【映画】「MINAMATA―ミナマタ―」感想・レビュー・解説

良い映画だった。水俣病のことは、名前ぐらいだが知っていた。しかし、そこに関わっていたフォトジャーナリストがいたというのは知らなかった。

このフォトジャーナリストが、結構ダメなやつなのが、映画としてはとても良い。


この時代と比べれば、今は良い時代だと言っていいだろう。映像なり音声なりを誰でも記録することができ、誰でも発信できるようになり、それによって、「ここで何かマズいことが起こっている」という事実を世界中の人が知ることができる機会が増えた、と言っていい。

この映画の舞台である1971年当時はそうはいかなかった。水俣病の存在が確認されてから15年も、チッソ株式会社は工場の操業をそのまま続けている。裁判も反対運動も行われているが、企業はどこ吹く風だ。「賠償金を払えばいいんだろう」という態度で、反対運動を意にも介さない。

それもこれも、世界の注目を集めることが難しいからだ(それだけが理由ではないにせよ)。

時代は変わった。SDGsというスローガンで地球全体の意識を方向づけようとしているし、投資家が環境問題や社会課題を解決する企業に投資する「ESG投資」が注目されることによって、企業も変わらざるを得なくなった。

それでも、福島第一原発事故のような、企業による人災は起こり続ける。この映画のエンドロールでは、世界中で起こっている公害問題が紹介されていた。この映画で描かれていることは、今も、そしてこれからも起こりうる。


この映画が素晴らしいのは、「報道」に「人間の血」が通っていることが理解できるからだ。

現場をよく知らない人間からすると、「報道」というのは、「他人の家に土足でズカズカ入り込んで、報じられる側が望む望まないに関わらずなんでも映し出していく」という印象がある。「報道被害」という言葉が使われるようになってから、そんな酷い「報道」は現在ではなかなか行われないだろうが、それでも、「報じる側の無神経さ」みたいなものが、報じられる側を傷つけていくような状況は今でも存在するだろう。

この映画の主人公であるユージン・スミスも、こんな言い方で「写真」との向き合い方について語っている。

【アメリカの先住民族は、カメラは被写体の魂を奪うと信じていた。
しかし、実際はそれだけじゃない。カメラは、撮る者の魂の一部も奪い取るのだ。
撮る側も、無傷ではいられない。】

【感情に支配されるな。
そうしないと負けだ。命さえ落としかねない。
何を撮るか、何を伝えるのかに、ちゃんと集中しろ】

これらの言葉は要するに、「自分の心が傷んでもシャッターを押せ」ということであり、つまり言葉だけ捉えれば、「その場に存在する『痛み』に鈍感になって被写体を追え」という風にも受け取れる。

実際、映画の冒頭からしばらくの間は、ユージンはその言葉通りのスタンスでカメラを向ける。通訳を務めるアイリーンから「あなたも共感を示して」と注意されるほど、「水俣病に苦しむ人々」を「被写体」としてしか捉えていないことが伝わる。

しかし後半、その雰囲気が変わっていく。明確な転換点が存在し、そこを境にして「その場に存在する『痛み』に寄り添ってシャッターを切る」という風に変わっていく。

そしてその変化が、「フォトジャーナリズム史に残る傑作」と評される1枚へと繋がっていくのだ。

真実というのは、ただそこにあるだけでは「真実」にはならない。その真実を知らない別の誰かに向けて伝えたい、という想いが加わるからこそ、それは「真実」になるのだ。

そういう意味で、「水俣病」という真実を「真実」に変えたのは、ユージンの写真だったと言っていいだろう。

そしてこの事実は、僕たちにも決して無関係ではない。

自分の身近に存在する真実は、ただそこにあるだけでは「真実」にはならない。それを誰かに伝えたいという想いが加わらなければ、「真実」として世界に定着することはない。

ユージンの時代と違って、誰もが記録し発信できる時代に僕たちは生きている。だからこそ、次のユージンが自分である可能性は常にある。

そんな心構えを持つためにも、観るべき映画ではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
LIFE誌の専属カメラマンとして長く活躍し、日本へも沖縄戦の取材でやってきたことのあるユージン・スミス(皆「ジーン」と呼ぶ)は、ニューヨークの片隅で朽ちかけていた。酒浸りで身体は動かず、金がないから家賃も滞納している。事情は不明だが、子どもたちとも音信不通のような状況らしい。もうどうしようもないと、機材をすべて売り払い、せめて子どもたちに金を残そうと考えた。
そんなタイミングでやってきた、富士フィルムのCM撮影のクルー。その通訳がアイリーンだった。撮影を終えるとアイリーンは、実は別件でお願いがあると話し始めた。日本の熊本に水銀中毒で苦しんでいる人たちがいる。世界の注目を集めたいから写真を撮りに来てほしいのだ、と。ジーンは、機材を売り払ってしまったし、沖縄戦の取材で大変な目に遭ったから日本には行きたくないと断るが、アイリーンは水俣病を伝える記事をジーンに渡して連絡を待つことにした。
記事を見たジーンは、LIFE誌のトップであるボブの元へと乗り込んだ。ジーンはかつてLIFE誌の誌面を盛り上げた立役者だが、経営難で誌面全体の67%も広告にするぐらい追い詰められているボブにしてみれば、ジーンはもう面倒なだけの相手だ。しかしジーンは、水俣病を撮ればピュリッツァー賞ものだと焚き付け、LIFE誌の若手編集部員の後押しもあって、水俣病の撮影へのOKをもぎ取ることができた。
熊本へと降り立ったジーンは、アイリーンと共に生活を始める。既に反対運動や取材に疲れ果てた住民たちは、ジーンが向けるカメラに顔を隠す仕草をするが、少しずつ住民と関わりながら、ジーンは水俣病の現状を理解していく……。
というような話です。

冒頭でも書いたように、ユージン・スミスという写真家が結構ダメな人間で、それが映画全体としてはとても面白い点になっていると思う。

「水俣病」という、視覚的にその酷さが伝わるような公害病を前にしながら、どことなくユージン・スミスは「他人事」でしかいられない。たぶん最初の内は、ピュリッツァー賞を狙おうという野心や、なんとかして子どもたちに金を残そうという思惑なんかが渦巻いていたのだと思う(あまりそれが伝わる場面はないので僕の想像だが)。

しかし、様々な人々との触れ合いや社長の対面、あるいは思いがけない妨害工作など様々な出来事が積み重なることで、ユージン・スミスは「水俣病」ときちんと向き合おうとするようになる。そしてその変化が、水俣の人たちの受け取り方も変えていくことになるのだ。

そういう、ダメ人間であるユージン・スミスの変化を通じて、「水俣病」の酷さと、闘い続けた人々の苦労を浮き彫りにしていく構成が凄く良かったと思う。

難しいのは、この映画はドキュメンタリーではないので、「水俣病そのもの」についてはほとんど触れられていないということだ。これは仕方ないことだけど、映画の受け取り方的に支障が出る部分もあるだろう。

例えば、チッソ株式会社への反対運動が暴力的になっている点について。観る人によっては、「反対運動は仕方ないけど、暴力的な行為はNO」と感じるだろう。確かに僕もそう感じる。ただ、僕も正直「水俣病」には詳しくないのだが、チッソ株式会社の対応があまりに酷いのであれば、映画で描かれるような暴力的な訴えも仕方ないと感じるだろう。

つまりこの点は、水俣病やチッソ株式会社についての事実関係をある程度知らないと判断できない、ということになる。そして、その辺りの事実関係についてはこの映画からだけでは理解できないので、受け取り方は個々の判断次第ということになってしまうだろう。

ユージン・スミスという写真家に焦点が当たっている以上、水俣病周辺の詳細について映画の中に盛り込むのは難しいし、僕は、この映画はこの形で一つのまとまりになっていると感じるが、やはり事実は事実として知る機会は必要だし、この映画を観終えた人が、その事実関係を知るためにどんなアプローチをすればいいのか、について、例えば公式HPなりで知ることができるといいなと感じた。

あと、映画そのものとは関係ない話だけど、日本人俳優の英語の上手さに驚いた。別に、英語がちゃんと聞き取れるわけじゃないんだけど、いわゆる「日本人が話してる英語」みたいな感じがまったくなかった。アイリーン役の美波って方は、元々英語が喋れる人なんだと思うけど、國村隼も加瀬亮も上手くて驚いた。加瀬亮なんか、最初の登場シーンでは誰だか分からなかったくらいだ(そのシーンだけ出てくるエキストラかと思った)。

良い映画だった。観て良かった。

(追記)

映画を観ている時も、映画を観終わって感想を書いている時も全然気づかなかったのだけど、映画に出てくる、ユージン・スミスからカメラを借りて写真を撮る少年は、青木柚だそうだ。

驚いた。

僕は、映画「サクリファイス」も映画「うみべの女の子」も観ていて、青木柚という役者は結構注目しているつもりだったのだけど、全然気づかなかった。

というか、青木柚が演じていた役は、「本当に障害を持っている人が演じているんだ」と思い込んでいたから、なおさら驚かされた。

凄いな、青木柚。

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