【映画】「ONODA 一万夜を越えて」感想・レビュー・解説

初めて「小野田寛郎」について知った時のことを覚えているわけではないが、この映画を見るまでの僕は、「小野田寛郎」という人に対してあまりプラスのイメージを持っていなかった。

僕が知っていたのは、「小野田寛郎は戦争が終わっていることを知らず/信じず、30年近くもフィリピンの山で生活を続け、その後日本に戻った」という程度の知識でしかない。そして僕が知っていた知識で考えると、「ちょっとそんな判断はあり得ないだろう」と思っていた。

いくらなんでも、「上官の命令がなければ、戦争が終わったと受け入れられない」という判断は、正しくないように思えていた。

もちろんこれは、僕が「戦争」を知らないからだろう。戦時中には、「戦時中の常識」があって、それをベースに考えた時、小野田寛郎の判断はそこまで大きくは間違っていないのかもしれない。

そう思っていても、僕は、小野田寛郎という人に、「ちょっと違うよなぁ」という感覚を抱いていた。

映画を観て、大分印象が変わった。

そもそも僕は、「小野田寛郎が、途中まで4人で生活していた」ということさえ知らなかった。そう、小野田寛郎と同じ意思を持ってフィリピンの山中に潜んでいた同志が、他に3人いたのだ。

他にも知らなかったことが山ほどあり、それらの情報によって「小野田寛郎」という人物への印象が変わった、という側面ももちろんある。

ただ、映画を観ながら感じていたもう1つのことは、「誰もがそれぞれの『現実』を生きている」ということだ。

「小野田寛郎が生きた現実」は、あまりにも他の人と違っていたので、様々に取り上げられたり、こうやって映画になったりした。しかし、程度の差こそあれ、「誰もが違う現実を生きている」という状況そのものは、皆同じだと思う。

あさま山荘事件を起こした連合赤軍や、ジハードという名前で自爆テロに臨むイスラムの兵士など、「自分とは違う現実を生きていること」が分かりやすい例もある。私が最近結構驚いたのは、「Qアノン」についてだ。これは、「世界規模の悪を行う陰謀が存在し、トランプ大統領はその秘密結社と戦う英雄だ」という考えである。どう考えてもそんなわけがないが、これを心の底から信じる現実を生きる人が実際に存在する。

「違う現実」というとこういう悪い話ばかり捉えがちだが、それだけではない。例えばライト兄弟は、「人類が空を飛ぶ」などという世界が夢のまた夢だった時代に、真剣に空を飛ぶことを目指した。これもまた、普通の人とは違う現実を生きていたと言っていいだろう。

僕は、「事実」と「真実」の関係をこんな風に捉えている。「事実」というのは1つしかない。誰の目にも見える、あるいは映像や音声や文字などで記録されている、動かしがたいものだ。そして「真実」というのは「事実の解釈の仕方」であり、人の数だけ存在する。

小野田寛郎はある時、自分の父親が拡声器を持って呼びかけている場面を目撃する。映画では詳しく描かれないが、恐らく、「フィリピンにまだ日本兵が残っている」という情報を元に、日本政府なりが企画し投降を促すような機会を作ったのだろう。この時点で既に、終戦から10年ほど経っていただろう。

映画の中で小野田寛郎は、拡声器を持って呼びかける父親に銃を向けようとする(仲間に止めるよう促されて銃を下ろした)。その後、小野田寛郎がその時の状況をどう捉えていたのか明らかになる。

小野田寛郎は、「父親に似た人物を探し、声帯模写の訓練をさせた」と解釈していた。そしてさらに、この解釈を前提として、「声帯模写の訓練をさせるなど手間が掛かる。つまり、それほどの時間を掛けてでも我々に投降を呼びかけて出てこさせることに価値がある、ということだ。となれば、やはりこの島は、今後の戦略上非常に重要に違いない」と考える。

小野田寛郎は「事実」をこのように「解釈」することで、自分なりの「真実」を作り上げる。

確かにこの「真実」は、大いに間違っている。しかし「事実の解釈を間違えること」は、誰にでも起こりうることだ。小野田寛郎は、その間違いがあまりに大きかっただけでしかない。

映画を観ながらそう考えるに至り、「小野田寛郎」という人物への印象が大きく変わった。

さて、考えなければいけないことは、「『事実の解釈』が間違いだと指摘するために何が必要か?」ということだ。この視点を突きつけるという意味で、この映画は、単なる「戦争を描く作品」ではない、と僕は感じた。

小野田寛郎に対して、「その『事実の解釈』は間違っていますよ」と誰もが躊躇なく言うことができるのは、その「解釈」が小野田寛郎自身にとって悲惨だと想像できるからだ。「戦争が未だに継続している」と解釈することで、小野田寛郎にとって良いことは何もない。小野田寛郎自身がどう考えていたのかは知る由もないが、客観的には誰もがそう判断できる。

では、映画『マトリックス』のような状況だとどうだろう。僕は『マトリックス』をちゃんと観たことがないのでなんとなくふわっと設定を知っている程度だが、「脳に挿し込んだ電極によって見せられている『仮想現実の世界』で生きている」という事実に気づいた主人公が闘いを挑む、んじゃないかと思う。

さてでは、「『仮想現実の世界』に生きていて、その人生に満足している人」に、「その解釈は間違っていますよ」と言えるだろうか? そう伝えることは、正義だろうか?

僕にはよく分からない。

そしてそもそも「事実の解釈」が間違っているかもしれないと考える状況に直面するのは、他人の「事実の解釈」と齟齬が生じる場合だ。同じ解釈の仕方をする者同士で固まっていれば、「事実の解釈」が他の人と違う、という事実にさえ気づかないだろう。

果たして、そのこと自体を「間違っている」と言えるだろうか?

少しだけ想像してみる。もし小野田寛郎が、「まだ戦争が続いている」という現実の中で死ぬまで生き続けたとしたら、どちらが幸せだっただろう、と。

こんな問いが成り立つのは、「『戦争終結後』も小野田寛郎は人を殺している」からだ。この現実はなかなか重い。

戦争が継続しているのだ、という世界にずっと生き続けられれば、彼の「不法行為」は不法行為ではなくなる。「戦争」という枠組みの中では、「正しい」と判断され得る行為だからだ。

しかし小野田寛郎は、とうの昔に戦争が終わっていたことを知ってしまった。それはつまり、自分が殺した者たちは「罪なき者」であり、自分の行為は許されざるものだということになる。

もちろん、戦争という場において人を殺した者も、きっとその後自責の念を抱くだろう。しかし小野田寛郎の場合は、「戦争だったのだから仕方ない」という言い訳は、少なくとも世間的には成り立たない。小野田寛郎自身は「自分は戦争が継続していると思っていたのだから仕方ない」と思える可能性はあるが、しかし自分以外の者からの目線はどうしても気になってしまうだろう。

そんな風に考えた時、「戦争が継続している」という現実に生き続けたまま死ぬ、という選択肢の方がマシだと考える可能性もゼロではないと思う。

心理学の世界に「認知的不協和」と呼ばれるものがある。これは、自分がもともと抱いていた認知とは異なる認知を抱えた時に、その不協和に対して不快感を覚える状態をいう。そしてこの「認知的不協和」の状態に置かれた時、その不協和を解消する方向へと自分の認知を改変することが知られている。

人間は、「認知的不協和」を抱えた状態には耐えきれないということだ。

小野田寛郎が直面した「認知的不協和」は、あまりにも大きい。その衝撃を少しでも体感できる映画ではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
小野田寛郎は、航空兵を目指していたが高所恐怖症だと判明し断念、自暴自棄になっていた。そんな時に出会ったのが、陸軍中野学校の谷口義美だ。彼は通常とは異なる訓練を受け、「秘密戦」を行うべく鍛え上げられた。陸軍中野学校では、「君たちに死ぬ権利はない」「玉砕などするな。どんな場合でも、生き残るための選択肢を探れ」「3年でも5年でも、椰子の実しか食うものがなくても生き延びろ。必ず私が迎えに行く」と叩き込まれた。
その後小野田寛郎はルバング島へと送られ、敗戦濃厚の兵の指揮権を担うが、意見の食い違いなど様々あり、最終的に小野田、小塚、島田、赤津という4人で「任務」の遂行を続けることになる。
一度、現地の者と戦闘状態になった際、「war over(戦争は終わった)」と繰り返しているのを耳にした。しかし小野田はその言葉を信じず、残りの3人にも日本兵としての使命を認識させ、「援軍が来るまでルバング島全体を把握し、援軍到着後にすぐ情報提供が出来るようにする」という任務を続けることになる……。
その後、日本に帰還するまでの30年弱を描き出す。

映画としてはちょっとどうかなと感じる部分もあったが(僕でも分かるぐらいCGがチープとか)、内容は非常に興味深かった。

小野田寛郎と共に任務を続けた者が他にもいたと知らなかったと冒頭で書いたが、もう1つこの映画を観て驚いたのは、小野田寛郎が日本に帰還するきっかけとなった経緯だ。なんと、日本人旅行者が小野田寛郎を見つけ出し、その生存を報告したことなのだ。

【僕はね、「野生のパンダ」「小野田さん」「雪男」の順に見つけようと思ってたんですよ。でもホント、小野田さんに会えるとは、本当に思ってなかったです】

その旅行者はこんな風に言う。この言葉で、当時「小野田寛郎」という人物が日本でどういう風に受け止められていたのか理解できるだろう。公式HPによれば、1959年には既に小野田寛郎の死亡が認定されていたという。誰もその生存を信じていなかったのだ。

まあそうだろう。普通には信じがたい話だ。

どこまで事実か不明だが、映画ではその後、この旅行者が小野田寛郎の上官・谷口義美を説得してフィリピンまで連れて行ったことになっている。いずれにしても、この名もなき旅行者が小野田寛郎に関心を持ち、「雪男」と同列に並べるほど出会えるかどうか分からない中でルバング島まで行き、実際に小野田寛郎と邂逅しなかったら、小野田寛郎の日本帰還はあり得なかったというわけだ。凄い話だと思う。

あまりに特異な物語であり、現実であるのだが、決して他人事ではないし、「事実の解釈」が食い違うことは現代社会でも頻繁に起こりうることだ。そういう状況に直面した時、どう判断し行動すべきかが問われているように思う。

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