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今や寺院は企業化 僧侶は自らを省みよ

 新型コロナウイルスの感染拡大や政府の緊急事態宣言などで揺れる社会を、戦時中と同じとみている有識者は少なくない。曹洞宗萩の寺東光院(大阪府豊中市)の村山廣甫住職(76)もその一人。先人たちが境内の萩を守り抜いた壮絶な歴史をひもとき、現代の仏教界にこう苦言を呈する。「寺院が企業化し、僧侶に気概がない」

萩を守って餓死

 東光院は735(天平7)年、行基菩薩がわが国最初の民衆火葬を執り行った際、死者の霊を慰めるために薬師如来像を造ったのが開創の由来。その際、淀川水系に群生していた萩の花を手折って霊前に供えたことから、萩は1200年以上にわたって同院で大切にされてきた。

 村山住職が50年前に26歳で赴任してきた際、信者から聞かされて驚いた話がある。食糧難だった戦時中、近隣住民から「イモ畑にしろ」と迫られても、僧侶たちは萩を守った。中には、気概を貫いて餓死した寺僧もいたという。

 「由緒ある萩の花を守らねばならないという使命感から、『死を賭してまで』という、やむにやまれぬ気持ちだったのだろう」

 東光院にとって、萩の植栽は単に植えて花を咲かせることではない。花の心を知った先人たちの願いや思いが、嫡々相承(てきてきそうじょう)=用語解説=されてきたのだと、村山住職は説明する。

 「萩を育て続けていると、『そこの草を取ってください』などと、花の声なき声が聞こえてくる。それはご先祖をおまつりして仏に出会うことと、何ら変わるところのない尊い仏の修行でもある」

納屋の一室で法要

 東光院は今春、恒例の「三十三観音まつり」の祭典を取りやめた。5月3~5日の期間中は内献=用語解説=で法要を営み、「新型コロナウイルス終息祈願の祈禱」を修行した。
 
 三十三観音まつりは、秋の「萩まつり道了祭」と同様、明治維新まで約250年間続いた川崎東照宮の「権現まつり」の流れをくむ。川崎東照宮は現在の大阪市北区にあった徳川家康をまつる神社で、境内には同宮付属の建国寺もあった。

 戊辰戦争で、長州藩は川崎東照宮に本営を置き、ちょうど家康の250回忌があった。長州藩士がわが物顔で境内を行き交う中、僧侶らは納屋の一室で懸命に法要を勤めたという。

 神道国教化を目指した明治新政府により、川崎東照宮と建国寺は廃絶されたが、東光院第8世・大雄義寧(だいゆう・ぎねい)大和尚が名跡を引き継ぎ、家康ゆかりの宝物を引き取った。現在の境内にある東照閣仏舎利殿・あごなし地蔵堂(豊中市有形文化財)は、旧川崎東照宮本地堂を移築した。

懸命の実践見せよ

 数々の法難に見舞われた東光院の歴史を見るにつけ、村山住職は、新型コロナウイルスに揺れる現代の宗教者に対し、違和感を持つようになった。「昔の僧侶は偉かった。今の僧侶も葬儀や法事だけでなく、人々の命を守るための教えを懸命に実践している姿を、背中で見せなければならない」と説く。

 東光院は今年の三十三観音まつりについて、祭典を取りやめてもポスターは例年通り制作した。そこには、伝統仏教も人々の健康と安全のために厄疫終息を祈り、がんばっていることを周知する意図があった。

 「今や寺院は企業化してそろばん勘定で行動し、人を集めることばかり考えている。新型コロナウイルスが蔓延する今こそ、僧侶は自らを省みなければならない」

 ただ、日本の仏教を取り巻く環境は、変革の時を迎えるのではないか、と感じている。「僧侶がそれを大いに自覚し、目覚めなければならない」。村山住職は力を込めた。
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【用語解説】
 嫡々相承(てきてきそうじょう=仏教全般)
 師から弟子へと仏法が正しく伝承されること。「師資相承」ともいう。

 内献(ないけん=仏教全般)
 檀信徒の参列や近隣寺院の出仕を頼まず、内々で簡略に法要を勤める形式。内勤め。

 私たちが週2回発行している宗教専門紙「文化時報」の中から、2020年5月20日号に掲載された記事を再構成しました。皆さまの「スキ」と「フォロー」をお待ちしております。
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