪みをもたらす展開が用意されている。その直後のシーンで【パナヒ監督】が、「村人たちは良い人ばかりだ」と口にするのだが、これも皮肉が利いていていい。

あるいは、【パナヒ監督】が撮影している【映画】の方でも、「撮影されなかったこと」が絡んでくると言っていいだろう。この点について具体的に触れるとちょっと後半の内容を説明しすぎるので抑えるが、【パナヒ監督】が撮影しようとしているのが「ドキュメンタリードラマ」であるという点がネックになる。それは「ドキュメンタリー」ではなく、フィクションの映画撮影と同様、「本当に偽造パスポートで出国しようとしているカップル」に演技指導も行う。もちろんそこには、【パナヒ監督】なりの意図はあるだろう。しかし、そのような手法を撮ることによって、このカップルに「リアル」こそが「撮影されなかったこと」として浮かび上がってしまう、ということになると僕には感じられた。

パナヒ監督には『これは映画ではない』という作品があるのだが、「撮影されなかった(撮影されるはずではなかった)こと」に焦点が当たるという意味で、「これは映画ではない」という主張の延長線上にある作品のようにも感じられる。もちろん、「これは映画ではない」というタイトルには、「自分は映画撮影を禁じられているが、これは映画ではありませんよ」という意味が込められているのだと思うが、それ以上に、「『撮ること』の限界性」みたいな気持ちを込めてもいるのかもしれないと思う。そして、その「限界性」を理解しながらも撮らずにはいられない自身のスタンスが【パナヒ監督】に投影され、その存在感がそのまま映画として成立しているのだと思う。

とまあ色々書いてはみたものの、今書いてきたことが、この映画の持つ「凄まじさ」の一端でも説明できているのかというと自信はない。本当に、「唖然とした」という表現が最も近いような映画だった。ラストも、「そこで終わるのかぁ」という感じだった。別に悪い意味でもない。しかし、物語が閉じるような予感をほぼ抱かせないまま、それでいて「強引に閉じた」みたいな印象も与えずに映画を終わらせている感じがあって、ラストシーンから暗転しエンドロールが流れ始めた瞬間は、「放心してしまった」という感じが近い。

「この人にしか描けない」みたいな表現をされる映画・小説などあるだろうが、それは概ね「創作者の発想」に対する賞賛と言っていいだろう。しかしパナヒ監督の場合、「発想」に加えて、「特異な外的要因」を有する。そしてそれ故に、「まさにパナヒ監督にしか描けない映画」が作られたと言っていいだろう。

いや、ホントに、これはちょっと凄い映画だった。

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