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事件が安楽死でなくても、安楽死について考えなければならない

 ※文化時報2020年9月5日号に掲載された社説「安楽死の問題直視を」の全文を転載します。

 京都市内のALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の女性に対する嘱託殺人事件は、薬物を投与したとされる医師2人が起訴された。捜査当局が安楽死と見なしていないことを根拠に、この事件を安楽死の議論につなげるべきではないという意見があるが、論外だ。事件があったからこそ、われわれは安楽死の問題を直視しなければならない。

 理由は二つある。
 
 事件から安楽死の議論を切り離せば、亡くなった女性の思いに向き合うことができなくなる。報道によれば、女性はパソコンの視力入力装置を使い、短文投稿サイト「ツイッター」などで安楽死を望む投稿を繰り返していた。

 生きてもらうためには、死にたいという気持ちを頭ごなしに否定すべきではない。死を願う人たちの電話相談を受ける宗教者や相談員は、そう心掛けている。本当に死を選ぶかどうかをぎりぎりの線で見極めながら、死にたいという気持ちを受け止めなければ、合わせ鏡として本人が抱える生きづらさには寄り添えない。

 捜査当局は、医師2人の行為が安楽死の4要件を満たしていなかったとみているようだが、たとえ2人が安楽死だったと無罪を主張しても、安易に願いをかなえたことへの道義的な責任は問われなければならない。

 もう一つの理由は、京都新聞8月20日付朝刊文化面に掲載された立岩真也・立命館大学教授のインタビューに、明確に示されている。立岩教授は言う。

 「穏やかで『ちゃんとした』安楽死、尊厳死、治療中止がある、という考えを私は採らない。連続している、と考えるべきだ」

 今回の事件も安楽死も、人が人の命を絶つ、という構図に変わりはない。尊厳死も延命治療の中止も、誰かにやってもらう処置である。だからこそ、人の手を介した死が極端かつ典型的に表れているこの事件について考えるべきであり、安楽死から尊厳死、延命治療へと議論をつなげていく必要があるのだ。

 寿命は誰が決めるのだろうか。医療者が自在に延ばしたり縮めたりできると捉えるのは、錯覚である。家族にも、ましてや本人にも、決められはしない。

 それなのに、医療者は家族や本人に延命治療を巡る選択を迫り、同意書を取ろうとする。本当に最善なやり方だろうか。自己決定権というオブラートに包んで、罪悪感を押し付けてはいないか。あるいは家族の同意を免罪符とし、自分たちに都合のいい医療を提供する素地を作ってはいないか。

 命は、神仏の領域に属する問題である。安楽死に対しても、宗教者の英知を結集させる必要があるだろう。消極的安楽死といわれる尊厳死と対になって論じられる緩和ケアの現場には、臨床宗教師やビハーラ僧など心のケアを専門とする宗教者が入り、医療者と協働している。議論に加わってもらわない手はない。

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