【映画】「毒娘」感想・レビュー・解説

いやー、これは面白かった!思ってたような話じゃなかった、というか、別にどういう物語なのかイメージしてたわけではないのだが、にしても、全然思ってもみなかった物語で、メチャクチャ良かった。いやー、これは観て良かったなぁ。

本作ではもちろん、「ちーちゃん」と呼ばれる、真っ赤な衣装に身を包んだ謎の少女のインパクトが凄まじい。しかし、物語を追っていく内に、「ちーちゃんがメインで描かれているわけではない」ということが理解できるようになる。いや、視覚的には明らかに「ちーちゃん」こそがメインなのだが、物語の本質的にはそうじゃない。

そして僕は、本作では、「『正しさ』によって歪む何か」が描かれているのだと感じた。そして極論すれば、「『正しさ』によって歪む何か」を象徴したものが「ちーちゃん」とさえ言えるかもしれない。

いや、ホント、見事な物語だったと思う。

物語の冒頭から、かなりインパクトある形で登場する「ちーちゃん」には、もちろん衝撃を受けたが、しかし僕は、物語の最初の方からずっと、主人公・萩乃の夫である篤紘にヤバさを感じていた。

篤紘は、パッと見には「とても良い夫・父親」に見えるのではないかと思う。妻の料理を褒め、家族の写真を日常的に撮り、学校に行っていない娘に勉強を教え、妊活のためにアプリを見つけてきて一緒に進んでいこうとする。仕事も出来るようだし、近所の人を呼んだホームパーティーでも話題の中心にいる。あまりよく知らない状態で彼と関われば、「良い人」に見えるだろう。

ただ僕には最初から、「うわぁ」という違和感が凄まじかった。

その違和感を個別具体的に指摘していくのはなかなか難しいのだが、総括して表現すると、「自分の『正しさ』を疑わない人」ということになる。そしてこういう人(特に男)は、世の中にとても多いんじゃないかと思う。

そして、何故篤紘が「良い人」に見えるかと言えば、「一緒に『正解』を導き出した」という雰囲気を作り出すのが上手いからだ。実際には、単に「篤紘が自身の『正しさ』を押し付け、それを『正解』のように見せているだけ」なのだが、振る舞いが上手いので、「両者合意の上でその『正解』に納得した」というような感覚になってしまうのだ。

そう、突き詰めると本作では、「『正しい』からと言って『正解』とは限らない」という現実が描かれているとも言えるだろう。

篤紘は完全に、「正しさ」と「正解」を混同している。つまり、「自分が『正しい』と感じることは、誰にとっても『正解』であるはずだ」と思っているのだ。だから、自身の「正しさ」を、”押し付けている”という意識を持たないまま他人に押し付けることが出来る。彼自身は、何も悪いことをしているとは思っていないはずだ。「正しさ=正解」なのだから、当然だ。

しかし、彼の周りにいる人は、グラデーションは様々だろうが、「篤紘の『正しさ』を、どうも『正解』とは感じられない」と思っているのだと思う。そしてこの点にこそ「歪み」が生まれることになる。

物語には、萩乃、篤紘、そして彼らの娘である萌花の3人だ。割と早い段階で明らかになるのだが、萌花は篤紘の連れ子で、萩乃とは血が繋がっていない。冒頭から、萩乃と萌花には親子とは思えない距離感があるのだが、それはそのような理由だと割とすぐに明らかになる。

そしてもう1つ、割とすぐに伝わってくる違和感がある。萌花は常に、右手に手袋をしているのだ。この点については、中盤になるまで理由が明かされないので、この記事でもその点には触れないでおこう。しかし、彼女が手袋をするきっかけとなった出来事は、結果的に、物語全体の「歪み」にも関係してくることになる。

さて、割と早い段階で「ちーちゃん」が彼ら家族の元に現れ、ムチャクチャしていくことになる。それはまあ、予告映像を観ていたこともあって、元から分かっていたことだ。しかしその後、物語はかなり意外な方向に展開していくことになる。正直に言えば、「ホラー」という感じの展開ではなくなっていくのだ。

本作に関する評価をチラ見すると、「ホラー映画としての不評」みたいなものが結構目に付く。まあ、そう感じるのは理解できる。確かに本作を「ホラー映画」として観ると、ちょっと色々と思うところは出てくるだろう。ラストはともかくとして、中盤から後半に掛けての展開は、「ホラー映画」と呼ぶにはちょっと薄いというか、「ホラー映画を観るぞ!」と思っていた人にはちょっと肩透かし、みたいな作品に感じられただろうと思う。

ただ、僕にとっては、そのような展開がとても良かった。そもそも僕は「ホラー映画」を好んで観ることはなく、本作についても、「ホラー映画だよなぁ。観ようか観まいか、どうしようかな」と思ってたぐらいだ。なんとなく気になって、終映ギリギリに観ることにしたのだが、僕にとっては大正解だった。本質的には「ホラー映画」ではない作品だったからだ。

では一体何なのか。後半の展開についてはなるべく具体的に触れないようにするが、冒頭でも書いた通り、物語は「『正しさ』によって歪む何か」に焦点が集まっていくことになる。もちろん、その中心には篤紘がいる。篤紘が抱く「正しさ」によって、彼の周囲の様々なものが「歪む」ことになる。恐らくその「歪み」は、長い年月を掛けて静かに積もっていったものだろう。そしてその「歪み」が、「ちーちゃん」の登場によって放たれた、というのが、この作品が示そうとしている構図なのだと思う。

つまり、「視覚化されないまま静かに積もり積もっていた『歪み』」を視覚的に象徴するものとして「ちーちゃん」が存在しているのである。

このように捉えると、後半の展開が捉えやすくなるのではないかと思う。観る人によっては、後半でのある人物の行動に「???」となるかもしれない。そう、常識的な発想をすれば、その人物の行動はまずあり得ないからだ。しかしその人物は、長いこと「歪み」を内包してきた。誰かに相談することも出来なかったし、理解されるとも思っていなかっただろう。何故なら、その「歪み」を生み出しているものが「正しさ」だからだ。その「正しさ」を前にすると、その人物が抱えている「歪み」は、錯覚か何かに見えてしまうだろう。その人物自身ももしかしたら、「これは錯覚なのかもしれない」と感じていたかもしれない。

しかし、「ちーちゃん」の登場によって変わった。その人物は、はっきりと、「やっぱり歪んでるじゃん」と思い至ったはずだ。だから、後半の展開のような行動になった。だから、確かに物語の展開としては意外だったが、その人物の行動原理としてはまったく意外には感じられなかった。なるほど、そりゃそうなるよな、と感じられたのである。

非常に抽象的な話ばかりしているので、特に観ていない人には何を言っているのかさっぱり分からないと思うが、とにかく私は、「実に上手い設定、実に見事な展開」と感じながら映画を観ていた。

確かに「ちーちゃん」の造形や言動はインパクトがあり、本作の「主」であるように感じられるだろう。しかし、そのように捉えれば捉えるほど、特に後半以降の展開に「???」となるように思う。実は「ちーちゃん」は、この物語においては「従」でしかないのだ。その強烈なインパクトによって、それまで可視化されなかった「主」を浮かび上がらせるという、脇役的な存在なのである。

そして結局、本作の特に後半の展開が突きつける問いというのは、「『幸せ』ってなんだっけ?」というものだと言える。例えばこれは、本作で言及される「冷凍食品」の話からも理解できるだろう。

篤紘は度々、元妻について「前のは◯◯だった」という言い方をする。そしてその1つに、「前のは冷凍食品ばっかりだったから、萌花にはちゃんとした料理を食べさせたいんだよ」というのがある。ちなみに、このセリフは「萌花のため」に言っているように聞こえるが、恐らく篤紘自身の本音だろう。そう言われた萩乃が事情を説明しようとすると、「責めてるわけじゃないんだよ」と口にする。これも、「クソ男なんだけど良い人に見えるポイント」と言えるわけで、本作における「モラハラ夫」の解像度がメチャクチャ高くて面白い。

さて、「幸せ」という観点でこの「冷凍食品」の話を捉え直すと、「冷凍食品ばかり出てくる家庭は不幸で、手料理が出てくる家庭は幸せ」ということになるだろう。これが篤紘にとっての「正しさ」であり、同時に「正解」である。

しかし、確かにそれは「正しい」かもしれないが、しかし「唯一の正解」なわけでもない。まったく違う「幸せ」の捉え方があっても良いからだ。しかし、篤紘はそんな価値観を認めない。彼の中の「正しさ」に合致しないものは、すべて「不正解」なのである。

篤紘は、単に「幸せ」を追求しているだけであり、本人の自覚としては「他者に迷惑を掛けている」などという自覚はまったくないだろう。そもそも、彼の価値観が「正しい」ことは間違いないと思うので、「そんな自分が責められる立場にいるはずがない」と無意識のように感じているはずだ。

それは、僕にはとても「異常」であるように感じられるのだが、しかし今の世の中には、この篤紘のようなマインドの人は結構いるはずだとも思う。「『正しい』んだから、責められる謂れはない」という価値観は、僕には「『多様性』を理解していない考え方」に感じられる。僕にとっての「多様性」というのは、「『正解』はたくさん存在するし、どの『正解』も『正しい』し、その『正しさ』に優劣はない」というものだ。しかし世の中では、「『唯一の正しさ』が存在する」みたいに考えて、さらに「自分の考えこそが『唯一の正しさ』なのだから、お前が間違っているに決まっている」みたいな主張をする人が多いように感じられてしまう。

ンなはずないだろ。

そして、そんな”異常な社会”が生み出す「歪み」を可視化した存在が「ちーちゃん」であるように僕には感じられたのだ。「ちーちゃん」は「社会が生み出したモンスター」なのである。

作中では、警察はまともに機能しないし、「ちーちゃん」の親もほぼ何もしようとしない。「ちーちゃん」の危険性は、警察を含む多くの人たちが認識しているにも拘らず、「ちーちゃん」はひたすら放置され続けるのだ。普通ならリアリティを欠くように感じられるだろうこれらの描写は、しかし本作にとっては必然だったと僕には感じられる。

先程指摘した通り、「ちーちゃん」は「社会が生み出したモンスター」であり、それはつまり「社会に巣食うがん細胞」のようなものだ。そして、そんな「がん細胞」を壊そうとすれば、その周りに存在する「正常な細胞」も傷つけてしまう。つまり、「『ちーちゃん』に対処する」というのは、「『ちーちゃん』の周りに存在するもの」をも追い詰めることに繋がるのである。

だから社会は、「ちーちゃん」に対して機能不全に陥るしかない。本作で描かれる「公権力」や「親」の存在感の薄さは、そのような示唆を与えるものだと僕には感じられた。

そして本作のラスト付近の展開では、そのような「歪み」が一気に集結し、凄まじいカオスとして展開されることになる。そしてそのカオティックな状況の中で、ある人物が発した「自由に生きよう」という言葉が、あたかも呪文のようにして積もり積もった「歪み」を押し流していくような感じもあり、とても印象的だった。

さて、そのような考察もどきとはまた別に、本作では萌花と「ちーちゃん」がビジュアル的にもとても良かった。あまり具体的には書かないが、展開に合わせて変化していく様も良かったし、雰囲気やコミュニケーションも良かった。特に「ちーちゃん」は、ともすればファンタジックな存在にしかならないように思えるが、僕の感覚では、かなりリアルな存在感に思えた。

たぶん本作では、「ちーちゃん」という存在をかなりリアリティのあるものとして描き出そうとしているはずで、その点も「ホラー映画」としての魅力を薄める結果になっているのだろうと感じられるが、僕にとっては好印象だった。僕のような受け取り方をする場合、「ちーちゃん」がリアルな存在であるというのは、結構重要な要素だからだ。

「ホラー映画」を期待して観に行くとちょっと肩透かしを食らうかもしれないが、「ホラー映画」だと思わないで観るとかなりグサッと来る作品ではないかと思う。そういう意味で本作はちょっと、「正しい観客」の元に届いていない映画と言えるかもしれない。もちろん、宣伝的には「ちーちゃん」のビジュアル等を押し出していくべきなのは当然だと思うが、「単なるホラー映画」だと思われることは、作品にとってはマイナスではないかと感じた。

ラスト付近でぐちゃぐちゃっとしたシーンもあるので、「ホラー映画じゃありませんよ」とも言いにくい作品ではあるが、「ホラー」的な部分に物語の本質があるわけではない。もう少し広く観られてもいい映画ではないかと感じた。

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