【映画】「私だけ聴こえる」感想・レビュー・解説

なるほど、ホントに、まだまだ全然知らない世界があるものだ。観て良かった。

【私たちは聴者でもろう者でもない。コーダという種族だ。私たちにしか経験できないことがある】

登場人物の1人がこんなことを言う。この言葉は、映画のかなり冒頭で出てくることもあり、僕にはその意味が分からなかった。

「知っている」と「理解している」に雲泥の差があることを理解した上で、「ろう者」のことは「知っている」と思っていた。理解には及ばないが、知識としては知っていると。ただそんな「ろう者」の世界に、「コーダ」と呼ばれる「中間の世界」が存在するとは思いもしなかった。

そもそも僕は、「コーダ」という言葉も知らなかった。初めてその言葉を目にしたのは、アカデミー賞受賞作の『Coda コーダ あいのうた』だったと思う。それまで「コーダ」という単語に触れたことはなかったはずだ。

ただこの時点ではまだ、僕は「コーダ」の意味を知らなかった。単純に「映画のタイトルだ」と思っていたのだ。『Coda コーダ あいのうた』もまだ観ていないし、「コーダ」という言葉の意味を知るには至らなかった。

その意味を初めて知ったのが、まさにこの『私だけ聴こえる』という映画の存在を知ったことだ。映画館のチラシか何かでその存在を知り、そのチラシの表記か何かで「コーダ」の意味を初めて知ったのだ。

「耳の聴こえない親を持つ、耳の聴こえる子ども」という意味である。

ただ、「コーダ」の意味を知ったからと言って、その大変さに想像が及んだわけではもちろんない。というか、「わざわざ『コーダ』と別の名前をつけるほどの何かがあるのだろうか?」とも感じていた。そんな風に思っていたこともあり、『私だけ聴こえる』を観るかどうかもちょっとだけ迷いがあった。

でも、本当に観て良かったと思う。

映画は、数人のコーダに密着する形で進んでいくのだが、それとは別に、顔も名前も出ないような形で「コーダの本音」が字幕で表示される場面が何度かある。その中の1つに、

【聴こえている人の世界にずっといたら、気が狂いそう】

というものがあった。

凄い感覚ではないだろうか。繰り返すが、コーダ自身は耳が聴こえるのだ。それなのに、「聴こえる人の世界にずっといたら、気が狂いそう」と感じているのだ。

また、映画で主人公の1人として映し出されるナイラは、

【小学校に入るまで、周りには私も「ろう」だと言っていた。喋るのが嫌だったから。
今も喋るのは嫌い。話すことに抵抗を感じていた。
ろう者になりたいってずっと思ってた。】

と冒頭で語っていた。

映画では早い段階で、アメリカで行われている「コーダキャンプ」の様子が映し出される。上映後のトークショーによると、このコーダキャンプの場で、密着するコーダを探したそうだ。

ここには、コーダだけが集まっている。イメージできると思うが、「耳の聴こえない親を持つ、耳の聴こえる子ども」の絶対数はとても少ないはずだ。普通に考えて、「ろう者」の数より圧倒的に少ないはずなのだ。だからコーダにとって、「周りにコーダしかいない」なんていう環境は、そこ以外では実現できないと感じられるのだ。

そして口々に、「帰りたくない」という主旨の発言を繰り出す。

【ここで暮らしたい。両親に会うのは年1回でいい】

【みんなコーダだから、心から分かり合える】

【聴こえる世界に戻ったら、うんざりしそう】

【自分の家よりも家みたい】

このコーダキャンプの場で、自身もコーダであるカウンセラーのバートが、「周囲と馴染めないと感じるのはどういう時?」と語りかける。その答えを聞いて僕は初めて「コーダの大変さ」の一端を知ることができた。

【手話しながら話をすると変だと思われる】

【手話しながら話すと、何故か落ち着くんだ。字幕みたいで。】

【声が大きいねって言われる。聴こえる人がいないから、声の加減が分からないの】

【学校で「父親が迎えに来る」っていうと、「どうやって?」って聞かれる。「車の運転ぐらいできるよ」と言うと、「嘘ばっかり!」って】

【「家は静かなんでしょ?」って言われるから、友だちを家に呼べない。母は台所でシャウトしてるから】

このような、聴者にも分かりやすい「コーダあるある」を聞くと、なるほどと感じさせられる。聴者ではあるが、ろう者とのコミュニケーションが日常であるが故に、「聴者として聴者と関わる」という点に難しさを感じるのだ。そしてそれは、「耳が聴こえない」という障害以上に可視化されない問題だからこそ、余計に難しさが募る。

彼らが抱える問題は、結局のところこんなセリフに集約されていると言っていいだろう。

【学校でありのままの自分でいると、受け入れてもらえない】

映画では、MJという女の子が、この問題に対して特に難しさを感じていることが映し出される。彼女は、ろう者と接する時はのんびり屋だが、学校では「独りが好きな大人」を演じているという。フルート(だと思う)を演奏している時間だけが唯一心が安らぐが、

【音楽が止まった時、不安が忍び寄る。ただ幸せになりたいだけなのに】

と言っていた。

【もう自分ではいられない】

【「自分らしく」とみんな言う。
でも、学校でえ私らしく振る舞おうとすると、「なにそれ?」って言われる。
本当に「自分らしく」したら叩かれるんだ。】

そう言って、彼女は泣くのだ。

「親の通訳をしなければならない」という点に困難を感じるコーダも多いようだ。親戚の集まりで、自分が話したいと思っても、母への通訳で精一杯でとても会話に入ることができない、と。

親のための通訳を「うんざり」と嫌がるコーダは多いようだが、ナイラは違うという。親から頼まれたことはなかったが、3~4歳の頃から自発的に親の通訳を買って出ていたそうだ。

【私は、2つの世界を結ぶ役割を担えて、とても嬉しい】

ナイラはそう言っていた。

しかし、ナイラはコーダの中でもちょっと特異な立ち位置にいるように感じた。

確かMJだったと思うが、

【本気でろうになりたいと思っているコーダはいない。どこか1つの場所に居場所がほしいだけ】

と言っていた。コーダの中には「ろうになりたい」と口にする者もいるが、決して本気なわけではない、という意味だ。

しかしナイラは、どうもそうではないらしい。映画を観る限り、本気でろう者になりたがっていると感じられる。自身に聴力が衰えているのではないかと感じた彼女は、病院で検査してもらう。結果は、何の問題もないはないと出た。その後彼女は、こんな風に語るのだ。

【がっかりした。ろうになれると思ってたから。
ようやく両親や兄のことを理解できるんだ、って。】

彼女の兄はアメフトをやっていて、ろう学校で行われたアメフトの試合をナイラは観に行った。ナイラは、彼女以外の家族5世代が全員ろう者という家に育ち、子どもの頃からずっとろう者の世界に接してきた。そんな彼女でも、「ろう者との間には壁を感じる」と言っていたのだ。

【兄はろう者で、ろう学校の仲間とは家族みたいな関係だ。私もその仲間に入りたいけど、入れない。私はどこにいてもはみ出し者だから。】

ろう者と同じ環境で育ってきた彼女だからこそ、「本質的な部分ではろう者のことを理解できない」と感じているのだし、そのことに非常にモヤモヤした想いを抱えていることが伝わってくる。続く場面で、彼女は「思わず」という感じで涙を流すのだが、彼女自身もその意味を的確に言葉にすることができないようだった。恐らく、ろう者と接することそのものに対するある種の「豊かさ」みたいなものを感じている一方で、自分がどうしてもその世界に「深入り」することができないもどかしさが彼女を苦しめているのだと思う。

だからきっと、彼女は心の底から「ろう者になりたい」と思っているのだろう。

【でも、そしたらまたゼロから始めるの?コーダとしてやっと、居場所を見つけられたのに?】

そんな葛藤を抱きながら。

ジェシカはまた、違った想いを抱えている。ジェシカの場合、コーダとしての彼女自身の葛藤はさほど見られないように思う。コーダであることで、彼女のアイデンティティを揺るがされることがあまりなかったということなのだろう。ナイラやMJと比べると、そういう点でまだマシな状況にいると言えるかもしれない。

彼女は、こんな風に語っている。

【成長するにつれて、手話を忘れてしまうかもしれない。それが怖い。ろう文化と繋がっていたいと思う】

これもコーダ特有の状況だが、コーダは進学などで親元を離れると、手話を使わなくなってしまうことが多い。自身は聴者なのであり、家族と離れて暮せば、手話を使う機会がなくなってしまうからだ。そしてそれ故に、手話を忘れてしまうこともある。

ジェシカも、恐らく進学だろうか、親元を離れる決意をしたようだ。そして、まだ家に残る妹に、今まで自分がやってきたような母親とのコミュニケーションを託す。妹についてはあまり具体的に触れられなかったが、ジェシカが家を離れることについて母が、

【この家は静かになる。今までと変わってしまう】

と言っていたので、妹とはジェシカのように関われない、と感じているのだろう。

ナイラ、MJ、ジェシカと、それぞれが抱える問題はまったく違うが、いずれにせよ、「コーダ」という特殊な立ち位置が、「聴者でもろう者でもない」という、ろう者以上に狭い世界が生み出されてしまうという現実にはちょっと驚かされてしまった。

さて、映画を観始めてすぐ、僕は1つの疑問に行き当たった。それが、「コーダは一体、どうやって手話ではない言葉を習得しているのか」ということだ。

誰だったか忘れたが、ある人物が、こんなエピソードを話していた。音楽の先生と旅行に行った際に手話を頼まれたから通訳をしたら、「どこで手話を覚えたの?」と驚かれた。そこで初めて親がろう者だと気づいた。それまで、手話はみんな出来るもんだと思っていたから、自分が特殊だということに気づかなかったのだ、と。

コーダはその環境特性上、手話で家族とコミュニケーションを取る。そして、ろう者しかいない家族であれば、家の中で「音声による会話」は存在しないのだから、コーダが言葉を覚える機会がないんじゃないか、と思ったのだ。

映画の中で、この点について説明はされなかった。そこで、上映後のトークショーで質問してみた。その答えは「なるほど」というものだった。

監督もこの点を疑問に感じ、取材対象のコーダに聞いてみたことがあるそうだ。そのコーダは、小学校に上がるぐらいまではまったく喋れなかった、と言っていた。じゃあどうするのか。アメリカの場合、「移民に英語を教えるクラス」が存在する。そしてコーダの子どもたちは、移民の子たちに混じって英語を学ぶのだそうだ。

監督は、だからこそ日本では余計コーダは厳しい環境に置かれている、と言っていた。日本には普通、「移民に日本語を教えるクラス」は存在しない。だから学校の先生も、「この子は耳が聴こえるのに、どうしてこんなに喋れないんだろう」という状態になってしまうのだそうだ。日本が移民を受け入れていない、という現実が、コーダの言語習得問題に繋がるとは、ちょっと驚いた。

トークショーではもう1つ、「何故アメリカの事例を取材したのか」と聞いてみた。監督は日本人であり、英語が話せるのかどうかは知らないが、手話を話せるわけではない聴者である。だからアメリカを取材先に選んだ理由が気になった。気になった理由の1つには、「日本ではそもそも『コーダ』という概念自体がほとんど存在していないからではないか?」という疑問もある。

監督は、最初にアシュリーというコーダの子と出会ったことがきっかけの1つだったと語っていたが、やはり「日本での『コーダ』の認知度」も関係していたようだ。映画の中で、アメリカでは1984年頃から「コーダ」という言葉が使われるようになった、という説明が出てきた。一方、トークショーで監督は、日本で「コーダ」という考え方が広まり始めたのはここ1~2年ではないかと言っていた。日本で同じ状況にいる子どもたちも、自分が「コーダ」であるという自覚を持てていない人が多いのではないか、と。

日本にも「J-CODA」という団体が存在すると監督が言っていたので調べてみた。1994年に設立されたようだが、「会員数 約40名」と書かれている。コーダの絶対数が少ないのだとしても、さすがに40名は少なすぎるのではないかと感じる。つまりこの会員数こそが、「日本で『コーダ』が知られていない現状」を示唆していると言っていいのかもしれない。

この映画の制作には7年も掛かったそうだ。資金難やトラブルなど色々問題もあったそうだが、監督の口から語られた中で一番大きな部分だったと感じるのは、「『コーダ』という存在をどのように取り上げるべきか?」だったのだと思う。

監督はコーダの1人から、「あなたにコーダのことは分からない」と言われたことがあるそうだ。それまでは、通常のドキュメンタリーの手法、つまり「監督が描きたいと考えるものを、ナイラたちを通じて切り取る」というやり方をしていたが、それでは「コーダとはこういうものだ」という説明の映画になってしまうと一度立ち止まったそうだ。

それから監督は、「コーダ自身にディレクションしてもらう」という案を提案したらしい。プロジェクトの中心をドラスティックに変えたのだ。これによって、映画の方向性が大きく変わったという。

正直、映画を観ながら、「よくこんな場面にカメラが入れたな」と感じる、とてもプライベートなシーンが多いと感じた。ドキュメンタリー映画とはそういうものだと分かっていても、コーダというただでさえ立ち位置が難しい存在の中によくこんな風に入っていけたものだ、と感じた。

ただトークショーの中で監督が、「この映画の多くの場面が、主人公たちのアイデアによるものがほとんど」と言っていて納得した。恐らくコーダたちも、「自分のことを分かってほしい」という気持ちを強く持っているのだろうし、監督から「ディレクションを任せたい」と言ってもらえたのだから、あとは「どうしたら自分たちのことが伝わるのか」を考えて、それが映し出せる場面にカメラを呼べばいい、ということになる。もちろん、実際の撮影の現場がそんな単純なものではないと理解しているつもりだが、「聴者がコーダを撮る」のではなく「コーダがコーダを撮る」という前提の元で作られているからこそのこの雰囲気なのかという点は非常に納得感があった。

本当に、この映画を観るまで、この映画で描かれている事柄のほぼ100%を知らずにいたので、驚きの連続だった。

世の中には様々な障害が存在すると理解しているつもりだが、「コーダ」は聴者として生まれているので、そういう点で言えば「障害を持っているわけではない」。しかし、だからこその難しさを抱えているのだということが理解できたつもりだし、「障害の有無」というシンプルな捉え方で世界を見ていてはダメだなと実感させられた。

ホントに、観て良かった。

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