【映画】「ハッピーアワー」(濱口竜介監督)感想・レビュー・解説
去年の年末から昨日まで、立て続けに4本の濱口竜介作品を観た。
観た順に並べると、
『ドライブ・マイ・カー』
『偶然と想像』
『親密さ』
『ハッピーアワー』
となる。
では、良かった順に並べてみよう。
『偶然と想像』
『ドライブ・マイ・カー』
『親密さ』
『ハッピーアワー』
『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』は僅差、『ドライブ・マイ・カー』のちょっと下に『親密さ』、そして『親密さ』から大分離れて『ハッピーアワー』という感じだ。
正直ちょっと、『ハッピーアワー』はピンとこなかった。
『親密さ』を観たのと同じ流れで、下北沢のK2という映画館で観た。他にも様々な濱口竜介作品が上映される中、5時間という長尺の『ハッピーアワー』のチケットはすぐに売り切れてしまう。昨日も私は、一番前の席で観た。チケットを買う際、選択肢がかなり限られていたからだ。
『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『親密さ』がとても良かったこともあり、『ハッピーアワー』への期待値はかなり上がっていたと言っていい。
しかし、それは『親密さ』の時も同じだ。『親密さ』は、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』を観て上がっていて私のハードルを、超えこそしなかったものの、匹敵するレベルで良かったと思えた。
『ハッピーアワー』は残念ながら、ちょっとそんな風には思えない作品だった。
正直、濱口竜介作品に触れる順番は正しかったと思う。もし『ハッピーアワー』を最初に観ていたら、それ以降濱口竜介作品を観ようとは思わなかったかもしれないからだ。
『親密さ』と同じく、『ハッピーアワー』も役者の演技はとても下手だ。恐らくこれは、「下手に演じてもらっている」のではなく「下手」なのだと思う。役者は演技経験がなく、市民参加によるワークショップから生まれた作品だそうだ。
「感情が乗らない演技」は、私が観た濱口竜介作品に共通するものだし、『親密さ』でもお世辞にも上手いとは言えない演技を観ていたので、「演技が下手」という点に対する不満はない。
私は、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『親密さ』の感想を書いてきたが、それぞれに共通して感じたことは、「映像的な部分よりも先に、別の『何か』が前面に出てくる」という点だ。それぞれ「自然な不自然さ」「脚本」「言葉」が、「映像的な部分」よりも強く押し出され、それによって、「感情が乗らない演技」「役者の演技が下手」という「映像的な部分のマイナス(に思える点)」がまったく気にならなくなる、という体験に、僕は凄く面白さを感じていた。
ただ『ハッピーアワー』は、「映像的に描かれる物語」が主軸になるという、一般的な映画と同じ感覚の作りであり、だから結果的には、「演技が下手」という点が目立つことになってしまう、と感じた。
「映像的に描かれる物語」は、結構面白かったと思う。特に、男の僕が言っても説得力はないけど、女性的な感覚の描写が本当に上手いと思う。脚本は「はたのこうぼう」という、濱口竜介を含む3人が担当したらしいが、たぶん3人とも男性だ。凄いものだなぁと思う。
ただ、やはり僕としては濱口竜介に「映像的に描かれる物語」の面白さを求めているわけではない、と感じてしまう。上手く言えないけど、違うんだよなぁ。
僕がこの映画で一番好きだったシーンは、「ある人物の妹」(それが「妹」と判明するのは後半なので伏せておく)と主人公の1人が、地下の薄暗いバーで話をしている場面だ。ここが一番良かった。
それまで観た濱口竜介作品は、カメラのカット割りも含めて「動き」の少ない中で役者がひたすら喋る、という要素が多く、それで画面が成立していることに驚かされることが何度もあった。『ハッピーアワー』の中では、まさにこの場面がそうだと感じる。バストショットの女性2人を固定で捉えて、2人がただ喋っている。しかもその内容が、ちょっと奇妙なのだ。しかし、お互いに奇妙だと理解していながら、深い部分で共感もしている。僕らの日常の中でも、その瞬間その場所でしか成立し得なかった奇跡的な関係性みたいなものが現出することは時々あると思うけど、まさにそういう瞬間を切り取っている感じがする。
2人のやり取りやちょっと緩んだ関係性、自分のことを曝け出してみてもいいと思える雰囲気、そういうもの全部がひっくるめて「この瞬間この場所だけのもの」という感じがあり、その雰囲気が凄く好きだった。あと個人的に、「ある人物の妹」はとても好きだなと思う。友だちになりたい。
映画の中に、新作小説の朗読会の場面がある。その朗読会の後のトークショーで対談相手を務めた「ヒノコウヘイ」(公式HPを見ても、役者の名前しか載っていないので、役名の漢字が分からない)が、「やっぱり私は、世界の残酷さを写し取った小説を読みたいんだなと思いました」と言う場面があって、それは僕も同じだ、と思う。
僕の場合は、より広く「奇妙さ」という言葉の方がしっくり来るが、とにかく「世界はこんなにも狂っているんだ」ということを、現実を知る、あるいは物語に触れることで実感したいという気持ちがある。
確かにこの『ハッピーアワー』にも「残酷さ」は描かれており、そこにグッと来る人もいると思うのだが、ちょっと僕の好きな感じではない。
というか、違うか、「残酷さ」が描写されるのがかなり後半になってからで、それまでの間しばらくは「残酷さ」と無縁、という点に違和感を覚えるのかもしれない。映画の後半は、それまでの流れを踏まえながら様々な「残酷さ」が一気に展開される流れになるが、映画が始まってから恐らく最初の3時間ぐらいは、ほとんど「残酷さ」は描かれない。後半の場面を観て、後から振り返る形で「前半のあの場面は残酷なシーンだったんだ」と気づくこともあったと思うが、僕としてはちょっと、「残酷さ」が出てくるのが遅すぎたような印象がある。
「奇妙さ」という点で言えば、先ほど名前を出した「ヒノコウヘイ」は、とても奇妙な存在だ。物語には結構後の方から関わる形になるのだが、個人的にはなかなかインパクトを感じる存在だった。
彼は常に「何を考えているのか分からない存在」として登場し続けるのだが、彼が最後に出てくる場面で、とても印象深いことを言っていた。具体的な状況には触れないが、彼は今なかなか袋小路の状況にある。彼自身は「進むも地獄、退くも地獄」なのだが、彼を取り巻く全体について考えれば、「ヒノコウヘイが退く方が全体の利益に適う」という状況にある。というか、少なくともヒノコウヘイの周辺の人間はそう信じている。
しかしヒノコウヘイは「退く」という決断をしない。その理由を彼はこんな風に断言していた。
【ただ私は、自分が幸せになる道を知っている。唯一の道だ。私は、そこを進むしかない。】
彼のこのセリフさえ、彼を取り巻く周囲の人間には恐らく理解されない、とても奇妙なものだ。僕が彼の立場だったらたぶん「退く」ことを選んでしまうだろうし、そういう意味でも、彼のその選択は共感できるものではない。
しかしヒノコウヘイのことを「理解不能」と判断するのは間違っているとも感じた。彼は彼なりに、状況をすべて理解し、自分の選択が間違いだと嫌と言うほど分かった上でその道を進もうとしている。その決断が自分以外の誰も幸せにすることはないと理解しているが、しかしそれでも、自分が幸せになるためにはどれほど周りを不幸にしたところでこの道しかないんだ、と決めて行動しているのだ、ということが理解できたので、ある意味でヒノコウヘイという人物に対する理解は最後の最後でストンと落ちた感じはある。
この場面では、ある人物が、「ヒノさんは、自分のために言葉を使っている感じがあります。違和感はありません。でも……」という形で意見を差し挟む。この瞬間もとても良かった。白黒が一気に反転するみたいな爽快さがある。長い時間を掛けて「女4人」の日常や非日常を追ってきているから、どうしても「女4人」側の目線になってしまう。しかしこの指摘は、そんな観客を「ハッと」させるものだった。
あと、役柄的にそういう立ち位置だということもあるが、純が絡む場面は印象的なものが多い。物語全体とさほど密接に関わるものではないが、有馬温泉からバスで帰る車中での会話は、その意味があるとは思えない奇妙な会話が面白かった。また、フェリーに乗る場面も、そうかそこにこの人物がいるのか、という事実も含め、インパクトのある場面だったと思う。
あと非常にどうでもいいことだけど、映画の中に恐らく濱口竜介本人が出演していてびっくりした。
最後に。この映画を観ながらずっと感じていたことは、「本職の役者ってホントに凄いんだな」ということだ。僕たちは、「ドラマや映画はこういうもの」と昔から刷り込まれているから当たり前に観ているけれど、やっぱり「作品世界の中で不自然さを感じさせない演技の上手さ」というのは凄いことなんだなと感じる。
基本的にこの『ハッピーアワー』は、全員演技が下手なので、演技が下手であることによる違和感は最後の最後までつきまとう。それを、普段見るドラマや映画からは感じないという凄さみたいなものを、改めて実感させられた感じがある。
しかしなんだかんだ言って、演技未経験者たちによる5時間もある映画を、決して飽きさせずに観させてしまう力は見事だと思うし、そういう意味では唯一無二だろうなと感じる。
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