【映画】「無聲 The Silent Forest」感想・レビュー・解説

これが実話か。
さすがにキツイ。

映画のかなり早い段階で出てきた、

【一緒に私をいじめていいよ】

というセリフが、何よりも辛かった。


この映画は、台湾のろう学校で実際に起こった性的虐待事件をベースにしている。映画の冒頭で、「実話を元にしているが、人名も地名もすべて架空のものだ」と注意書きが出る。それ以上、実際の事件との関連性について示唆されることはなかったが、映画全体の印象として、そこまで「フィクショナル」ではなかったので、多少の脚色(あるいは、事実確認が出来なかったことによる想像)はあると思うが、現実をかなり色濃く反映した作品だと僕は受け取った。

この映画では、学校での性的虐待事件が扱われるのは、正確に言えば、物語の焦点はそこにはない。「そこにはない」と言い方は誤解を招くかもしれないが、あくまで性的虐待事件はこの物語の「大前提」に過ぎないのだ。

映画のかなり冒頭の段階で、「主人公の少女が先輩たちから性的虐待を受けていること」「その現場を目撃してしまった主人公の少年が先生にそれを伝えること」「その教師は生徒の立場に立つ人物で、腰の重い学校の対応に嫌気が差し、独自に調べを進めていること」などが観客に伝わる。

普通、このような性的虐待事件が物語などで描かれる場合、「性的虐待の事実がなかなか掴めない」「事実は存在しても組織が隠蔽しようとする」などの展開をすることが多いだろう。しかし、早い段階で、そういう物語ではないということが伝わる。

また、「被害を受けた女性が、『性的虐待を受けた』と知られたくないが故に沈黙してしまう」というケースもあるだろう。確かにこの映画でも、少女は自らの被害を表に出したがらない。

しかしそれは、「恥ずかしいから」「周りから変な目で見られるから」というような理由ではない。

ここに最大の問題がある。

被害に遭っていることが教師に伝わったあと、教師は当然「転校」という選択肢を彼女に提示するのだが、彼女はそれを拒否する。僕は決して、「転校すればすべて解決」などと考えているわけではないが、問題そのものの解決が見込めない場合、次善の作としてそういう選択をすることは仕方ないとも思っている。このろう学校の校長はなかなかいけ好かない奴ではあるが、しかし確かに彼女が言うように、「学校での性的虐待の問題は難しい」という意見も分からないではない。

少女は、学校がこの問題に対処できないことも理解しているし、これからも自分が酷い被害を受けることも覚悟している。その上で「転校しない」と決断するのだ。

なぜか。その理由があまりに悲しい。

【仲間はずれになるよ。
聴者の学校に戻りたいの?】

【ここを出たら、私はただのクズになる。
口も耳も不自由だから、友だちを作れない】

そう、この映画は、「聴者」である我々に刃が突きつけられる映画なのだ。

この凄まじさが理解できるだろうか? 少女は、ろう学校までの通学バスの中で暴行される。他の生徒も見ているし、運転手だって気づいているが、誰も何もしてくれない。しかしその後、自分を暴行した”友だち”と、彼女は笑顔でサッカーをする。少年が後に、「なんで一緒にサッカーできるの?」と聞くと、「たまに酷いことをされるけど、いつもは優しいよ」と答える。少年が先生に事情を訴え、先生が少女から話を聞こうとした際も、最初は「友だちを裏切れない」と、自分が置かれた状況を話すことを拒むのだ。

もちろん彼女は、自分がされていることを許容できていたわけではない。最終的に先生に泣きながら自分の辛さを打ち明ける。そして、暴行が始まった頃に女性教師に相談したが、「あなたは『嫌だ』と伝えたの?」「『嫌だ』と伝えればあの子たちはしないわ。いい子だもの」と話を聞いてくれなかったことを明かす。助けを求めても誰も聞いてくれないと分かっているから、彼女は「自分は辛くない。”友だち”だって、たまに嫌なところがあるだけで、いつもは優しいじゃん」と、自分に言い聞かせているのだ。

そして、そうまでして自分を騙すのは、「聴者の世界が辛いから」なのだ。

これはあまりに辛い叫びではないだろうか?

この映画はほぼ全編に渡って「ろう者の世界」で展開されるが、時々「聴者の世界」との接点も描かれる。2人が映画館でデートをする場面があるのだが、そこでちょっとしたトラブルがあり、少女はこんな風に口にする。

【バカだと思われたよね】

少年は、ある件で母親と口論をしている。彼の障害が生まれつきなのかそうでないのか語られなかったし、母親との関係性がどんな感じなのかもあまり描かれなかったので詳しいことは分からないが、その口論の中で少年は、

【母さんも、僕が他の人より知性が劣るって思ってるの?】

と突きつける。

そういえば高校時代、まったくではなかったと思うが、耳が聴こえにくい同級生がいた。僕が通っていたのは進学校で、それでも普通に授業についていってたと思うので、補聴器を使えば人並みに聴こえる、という感じだったのかもしれない。正直、ちゃんとは覚えていない。彼も、「聴者の世界」で苦労していたのかもしれないが、どうだったのか分からない。

この映画では、「聴者の世界でどのような苦労を感じるのか」が具体的に描かれる場面はほとんどない。もちろん、頭の中で勝手な想像はできるが、それは結局想像に過ぎず、どれほどの苦しみを抱えるのか捉えきれない。

しかし、具体的には捉えきれないものの、「『聴者の世界』より『性的虐待を受け続ける世界』の方が悩むまでもなくずっとマシ」と判断する少女の存在は、「聴者の世界」がいかに酷いかを示唆するし、「聴者」である僕は、その叫びに驚愕させられてしまった。

【外の世界で孤独になる方が怖い】

僕が、「性的虐待事件は大前提にすぎない」と書いた理由が理解してもらえただろうか。

主人公の少女に限らず、僕は、「自分が我慢しさえすればすべて丸く収まる」という判断を見聞きする度に苦しくなる。最近は「ヤングケアラー」という言葉を聞く度にそう感じる。様々な事情から、家族の介護や家事全般を担わされている子どものことだ。

「ヤングケアラー」も、主人公の少女とはまた理由は違うが、自分が置かれたキツイ状況から(恐らく)自分の意思で逃げ出さないと決めている。もちろん、「他に選択肢があるように思えない状況」に対して「自分の意思」という言葉を使うことは間違っていると思う。そしてやはり、「他に選択肢があるように思えない状況」が存在してしまう現実に対して辛くなる。

もちろん、世の中には様々な問題がある。ただ僕は、僕自身子どもがさほど好きではないのだが、子どもだけはちゃんと救われて、報われてほしいと思ってしまう。自分の意思で生を享けたわけではないとはいえ、やはり大人になれば自分の責任で様々な行動・決断ができるようになるわけだから、「ある程度頑張れ」と言える(もちろん、辛ければ諦めていいと思う)。ただ子どもは違う。子どもに重い何かを背負わせるのは、社会の大きな間違いだ。

それが「大人の都合」から生まれたものであるのならなおさらだ。

冒頭で紹介した「一緒に私をいじめていいよ」というがどんな場面で出てくるのか書こう。主人公の少年は少女を、先生に言おうと説得しようとするが、彼女は首を縦に振らない。そこで少年が、

【もし僕が彼らの仲間になれって言われたら?】

と聞くのだ。少年としては当然、彼女にそう伝えることで、彼女の気持ちを動かそうとした。しかし彼女はそれに対して、

【一緒に私をいじめていいよ】

と答えるのだ。

こんな悲しい答えがあるだろうか?

内容に入ろうと思います。
チャンは電車で老人に財布をすられ、追いかけて老人を殴っているところを警官に止められた。チャンはろう者で、話すことも聞くこともできない。自分の主張を紙に書いて警官に伝えるが、警官は全然信じてくれない。
そこにろう学校の教師だという人物がやってきて、チャンの通訳を買って出る。彼はチャンの手話を”意訳”して警官に伝え、チャンを解放させてあげる。
チャンを助けてくれたワン先生が務めるろう学校は、その日が創立記念日だとかで、生徒ではなかったチャンもそのパーティーに混ぜてもらえることになった。そこでベイベイという女の子に一目惚れ、チャンはそのろう学校に転校することに決める。
割とすぐにベイベイと仲良くなれたチャンだったが、通学バスの中でベイベイが暴行されている姿を目撃してしまい衝撃を受ける。しかもその後、自分を暴行した生徒と楽しくサッカーをしているのだ。正義感の強いチャンは、どうにかしなければならないと考えるが、ベイベイから「聴者の学校に戻りたいの?」と口止めされる。
それでも黙っていられなかったチャンは、ワン先生に事情を説明。すぐに行動を起こしたワン先生は、様々な生徒から事情を聞き、全部で127件の被害を確認した。その主犯格の人物も特定され、さらに「ろう学校で性的虐待」とマスコミも報じるのだが、状況は一向に変わらず……。
というような話です。

凄い話だった。繰り返すが、これが実話だったというのがあまりにも衝撃的だ。

映画の前半は、当然だが、ベイベイ(とチャン)に焦点が当たる。しかしとても意外なことに、後半に進むにつれて、焦点はベイベイから別の人物に移ることとなる。その辺りの具体的なことには触れないが、「被害は連鎖する」「大人の都合に子どもが苦しむ」という現実に、やはり胸が締め付けられる。

チャンがワン先生に、

【なんで僕たちだけが苦しむの?
僕たちは悪くないのに】

と訴える場面があるが、まさにその通りだ。この映画は「聴者に対して刃を突きつける」という意味で観客は苦しくならざるを得ないのだが、それを抜きにしても、彼らの辛さに共感してやはり苦しくなる。

映画では、ベイベイの優しさが光る。これを「優しさ」と呼んでいいのかは悩ましいところだが、自分が恐ろしく苦しい状況にありながらも、それでも他人の気持ちに配慮できるところが見ていて辛い。

例えばある場面で、やはり被害を表沙汰にしないでほしいとベイベイがワン先生に言う場面がある。その理由として彼女は、

【先生が祖父に怒られるのは嫌です】

と言っていた。これが本心かどうかは分からない。他に何かもっと大きな理由があるが、それを伝えずに彼女なりに事態を丸く収めるために口をついて出た言葉かもしれない。しかし、映画全体を通して彼女は常に他人のことを思いやっているし、だからこそこれも本心ではないかと思う。

しかも、「先生が祖父に怒られるのは嫌です」と言い方も考えられている。最終的には、「私がそれを嫌だと感じます」という主張だからだ。これが、「先生が祖父に怒られちゃうでしょ」みたいな言い方だと、ワン先生も「俺はそんなこと気にしない」と反論できる。しかし、「私が嫌なんです」と言われればワン先生は何も言えなくなる。これこそベイベイの優しさだと思うし、そんな優しさが見ていて辛い。

あと、ベイベイ役の女優が非常に可愛い。これは「可愛い女優さんを観れて眼福」みたいな話ではない(まあそれもゼロではないが)。

この映画は、ほぼ全編手話のみで展開される。だから「セリフに表情がない」ことになる。もちろん、手の動きの激しさで感情は伝わるが、「聴者」である我々には読み取れない部分も多くあるだろう。

だからこそ、普通の映画以上に「役者の表情」が非常に重要になってくる。そしてそういう観点から、ベイベイの表情はこの映画にとってもの凄く重要な要素になっていると感じる。

とにかく、映画全編で胸くそ悪いし、心がかき乱されるような辛い場面ばかりだ。その辛さも、彼女は表情で実によく魅せる。しかし、この映画が辛いばかりの物語にならないのは、ベイベイの笑顔がとても可愛いからだ。そして、「これほどまでに辛い状況に置かれているのに、これほどの笑顔を見せることができる」という事実が、逆説的に彼女の辛さを物語ることにもなる。

事実を伝えることは非常に重要だが、それが辛いものであればあるほど「見ないフリをしたい」という気持ちも働く。この映画は、起こった事実については逃げずにそのまま描くという選択をしたのだろうと僕は予想している。だからこそ、この映画が「観たいと思わせる映画」として成立しているのは、ベイベイ役の女優に負うところが大きいだろうと思う。

酷い内容の物語なのだが、どうしてか清涼感みたいなものも感じさせるのは、彼女の存在のお陰だろう。凄く良かった。

しかしホントに、何度も書くが、胸くそ悪い素晴らしい映画だ。

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