【映画】「アルピニスト」感想・レビュー・解説

凄い人間がいるものだ。そして映画を観ながら、「彼のように生きられたらいいだろうな」と感じた。恐らくその感覚は、現代を生きる多くの人が本質的に抱くものではないかとも思う。

別に、彼のように岩壁を登りたいというわけではない。

「彼のように生きられたらいいだろうな」と感じたその私の感覚を説明するのにうってつけの場面がある。まずその話から始めよう。

彼はある時、カナダのロブソン山にある「エンペラー・フェイス」と呼ばれる岩壁の単独登攀に成功した。この一報は、世界中のアルピニストに衝撃を与えたという。常識的に考えて単独で登攀可能な山ではないそうだ。ある人物は、「ロープを使ったとしても、歴史的偉業だ」と語っていた。

そう、この映画の主人公であるマークは、そんな難攻不落の「エンペラー・フェイス」を、単独であるだけではなく、命綱なしのフリークライミングで制覇したのだ。いわゆる「フリーソロ」というスタイルである。

さて、この快挙を達成した時点で既に、この映画の撮影スタッフはマークの密着を開始していた。しかし、マークが「エンペラー・フェイス」を登頂した際の映像は一切存在しない。

何故なら、その挑戦の数ヶ月前、マークは恋人のブレットと共に失踪していたからだ。

もともとどこかの階段裏に住んでいたという2人は、その後山でのキャンプに居住を移し、山々を転々としながら生活を続けている。つまり、定住地が存在しないことになる。マークは、「サーモンと一緒にバッグに入れていたら、野生のフォックスに持ち去られたんだよ」と言って、携帯も持っていない。密着開始時に、一応渡しておいた携帯も、まったく繋がらない。撮影スタッフは、アルピニスト仲間のSNSで彼の姿を追い、その後「エンペラー・フェイス」の登頂の報をニュースで知った、というわけである。

監督はマークに、「どうして我々に内緒でこの偉業に挑んだのか」と、失望と共に彼に尋ねた。するとマークは、「撮影は許可したが、単独登攀の同行をOKしたつもりはない」と返す。さらに、

【誰かがいたら、”単独”にならないだろ。たとえただ観ているだけだとしても。それは自分にとって全然違うものになってしまう。僕が求めているものではないんだ】

そしてそれから、「一度達成したから、次は撮ってもいいよ」と、再び最難関の「エンペラー・フェイス」に挑むのである。

この場面は、とても印象的だった。

彼が長く時間を過ごした、カナダのフリークライミングの聖地・スコーミッシュのクライマーたちのまとめ役である人物は、「ほとんどのクライマーは成果をSNSで自慢したがる」と言って、マークの異端さを表現する。さらに、

【彼は、70~80年代の世界観を生きているんだ。完全に、彼自身の世界を生きている】

とも語っていた。別の人物も、

【彼は山の冒険を味わっている。ただ楽しんでいるんだ】

とも言っている。

とても、「現代」を生きている人物とは思えないだろう。そして、「他者からの評価を一切気にせず、自身の感覚だけに従って生きる人生」に、ある種の憧れを抱いてしまう人は多いのではないかと思う。

恋人のブレットは、「彼の映画が作られるなんて素敵」と言いつつ、

【ただ彼自身は、映画のことなんてどうでもいいと思ってる。自分の活躍を世間に出すために労力を使うつもりがないの。
そんなヒマがあったら、登る】

とも語っていた。これが、マークという人間の偽りのないシンプルな生き方だと、観客は誰もが理解できることだろう。

映画の様々な場面で、マークやブレットが「登ること」についての感覚を表現する。

マークは、

【緊張感やスリルを求めてるわけじゃない。単にもっと気楽な娯楽みたいなものだ。楽しい冒険だよ】

と、普通の人ならロープを使って登るスコーミッシュの岩壁をフリーソロで登ることをそう表現していた。

ブレットも、

【1人で登攀すると落ち着く。今この瞬間に集中できるから。他のことを考えずに済むの】

と言っていた。

他の場面でマークが語る言葉も挙げてみよう。

【登山をすると、人生がとてもシンプルなものに感じられる。細かいことを気にせず、ウジウジしないで済む。心は晴れて、落ち着いた気持ちになれるんだ。
クライミングを始めたことで、すべてがしっくり行くようになった。】

【完全に覚醒し、生を満喫している】

映画の最後でブレットが、

【苦痛から解放されるのは、山にいる時だけ】

と語っていたが、その言葉の重みには驚かされるだろうと思う。

マークの単独登攀には、ルールがある。

まず、通信機器を持っていかない。つまり、何かトラブルがあったとしても助けは呼べないということだ。

さらに、オンサイト、つまり「下見・リハーサルなしの初見で登る」というスタイルを取っている。これも普通はあり得ない。ある人物は、「単独のオンサイトは登攀の極み」と表現しており、さらに、

【絶頂期の一流の登山家でなければ無理だ】

と断言していた。

マークは様々な偉業を成し遂げているが、それらについてある人物は、

【誰も可能と思わなかったことをやってのけ、「不可能」の意味を書き換えている】

と評していた。マークは、凍った滝を登るアイスクライミングも単独で挑むが、「アイスクライミングに単独で挑む者は少ない」そうだ。カナダの「スタンレー・ヘッドウォール」の単独登攀も世界に衝撃を与えたが、その難易度は素人が見ても理解できる。

アイスクライミングは基本的に、「アイスアックス」と呼ばれる鎌のようなものを両手に持ち、氷に突き刺しながら登る。そして映画では、「アイスアックスを素手で持つなんて信じられない」という表現が出てくる。

滝が凍るぐらいの寒さの中クライミングを行うのだから、当然手袋は欠かせない。しかし、手袋をすると問題も生じる。ルート上のすべてが氷で覆われていれば問題ないが、岩肌が露出している場所では、素手でも登らなければならない局面が出てくるからだ。「スタンレー・ヘッドウォール」はまさに、氷壁と岩壁を登り分けねばならず、だからマークは最初から手袋をせず素手でアイスアックスを持っている。かじかむ手でアイスアックスを正確に動かし、さらに時には冷たい岩壁を素手で登っていくのだから、そのハードルの高さが理解できるだろう。

フリーソロは賛否両論を巻き起こす、とある人物は語る。死ねば批判され、成功すれば英雄だ。そんな矛盾を孕んだフリーソロの世界でも、とびきり危険なことをしているマークもやはり、「そんな危険なことは止めろ」と言われることがあるという。それに対して彼は、

【安全だと勘違いしているわけではない。ただ、あらゆる点で僕は、人と見方が違うんだろうね。僕的には”あり得る”んだ】

と言っていた。一流のアルピニストが見ても「危険」「不可能」と思われる岩壁を見て、「そこを登る自分は”あり得る”」と感じるというわけだ。

別の場面でも、似たようなことを言っていた。

【写真で見る限りは、計算上完全に実現可能に見える】

ある挑戦を前に、マークはそう語る。しかしそれは、世界中を騒然とさせるものだった。

パタゴニアにあるトーレ・エガーの冬季単独登攀。彼はこれに挑戦するという。誰もが口を揃えて「無謀」と表現していた。パタゴニアにはアルピニストを魅了する山々が多く、夏は麓の村がごった返すほど盛況だそうだが、同じ村が冬になるとゴーストタウンのようになるという。それぐらい、冬のパタゴニアには誰も近づかないのだ。

撮影スタッフは、2年間マークに密着したそうだが、その間に、「彼には何か野望があるようだ」と気づいたという。しかしそれが何なのかはずっと分からなかった。そしてマークがこの挑戦を口にして、ようやくそれが何なのか分かったというわけだ。マークにとって、冬のトーレ・エガーは長年の夢だったそうだ。

あらゆる挑戦を軽々と成し遂げているように見えるマークも、やはりこの挑戦は無謀だと理解していたのだろう。「去年の登攀のほとんどは、この挑戦のための練習のつもりでやった」と語っていた。これもなかなか凄まじい発言だ。世間的には「歴史的快挙」と受け取られた数々の挑戦が、マークにとっては「トーレ・エガー挑戦のための練習」に過ぎなかったというのだから。常軌を逸しているとしか言えないだろう。

この挑戦でも彼は、オンサイト、フリーソロで挑んでいる。登頂中の映像を見ると、腰の辺りにロープが結ばれているのだが、恐らくこれは、下からバッグを引き揚げる際に必要なものだろう。ロープが固定されている様子を見ると、滑落した場合に助かるような感じには見えないからだ。1000mを超える「岩柱」と表現された難関で、そんなところを、ほとんど装備らしい装備を持たない人間が登っていく様は、ちょっと現実のものとは思えないほどの光景だ。

映画では様々な場面で、マークが実際の登攀をしている様子が映し出されるが、見ているこっちが恐ろしくなってしまうほどの状況に驚かされる。難関に挑んでいる時のマークは、非常に慎重に登っていくが、スコーミッシュのいつもの岩壁を登っている際は、魔法のようにスルスルと駆け上がっていく様が、これまた現実感を失わせる。パントマイマーのが~まるちょばのパフォーマンスを見ていると、「どこにも力が入っていない」ように見える感じに驚かされるが、まさにそんな雰囲気で断崖絶壁を登っていく。一度、スコーミッシュの岩壁をロープありで登る一般クライマーの後からマークとブレットがスイスイ登っていく映像が映し出されるが、2人の周りだけ重力がバグってるんじゃないかと感じるような、異次元の登攀に驚かされた。

映画では、マークの幼少期について母親が語る場面もある。ADHDと診断され、「学校で席に座っていられなかった」というマークの子育てには苦労させられたそうだ。そこで母親は、自宅で学習させる決断をし、興味の赴くままマークの好きにやらせた。

【子どもの頃に自由に冒険しないと、自分の可能性にも、何が得意で不得意なのかにも気づけない】

8歳の頃に出会った山の図鑑に見せられ、山を登るアルピニストの姿に勇敢さを覚えたマークは、最初はジーンズに運動靴という格好のまま近くの山を登り始め、1~2年してから本格的にクライミングをやるようになっていく。母親がマークを自由に育てたお陰で、彼は自由に羽ばたくことができた。

【「クライミングが好きならやりなさい」と伝えました。それから彼はその道を突き進み、自分自身になれました】

マークは母親との関係について、「ずっと親友みたいな存在だった」と言っていた。

監督は、自身もアルピニストであり、20年も登山のドキュメンタリー映画を撮ってきた。しかしそんな彼でも、マークの名を初めて知った時には驚かされたそうだ。まったく無名の存在だったからだ。SNSで、マークが成し遂げた偉業について語るスレッドに、コメントが3件しかついていなかったのだ。一部ではよく知られた存在だったが、アルピニストの世界全体でさえまったく無名だったのだ。

そんなマークを追った映画のタイトルが『THE ALPINIST』だというのも素晴しいだろう。この場合の「THE」は恐らく、「THE EARTH」などと同じく「唯一無二の」といった意味を持つはずだ。クライミングの技術のみならず、関わった人間すべてを魅了してしまうその人柄も含め、「彼のようなアルピニストはいない」と多くの人が断言していた。

まさに「THE ALPINIST」と呼ぶべき”名もなき偉人”の姿と、壮大な映像の中で優雅に登山を楽しむ姿を、是非観てみてはいかがだろうか。

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