【映画】「声もなく」感想・レビュー・解説

奇妙な、とても良い映画だった。
何が一番凄いって、この映画の中でほとんど描かれなかったことが、最も印象に残るという点だ。

簡単に設定を説明するとこうなる。ある理由から、数日女の子を預かってくれと言われた男の部下(喋ることができない)と、誘拐目的で連れ去られた女の子が、一緒に生活するという物語だ。

どことなく「万引き家族」を彷彿とさせた。

「万引き家族」では、「その存在が『犯罪』であるような家族」を描きながら、本当に映し出していたのは、そんな「家族」を許容しない「社会」の方だった。「『犯罪』なんだから誤りだ」という主張だけでは零れ落ちてしまうものが世の中には存在し、それを受け容れない社会の方に焦点が当てられていたと思う。

この「声もなく」という映画でも、「誘拐犯と被害者の関係」が描きながら、本当に映し出されていたのはまったく別のものだったと僕は感じた。

それは、なぜチョヒは、誘拐犯との生活に馴染んでいたのか、という点に関係する。

誘拐されてきたチョヒは、最初から従順だった。ある意味「達観している」という佇まいだ。「私は殺されるの?」「お父さんはお金を払う?」など、自分が置かれた状況を理解しつつ、慌てるでも騒ぐでもなく、現状を静かに受け容れているように見える。

もちろん、彼女は彼女なりに知恵を絞っていた可能性は十分にある。今の時代、様々なことがネットで調べられるし、映像でも本でも様々な物語に触れられる。「従順なフリをしておいて、相手が油断した隙に逃げる」という作戦を立て、それをクールに実行していただけなのだ、という捉え方も決して不可能ではない。

ただ、映画を観た人なら分かるだろうが、やはりその説明でははみ出てしまう描写が結構ある。特に印象的だったのは、チョヒが誘拐犯にスコップを渡す場面だ。それがどんなシーンで出てくるのかここでは書かないが、「従順なフリ」というだけでは捉えきれない余白が彼女にはある。

その余白について、映画の中ではほとんど描写されない。最も具体的に映画の中で触れられるのは、チョヒが「パパが嫌ってるから。弟がいれば十分みたい」と口にする場面だろう。

そう、どうやら彼女は、家族の中でちょっと浮いた存在だったようだ。

チョヒの家族に関しては、ほぼ説明がない。しかし、身代金目的に誘拐されるのだから、裕福な家庭なのだろう。時代設定についても明示されなかったが、スマートフォンではなくガラケーのような携帯電話を使っていたので、一昔前だと思われる。恐らくその時代の韓国はきっと、今以上に男尊女卑というか、昔の日本のような「男児が絶対」みたいな世界だったのだろう。

そしてそういう中で、長女であるチョヒは父親に目を掛けてもらえていない。明らかに、弟ばかりが愛されている、というわけだ。

そういう中で彼女は誘拐された。だからチョヒは、ずっと揺れていたのだと思う。

自分は本当に、家に戻ることが正解なのだろうか、と。

揺れていた、という表現はたぶんおかしい。少なくとも彼女は、「絶対に帰る」と決めていたはずだ。普段のチョヒにはそんな素振りは見られないが、映画の随所で彼女の「帰るんだ」という決意が見え隠れする。

しかし一方で、チョヒは、今この状況も決して悪くはない、と思っていたのだと思う。もちろん、そんな風に口にする場面はない。あくまで僕の想像だ。

彼女にそう思わせた大きな要因は、誘拐犯の1人であるテインの妹・ムンジュだろう。テインとムンジュは、農村にポツンと建つ小屋のような家に住んでいる。トイレは敷地内の別の建物、部屋中は物が散乱して汚く、ムンジュはボサボサの髪で洋服が敷き詰められた部屋で転がっていた。チョヒは初め、ムンジュも自分と同じく誘拐されたのだと思い込んだほどだ。

チョヒはムンジュに、姉のように接し始める。服にたたみ方を教え、食事のルールを守らせ、洗濯を一緒にした。一緒に勉強し、一緒に遊び、ムンジュはチョヒを「おねえちゃん」と呼ぶ。本当の姉妹のようだ。

恐らくだが、チョヒは初めて「家族っぽさ」みたいなものを感じたのではないかと思う。この点が、「万引き家族」を彷彿とさせたポイントだと思う。

いつか必ず家には戻る。ただ、ここにいれば、本当の家族と一緒にいる時には感じられない「家族っぽさ」を感じることができる。だから、家に帰るのを少し先延ばしにしてもいい……。チョヒの中には、こんな葛藤があったのではないかという気がするのだ。

最後ある場面でチョヒが、誰かに向かってお辞儀をする場面がある。ここでも、状況を具体的に説明する描写はない。しかし観客は、チョヒが誰にどのような気持ちでお辞儀をしたのか、想像できるだろうと思う。

結局のところチョヒには、「どちらの地獄を選ぶか」という選択しかなかったわけで、僕はチョヒがお辞儀をした場面で、「こっちの地獄を生きるのだ」という決意を感じ取った。

さて繰り返すが、ここまで僕が書いてきた「チョヒの背景」は、すべて僕の妄想でしかない。映画の中では、ほとんど明確に描かれることはない。しかし、映画の端々から「チョヒの現実の辛さ」が伝わり、映画そのものの内容・展開以上に、「チョヒがこれまで立ち向かっていた現実」の方に目が向いてしまう。

そういう意味で、もの凄く奥行きの深い映画だと思う。目に見える部分もとても面白いのだが、目に見えない部分もまた非常に興味深いのだ。

とても良い映画だと思う。

内容に入ろうと思います。
普段は卵の移動販売の仕事をしているチャンボクは、テインが幼い頃から育ててくれた親のような存在だ。そんなチャンボクとテインは裏の仕事を請け負っている。ヨンソクという男から、殺人と死体処理を任されるのだが、2人には、連れてこられるのが誰で、どういう理由で殺されることになったのか知る由もない。彼らはただ、依頼された人物を殺し、死体の処理をするだけだ。
そんなある日、ボスであるヨンソクから、「数日人を預かってくれ」と依頼される。人殺しが専門だから預かるのは無理だと断ろうとしたチャンボクだが、どうにもいかず結局引き受けることに。てっきり手荒な男を預かるのだとばかり思い、引き渡し場所に向かう際にテインにバットを持たせるほどだったが、そこにいたのはウサギの仮面を被った女の子だった。
チャンボクはそこで初めて事情を知る。誘拐目的でさらってきたのだが、部下が弟と間違えて姉を誘拐してきてしまったらしい。父親は、誘拐されたのが姉だったことで、身代金の支払いを渋っており、状況がゴタゴタしているから、身代金の受け渡しが終わるまで預かっておけ、というわけだ。
こうして、自分で誘拐してきたわけでもないのにチョヒを預かって監視することになった口の利けないテインと、誘拐犯の妹に勉強を教えるチョヒの奇妙な同居生活が始まっていく……。
というような話です。

冒頭から「死体処理」「誘拐」など犯罪がバンバン出てくる映画なのに、とにかくコミカルに話が展開されていき、ドロドロ・グログロした感じは全然ない。テインとチョヒの奇妙な同居が本格的に始まるまでは、かなりポップな雰囲気で進んでいき、後半でもある犯罪が描かれるのだけど、そっちも陰鬱な感じはない。とにかく映画全体として、「醜いものを映し出しているのに、全然醜くは映らない」というテンションが徹底されている感じがあって、扱われているテーマの割には誰にでも見やすい映画になっていると思う。

そして何よりこの映画では、チョヒとテインが素晴らしく良い。

この記事の冒頭で、「具体的には描かれないチョヒの背景こそが最も印象的だ」という話を書いたが、その背景があることで映画全体が成立している、ということも出来る。

というのも普通に考えて、「誘拐犯と被害者の同居」が成立するはずがないからだ。被害者を監禁しておくのならともかく、チョヒは閉じ込められることはない。チャンボクから「チョヒを閉じ込めて仕事に出てこい」と言われた際も、「妹がいるから鍵を掛けられない」と断った結果、死体処理の現場にチョヒを連れてくることになったほどだ。

普通にはあり得ない設定が、「確かにこれなら成立しうるかも」という状況になるのは、冒頭で書いたような「チョヒが家族と上手く言っていないのだろうと想像させる背景」のお陰だ。このお陰で、チョヒの行動原理がある程度納得できるものになる。

チョヒが「積極的に逃げ出そうとする行動を取らない」のは、「彼女が『本当の家族という地獄』に戻る時間を遅らせようとしていたから」だと理解できるだろう。これで、この設定が生み出すだろう「そんなことあり得ないだろ」という描写を、かなり納得できるものに変えることができるというわけだ。

普通なら「そんなことあり得ないだろ」という感情が先に立って、2人の関係性ややり取りに気持ちが向かなくなってしまうだろうが、この映画の場合、「そんなことあり得ないだろ」をチョヒの設定で見事にクリアにしているので、素直に2人の描写を受け容れられるのだ。

さらに設定の妙だと感じたのは、「テインが喋れない」という点だ。このお陰で、「テインとチョヒの気持ちが通じているように感じられる場面」が非常に多くなっていると思う。

テインは、耳は聴こえるが喋れない。彼はそもそも自分の意思を伝える気もないのか、筆談する場面は映画の中で一度もない。手話を使うわけでもなく、彼の意思疎通は、なんとなく身振り手振りで伝えるものだけ、ということになる。

そしてこのことが、思いがけず役立っていると感じた。

繰り返すが、普通は「誘拐犯と被害者の関係」など成立するはずがない。しかし、テインが喋れないことによって、少なくとも観客には、2人の気持ちが通じているように見える。テインが何を言うわけでもなく、なんとなくの動作で、チョヒはすべきことを理解する。それは、この2人にとっては「それしか存在しない唯一の意思疎通のやり方」なのだが、あたかも「年齢を重ねた老夫婦のような無言のやり取り」のように見え、だからこそ「実は深いところで2人の感覚は繋がっているのではないか」と観客に”錯覚”させる力がある。

もちろん、それは”錯覚”に過ぎないだろう。少なくとも、映画のラストではそれが”錯覚”なのだと分かる場面が描かれる。しかし、最後がそうだったからと言って、ずっとそうだったとは限らない。テインとチョヒは、置かれた状況こそまったく違えど、「居場所がない」という意味では似た者同士だ。そんな2人の気持ちが、一瞬だとしても通じている可能性を、なんとなく信じたいと思う。

映画を最後まで観ると、テインがその後どんな人生を歩むことになるのかはある程度想像がつく。しかし、チョヒは分からない。もちろん、そもそもチョヒの現実についてはほとんど描かれないので、分かるも分からないもないのだが、仮に冒頭で書いたような僕の想像通りだとしても、この映画のラストシーン以降のチョヒのその後を想像することは難しい。

「家族っぽさ」を一度も感じたことがないままのチョヒだったら、その現実に否応なしに馴染んだかもしれない。しかしチョヒは、「家族っぽさ」を体感してしまった。自ら地獄の扉を開けると決めたチョヒだが、果たしてその地獄は、それまでの地獄と同じに見えるだろうか?

「家族っぽさ」を知ってしまった彼女には、より厳しい地獄に映るのではないか。そんな気もしてしまう。

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