【映画】「零落」感想・レビュー・解説

これは色々考えちゃうなぁ。面白い映画だった。

「売れる売れない」の話は、書店員時代によく考えた。売り手としては「売れるものは正義」という感覚は、どうしても手放せない。商売だからだ。しかし、「売り手」としての自分を離れると、やはり、「売れるから良いのか?」と感じてしまう。その辺りの折り合いは、気分的には結局ずっと折り合いをつけられなかった。

僕はどうしても、「売れるものが良いもの」だとは思いたくないし、世の中のそういう流れに抗い続けたいと思ってしまう。

冒頭、謎の少女について、主人公の漫画家・深澤薫が過去を回想するように語る場面がある。「自分の笑い顔が嫌い」「首を締められているときだけが安心できる時間」と語っていた少女は、「流行っているものに一喜一憂する世の中」に無性に苛立ちを感じていたそうだ。

同じ感覚を、僕も子どもの頃からずっと持っていた。今も同じだ。どうしても僕は、「流行っているもの」に近づくことが苦手だし、あらゆる領域において「流行り」しか追っていない人のことはどうしても軽蔑してしまう。

何故なら、「流行りを追うこと」はどうしても「思考停止」の延長線上にしかないと思えてしまうからだ。つまり、「流行りを追うこと」そのものが嫌いなのではなく、その行動から透けて見える「思考停止」こそが嫌いなのだ。

世間では、「バズること」が良しとされているように思う。しかし僕には、「バズり」というのは「思考停止の集大成」にしか感じられない。もちろん、「バズったもの」が悪いわけではない。僕が今ここで言及したいのは、「バズりに群がる人々」の方である。「バズったもの」は玉石混交で、その良し悪しは人それぞれの受け取り方でいい。しかし、「バズった」という要素しか捉えようとせずに物事に触れるのは、どうにも受け入れられない。

もちろん、「バズった」からこそ出会えるものもあるし、「バズった」という要素は単に好きになるきっかけでしかなかった、みたいなこともあるだろう。そして、単に「思考停止」なのかそうでないのかは、外形的には判断できない。ただやはり僕には、「バズった」に群がる多くの人が、単に「思考停止」であるようにしか感じられない。

そしてなんとなく、そういう世の中に常に絶望的な感覚を抱いている。

僕は別に、「僕が良いと思ったものを、他の人も良いと感じるべきだ」などと言いたいわけではない。っていうか、そんなことはまったく言いたくない。大事なことは、「ちゃんとあなたの『感性』が、それを『好きだ』と言っていますか?」ということだ。あなたの「感性」が、それを「好きだ」と言っているなら、別に「バズったもの」を好きでも何の問題もない。それを他人に説明する必要もないだろう。しかし僕には、「そんなに大勢の人が1つのものにそこまで熱狂できるはずがない」という感覚もある。人間は一人一人、もっと違うはずだ。だからこそ、「バズった」に人々が群がっている状況に、モヤモヤしたものを感じてしまう。

深澤薫は、恐らく昔はかなり売れっ子の漫画家だったのだろうが、8年間の連載を終えた現在は、「昔ヒット作を出したことがある老害」のような存在だと自覚している。彼は明確に、「売れれば正義」という世の中に嫌気が差している。映画には、担当編集者の留守電に、「作り手が読み手を馬鹿にするようになったら終わりだろう」「作り手が表現の先細りに加担するようになったらお終いだ」と辛辣なことを吹き込む。かつて大ヒットを飛ばした漫画家だからこそ余計、「売れる」という葛藤に翻弄されることになってしまう。

だからもう、何を描くべきなのか分からなくなっている。

映画の中で一番グッと来たのは、深澤薫が「君は何も分かってない」と呟く場面だ。それがどんなシーンなのか書かないが、その状況で深澤が感じた「絶望」は、僕なりには理解できるつもりだ。

それは、売れっ子作家を担当する漫画編集者の妻から辛辣なことを言われるよりも、深澤に深い深い傷を残したことだろう。なかなかの絶望だと思う。

僕が昔から考えていることに、「『分かる~』という共感は、かなり上手くやらないと『分かってない』という意味で届く」という感覚がある。「あなたと同じレベルの解像度で物事を捉えていますよ」ということが正しく相手に伝わらなければ、「何も分かってないじゃん」と思われてしまう。

だから「共感を示す」という行為はとても怖いことだと僕は思っている。そして、そんな「怖さ」を理解できていないように感じられることが多いこともまた、僕には怖いことに感じられてしまうのだ。

『零落』の中では、ある人が発した「分かる~」は、深澤薫にはまったく届かなかった。むしろその言葉は、「私は何も分かっていません」という言葉として彼には届いてしまっているのだ。そしてそのことが深澤薫に絶望をもたらす。「この人には通じるのかもしれない」という可能性をずっと抱いていたからだ。

そんなわけで深澤薫は、かつて付き合っていた1つ年下の後輩のことが未だに忘れられないのだろう。恐らく深澤薫にとって彼女は、「まったく理解できないからこそ、通じ合えると感じられた存在」だったはずだ。そういう人と1人でも出会ってしまうと、「他人に感覚が伝わらないこと」が余計にしんどく感じられてしまう。通じ合えた感覚が一度もなければ諦めも付くが、一度でも経験してしまえば、「誰かとまた通じ合えるかもしれない」という希望を捨てられなくなってしまうからだ。

僕は別に何かを創造する側の人間ではないのだけど、それでも、深澤薫が抱く絶望の種類とかその深さとかは、理解できてしまっていると思う。だから、そんな深澤薫が「ちふゆ」に惹かれる感覚も、とてもよく理解できてしまう。そして、妻・町田のぞみとの絶望的な「伝わらなさ」も。

物語は、深澤薫が8年間の長期連載を終えたところから始まる。担当編集者が打ち上げを開いてくれるが、付き合い程度で顔を出した編集者たちは、深澤が喋っている間スマホをいじっている。帰りのタクシーの中で深澤は、アシスタントの1人である富田奈央に「もう終わった作家って思われてるんだろうなぁ」と呟く。
次の連載に向けて準備を進めるつもりでいる深澤薫だったが、これと言ってアイデアは浮かばない。2人のアシスタントには、「適当に使えそうな背景を描いといて」と指示するのみ。妻は、今一番話題と言ってもいい漫画家・牧浦かりんの担当で忙しく、深澤の話を聞く時間もない。深澤はどんどん「何もない」方へと進んでいってしまう。
そんな折、気晴らしに呼んだ風俗嬢・ちふゆと妙に気が合う。似たような何かを感じた深澤は、人気嬢であるちふゆを度々指名し、やり取りを交わす。
深澤薫は、再び「漫画」と向き合うことができるのか?

映画の中で印象的だったのは、妻との関わり、そしてちふゆとの関わりです。

まず、「妻との話の通じ無さ」はなかなか絶望的だなと感じました。深澤薫は、確かに説明は足りていないかもしれないが、しかし「自分が何をしんどいと感じるのか」をちゃんと言葉で伝えている。しかしそれが、妻には一切伝わらない。妻は単に、「漫画が描けない、あるいは、描いた漫画が売れないこと」に苛立っているのだろうと考えている。しかしその理解は、深澤にとってはまったく遠いものでしかなかった。そして結局最後まで、妻は夫が抱えているものを理解しようとしなかった。別に「妻が悪い」と言いたいわけではないのだけど、「深澤薫の言っていることがまったく理解できていない」という時点で、この夫婦の関係は継続不可能と判断せざるを得ないだろうなと思った。

ちふゆは、なかなか変わった存在だ。僕が「変わった」と思うのは、「とても不自然な喋り方をしているのに、そのこと込みで『ちふゆ』という存在が自然な存在に見える」という点だ。

ちふゆは、21歳の女性がそんな喋り方をしないだろう、と感じるような口調で喋る。なんとなくのイメージで言えば、明治時代の女性みたいな感じだ(全然違うかもだけど)。それは、本来的にはとても「不自然」に感じられるはずなのだけど、この映画では全然そんなことがない。それは、深澤薫とちふゆが会っている場面が、「本当に会っているのか」と感じるような、つまり「妄想の世界なのではないか」と感じるような雰囲気があるからだ。深澤薫の日常にとって、「日常」の延長ではないように感じられる場面として描かれるからこそ、ちふゆとの「まったく自然には感じられない会話」が、まったく不自然には感じられない。

そしてその感じを、女優の趣里がとても絶妙に演じてるなぁ、と感じた。この映画では、玉城ティナと趣里がとても重要な存在感を出していると思うが、趣里は特に、この作品の重要な屋台骨を一人で支えているみたいな印象がある。作品に漂うありとあらゆる「よく分からなさ」みたいなものを、「ちふゆ」という存在が全部ひっくるめて引き受けている感じがあって、その重要な役回りを見事に果たしているなぁ、と思う。

映画の中でちょっとよく分からなかったのが、度々女子高生の「脚」がアップにされること。あれは「1つ年下の後輩」を示唆する演出なのかなぁ。結局あれがなんだったのか、僕にはよく分からなかった。あともう1つ、なんとなく分からないではないのだけど、深澤薫が「台無しだよ」と口にする場面も、完全に理解できたとは言い難い。

エンドロールに「しりあがり寿」と出て驚いた。顔を知らなかったので調べてみると、なるほどあの場面のあの人かと分かる。僕が詳しくないだけで、恐らく、漫画家が役者としてもっと出演しているような気がする。あと、プロデューサーの中に「MEGUMI」の名前があったのも意外だった。

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