〈39〉三塁を守る魂
※文化時報2022年8月23日号の掲載記事です。
「志摩供養」をご存じだろうか? 高校野球の伝統校・高松商業に伝わる儀式である。
同校は春のセンバツ大会の初代優勝校である。1924(大正13)年の第1回大会に三塁手として出場した志摩定一選手は、その年の冬に肺を患い亡くなった。「自分が死んでも魂が三塁を守る」と言い遺したそうだ。
以後、高松商業の選手は、試合で初回守備につく前に三塁ベースを囲んで円陣を組むようになった。それが「志摩供養」と呼ばれている。
ところが、78(昭和53)年に日本高等学校野球連盟(高野連)から指摘があり、それからは甲子園で行うことはなくなった。指摘されたのは「試合遅延と宗教的」ということらしい。
「魂が三塁を守る」の解釈は人によって違うだろう。目に見えない亡霊のようなものが三塁付近にいるのだろうか? 筆者の解釈は違う。志摩選手のあと、高松商業のユニホームを着て三塁手として試合に出場した人は何十人もいるだろう。三塁手以外も含めると何百人にもなると思う。志摩選手の言葉は、その選手たち一人一人に少なからず影響を与えているだろう。
試合中に苦しくなったら三塁ベースに目をやる選手がいたかもしれない。100年近くたった今でも、志摩選手の魂と一緒に、選手たちは試合をしているのかもしれない。
目には見えないが、生きている人間に心理的影響を与えるものはある。中には「先祖が苦しんでいる」という言葉に影響され、多額の金品を出してしまう人もいるようだ。われわれ宗教教師を名乗る者は、その影響力を自覚しておいた方がいいだろう。
高齢者の中には「子や孫に迷惑をかけたくない」という人が多い。そんな高齢者に出会ったら「この世での命を終えたらどこへ行くのですか? それをはっきりさせておかないと、後々子や孫が困ることになりますよ」と言うことにしている。それを「後生の一大事」という。はっきりさせるためには、聞法は何をおいても大切にしないといけない。
今夏、甲子園での高松商業の大活躍を眺めながら、高齢者施設でうんちくを述べている。(三浦紀夫)
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