見出し画像

「非戦」を唱える覚悟

※文化時報2022年3月25日号に掲載された社説です

 ロシアのウクライナ侵攻から24日で1カ月となった。無差別攻撃によって多数の民間人が巻き添えになり、300万人以上がウクライナから近隣諸国へ逃れた。原子力発電所など核関連施設への砲撃・制圧を含め、極めて危険な侵略戦争を続けるロシアに、私たちはなすすべがないように見える。

 この間、日本の宗教界からは、談話や声明の発表が相次いだ。「非戦」という言葉を用いて、即時停戦と平和構築を呼び掛ける教団や団体もあった。

 曹洞宗は、鬼生田俊英宗務総長の談話で「戦争の遂行や暴力・破壊への誘因に結びつく思想や社会行動に同意しないという『非戦』の立場を堅持する」とうたった。新日本宗教団体連合会(新宗連)の声明は、「二度と戦争を起こしてはならない」「国際問題を武力で解決してはならない」との「絶対非戦」精神を改めて噛みしめる―と決意を表明した。

 「非戦」という単語は、反戦や不戦とは微妙に異なるニュアンスを帯びる。明治期の社会主義者、幸徳秋水(1871~1911)の「非戦論」が、通奏低音としてあるからだ。

 日露戦争の開戦目前だった1904(明治37)年1月17日、秋水は自身が発刊した『平民新聞』に「吾人(ごじん)は飽(あ)くまで戦争を非認(ひにん)す」と題する社説を書いた。

 7年後、秋水は政府が社会主義者らを弾圧した「大逆事件」に連座させられ、死刑となった。同じく死刑判決を受けた僧侶の高木顕明(真宗大谷派)、内山愚童(曹洞宗)、峰尾節堂(臨済宗妙心寺派)は、国策に従った当時の宗門から追放された。宗教界の戦争協力という苦い歴史は、すでにこの時から始まっていたと言える。

 こうした背景があるからこそ、現代の宗教界が「非戦」を唱えることには、重みがある。その重みを的確に社会へ伝えるには、各教団・団体がもっと言葉を尽くしていい。

 秋水の時代と比べ、戦争の形態は複雑になった。軍事力の行使に限らないという意味で、「ハイブリッド戦争」という用語も出てきたほどだ。サイバー空間では、国際ハッカー集団「アノニマス」が〝参戦〟するなど、ロシア側とウクライナ側双方の攻撃が激化しているとも報じられている。

 戦闘なき戦争も、許されない行為なのか。そもそもロシアに即時停戦を求めることと、ウクライナの軍事力による抵抗を黙認することは、「非戦」の立場では両立し得るのだろうか―。

 どんなに時代が変わっても戦争は絶対悪だ、と言うだけなら、たやすい。問題は、現代の人々が受け入れられるようにどう説明するかだ。納得のいく説明がなければ、「平和のための戦争」という詭弁(きべん)を許すことになり、平和は絵空事で終わってしまう。

 何より必要なのは、どんなことがあっても正論を貫いた秋水のような覚悟だろう。一回きりの談話や声明の発表にとどまらず、宗教界が団結して「非戦」を訴え続ける。それが、ロシアの暴挙を止める最も有効な手段ではないだろうか。

【サポートのお願い✨】
 いつも記事をお読みいただき、ありがとうございます。

 私たちは宗教専門紙「文化時報」を週2回発行する新聞社です。なるべく多くの方々に記事を読んでもらえるよう、どんどんnoteにアップしていきたいと考えています。

 新聞には「十取材して一書く」という金言があります。いかに良質な情報を多く集められるかで、記事の良しあしが決まる、という意味です。コストがそれなりにかかるのです。

 しかし、「インターネットの記事は無料だ」という風習が根付いた結果、手間暇をかけない質の悪い記事やフェイクニュースがはびこっている、という悲しい実態があります。

 無理のない範囲で結構です。サポートしていただけないでしょうか。いただければいただいた分、良質な記事をお届けいたします。

 よろしくお願いいたします。

サポートをいただければ、より充実した新聞記事をお届けできます。よろしくお願いいたします<m(__)m>