【映画】「パブリック 図書館の奇跡」感想・レビュー・解説

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メチャクチャ、ハイパー、超良い映画だった!伊坂幸太郎の小説を観てるみたいな感じ。


日本にいるとあまり、「権利を勝ち取る」という場面に出くわすことはない。時代は少しずつ変わってはいるが、日本では(あるいは、アジアでは?)「個人の権利」よりも「集団の統制」の方が重視される場面が多く、何らかの実際的な(つまり、肉体的な痛みや、金銭的な損失)などの実害が生じない場合には、個人が自らの権利の行使に関して争うという場面はそう多くないと思う。

しかし、もともと欧米では歴史的に、個人の権利を闘争によって勝ち取ってきた積み重ねがあるので、そういうことに対する抵抗はないように思うし、僕の目からすると、ちょっとそれは過剰ではないかと思えるような権利の主張もあるように思う。

全体的に言えば、僕自身は、そういう社会には馴染まないな、と思う。日本みたいな、いわゆる「なあなあ」な感じで物事が進んで、全員がちょっとずつ不利益を感じていても、全体としてはまあまあ穏やかである、という方が平和だなぁ、と思ってしまう。それが良いとも思わないし、正解だとも思わないけど、僕自身は、やはり、何か権利の侵害があったとしても、実際的な実害がなければ、「まいっか」でこれからも終わらせるだろう。

その一方で、いつも考えていることは、弱い立場に置かれている人間こそ、権利がきちんと主張できる世の中であってほしい、ということだ。綺麗事を言うようだけど、本当にそう思う。

何故なら、自分がいつ、社会的弱者になるか分からないと思っているからだ。

僕は、現時点では、日常の生活に困窮し、明日をも知れない、という状態にはない。非常にありがたいことだ。しかし、今回のコロナ禍で誰もが実感したことだろうが、いつだって人生に躓くことはある。今回のコロナ禍は、確かに超絶特殊な経験だと思うが、しかし、ちょっと前まで、もしかしたら世間で「勝ち組」と呼ばれていたかもしれない人だって、今回のコロナ禍で状況が一変してしまったなんてことだってありうるだろう。また、コロナに限らずとも、ここ最近は毎年のように水害や地震で日本の各地が大きな被害に遭っている。自分の責任の及ばないところで、いつだって躓く可能性があるということだ。

ホームレスの人や、あるいは生活保護を受給している人に対しては、「探せば仕事はあるのに」とか「怠け者だ」などという批判もあるようだ。確かに、「怠け者」と指摘すべき人も中にはいるだろう。けど僕は、その大半は、頑張ってきたけどちょっとしたきっかけで躓いてしまった人たちだ、と思っている。僕自身も、過去のどこかの時点でホームレスになっていた可能性はあるし、これからの未来のどこかでホームレスになる可能性があると、リアルにイメージすることはある。決して、他人事だとは思えない。ホームレスを他人事だと思っている人は、よほど恵まれた環境で生まれ育ったか、あるいは、人生のリスクを正統に評価できない人だと僕は感じてしまう。

以前、哲学の本を読んでいて、ロールズという人が提唱した「無知のヴェール」という話を知った。これは、ある種の思考実験だ。あなたは今、真っ黒なヴェールを頭に掛けられているとする。何も見えない。そして、自分自身に関するすべての記憶・情報は失われているとしよう。つまり、あなたは男かもしれないし、女かもしれない。日本人かもしれないし、アフリカ人かもしれない。大富豪かもしれないし、ホームレスかもしれない。さて、そんなヴェールを被った人たちが集まって、国のルールを定めることにした。あなたは、どういうルールを提案するだろうか?というものだ。

この思考実験のポイントは、国のルールが決まった後でヴェールが取られ、自分が何者か知ることになる、ということだ。例えばあなたが、「大金持ちを優遇し、貧者をないがしろにする」というルールを提案しようと考えたとしよう。しかし、あなたはそこでこう思うはずだ。ヴェールを取った後、もし自分がホームレスだと分かったら?自分の提案したルールに、自分自身が縛られてしまうことになる。あるいは、「黒人を奴隷にしてもいい」というルールを提案した後、自分が黒人だと判明するかもしれない。

ロールズは、この「無知のヴェール」という思考実験を通じて、このヴェールを被った状態で提案することこそ、誰もが目指すべき正義ではないか、と主張したのだ。自分が何者であると分かったとしても自分が不利益にならないようなルールをみんなで決めれば、誰にとっても平等な世の中になるだろう、と。この話は、なるほど良く出来てるし、面白いなと感じたのでよく覚えている。

ホームレスの問題も同じだ。確かに今僕は、ありがたいことにホームレスではない。しかし、いつだってそうなりうる。格差が開きつつある今の日本のような社会では、ますます多くの人が、そういうリスクと隣り合わせで生きていくことになる。明日は我が身だ。そういう意識があれば、ホームレスとの関わり方もまた変わってくるだろうと思う。

それでも、「自分には関係ない!」と思いたい人に、また別の話をしよう。何かの本で読んだ社会実験の話だ。詳しくは覚えていないが、要するに、社会的弱者を放置することは、結果として社会全体のマイナスになる、というものだった。社会的弱者が増えることによって、社会保障費や犯罪などが増えてしまう。そしてそれに対処するために税金が余計に使われることになる。それよりは、最初から社会的弱者に対する保護や支援などに税金を投入した方が、結果としての出費は抑えられる、という結果が、フランスだったかどこかヨーロッパの国で出た、というのを読んだ記憶がある。

社会的弱者になっても最低限の生活が保障される社会であれば、安心してチャレンジも出来るだろう。社会的弱者になってしまえば、冬の寒さで凍死するかもしれない、なんていう環境では、とてもじゃないが、人生のリスクを冒すのは難しくなる。

内容に入ろうと思います。
シンシナティ公共図書館で職員として働くスチュアートは、毎日なかなか大変だ。「本に救われた」という彼は、図書館で本を扱えているかというと、そんなことはない。カウンターでは日々、ぶっ飛んだ質問が繰り出される。「ジョージ・ワシントンのカラー写真は?(あるわけないだろ、そんなの!)」とか、「実物大の地球儀は?(あるわけないだろ、そんなの!)」みたいなレファレンスに応じなきゃいけない。また、ホームレスへの対処も日常業務だ。特に冬、寒波に襲われるこの地では、朝からホームレスが図書館にやってくる。「開館後は誰でも入れる」という主義の公立図書館なので追い出すことは当然ないが、トラブルやら節度を守らない利用には注意しなくちゃいけない。そんなこんなで、ドタバタと日々が過ぎていく。
そんなスチュアートは、寝耳に水の話を聞かされる。なんと、同僚と共に訴えられている、というのだ。10週間前に、「体臭」を理由にある利用者(ホームレス)を追い出したことに対し、権利侵害で訴えが起こっているという。和解のためには、75万ドル支払えという。このように、「個人の権利」と「他の利用者の権利」の調整に日々苦労している。
シンシナティではいま市長選の真っ只中であり、黒人牧師の人気が圧倒的だが、スチュアートにホームレスの権利侵害の訴えを通告してきた検察官であるデイヴィスもまた候補者の一人である。とはいえ彼の参謀は、”今”選挙を行えば確実に負けます、と告げる。でも、”何か”が起これば逆転できるかもしれない、とも。
刑事であるビルは、署長に休暇を願い出ている。行方知れずになっている息子を探したいというのだ。ここ最近の寒波で、ホームレスの死亡が相次いでいる。ビルは息子をみすみす死なせたくないと考えているが、署長は、必ず休暇は出すからもう少し待ってくれ、と説得している。
さて、そんなある日。いつものように閉館しようとしていると、スチュアートが普段仲良くしているホームレスの一人が、「今日は帰らない。ここを占拠する」と言ってきた。今日の寒波で外に出れば死にかねないし、ホームレス用のシェルターも一杯で空きがまったくない。ここに一晩泊めてくれ、というわけだ。スチュアートは館長に、今日は彼らを泊めてあげましょうと説得を試みるが、逆に館長は、評議会がスチュアートを解雇したがっている、と告げる。館長としてはスチュアートの味方をしたいと思っているから、ここで事を荒立てないでくれ、というのだ。
しかし、なし崩し的にホームレスたちによる占拠は始まってしまう。しかも、この騒ぎに乗じて自らの支持率を上げようと乗り込んできたデイヴィスが、「武器を持っているかもしれない精神異常者による立てこもり事件」と事実を歪曲した話をメディアにしてしまい…。
というような話です。

凄く良い映画だったなぁ。冒頭で、伊坂幸太郎的って書いたけど、それは、「どことなく非現実的」でありながら「どことなく現実味がある」みたいなバランス感に対して感じたのだろうと思います。メインは、図書館の立てこもりなのだけど、同時並行でいくつかの物語が進行する。そしてそれらが一つに収斂していく。そういう、「よく出来た感」みたいなところは、ちょっと非現実的だと感じさせる。でもその一方で、その「よく出来た感」を抱かせる物語世界に生きる人物たちは、この上なくリアルな感じがするのだ。ホームレスに押し切られるようにして占拠の首謀者的な存在になってしまうスチュアートを始め、ホームレスたちのリーダー的存在や、文芸セクションに異動したがっていた同僚、前日に仲良くなったマンションの隣人、図書館の館長など、凄く人間味を感じる人物がたくさんいました。彼らはなんというのか、ちょっとズレている。ステレオタイプ的ではない、という表現は適切ではないかもしれないけど、目の前の状況に対して、「一般的にはこう行動するだろう」というものを外してくる。そして、その絶妙な外し方が、凄く人間っぽい感じがするのだ。理屈に合わないような行動をしているように見えるのだけど、その実、真っ当さを感じさせる、という意味で、凄く愛らしい感じがする。

そして、彼らと対比するようにして、非常にステレオタイプ的な人物が出てくる。市長を目指すデイヴィスや、この占拠事件を報じる自己顕示欲の強い女性キャスターなどだ。彼らの行動は、非常に分かりやすい。そして、そういう分かりやすい行動を取る人物が、この映画の中ではダメな描かれ方をされる。僕がこの映画で特に好きなのも、そういう一場面だ。色々あってくだんの女性キャスターが、電話でのスチュアートの単独インタビューを行うのだけど、その生放送で彼女は、恥をさらした意識のないままに恥をさらすことになる。これは、実に痛快な場面だった。スチュアートは、彼女の意図を理解し、彼女と正面衝突することなく、彼女の意図とはまったく正反対の主張を、国民に伝えることに成功したのだ。図書館を舞台にした映画らしい、絶妙な場面だったと思う。

ホームレスたちが取った手段は、手段だけ捉えれば褒められたものじゃない。どんな理由があれ、公共図書館を“占拠”すべきではないだろう。しかし一方で、彼らは厳密には誰にも迷惑を掛けていないといえる。もちろん、ルールは破っているのだが、閉館後の公共図書館にホームレスが泊まっていたところで、市民に何か不都合があるわけじゃない。それより、図書館の本に落書きをする人間の方がよっぽど不利益をもたらしているだろう。ホームレスたちはこの“占拠”を「平和的デモ」と呼ぶが、たしかにそうだなと思う。結果的に大事になったが、それは、大事にした人間にこそ非がある、と感じさせるものだった。

僕は、基本的には、ルールは守るべきだと思っている。しかし、相応しくないルールが存在することも時にはある。そうであったとしても、ルールを改正させる行動を取るべきだという意見は当然あるだろうし、理解できるけど、ルールが変わるまでには時間が掛かるし、その間ずっとそのルールに従っていたら、命に関わる問題になるとしたら、ルールが破られることも仕方ないと感じる。特に社会的弱者は、ルールを変えるための力を持っていなかったり、その方法を知らなかったりする。知識不足や勉強不足は指摘されて当然かもしれないが、やはり僕は、そもそも「ルール」というものが、社会的弱者を保護するようなものであってほしい、と思ってしまう。社会的強者が自分の立場を守るために利用する「ルール」なんて、どうでもいい(と言ってしまうと語弊はあるが、気分的にはそうだ)。

この映画を貫いている「公共図書館としての使命」という思想が、非常に良かった。図書館員たちは、折りに触れ、「公共図書館としてどうあるべきか」を自問し、自らの行動の指針とする。誰もが「知る権利」を持っているという、公共図書館の本来的な役割だけではなく、「公共」として何が出来るか、何をすべきか、という発想が、図書館員に通底している点が、清々しい。映画のタイトルが「パブリック」となっているのも、まさにその「公共」という部分を核にしているからこそだろうと思う。

【私は、市民の情報の自由のために生涯を捧げてきた。あんたらチンピラのために戦場にされてたまるか!】

痛快な場面だったなぁ。

映画館では、時折笑い声が起こるほど、面白い場面も多々ある映画だったが、それでもラストの展開はなかなか壮観だった。”占拠”が始まってから、これどうやって終わらせるんだろうな、と思っていたけど、最高の終わらせ方だったと思う。

こういう映画を観ると、いつも思う。僕も、何かあった時、スチュアートのような行動を取れる人間でありたいな、と。そして、絶対に、デイヴィス側にはなるいまい、と。

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