オンライン法要に「参列」できるか
※文化時報2020年9月26日号に掲載された社説「オンラインで参列できるか」の全文です。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、宗教者がオンラインで行う法要や行事を紙面で扱うのが当たり前になった。当初こそ物珍しさも手伝って、テレビ会議システムの画像を掲載していたが、毎回同じような構図になってしまうため、最近はどんな写真を添えるかが思案のしどころとなっている。
記事もしかりだ。リモート開催というだけでニュースになる時期はとうに過ぎた。取り上げる場合は、オンラインのくだりよりも、法要や行事そのものの内容に字数を費やす。
一つ頭を悩ませているのが「参列」という表現である。オンライン法要への参加は、果たして参列と言えるのだろうか。
辞書には、参列とは「式や行事などに参加し、列席すること」(デジタル大辞泉)とある。額面通りに受け取ると、席に連なるわけだから、実際の場にいなければ参列したとは言えなさそうだ。
ただ、テレビ会議システムには参加者が表示される機能があり、これを仮想空間で列席していると見なせば、「オンライン法要に参列した」と表現できるとも考えられる。
本来は、言葉の問題ではないのだろう。参列したと受け入れられるかどうかという「私」に立ち返る問いであり、より端的に言えば、実際の法要と同じように「ありがたい」と感じられるかどうかである。
葬儀にも、オンラインの導入が進む。式場にカメラとパソコンを置き、インターネット経由でライブ配信する。香典や返礼品をクレジット決済できるサービスを考えた葬儀業者もある。
都道府県を越えた移動の自粛が求められた際や、感染すると重症化するリスクが高いとされる高齢者にとっては「ありがたい」取り組みなのかもしれない。ただ、オンラインで満足できたのか、代替手段としてやむを得ないと感じたのかは、検証が必要だろう。
私自身の体験を言えば、先日、ある人のオンライン葬儀に接する機会があった。故人の生涯を振り返る映像が途中で上映されたが、大半は式場の映像が同じアングルから流れていただけだった。他の参列者のすすり泣きが聞こえることも、焼香の煙が目に染みることもない。私は参列したのではなく、視聴していた。
遺族や親しい人々にとって、葬儀は故人を失った悲しみを癒やし、共に支え合う場でもある。他の法要と同様の感覚でオンライン化を進めることには、慎重でありたい。
さて、文化時報としては「オンライン法要に参列した」という表現の妥当性を判断し、今後の紙面で使っていくかどうかを検討しなければならない。オンライン法要が「ありがたい」と受け止められるかどうか、世の趨勢を見極めた上で決めることになるだろう。結論は容易に出せそうにない。
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