【映画】「きっと地上には満天の星」感想・レビュー・解説

これはなかなかハードな話だ。しかも、映画そのものは実話ではないものの、この物語には原案となったノンフィクションが存在する。『モグラびと ニューヨーク地下生活者たち』という、NYの地下で暮らす者たちを描いた作品だ。

以前、『ルーム』という映画を観たことがある。これも、実話そのものではないものの、実話を基にした物語だ。17歳の時に誘拐された少女は、誘拐犯に地下の部屋に監禁される。誘拐犯からのレイプで子どもを身ごもった少女は出産、生まれた子どもは、その地下の部屋から外に出ずに5歳になる。少女は息子に、「ドアの外は宇宙だから出たら死んでしまう。テレビの向こうの世界は全部ニセモノ」と言って納得させていた。そんな2人が、決死の計画でその地下室を脱出するところから、さらなる悪夢が始まる、という物語だ。

映画『きっと地上には満天の星』も、似たような雰囲気を醸し出している。この映画には、詳しい情報が描かれないため、推測するしかない部分もあるのだが、NYの地下で暮らすニッキーの娘リトルは恐らく、一度も地上に出たことがない。母親はリトルに、「翼が生えたら地上に出られる」「翼がないのに地上に出たら怪我をしちゃう」と説明している。リトルは、自分の背中に翼が生えるのを今か今かと待ちわびている。そんな母娘の物語だ。

物語の冒頭から、不穏な雰囲気は漂ってくる。それは、この地下コミュニティが閉鎖されるかもしれない、という噂のせいだ。NY市が本腰を入れてここを撤去しに掛かっているということが、大人たちの会話からぼんやりと伝わってくる。ニッキーとリトルのそれまでの生活を「平穏」と呼んでいいのかは大いに疑問ではあるが、しかし、とりあえず「平穏」と呼ぶことにして、彼女たちのその平穏な生活は近いうちに奪われてしまうということが冒頭から示唆される。

映画を観ながら僕は、「この後どう展開するのだろう」と考えていた。やがて、何らかの事態が起こって母娘が地下から追い出されることは分かっている。しかし、その後は一体どうなるのだろう?

映画『ルーム』の方はまだイメージが出来た。地下室を脱出した彼らは誘拐の被害者であり、救助されればそれまでとは違う「平穏」な生活が待っているはず……と思わせつつ、実際には、地下室の中でしか生きた経験がない息子が、「外の世界」に恐怖してしまう様が描かれていく。そういう世界が描かれるのだろう、ということは、なんとなく予測可能だった。

しかし、映画『きっと地上には満天の星』は、その後の物語がまったく想像できなかった。というのも、この母娘は、この地下コミュニティにいる時点で、どん詰まりもどん詰まりだからだ。しかも、次第に明らかになっていく事実だが、ニッキーは薬物に依存してしまっている。薬物依存に陥った、地上には住む場所も頼れる人もいない母娘が、この地下コミュニティを追い出された後で、どうにかなる想像が出来なかったのだ。

そして物語は、ある意味で驚くべきことに、「どうにもならない」ことを描き出すものだった。そりゃあそうか。やはりこのどん詰まりから、奇跡的な何かが起こって事態が好転するとはやはり想像しにくい。「どうにもならない」ことを描くしかないだろう。

ただ、映画を最後まで観て、本当の主題が分かったように思う。ラストの展開のネタバレになってしまう要素を含む話なのでぼやっと書くが、「娘のために出来る最善の選択とは何か?」という問いに対峙する母親の変化こそが、この物語で最も焦点が当てられる点だったのだ。

映画のラストは、本当に考えさせられた。

普遍的な正解は存在しない。というかそもそもだが、「ニッキーが直面したような問いにぶち当たらずに済む社会」こそが正解なのであり、この問いが突きつけられている時点で既にどんな選択も不正解でしかない。だから、ニッキーがした選択の是非を問うことには意味がないと思うし、彼女は彼女なりに考えて決断を下していることが分かるので、良いも悪いもない。

僕は結婚していないし子どももいないからニッキーと同じ気持ちに立つことはなかなか難しい。しかしそれを無理やりやってみることにして、ニッキーと同じ立場に立たされたらどうするだろうかと考えてしまう。

僕はきっと、もしニッキーと同じ決断をするのであれば、もっと早い段階でしていただろう、と思う。あのラストシーンに辿り着くずっとずっと前に、そういう決断をするだろう。だから僕の場合、そういう選択をこれまでせずにあのラストシーンを迎えたということになるので、つまり、ニッキーとは逆の決断をするんじゃないかと感じた。

どんな決断に至るにせよ、最悪であることに変わりはないが。

ニッキーがどうして地下で生活することになったのか、リトルの父親とはどういう事情で別れたのかなどについてはほとんど語られないので分からない。彼女が薬物に手を出してしまったのも、否応なしに地下に追い詰められたことによるストレスがきっかけであり、地下に辿り着く以前から中毒だったわけではないかもしれない。その辺りの事情はさっぱり分からない。ニッキーは、頑張っていたのに運悪く地下にたどり着いてしまった不幸な人かもしれないし、元々自堕落で努力もせず来るべくして地下にたどり着いた人なのかもしれない。

ただ、そこに至るまでの過程はどうあれ、やはり、せめて非のない子どもにはきちんとした環境が与えられるようにしてほしい。

いや、映画を観る限り、行政はそういう選択肢を用意しているようだ。しかし恐らくだが、そうなると、母と娘は離れ離れになってしまう。ニッキーも誰かと電話している最中に、知り合いの女性が電話一本で子どもを奪われた、と叫ぶ場面があった。

ニッキーにとってはとにかく、リトルと離れ離れになることが何よりも恐怖だったのだ。

日本の場合、状況は少し異なる。法律上「親」の立場が非常に強いので、よほどのことがない限り、子どもは親元へと返される。

しかし映画を観る限り、少なくともNYではそうではないようだ。恐らく、「親」よりも行政の方が強いのだろう。というか、日本の場合は「子どもは親の付属物」という感覚が強いが、欧米では「子どもは1つの独立した人格」という捉え方が強いと聞いたことがあるので、そういう意識の違いによるものかもしれない。

ニッキーのあらゆる行動の背景には、この「リトルと離れ離れにされてたまるか」という感覚が横たわっている。実際のシステムがどうなっているのか、僕には知識がないので判断できないが、恐らくちゃんと調べれば、母娘が離れ離れにならずに助けを求められるような仕組みも存在するのではないかと思う。しかし、これはニッキーに限らずだし、日本でも同じだが、そういう支援を必要としている人のところにこそ、正しい情報が届かない。ニッキーはとにかく、行政や警察に助けを求めたらリトルを取られてしまう、という思考しかない。だから公的な機関に助けを求める発想がない。

「支援する側の行政」と「支援を受ける側の弱者」のミスマッチがあるとすれば不幸でしかないし、残念だと思う。

内容に入ろうと思います。

NYの地下鉄の下に、迷宮のような広い空間がある。そしてそこに住み着いている人々がいる。皆、地上では上手く生活を成り立たせなかった者たちだろう。当然、光など一切差さない世界であり、ゴミもうず高く積まれている。恐らく、悪臭も凄まじいのではないだろうか。どこかから引っ張ってきている電気でちらほら明かりはあるし、スマホも使えるが、およそ人間が住むのに適しているとは言い難い環境だ。
ニッキーとリトルはここで生活している。いつからここにいるか分からないが、リトルが恐らく地上に出たことがないだろうことを考えると、少なくとも5年以上はここにいることになる。ニッキーはもしかしたら、リトルが生まれる以前から地下生活をしていたかもしれない。
何の仕事をしているか分からないが、地上へと仕事に出ているニッキーは、地下コミュニティの誰かにリトルを預けて出勤する。リトルは一日中地下にいて、タブレットで動画を観たり、一人で歌を歌ったりしている。「翼が生えれば地上に出られる」という母親の嘘を信じており、早く翼が生えないかと心待ちにしている。
そんな地下コミュニティが慌ただしい。行政から退去命令が勧告されているのだ。それを受けて、ちらほらと地下を後にする住民も出始めている。ニッキーも、地上でリトルと生活するための態勢を整えようとしているようだが、なかなか上手くいかない。地下で薬物の売人をしているジョンにまで、「クスリなんかやってないで娘のことを考えろ」と怒鳴られる始末だ。
ある日、誰もリトルを預かってくれず、家にリトルを1人にしたまま出勤したニッキー。そしてまさにその日、住宅地域資源局の面々が地下にやってきて、「あなたたちを支援したい」と言う。行政を信じていないニッキーは、大いに逡巡した後、リトルを連れて地上へと逃げる決断をした。
リトルにとってそこは、音と光と色の洪水の世界だった。目を開いていられず、また恐怖からか電車でおもらしをしてしまう。ニッキーは知人に電話を掛けまくるも、助けてくれる人はいない。困り果てた彼女が向かったのは、かつて散々迷惑を掛けた「元職場」で……。

行政が直接乗り込んでくるまでの描写については何日か日を跨ぐ物語だが、行政が来てからの展開は、1日程度のものだろう。とにかく、彼女たちが地上に出てからは、それまでとは時間の進み方が変わる展開になるので、非常にドキュメンタリー感が強くなる。特に、地下鉄でのあのシーンからしばらくは、ワンカットで撮ってるんじゃないかと思うぐらい、そのままリアルタイムの進行を見せていたと思う。映像的にも、手持ちカメラのブレてる感じがそのままで、ニッキーの動揺みたいなものが画面越しに伝わってくるような感じがあった。とても臨場感がある。

また映像は全体的に、「リトルの視点」を意識して作られている。冒頭からしばらくの間、地下コミュニティの閉鎖に関する話題が大人たちの間で交わされるが、それが断片的にしか観客に示されないのは、「この映像はリトル視点である」ことを強調するためだったように思う。リトルには、地下コミュニティを退去するみたいな話は理解できない。まだたったの5歳なのだ。

地上に出てからも、光や色に視線を奪われたり、地下では聞いたことのないような音に耳が奪われたりする様が、映像でリアルに表現される。リトルにとっては「翼が生えなければ怪我してしまう世界」にいるわけで、地下にいた時とは比べ物にならない不安感に襲われている。そんな心情を反映しているかのような映像の感じにリアルを感じる。

というか、リトル役の女の子が凄いと思う。公式HPを見ると、現在11歳のようで、映画撮影時はきっと9歳か10歳ぐらいだっただろう。さすがに役の年齢の5歳ではないわけだが、それにしたって、実に表情豊かに「地上で不安を感じる少女」を演じている。地上に出てすぐ、視界も音も慣れないものばかりの世界で感じたことのない不安を抱く彼女の表情は、本当に5年間日の光を浴びていない人のものに感じられた。彼女の演技が見事だったからこそ、この物語が実にリアルなものに仕上がっていると感じた。

公式HPを見て驚いたが、この映画、主演の女性が監督・脚本を担当しているようだ(監督・脚本は、ローガン・ジョージという人との共同のようだが)。本作が長編映画デビューだそうだ。凄いもんだ。

映画の原題は「Topside」。「Upside」みたいな一般的な単語かと思っていたら、「上側」という意味以外に「上甲板」という意味があるそうだ。船の一番上部の床、みたいなことだ。恐らく、地下コミュニティから地上に出ることを船に見立てたタイトルなのだろう。この映画に関しては、邦題の方が良いんじゃないかと思った。

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