【映画】「親密さ」(濱口竜介監督)感想・レビュー・解説

「ビックリマンチョコ」みたいな映画だな、と思った。なかなか評価の難しい映画だと思うが、僕としては観て良かった。


この映画を観るに至った流れをまず書いておこう。

「濱口竜介」という監督の名前は、去年まで知らなかった。去年の年末、「絶対に観ないぞ」と思っていたのだがあまりに評判がいいから『ドライブ・マイ・カー』を観て、「なんて素晴らしい映画だ」と驚愕し、そこで初めて「濱口竜介」の名前を知った。そして同じく「絶対に観ないぞ」と決めていた『偶然と想像』が濱口竜介監督作品だと知り観に行った。するとこちらもとんでもなく素晴らしい映画だった。その後、映画の話もする友人と濱口竜介作品について話していると、彼女から「下北沢のK2という映画館で濱口竜介作品を上映する特集がある」と聞いて調べた。

そうやってこの『親密さ』という映画に出会うことになった。

「ビックリマンチョコ」の話に戻ろう。「ビックリマンチョコ」は、「チョコ」ではあるがある意味でそれは「おまけ」で、本来「おまけ」であるはずの「シール」の方がメインになる逆転現象が起こっているお菓子だと思う。

濱口竜介の映画にも、似たような部分を感じた。

それが「映画」であると主張する以上、基本的には「映像」がメインと考えるのが普通だろう。もちろん「映画」には、音楽・衣装・編集・脚本など様々な要素が絡んでくるが、いずれにしてもメインとなるのは「映像」であるというのが普通の考えだろう。

しかし濱口竜介の映画は、「映像」よりも「言葉」がメインにくる。

『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』でも、それは際立っていた。名のある俳優を使い、映像もキレイに仕上がっているのだが、しかしそれでも「映像そのもの」がメインにはならない。特に『偶然と想像』は、画面上での変化が乏しかったり、変化があってもそれは、その「変化そのもの」に意味があるのではなく、「場面転換をしたかった」というような動機に感じられることも多い。

『ドライブ・マイ・カー』でも『偶然と想像』でも、とにかく「役者が喋っているという状態、あるいはその内容」がメインとして立ち上がってくると感じた。

そして、「ENBUゼミナール」という専門学校の卒業制作として作成された『親密さ』では、よりその状況がくっきりと立ち上がる。というのも、「映像」の方にどうしても比重を置けない環境にあるからだ。名のある役者はおらず、機材も乏しい、撮影場所にも制約がある、という中で、「映像そのもの」のクオリティを上げることはなかなか難しい。恐らくそういう制約ゆえという理由もあるだろう、「言葉」が前景に来る。

僕がこの映画で一番好きなシーンは、「『親密さ』という映画の劇中劇『親密さ』の中で『暴力と選択』という詩が朗読される場面」だ。同名に劇中劇が存在する、という複雑な状況については後で説明する。

主人公の1人であり、劇中劇の脚本を担当する良平は、劇中劇中では「衛」という役であり、衛は自作の詩を朗読する会に参加している、という設定になっている。そしてそんな詩の朗読会で彼が朗読したのが「暴力と選択」なのだ。

劇中劇では計4作の詩が朗読されるのだが、正直この「暴力と選択」の話しか覚えていない。それぐらい、僕にはインパクトのある内容だった。元々理屈っぽい内容が好きということもあるだろう、そもそも良平も衛も非常に理屈っぽいキャラクターであり、その性格が詩にも反映されていて良かった。

メチャクチャ早口だったのでなんとなくしか内容を再現できないが、「暴力と選択」は以下のような内容だった。

<暴力とは、「相手から選択肢を奪うこと、あるいは「選択など不可能だ」と相手に信じ込ませることだ。こう定義することで、肉体的な暴力以外の暴力も定義することができる。つまり、選択肢が奪われない限り暴力とは言えない、という言い方もできる。仮に肉体的な暴力を受けたとしても、まだ何かを選択できる状態であるならばそれは決して暴力ではない。しかしそういう時に、まだ選択肢が存在しているにも関わらず「これは暴力だ」と言って本来的には暴力とは呼べないものを暴力にしてしまう者がいる。そういう者こそ暴力的というべきなのだ。>

本当はもっと内容は多く、例えば「私たちは『選べない』ということだけは選べない」という話も出てきたが、ちょっと再現できるほど覚えてない。上述の説明では、僕が何に凄さを感じたのかなかなか伝わらないと思うが、衛がもの凄い早口で「暴力に関する持論」を「詩」という体裁である種「暴力的」に語り続けているシーンは、とてもインパクトがあり、印象に残っている。

あるいは、同じく劇中劇中に「好きな相手に想いを寄せたラブレターを、親友に電話で聞かせる」という場面もある。この手紙の内容もとても良かった。

ラブレターを書いたのは、誰とでもセックスをしてしまい「サークルクラッシャー」と呼ばれる女性で、血の繋がらない兄のルームメイトである郵便局員に恋をしている。その郵便局員とは男友達として仲が良く、自分が誰とでもセックスをしてしまうことや、「サークルクラッシャー」であることも話している。つまりその女性の感覚では、「その郵便局員は私のことを『そういう女性』と見ている」と考えているし、だから想いとしては真剣なのだが、恋愛に展開させていくことが難しいと考えているという感じだ。

その郵便局員が遠くへ引っ越してしまうことが明らかになり、失意の底に沈んだ彼女は、自分の想いを伝えるべく真剣に手紙を書く。その内容は、「あなたが私のことをどんな女性と見ているか分かっているつもりですが、そのイメージを少しでも変えられるかもしれないと期待して、いつもとは違う真面目な感じで手紙を書きます」というような文章から始まり、自分の気持ちだけで物事が動くことはないと分かっているけれど、私がこれまであなたにしてきた言動のすべては「愛してほしい」の言い換えであり、そのことが伝わったらいいなと期待している、というようなものだった。

この電話越しに手紙を読む場面も、非常に印象に残っている。

今挙げた2つの場面は、ひたすらに「言葉」が全面に押し出される。言葉だけで成立していると言っていい。そしてとにかくこの映画には、そういう場面が多い。

映画の中で、主人公の2人、良平と令子が夜明け前の歩道や橋をただずっと歩きながら喋る長回しの場面がある。辺りは暗く2人の表情はおろか仕草もほとんど見えず、というかカメラは2人を後ろから撮るので映像的にはほとんど走っている車しか変化を感じさせない。そこで、「長いこと一緒に生活しているけど私は良平のことをほとんど知る手がかりがない」と語る令子と、「『知ること』にどんな意味があるのか僕にはよく分からない」と語る良平がぽつりぽつりと言葉を応酬するシーンがかなり長く続く。確かにこの場面は「夜明け前」という映像のキレイさみたいなものも含まれているが、やはりここも「言葉」がぐわっと表に出てくる。それぞれが求めていること、変わってほしいこと、変わりたくないこと、これからどうしていきたいのかなど様々な「すれ違い」が短い言葉の隙間から覗く、好きな場面だ。

「すれ違い」と言えば、劇中劇中にこんな場面がある。舞台上には、つい最近別れたカップルが喫茶店という設定の椅子に座っている。男は「彼女から唐突に別れを切り出され、理由も判然としないままそれを受け入れた」、そして女は「私なりに理由はあるけど、それは上手く言葉にはできない」とはっきり別れた理由を言わない。そしてそんな別れの場面があった後、とある偶然から久々に再開することになったという場面だ。

実はそこで男は、「好きな人ができたわけではないと言っていたけど、やっぱり他に好きな人がいたんじゃないか」と納得させられる。観客は、実はそうではないと知っているのだが、男としては、「なんだかんだ言っても、やっぱり別に男がいたんだ」というシンプルな理解に至っている。ただ男としても、特段それを蒸し返そうというわけではなく、久々に再会したモトカノと話をしたい、という気持ちでいる。やはり男としてはまだ好きな気持ちがあるからだ。

そんな中で男が女に、「今何を考えているの?」と聞く。すると女は、「今この水をぶっかけたら何が起こるんだろう、って考えてる」と答える。男はぎょっとして、「俺にってこと? なんか恨みでもあるのかよ」と返すが、女は「そうじゃないの。ただ、なんとなくそう考えてるってだけ」と答える。しかし男は、女のそんな言葉の意味を理解できない。「自分に水を掛けたらどうなるか」と考えているということは、「自分に何か恨みがあるとしか思えない」という思考に直結してしまう。女はただ単に、「そうしてみたらどうなるのだろう」と「ifの想像」をしているだけなのだが、男にはそれがまったく理解できない。

そしてこの「すれ違い」こそが、恐らく女が別れを決意した理由なのだろうと、観客は理解する。

恐らく客観的には男の感覚の方が「普通」なのだろう。しかし、どちらが正しいかはともかくとして、「言葉が同じレベルで伝わらない」という事実には大きなストレスを感じるし、そういう意味で僕は女の方に共感する。僕は「言葉の解像度」という表現をよく意識する。月を肉眼で見ている者と望遠鏡で見ている者同士の会話が成立しないのと同じように、「言葉の解像度」が異なる者同士の会話も成立しない。

この別れたカップルのやり取りの場面も、ほぼ会話だけで進んでいく。まさに「言葉」である。

そして、このやり取りを踏まえた場面が、後に出てくる。女の両親は幼い頃に離婚しており、その際に離れ離れになった兄こそが衛なのだ。女は衛と手紙でのやり取りは続けており、ある時「会いたい」と告げて2人は再会する。衛はパン工場のアルバイトをしており、そんな自分について、「お前が周りに自慢したくなるような兄だったら良かった」と女に告げるのだが、女は「お兄ちゃんは『世界は情報なんかじゃない』と思っている人だと分かったし、だから会えて嬉しかった」と返す。女は、男といる時と衛といる時では雰囲気が全然違うのだが、それは「言葉の解像度」の問題だったのだろうということが、ここで改めて浮き彫りにされるのだ。

さて、「言葉」の実例の紹介を次で最後にしよう。劇中劇『親密さ』の演出を務める令子が、本番の練習を一切せずに「役者同士でインタビューをする」「戦争に自衛隊を派遣すべきか議論する」などの”ワークショップ”を行うのだが、その1つとして「勇気」についての講義を行う場面がある。

その講義の中で、「世界のどこかに未開の部族がいるとする」と始まるある問題提起を、令子がひたすらに喋る。それはこんな話だ。

その部族は世界の広さを知らず、だから「世界」と言えばこの村のことだと考えている。そんな村では、成人の儀式としてバンジージャンプが行われる。世界の他の儀式と比較して変わっている点は、このバンジージャンプで最後まで飛べなかった者が次の長に選ばれるということだ。そして若者たちはその事実を知らない。
若者たちは、このバンジージャンプを飛ぶことが「成人の証」であると理解しているし、もちろん恐怖を感じながらも次々に飛んでいく。しかしその中に、どうしても飛ぶことができない者がいるとしよう。そのバンジージャンプは安全面がかなり考慮されていると分かっているが、それでも彼は「万が一」を考えてしまい足がすくむ。他の者がどんどん飛んでいく姿を見て、彼は、ここで飛ばなければ部族として受け入れられないのではないかと恐怖する。しかしそこに部族の長が近づき、仮に飛べなかったとしてもお前を受け容れないなんてことには絶対にならないと保証する。彼は悩む。そしてそんな彼の頭の中にこんな思考が生まれる。
今バンジージャンプを飛べない自分は、「世界で最も臆病な人間」だ。そしてそんな自分が勇気を出してバンジージャンプを飛ぶことが出来れば、その「勇気」は世界中すべての人のためのものになる。そして彼は、その思考によってバンジージャンプを飛ぶことができる。

みたいな話だ。この場面では、決してワンカットの場面転換なしというわけではないのだが、誰かが質問を入れるでもなく、令子が役者に個別の問いかけをするでもなく、ひたすら令子がこの物語を滔々と語り続ける。

この「勇気」に関する講義が、映画全体の中でどんな役割を担うのかみたいなことはイマイチ理解できているわけではない。恐らく、「自分という狭い狭い世界の外に足を踏み出そうとしない良平に向けたメッセージ」なのだろうとは思うが、それ以上詳しいことは分からない。ただ、ひたすらに「言葉」だけで場面を成立させるという意味でやはり印象に残るシーンだった。

とにかく「言葉」の映画なのだ。映像よりも役者よりも衣装・小道具・音楽などなど他のどんなものよりもまず「言葉」が前面に押し出される。とにかく「言葉の力」の強い作品で、そのことに圧倒された。

世の中はどんどん「映像的なもの」で評価が決まる時代になっていると感じる。SNSはインスタグラムやTik Tokがメインになり、子どもたちはYouTuberになりたがり、写真・デザイン・映像など視覚情報がこれまで以上に優先される世界だと思う。そういう中で、「言葉の強度」で世界を生み出そうとしている濱口竜介の映画には、とても惹かれる。僕自身、映像的なものよりも言葉に惹かれることが多く、芸能人やアーティストなども「この人は『言葉の人』なのだな」という観点から関心を持つことが多い。

映画などの映像を観て「言葉」を感じることは当然他にもあるが、それは「言葉”も”感じる」という印象であることが多い。しかし濱口竜介の映画からは、「言葉”を”感じる」のだ。まず「言葉」が先に来る、という意味で非常に印象深い映画監督だと感じる。

さて最後に、「映画の中に劇中劇が存在する」というかなり奇妙な設定について触れてこの感想を終わろう。

物語は、脚本家の良平と演出の令子が新しい演劇の準備を進めるという形で進んでいく。良平も令子も共に演者もこなすのだが、今回は令子の提案で、自分たちは出演せずに裏方に専念しようということに決める。

良平と令子は付き合っており、一緒に暮らしている。お互い当然演劇だけで食べていけるはずもなく、良平はレストランの厨房で、令子は小さなバーでアルバイトをしており、なかなか生活のリズムは合わないが、共に演劇を作る過程で様々なやり取りをし、2人の関係性が保たれている。

しかし良平は自分のことをあまり語る男ではなく、一緒に住んでいる相手なのだが令子にとって良平は謎めいた存在だ。しかし、かつて半年間も家に帰ってこなかったことがあり、同じことが起こったら怖いという理由もあって良平の深い部分を探れずにいる。一方で、2人は演劇の構成や進め方で意見が合わないことが増え、ついに良平から「セリフを変えなきゃ好きにやればいいよ。ちょっとでもセリフを変えたらぶっ殺すけどな」とキレられてしまう。

そんな風に準備が進められた演劇こそ『親密さ』なのである。

この映画は255分あり、間に休憩を挟みながら前後半に分かれる。そして、非常に上手い構成だと思うのだが、前半はまさに「劇中劇『親密さ』がこれから始まるという場内アナウンス」で終わっており、後半は劇中劇『親密さ』をずっと観るのだ。

劇中劇『親密さ』は、実際にお客さんを入れて行われた公演のようである。実際に、良平役の役者が脚本を、令子役の役者が演出を手掛けた舞台上にカメラマンが立っており、「お客さんに向けて公演を行うと同時に映画に組み込む映像も撮影している」という形になっている。そして映画の後半は、2時間10分ある劇中劇『親密さ』を最初から最後まで鑑賞するのだ。

まずその設定が凄いと感じた。

そして、この劇中劇『親密さ』が、思った以上に面白かった。舞台を観る機会はあまりないので比較対象は決して多くないが、この舞台単体で観ても満足できただろうと感じるものだった。そしてその舞台がまるっと映画に組み込まれており、もちろんフィクションではあるのだが「良平と令子がいかにしてこの舞台を作り上げたのか」という過程が外側として存在する構成はとても良かった。

そして、ラストシーン。これはとても美しいと思う。

映画の中で2度、良平(衛ではなく)が書いた「言葉のダイアグラム」という詩が読み上げられる。電車のダイアグラムのように、言葉と言葉をいかに繋いでいくかが重要なのであり、その流れに逆らった言葉は存在できない、というようなことを書いた内容だ。その中に、「言葉がぎゅうぎゅうに詰まった急行と、空いている各停がほんの一瞬同じ速度になり並走する瞬間」というような一文があり、まさにそれを実現するような映像になっている。

2人の人生の分岐や合流を様々な形で示唆するようなラストであり、「実際の撮影は大変だったんじゃないだろうか」という想像も含めて、名シーンではないかと感じる。

とても良い映画だった。

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