【映画】「スペンサー ダイアナの決意」感想・レビュー・解説

映画を観ながら、ブルーハーツの名曲の歌詞が頭に浮かんだ。

「♪気~が~狂~い~そう」

そりゃあ、正気も失うだろう。

3日間のクリスマスパーティーの間、朝食・昼食・教会用など、すべての場面における衣装があらかじめ決められており、違うものを着るとやんわりと指摘される。息子がやりたくないと言っているキジ狩りを無理矢理やらせる父親。1847年からの伝統で、クリスマスパーティーに参加する者は皆体重を測られる(クリスマスパーティーで楽しんで1kg太ることが望ましいとされている)。どれだけ暖房を入れてと頼んでも、毛布しか与えてくれない。一人になることなどいくらでもできそうな広大なサンドリンガム・ハウスの敷地内で、一挙手一投足が筒抜けになっている。決まりきった返答をする者ばかりで、まともに会話が成立する相手がいない。そもそも夫から、不倫相手に贈ったのとまったく同じ真珠のネックレスをプレゼントされた。

そりゃあ、気も狂う。

映画を観ながら、麻耶雄嵩の『木製の王子』という小説のことを思い出した。『木製の王子』のネタバレになるので、どう関連すると考えたのか具体的には触れないが、この映画で描かれる「王室の狂気」はまさに、『木製の王子』が描く「狂気」とそっくりであるように感じられた。

ダイアナ妃の夫であるチャールズ皇太子は、度々、悪い意味で「印象的な言葉」を口にする。

ビリヤード台を挟んで夫と向き合うダイアナ妃は、息子にキジ狩りをさせないように頼む。その会話の中でチャールズ皇太子は、「私も昔はキジ狩りが嫌いだった」と口にするのだ。でも、「やるしかない」という。その理由は、「国家のため」だそうだ。

『国民が我々に望む姿を見せるためだ。それが王室だ。』

さらに続けてチャールズ皇太子は、「知ってると思ってた」と口にするのだ。「知ってると思ってた」が本心なのか皮肉なのかよく分からないが、恐らく本心なのだろう。なかなかゾッとする言い方だし、ダイアナ妃の絶望が一層深くなっただろうとも思う。

別の場面でも印象的なことを言う。ダイアナ妃は当時摂食障害を患い、食べたものを吐いてしまっていた。チャールズ皇太子はもちろんそのことを知っている。その上で彼は、朝食の席でダイアナ妃に、「君に1つ頼みがある」と切り出す。この昼食は、多くの人の手が加わっている。ニワトリは卵を産み、ハチは蜂蜜を作る。だから、せめて教会に行くまでは、この朝食をトイレに吐き出さないでほしい。そんな風に言うのだ。

ダイアナ妃の身体の心配など、まったくする様子もない。

屋敷の敷地内でキジ狩りは行われる。その際、的として使われるキジは、このキジ狩りのために育てられたそうだ。ダイアナ妃がまともに会話できる相手とみなす1人である料理長のダレンは、「もしキジ狩りで撃たれなくても、頭が悪いから車に轢かれて死ぬだけだ」と彼女に伝える。

別の場面でダイアナ妃は、

『私にもキジにも希望はない』

と、キジ狩りで無惨に撃たれて殺される頭の悪いキジに、自身を投影する。確かに、王室入りしたダイアナは、撃たれるのを待つだけのキジのような存在のようであるかもしれない。なかなか残酷な自己認識だ。

映画には、ダイアナ妃に重ね合わせられる人物として、かつての王ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンが映し出される。ダイアナ妃のために用意された部屋には、何故かアン・ブーリンの自伝が置かれ、ダイアナ妃は事あるごとにこの本を開く。ダイアナ曰く、彼女の生家であるスペンサー家はアン・ブーリンと繋がる系譜を持っているそうだ。また、アン・ブーリンは、ヘンリー8世によって処刑されている。自身の不貞を棚に上げて、アン・ブーリンに罪をなすりつけたと、ダイアナ妃は語っていた。そんな境遇からダイアナ妃は、アン・ブーリンに自身の現状を重ねている。ダイアナ妃はある場面で、

『私はアン・ブーリンのように優雅に首を差し出すことなどできない』

と、自身が置かれた状況に抵抗する意志を示す。これからの想いが、映画の最後の場面で綺麗に収束していく展開がなかなか見事だと思う。

ダイアナ妃が安らげるのは、2人の息子といる時だけだが、もう1人、彼女が絶大な信頼を寄せる人物がいる。衣装係のマギーだ。ダレンと共に、ダイアナ妃が話せる相手だと捉えている相手であり、ダイアナ妃とマギーの関わりについても非常に興味深い展開が描かれる。少なくとも、マギーのような人物がいることが、ほんの僅かでも救いだったと言っていいだろう。魔窟でまともな精神を保つためには。

しかし、マギー役の女優、どっかで見覚えあるなと思ったら、『シェイプ・オブ・ウォーター』『しあわせの絵の具』とかに出てる人だった。なんというか、凄く印象に残る顔の女性だなぁ、と思う。

映画の冒頭で、

『実際の悲劇を基にした寓話』

という表記が出る。詳しいことは分からないが、僕はこれをこんな風に解釈している。

物語は、クリスマス・イブからボクシング・デー(クリスマスの翌日)までの3日間が描かれる。しかし恐らくだが、「この3日間で、この映画で描かれるすべての出来事が起こった」ということではないように思う。ダイアナ妃の人生の様々なタイミングで起こった出来事を、クリスマス・イブからの3日間に凝縮して詰め込んだ、という意味ではないかと思う。そういう意味で、「寓話」という言い方をしているのではないか、と。あくまでも僕の想像ですが。

ちなみに、ダイアナ妃についてあまり知識を持たない人が、その状態のままこの映画を観たら、よく分からない部分も結構出てくるのではないかと思う。僕は割と最近、『プリンセス・ダイアナ』というドキュメンタリー映画を観たこともあり、彼女に関する情報をかなり知った状態で『スペンサー』を観た。だから、「この映画の舞台になった頃は、恐らくダイアナ妃とチャールズ皇太子は別居していたこと」「ダイアナ妃が摂食障害や自傷行為に悩まされていたこと」「チャールズ皇太子にはカミラ夫人と愛人関係にあり、ダイアナ妃との結婚は最初から破綻していたこと」などを知っていた。そういうことを知らなければ、「冒頭、何故ダイアナ妃はエリザベス女王の私邸までの道のりで迷っているのか」「ダイアナ妃が度々トイレに籠るのはなぜか」「真珠のネックレスに怒りを抱いているのはなぜか」などがなかなかスッと入ってこないだろう。映画は、「ダイアナ妃についての基本情報は知っている」という前提で描かれるので、その辺りで受け取り方に差が出てくる可能性はあるかもしれないと思う。

ダイアナ妃を演じた女優は、ホントに「ダイアナ妃」って感じで驚かされる。元の顔がダイアナ妃に似ているのかはよく分からないが、映画の中の彼女は「ダイアナ妃」にしか見えない。公式HPには、「本作では実在のダイアナのアクセントや眼差し、立ち居振る舞いを完璧にマスターするのはもちろん、(略)」と書かれているので、見た目の部分から相当寄せる努力をしたのだろう。ダイアナ妃の記憶が未だ強く残っているだろうイギリスの人からどう見えるか分からないが、日本人からすれば「ほとんど同じ」というレベルではないかと思う。

あと、映画を観ていてもう1つ凄いなと感じたのが、映画を撮影した舞台。エリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウスが舞台なのだが、普通に考えて、実際の場所は使えないだろう。もしかしたら、実際にサンドリンガム・ハウスで撮影したのかもしれないし、それならそれで凄いと思うが(映画の内容は、決して王室にプラスの描写だけではないので、普通には撮影許可が下りないだろう)、もしそうでないなら、あんな広い土地とクソでかい建物をどう用意したんだろう? と思う。どちらにしても凄い。中国の映画とかだと、街1つ丸ごと作るぐらいのことはやるそうだが、この映画もそれぐらいの規模感で、どこかに「サンドリンガム・ハウスを模したセット」を作ったのだろうか。

王室との関わりを、「地雷原を歩く」と表現したダイアナ妃の、想像を絶する苦悩が切り取られる作品だ。

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