【映画】「ルックバック」感想・レビュー・解説


観るまで思い出さなかった。そういえば、本作『ルックバック』の原作マンガが発表された時に物議を醸したことを。いや、それも僕は、特段詳しくは知らない。そもそも、原作マンガを読んでいないし、その時のニュースを自分がどう感じたのかも覚えていない。

というわけで僕は、映画の話だけをする。

つもりなのだが、やはり少しだけ。個人的には、「原作マンガが発表された時に批判が出たこと」に、少し違和感を覚えてしまう。「実在の事件を想起させる設定」を取り込んだからこその批判なわけだが、例えば「その事件の犯人を称賛する」みたいな描き方をしているなら批判されて然るべきだが、そんなことはないはずだ(少なくとも、映画ではそんなことはなかった)。また、「被害者やその遺族がいるのに不謹慎だ」みたいな意見もあるようだが、僕はこういう主張は好きではない。被害者や遺族本人が「不愉快だ」と意見を表明するならいいし、そうした声が実際に上がっているのであれば、その声を増幅させるような動きをするのもいいだろう。しかし、そうではないとしたら、「被害者や遺族の気持ちを勝手に推察して自分の主張をしたいだけ」に思えてしまう。だから、そういう主張も好きではない。

それに、こういう描写は捉え方次第だ。本作は「マンガを書くことに全力を注ぐ者たちの物語」であり、そしてそんな本作で想起させる事件とは、「京都アニメーション放火殺人事件」である。そして僕は本作『ルックバック』から、「京都アニメーション放火殺人事件で命を落としてしまった人も、こんな人生を歩んできたのかもしれない」と想像させられた。作品全体の設定やテーマから、自然とそんな受け取り方になるのだ。

そして、そのこと自体は、とても良いことではないかと思う。少なくとも、悪いことではないはずだ。何か事件が起こった時、僕らはその被害者を「被害者」という無機質な存在としてしか捉えられない。良し悪しはともかく、昔は「被害者の卒業アルバム」などをマスコミが引っ張り出してきて報じたりと、「被害者像」を映し出そうとしていたと思うが、色んな時代背景もあってそういうこともやりにくくなっているはずだ。だからますます被害者は無機質な存在に見えてしまう。

しかし、確かにフィクションだし、現実の事件とは何の関係もないと分かってはいるものの、それでも、「作中で映し出される人生」からなんとなく「被害者像」を想像しようとしてみたくもなる。それが的を射ているかどうかは問題ではない。個人的には、「頭に思い浮かべること」が大事なのだと思っている。まったく忘れられてしまうより、フィクションを通じてでも、そこにあったかもしれない人生を想像することは、良いことなのではないかと僕は思いたい。

そんな風に思うので、「実在の事件を想起させる設定」であるということに批判が向けられるという事実に、僕は違和感を覚えてしまうのだ。

まあ、当時どんな取り上げられ方だったのかも覚えていないので、僕が今書いたようなことはまったく的外れかもしれないが、少なくとも僕は、本作『ルックバック』においては、「実在の事件を想起させる設定」を組み込んだことが批判される理由が、イマイチ理解できないでいる。

さて、こんな話を書くつもりはなかったんだけどなぁ。というわけで、映画の話をしよう。

物語は実にシンプルで、登場人物もほぼ2人しかおらず、しかしそれでいてなかなか深みのある物語である。58分というかなり短い物語だが、あまりそう感じさせない、僕には90分ぐらいの体感だった。

小学4年生の藤野は、運動も得意でクラスの中でも人気者っぽいが、そんな彼女にはもう1つ、漫画という得意分野がある。いつも学年新聞に4コマ漫画を連載しており、家族やクラスメートからも絶賛されている。彼女自身、自分の画力には自信がある。

しかしある日教師から、「隣のクラスの不登校の京本に、漫画の枠を1つ分けてくれないか」と頼まれる。快くOKした藤野だったが、その京本の絵を見て驚いた。ストーリーと言えるようなものはないが、画力はとにかく圧倒的だったのだ。

京本の学年新聞を見た日から、藤野は「漫画漬け」の毎日を送ることにする。教本とスケッチブックを買い、毎日毎日描いて描いて描きまくったのだ。家族からもクラスメートからも心配されるが、藤野は意に介さなかった。ただただひたすらに描き続ける毎日。

しかし、6年生になったある日、パタリと漫画を描くことを止めてしまった。

そうして卒業の日を迎えた。藤野は教師から、京本の家まで卒業証書を届けてくれと頼まれる。嫌がる藤野だったが担任に説得され、初めて京本の家にやってきた。

そして、部屋から出てくるつもりのなかった京本と偶然のように顔を合わせることになった藤野は、京本から「ずっとファンだった」と告げられたのだ。それから2人は、一緒に漫画を描き始めるのだが……。

とにかく印象的だったのが、セリフや動きが極度に少なかったこと。「アニメ映画」というとやはり、「いかにキャラクターを動かすか」みたいな「動」の発想になるだろうが、本作ではとにかく、「漫画を描いている後ろ姿」のシーンがメチャクチャ多い。もちろん、描いている間は喋らないので、セリフも動きもないことになる。非常に「アニメ映画的ではない」という印象の強い作品だ。

しかし、それでも惹きつけるものがある。やはりその最大の要素は、藤野と京本が共に持つ「情熱」だろう。とにかく2人から、バシバシと「情熱」が伝わってくるからこそ、この「静」を極めたような作品が成立しているのだと思う。

彼女たちは、「漫画」のことしか見ていない。と書くと、それはそれで嘘になってしまうのだが、まあ概ねそうだと言っていいだろう。そしてその「漫画への情熱」によって、彼女たちの人生は大きく駆動していくことになる。中学生で45ページの漫画を完成させて出版社に持ち込み、高校生で7本の読み切りを発表するなど、若くして活躍するのだ。

そしてそれは、お互いの存在なくしては実現しなかった。藤野は、京本とのあまりの画力の差に絶望し、漫画を描くのを止めようとしていた。そして京本は、漫画への情熱を持ちつつも、「社会」と接する能力があまりにも皆無だったせいで、どこにも行けずにいた。そんな2人が出会ったことで、まさにお互いがお互いを補完するようにして未来が拓けていくわけだ。この辺りの展開は、「いかにも漫画的」という感じはするが、別にだからと言って悪いなんてことはまったくない。ここで重要なのは「彼女たちが漫画に対して抱く情熱を徹底的に描くこと」であり、そのことは十分すぎるほど伝わってくる。

そして、これもまあ「漫画的」という感じはするが、情熱がありすぎるが故に、2人の関係性が少し変わっていくのである。

さて、本作はセリフが少ないとは書いたが、「感情表現」も少ないように思う。いや、京本の方は「藤野に対してだけは感情を出せる」みたいなキャラクターなのだと思うが、藤野は逆に「人前ではあまり感情を表に出さない」みたいなキャラクターなのだと思う。それは京本に対してもそうで、観客からすれば「藤野が京本に強い想い入れを抱いていること」は分かるが、京本にはあまりそれが実感できなかったのではないか、という気もしなくはない。もしかしたらそのことも、2人の関係の変化に関係しているかもしれない。

そして、藤野がそのようなキャラクターだからこそ、彼女が感情を露わにする場面は、やはり印象的に伝わってくることになる。特に、「私のせいだ」と彼女が口にする場面は、いかに藤野が京本に対して想い入れを抱いていたかが伝わってくるシーンだし、さらに言えば、「そのことをもう京本に伝える機会がなくなってしまった」という絶望をも内包するようなシーンに感じられた。

そして個人的には、その後の展開がとても印象的だった。「あり得たかもしれない未来」が描かれるシーンが続くのだが、ごく一般的な物語であれば、「私のせいだ」と感じている藤野を映し出した後で、「そうじゃないぞ」という描写が続くのが自然な気がするだろう。途中まで、そういう展開になるのだと思っていたのだが、全然違った。どう違ったのかには触れないが、「なるほど、そんな展開になるのか!」と感じさせられたのだ。そしてさらに、その「僕が想像していなかった展開」が、巡り巡って、タイトルの「ルックバック」という言葉に繋がっていくことになる。この構成も上手いよなぁ。

さらに本作では、「お互いが描いた4コマ漫画が、ドアの下の隙間を通って向こう側にいってしまう」という展開によって物語が進む場面が何度かあるのだが、ラスト付近のこの展開は絶妙だなと感じた。普通なら繋がらないはずのシーンをとても上手く繋ぐ要素として機能していて、ホント良く出来てるなぁ、と感じた。

あと、映像的にとても印象的だったのが、藤野がスキップしているシーン。メチャクチャ変なスキップなのだが、なんとなく「凄く藤野っぽい」という感じがするし、その変さが藤野の喜びを一層引き立てている感じもあって、藤野というキャラクターとその時の感情表現をとてもよく描写していると感じた。「変なスキップ」というだけでそれを描き出してしまうんだから、ちょっと凄いよなぁ。

全然関係ないが、昔何かで読んだジブリ映画の話を思い出した。「荒地の魔女が階段を上る」というシーンを描くにあたって、宮崎駿は「荒地の魔女に手を差し伸べるシーン」を入れる予定でいた。そうすることで、「階段を上る大変さ」を表現しようとしたというのだ。しかしそのシーンを、凄腕のアニメーターとして知られる大塚伸治が担当すると聞いて、その「手を差し伸べるシーン」を入れないことにしたという。彼なら、ただ階段を上っているだけで、その辛さが伝わるようなシーンに描けるはずだから、と。

本作『ルックバック』のスキップのシーンを見て、このエピソードを思い出した。恐らくこのシーンは、普通のアニメーターが普通に描いても、先程僕が指摘したような「キャラクター」や「感情」を表現するようなシーンにはならないんじゃないかと思う。本作の監督である押山清高について、原作者の藤本タツキは「アニメオタクなら知らない人がいないバケモノアニメーター」と公式HPに書いているのだが、恐らくそんな凄腕のアニメーターだからこそ実現出来たシーンなんじゃないかと勝手に想像している。

さて、本編ではない部分で印象的だったのは、エンドロールだ。通常アニメ映画の場合、「声優」の名前が最初に置かれると思うが、本作では「アニメーター」の名前から表記されていた。作品のテーマからしても、素敵な選択だったと思う。また個人的には河合優実を推しているので、藤野の声を彼女が担当しているという点も、本作を観ようと思ったきっかけの1つである。

ちなみに、原作はネットで読めるようだ(全部読めるのかはよく分からないが)。

冒頭をちょっとだけ見てみたけど、かなり原作通りに映画化しているんだなぁ、と思う。しかし漫画では、京本の山形弁(でいいのか?)はよく分からない。映画での京本はかなり喋り方が独特なので、これは映像でないとなかなか捉えきれないだろう。

何らかの形で「創作」に関わっていたり関わっていたことがある人には突き刺さる作品だろうし、「創作」に限らず、何かに強い情熱を抱いて突き進んでいる人にもまたグサグサ来る作品ではないかと思う。原作を読んでから観た方がいいのかについては、原作未読の僕にはなんとも言えないが、少なくとも、原作に触れたことがない僕でもメチャクチャ楽しめたことは確かである。

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