【映画】「違国日記」感想・レビュー・解説


もちろん、観る前から好きなタイプの作品だと分かっていた。というのも、新垣結衣が出ているからだ。

というわけでしばらく、僕の勝手な妄想について書いていこう。

少し前に観た映画『正欲』の新垣結衣がメチャクチャ良かった。そして『正欲』を観ながら僕は思った。新垣結衣は自分自身と何か通ずる部分がある役を積極的に選ぶようにしたのではないか、と。

別に新垣結衣のことを何か知っているわけではないのだが、新垣結衣のイメージでとても印象に残っていることがある。かなり以前だが、情熱大陸に出演しており、その中で彼女が「サプライズが苦手」だと言っていたのだ(僕の記憶はちょっと怪しいので、もしかしたら別の人と勘違いしているかもしれないが、確か新垣結衣だったと思う)。彼女は、「上手く驚けるか分からないから」と語っていた。

今調べてみると、新垣結衣が情熱大陸に出たのは2010年、当時22歳の時のことだったようだ。先の発言もそうだし、僕の記憶では全体的に「人気女優とは思えない『暗め』な印象」で映っていたように思う。

そしてそれを観て、「いいなぁ、新垣結衣」と思った記憶がある。その後も、別に積極的に追っているわけではないが、時折目にする彼女のスタンスは、「芸能界の第一線にいる人とは思えないぐらい、教室の隅っこにいそうな人」という印象に見えている。本作中では、新垣結衣演じる主人公・高代慎生が「私には、人に助けてもらえる何かがないと思ってしまう」と語る場面があるのだが、このようなスタンスは僕には、新垣結衣本人のスタンスにも思えてしまうというわけだ。

映画『正欲』で演じた桐生夏月もそうだったが、本作『違国日記』で演じた高城慎生も、「社会の中では上手く生きられないタイプ」の人であり、そして僕の勝手な想像では、それは「新垣結衣本人の感覚にも近い」ように思えている。

そしてそんな彼女がもし、「自分のスタンスの延長線上にいる役」を積極的に選んでいる(あるいは、そうではない役を積極的に断っている)としたら、「新垣結衣が出演する作品は、僕の好みの作品であることが多い」ということになる。映画『正欲』を観て、特にそんなスタンスを感じたこともあり、本作ももちろん、僕向きの好きな作品だろうと思っていた。

そしてやはり、とても素敵な作品だった。

僕は割と、「人と人が、どのように距離を縮めたり、どんなきっかけで距離が離れたり、その離れてしまった距離がどのように戻るのか」みたいな部分に関心がある。もちろん、僕自身の人間関係に対してもそのような関心を抱くのだが、僕が関わらない他人同士の関係にもその関心は向く。そして、やはり僕は、「距離の詰め方や捉え方が雑な人間」は好きになれないし、そこに様々な葛藤を抱く人間には興味を抱きがちである。

本作の場合まず、小説家である高城慎生が、自身の姉の子どもである朝を引き取るというところから物語が始まる。姉夫婦が事故で亡くなり、朝の行き場がなさそうだったからだ。しかし慎生はその決断をすんなり出来たわけではない。というのも彼女は、姉のことを嫌悪していたからだ。そのため、「姉の娘」である朝を愛することが出来るか分からないという葛藤を当初から抱いていた。

さて、それとは別に、慎生には「人見知り」という特性がある。本作では、慎生の知っている人間ばかりが登場するので、人見知りが発動する場面は少ないのだが、どうやら結構な人見知りであるようだ。

しかし彼女は、朝を引き取って一緒に暮らすようになった当初から、朝に対しては人見知り的な感じを出さない。親族だからというわけではない。慎生と姉は凄まじく仲が悪かったため、慎生と朝もほぼ初対面のようなものなのだ。

では、慎生は何故、朝に対して人見知りを発動しなかったのだろうか?

正直なところ、その理由ははっきりとは描かれていないのだが、なんとなくそれを示唆する場面が描かれたりもする。彼女は、朝が家にやってきてから、二度も連載を落としているのだ。長年の友人から「珍しい」と言われていたので、恐らくそれまでそのようなことはなかったのだろう。そしてそうだとすれば、それは間違いなく、朝が家に来たからである。

となると慎生は、かなり頑張って朝との接し方を律していると考えればいいのだと思う。朝にはそのような雰囲気は微塵も見せないが。

それを裏付ける発言もある。朝を引き取ったはいいものの、特別後見人などの手続きは大の苦手な彼女は、元彼の笠町に事務手続きを頼むことにした。その時の会話の中で慎生が、「柔らかな年代。きっと私のうかつな一言で人生が大きく左右されてしまう」と口にするのである。

さて、それでだ。そんな「かなり慎重に朝との接し方を考えたであろう慎生の振る舞い」が個人的にはとても素晴らしいものに映る。とその話をする前に、映画のかなり早い段階で描かれる、朝が大いに落胆した場面の話をしよう。

朝が両親を事故で失ったのは、後は中学の卒業式を残すのみという時期だった。朝は、「両親を亡くした可哀想な子」としてではなく、昨日までと変わらない中学生として卒業したかったため、両親の事故のことをクラスメートたちに話すつもりがなかった。しかし、朝には思いがけないルートで、その話が既にクラスメートに伝わってしまっていたことを知る。それを伝えた担任の教師は、「あなたのためを思ってクラスメートに伝えたのだ」と口にするが、朝はその状況に耐えられず、卒業式に出ることなく学校を飛び出してしまった。

という場面である。本当大人は碌なことをしないな、と感じた。せめて、「学校のルールで決まっている」みたいに言うならまだしも、「あなたのためを思って」とか口にする大人はマジで最悪である。

さて、一方の慎生は、「朝はきっとこうしてほしいだろう」みたいなことを考えない。いや、それは正しい表現ではないか。「『朝はきっとこうしてほしいだろう』みたいなことを考えていることが朝に伝わらないように意識的に振る舞っている」というのが正しいだろうか。

慎生のスタンスは明快だ。朝がどんな事情を抱えているかに関係なく、「自分とは違う1個の人格が目の前にいる」という感覚で朝と接しているのだと思う。担任教師のように「分かったつもりになって全然分かっていない行動を取る」こともないし、何かの考えを押し付けたり、行動を制約したりもしない。

もちろんそれは、伯母と姪という関係故の距離感とも言えるし、「そうせざるを得なかった」というだけの話かもしれない。あるいは、「大嫌いだった姉の子ども」という意識が、どこか「ほったらかし」的な感覚に繋がっているだけという可能性もある。

しかし、本作を観ていてはっきり伝わることは、「慎生は朝にきちんと愛情を抱いている」ということだ。そして、朝もまたそのことを感じているからこそ、「他人同士」の生活が成り立っているのだと思う。

そして、そういう絶妙な距離感を最初から最後まで本当に見事に描くのである。

そしてその「絶妙な関係性の描き方」は、慎生と朝の関係だけに留まらない。

例えば本作では、元彼だが何かあれば相談に乗ってもらっている笠町や、慎生とは中学時代からの友人である醍醐などが出てくる。慎生は彼らには気を許しているようで、距離感がとても近い。特に醍醐と関わる時には、「仲が良いからこそ、余計に低いテンションのまま接することが出来る」みたいな雰囲気が慎生から滲み出ていて、とても良い関係性に見えた。

そして、彼らのその関係性は、15歳中学生の朝に様々な疑問を抱かせもするのだ。それらは、集約すれば「大人なのに?」ということになる。それまで大人と言えば「親」「学校・塾の先生」しか接することがなかった朝にとって、慎生と笠町、あるいは慎生と醍醐の関係はとても不思議なものに映るのだ。それは、「慎生ちゃんって、もっとヤバい人かと思ってた」という朝の言葉からも感じ取れるかもしれない。「大人はちゃんとしている」というイメージでいると、慎生は物凄く「大人」から外れている感じがするが、実は慎生以外の大人も割と外れているわけで、朝が「大人」に対して良いイメージを持ちすぎていたということなのだと思う。もちろん、そういう雰囲気から慎生は、「あなたのお母さんは良い母親だったんだろうね」みたいな感覚を感じ取ったのだと思うのだけど。

また、朝は朝で色んな人間関係のややこしさにさらされる。中でも、一番の親友であるえみりとの関係はなかなか興味深い。詳しくは触れないが、お互いにがっかりさせたりがっかりさせられたりということを繰り返しながら、随時その関係性の形を変えていくことになる。

さてそんな風にして、「色んな人間関係の形」が描かれていくわけなのだが、それによって何を映し出そうとしているのかしばらくよく分からなかった。いや、慎生の方は分かりやすい。「大嫌いな姉の娘である朝とちゃんとやっていけるか」「そもそも他人と暮らすことが不得意な自分に子育てとか出来るのか」など、慎生が抱いているだろう葛藤は、割と分かりやすい。しかし朝の方は正直、よく分からなかった。

もちろん、「自信がなくて積極的にいけない」「これと言ってやりたいことがない」みたいなことが他者との関わりの中で明らかになっていくわけで、そういう部分に葛藤があるのだということは分かる。しかし、朝が抱いていたモヤモヤの一番大きなものは、彼女がある場面で、「でも◯◯じゃない」と口にしていたことで理解できた。両親を喪って以降の朝は恐らく、ずっとそのような感覚を抱いていたのだろう。

しかし個人的には、その感覚を抱きながら生きていくのはしんどいだろうなぁ、と感じられてしまった。いや、自身の辛さの源泉を若い内にきちんと言語化して捉えられていることは、良いことと言えるのかもしれない。

しかしいずれにせよ、朝はきっと慎生これからも関わっていく中で、「他者との関わり方」に変化が出てくるだろうと思う。慎生の朝に対するスタンスには、そのような希望が見えるように僕には感じられた。朝の母親のことはほぼ描かれないのでどんな人物なのか分からないが、少なくとも朝にとって慎生との関わりは良いものだと言えると思う。

さて、あとは思いついたことをつらつらと書いて感想を終わりにしよう。

まず、朝の「幼さ」が印象的だった。物語は、中学の卒業式から高校に入学して以降の話なのだが、朝以外の主要な学生は割と大人っぽい感じの役である。えみりもそうだし、軽音部で注目される三森や、学年トップの森本なども皆、大人っぽい感じの役柄である。そういう中にあって、朝だけはかなり「幼さ」が強調されている役に見えた。トコトコ歩く感じやデカいベースを背負っている姿、あるいはえみりとの会話の雰囲気など、随所で「幼さ」が目に付く。

しかし、慎生との関わりの中では、その「幼さ」はあまり出ていない気がした。もちろんこれは、「慎生に対しては気を張っている」と捉えることも可能だが、むしろ「同級生に対して積極的に『幼さ』を打ち出している」という方が正しいように思う。朝は、母親との関係性の中でそうなったのだと示唆されるのだが、「目立たないように」という意識でずっといるらしい。恐らく、学校ではずっとそんな風に考えているのだろう。そしてそれが、「幼さ」として表に出てくるのだと思う。そういう意味でも、「幼さ」を前面に出さずに関われる慎生との関係性は、朝にとって貴重であるように感じられた。

あと、軽音部の三森、そして学年トップの森本との対比も興味深い。この2人は朝にとって、「自分には無いものを持っている人」として捉えられているのだと思う。朝はやりたいことも目指したいこともないのだが、どうやらそれは母譲りのようだ。慎生曰く、姉は「主義・主張」さえ持たない、「何も無い人」だったという。

そして、朝自身もそのような自覚を持っており、そしてそれを「良くないこと」だと考えているのだろう。ベースを始めたのも、そういう気持ちからだと思う。しかし、「同じ1年生なのに、楽器も作詞もなんでも出来ちゃう三森」や、「目標を持って勉強を続けている森本」のような存在が身近にいると、つい比較してしまう。彼女は恐らく、「自分なんて……」みたいな感覚を抱いているのだろう。

しかし、三森は三森で、森本は森本で色々抱えてはいる。映画ではさほど深堀りされないのであまり詳しくは分からないものの、「出来るが故の葛藤」みたいなものがあるようなのだ。特に三森のあるセリフは印象的だった。彼女は、「自分に期待してがっかりするのが嫌なんだよね」と口にするのである。朝はきっと、自分と見えている世界がまるで違うことに驚かされたはずだ。決してメインで描かれる描写ではないが、朝が抱くそのような葛藤も興味深った。

あと、えみりを演じた女優をどこかで観たことあるなぁ、と思っていたのだけど、映画『少女は卒業しない』に出ていた人みたいだ。だから見覚えがあるんだなぁ。

最後に。慎生がある場面で「変わらない」と口にするのだが、そのすぐ後で「変えたくないよぉ」と言う場面も印象的だった。この時朝と話すテーマに関しては、映画の冒頭から何度かやり取りがあり、その度に慎生は一貫して「変わらない」と言い続けてきたのだが、最後の最後で「変えたくない」と本心を口にするのである。いや、ホントそうだよなぁ。僕も、同じ状況なら、「変えたくない」と考えると思う。変わり得るとしても、変えたくない。でも、それさえも言いたくない。そういう雰囲気が、凄く良く伝わる場面だった。

個人的には凄く好きな作品で、とにかく、慎生と朝の距離感がとても良かった。僕も、こういう距離感で関われる人がいたらいいなぁ、と思う。羨ましい。

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