見出し画像

「飲み会」に対するノート――台湾出身の目から見た日本

 日本に来た私にとって一番のカルチャーショックは、「飲み会」という文化である。台湾の中ではかなり日本寄り(親日ではないと思うが)である私は、東京と台北の空気の微妙な違いにまだ慣れようとしている途中だが、「イベント装置としての東京」についてはある程度把握しているつもりであった。

 電車に乗っても、花見に行っても、同人誌即売会に参加しても、「まぁ想像通りのもんだなぁ」と感じた。他人とあまり深くかかわる必要のないイベントだったら、自分のアイデンティティをちゃんと持って挑むことができた。しかし、飲み会という、とびっきり他人とかかわること自体を目的とするイベントは、実際に経験しないとわからないものだ。何故かというと、飲み会の中に行き交う微妙で繊細な感情の流れと、眩暈するような空気は、どうも文字では伝え切れないからだ。

 宴会というものは古代ギリシャからデジタル化の進んでいるこの時代まで、長い間、古今東西の人間社会で存在している。プラトンの『饗宴』が表現したように、宴会の中心はコミュニケーションにある。コミュニケーションを通じて何ができよう? 「それは真理の究明だ」と、古代ギリシャの先哲たちはこういうかもしれない。しかし、コミュニケーション自体を目的とする現代では、特定な論題がなくても、宴会はあり得る。そのような意味で、宴会における目的は大体この言葉に集約できると思う。つまり、「メンバーの親睦を深める」という……。

 しかし、宴会はどのようにしてメンバー間の親睦を深めるのか、あるいは「親睦を深める」とは一体どういうことなのか、考えてみると複雑なものである。

 宗教学や民俗学では、「聖」と「俗」という分け方(柳田國男的に言えば「ハレ」と「ケ」)がある。人々は非日常の世界に入り込むことがあり、宗教行為(例えば祈祷、誦経など)は人を非日常の世界に誘う代表的な鍵である。非日常の世界を日本風に言えば、それは祭りであろうか。祭りは伝統的日本人にとって最も身近な「非日常」への鍵である。祭りは現代に至って、宴会という形で現れる。

 熱気あふれるフェスティバル的な環境の中に、人々は日常から離脱し、まるで神が坐す夜の祭りに参加しているように、非日常の高揚の中に置かれる。その中で、非日常的なコミュニケーションも許される。

 このコミュニケーション環境の中に置かれている人間は、酔狂のあまりに「自我」と「他者」の境界が一時的に破られ、世界と渾然一体となったように近い体験をする。この意味では、確かに「親睦を深める」ことになっている。もう、互いの間に横たわる距離は限りなく縮まれたと感じたからである。「無礼講」文化の発生も、このような環境の中に得られる満足感と日常の苦しさの対比が原因ではないかと思う。

 しかし、夜は明ける。

 神々は日の出とともに山の向こうへと帰っていく。やがて日常は戻ってくる。では、夜に起きた様々な出来事は、神と一緒に山の向こうへと消えるのか? 夜に築いた親睦は、夜明けとともに忘れ去られるのか? 宴会という異質な空間の出来事はどのようにして人々の心のなかに残るのか、これこそが問題ではないか。

 古代の人々にとって神は実在するもの。だから、日常にしても非日常にしても、その一元的価値によってその世界観は崩れることなく保たれる。神が山の向こうへ帰って行っても、やはり確かに存在する。なので、夜の出来事のリアリティーが、朝を向かえてなお人々の心に残されるのではないか。

 しかし現代の宴会はそれを約束することが出来ない。神はもう存在していない。夜でいくらコミュニケーションを行っても、朝になってそれはまた消えていくのではないか、という不安は現代人を襲う。

 どうやって夜の熱を朝まで残せるだろうか。世界は約束してくれないのなら、自分でなんとかするしかない。そのため、現代の宴会で人々のコミュニケーション能力が試される。酔狂に酔うこととは別に、宴会における特定な目的が現れてくる。それは、人々の喪失への不安から、意図的に繋がりを守ることであるだろう

 そこで、日本独自の飲み会文化は、またひと際の立つ特別な性質を持っているのではないかと、私は思わず考えてしまう。

 西洋のパーティーは一人ひとりを理性的個人として扱い、無数の「独立的個人」を中心に、任意に交流させる場に対して、古代の祭りは、個人と他者の境界を一時的に壊す無秩序なフェスティバルである。ところが飲み会は、自分が団体のどの場所に位置するか、つまり「居場所」を再確認、あるいは作るためのイベントとして機能しているのではないかと私は思う。

 会社には上下関係がある。「無礼講」とは、宴会の場に限って、その上下関係を無視して話したいことを話せる、という文化であるが、事実、そうではありえない。例え上司が「今日は無礼講」なんて言っても、結局その「無礼講」は、「今日は礼儀を無視して何でも話していい」というわけではなく、むしろ「業務外のことを話しなさい」という指示のようなものであろう。団体中の位置関係が決められている以上、「無礼講」とは秩序を破るのではなく、むしろ逆のことを指す。飲み会の場を介して、職場/学校の上下関係の別の側面が発見される。そしてその関係は固められ、団体をもっと強固なものにする。団体の中の居場所を再確認することこそ、日本式の「親睦を深める」ことではないかと思われる。

 もちろん、私はそこまで多くの「飲み会」を実際に参加したわけではないので、以上の推測は事実に符合しないかもしれない。「そもそも<個人/団体>という構図で<西洋/東洋>を分析するのは古い!」という批評が殺到するのはまず間違いないと思われる。しかし、戦時から残された「日本は団体的社会である」という構図は今となってどのように変形したのか? このことは今後の思考に繋がると思うため、このような形で問題提起をした。残された問題をいくつか挙げて本文を締めよう。

一、このような宴会の形は日本にしか発生していないのか。東アジア諸国の状況は?

二、「飲み会」環境に置かれている人々の心理的状況は?その環境を心地よく思うか?

三、学校と職場の飲み会環境はどう違うか?



筆者:凛太(りんた)

台湾出身。右も左もわからないまま東京に放り込まれたネコのようなもの。オタク文化全般に興味あるけど、知識が乏しい。バランスがよく掴めない。ゲーマーとゲームデザイナーは両立できない、ような事態だ。ほか変態趣味多数。

メールアドレス:lester60804☆gmail.com(☆→@)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?